イラン通信

 「文科省2004年度海外先進教育実践プログラム」で7月までテヘランのパヤーメヌール大学に滞在中の横山さんからの便りです。採択された表題は「イスラムに関する教育プログラムの構築」です。
 折角の機会やからイラン通信書かへんか、書きましょうか、書いてみましょか、いや書きますとの遣り取りがあって、横山さんから送られてくるイラン通信を玉田(タマ)が掲載することになりました。一回目が「これについては次回。」で終わっていますので、最低2回は連載される予定、だと思います。「案外書くこともあって、意外と連載続くかもしれません。」とのメイルも届いています。(タマ)
過去ログ ・第1〜5回 ・第6〜10回

写真は特に指定のない限り左上→右上→……→左下→右下の順に1,2,3……となります。

2005年5月21日 「シーラーズ」

 5月の連休を利用して宮崎の友人二人が遊びに来ました。正味五日間の滞在なので、さてどこに連れて行こうかなどと迷うことなくイラン中部のファールス州へ。この地方はまさにThe Heart of Iranであり、アケメネス朝はここから起こりました。シーラーズは落ち着いた佇まいの街で、イラン人が住んでみたい街のナンバーワンです。緑が多くちょうどこの時期から夏にかけてはバラが咲き乱れる美しい季節です。
 古くから芸術や文学の中心でもあり、特にイランで最も偉大で敬愛されている抒情詩人、ハーフェズは生涯をこの地に暮らしその墓廟もここにあります。イランではどの家庭にも必ずハーフェズ詩集があるくらいです。ちょうど修学旅行の時期でもあり、多くの観光客が。ハーフェズとともに並び称せられるサアディの墓廟にも人の足が絶えません。
 夕方には、数百年を経た古いれんが造りのヴァキールバーザールに案内しました。香辛料の匂い、買い物客とバーザール商人の喧噪、天井の隙間から薄く差し込む光、迷路のような通路。一歩足を踏み込むと、えも言えぬ浮遊感に包まれる一種独特の空間です。3月に私の家族がこちらに来ました。二歳になる娘も一緒でしたが、バーザールに入ろうとすると「うーん」と足を踏ん張ってしまい往生しました。独特の雰囲気と黒ずくめ(女性は黒のチャードル、男性は顔中ひげもじゃが多い)に圧倒されてか、少し怖かったのでしょうね。その時は結局だっこで回りました。
(写真1:ハーフェズ廟、写真2:ハーフェズ廟遠景、写真3:バーザール入口、写真4:バーザール内)

2005年5月21日 「ペルセポリス」

 イランでは世界遺産にも登録されている遺跡がいくつかありますが、シーラーズから北へ60km弱に位置するペルセポリスもその一つです。歴史が好きな方ならば一度は訪れてみたい遺跡でしょう。ペルセポリスという名称はギリシア人が付けたもので、ペルシア語ではtakht-e jamshid(タフテジャムシード)「王の玉座」と呼んでいます。紀元前512年頃にアケメネス朝ペルシアのダリウス1世が建設に着手し、息子のクセルクセス1世によって完成された宮殿ですが、実際には即位式やノウルーズ(新年)の儀式などにのみ使用されていたようです。
 ここを訪れるのは4回目ですが、何度訪れてもその壮大さに圧倒されます。緻密なレリーフなど実に良くできたものと感心しますが、最近は一部の浮き彫り図に屋根がかけられ以前のように触ることが出来なくなっています。かつては人の手で触られていたため黒光りしていましたが、今ではガサガサになり却って風化が進んでいるように思えます。なにより遺跡のど真ん中あたりにあるこの屋根は、実に醜悪な建築物としか思えません。
 紀元前331年、アレクサンダー大王によってペルセポリスは焼き払われます。「百柱の間」が出火場所と言われていますが、その柱は高温のため焼け落ち、現在は残っていません。当時建物の天井はレバノン杉で作られていましたが、それ以外は石とレンガです。アレキサンダーはすぐに後悔して火を消せと命じたようですが、すでに手遅れであったとプルターク英雄伝は伝えています。
(写真1:クセルクセス門の人面有翼獣新像。東部はイスラーム教徒により破壊された、2:アパダーナ(謁見の間)、3:牡牛と戦う王、4:アパダーナとタチャル(アパダーナの奥、ダリウス1世の寝室)、5:ホマー(イラン航空のマスコットにもなっている))

2005年5月21日 「ナクシェ・ロスタムとパサルガダエ」

 ペルセポリスから車で5分ほど北西に行くと、大きな摩崖墓が4つ並ぶナクシェ・ロスタムが目に入ります。ダリウス1世、ダリウス2世、クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世の墓。サーサーン朝期のレリーフ「騎馬戦勝図」も見事なものでシャープール1世と捕虜となった東ローマ帝国皇帝が描かれています。
 ペルセポリスから車で約1時間。キュロス大王により建設が始められたアケメネス朝最初の首都であるパサルガダエには、ナクシェ・ロスタムとは全く様相の異なるキュロス大王の墓があります。石壇を積み上げた実に堂々たる墓です。キュロス大王自身は慈愛に満ちた傑出した指導者だったと言われています。かのバビロン捕囚のユダヤ人を解放したことでも知られています。現在のイランとイスラエルの関係をみたら彼はなんというでしょうかねえ、、、。アレクサンダー大王もキュロスを大変敬愛しており、遠征の途中ここに詣でこの墓の前で額ずいたかも、とあれこれ想像しながらの一時でした。
 広大な野っ原に遺跡が点在しひばりのさえずりが聞こえるような長閑な所で、個人的にはペルセポリスよりもこちらの方が好きですね。
(写真1:ナクシェ・ロスタム、2:騎馬戦勝図、3:ナクシェロスタムにあるゾロアスター教神殿跡、4:キュロス大王墓、5:イスファハンに向け高速道を一路北へ)

2005年5月30日 「エスファハンは世界の半分」

 エスファハンはいってみれば日本の京都にあたります。歴史は古く、シルクロードの要衝として重要な位置を占めていましたが、1597年アッバース大帝がサファヴィー朝の首都をここにおいて以降、繁栄を極めます。ヨーロッパからの使節も数多く訪れ、esfahan nesfe jahan ast(エスファハンは世界の半分)という言葉もこの当時生まれたものです。
 飛行機で上空から眺めるとエマーム広場(革命前は「王の広場」)を中心に整然とした実に美しい街並みです。エスファハン(或いはイラン)の象徴とも言えるこのエマーム広場を見て回るだけでも丸1日以上かかります。この広場も世界遺産にも登録されています。エマームモスク、シェイフロトフォッラーモスク内部のドームに施されたタイルは青を基調とした実に繊細なモザイク模様で、この美しさはなかなか写真ではお伝えできないのが残念です。何度見ても鳥肌の立つような美しさです。
 もうひとつアリーガープー宮殿という木造の建物があり、かつての王はここからポロ競技を楽しんだそうです。
(写真1:シェイフロトフォッラーモスク内部、2:モスクのドーム部分、3:外光がちょうどクジャクの尾になる仕掛け、4:王の広場、5:広場の小学生、6:アリー・ガープー宮殿)

2005年5月30日 「ただしイスファハン人がいなければ」

 イスファハンはいい所なんだけれど、イスファハン人はずる賢い、という意味でよくいわれます。特にバーザール商人をさすことが多いようです。日本の近江商人でさえ舌を巻くのがユダヤ商人で、そのユダヤ商人が一目置くのがアラブ商人。そのアラブ商人でさえ敵わないのがイスファハン商人、だったか。なにより褒め上手ですね。絨毯などは目利きのイラン人でさえ何時間もかけて交渉しています。一見の客でしかも金持ちの日本人などは一溜まりもなくぼられるようで。見るのはただ。
 それにしてもバーザールは面白い。特に物を売るメインの通りではなく、小道からちょっと入った裏側ですね。囲みの庭になった昔の隊商宿は今では職人の工房などになっていますが、必ず真ん中に小さな池と緑があり、ホッと一息付ける場所になっています。もちろん普通の旅行者は見かけませんが、メインの人通りと喧噪からは想像もつかないほど静かです。土地のおじさん達とチャイハネで茶でも楽しみながらしばし時を過ごすのもいいものです。バーザールには、銭湯、銀行、郵便局、モスクなど全ての都市機能が集約されています。
 イスファハンの中心を流れるザーヤンデルード川にはいくつか綺麗な橋が架かっており、夏の夕方になると夕涼みの散歩でかなり混みます。この日も昼は暑かった。それにしても女性のチャードルはいつみても暑そうです。
(写真1:バーザール、2:更紗の工房、3:サモワールの工房、4:ちょっと横にそれると、5:スィオセ橋、6:橋のチャイハネにて、水タバコ)

2005年6月11日 「雨」

 日本はそろそろ梅雨入りを迎える頃でしょうか。洗濯物は乾かないし鬱陶しいしであまり歓迎されない季節ですが、草木の匂いも生き生きとしてきて個人的にはそう嫌いでもありません。生まれ月だからでしょうか。
 テヘランでは滅多に雨は降りませんが先日久しぶりに降った時のこと。友人がふとペルシア語詩の一節を口ずさみました。小学校の教科書に必ず取り上げられる、ギーラーン出身の詩人Golchin Gilaniによる「雨」という詩だそうです。美しい詩だと思います。日本語に訳すとペルシア語原音のもつ韻律の美しさが伝わりませんが、これはいかなる言語でもそうでしょうからそれは敢えて無視して下手な抄訳を試みました。また、かなり長い詩なので−実際はこれの六倍くらいあります−申し訳ありませんが途中を端折って紹介します。

「雨」
また 雨が降ってきた
詩のリズムのように
無数の宝石のつぶが
屋根をうっている

雨の日に思い出すのは
遠い昔子供の頃に出かけた散歩
甘く美しい
ギーラーンの森の中へ
私が十才の子供だった頃

楽しさと喜びに満ちあふれ
軽やかで柔らかい
すばしっこい
二本の子供の足で
カモシカのように跳びまわり
小川を飛び越えて
家からずいぶん遠くへ行ったものだ

稲妻は鋭い刀のように
雲のあいだを突き破る
怒り狂った雷鳴は
ゴロゴロと吼えたてながら
雲になぐりかかる

・・・

いとしき我が子よ
よくお聞き
明日にたち向かう男にとって 人生は
たとえそれが暗くても明るくても
美しく
美しく
そして美しいもの

 ギーラーンについては以前お伝えしましたが、春先にギーラース(さくら)やリンゴの花が雨に煙る景色は、さながら桃源郷の風趣ありです。ペルシア語の朗読を聞くと、(ペルシア語を知らない方でも)遠い子供の頃の思い出がよみがえってくるような韻律をたたえています。イランにいる間に録音して原音の朗読を帰国後に紹介できればと思っています。
 そろそろイランを発つことになりました。調査のためトルコに立ち寄って帰国します。ひょっとしたらトルコ通信を1便くらいお届け出来るかもしれませんが、イランからの「通信」はひとまず終了です。お付き合いありがとうございました。