イラン通信 過去ログ

 過去に掲載したイラン通信の第6回から第10回までを掲載しています。
・第6回 ・第7回 ・第8回 ・第9回 ・第10回 

2005年4月22日 「大学(1)」

 気が付いたら通信を2週間ほどサボっていました。4月も下旬ですね。
 イランの教育制度は、@小学校(5年間の義務教育)A中学校(3年間の進路指導期間。この期間の結果で次の高校のコースが決められる)B高等学校(4年間。理論教育課程と技術・職業課程に分かれ3年間終了後、前者は大学進学準備課程、後者は工業、技術、農業の専攻課程に)C大学(4年間)となっています。
 落第制を採用しているため、学年終了時に進級テストに合格しなければならず、2回落ちると夜間部に回されます。小中高までは男女別学。7才にして席を同じくせず。大学は共学ですね。大学入学のためには通常「コンクール」と呼ばれる共通試験を受けて、その成績順に希望大学へと振り分けられます。受からなければ男子は兵役。厳しい受験戦争で、街中では予備校の看板をよく目にします。
 現在お世話になっているパヤーメヌール大学(光のメッセージの意)は通信制でイラン各地に140のセンターがあり学生数は20万人を超えます。イランでは一部の私立大学やこのパヤーメヌールを除いて基本的に授業料は無料です。また革命後にイスラーム自由大学が各地に開設されイランの教育程度をあげるのに貢献しています(有料)。この大学に通う知人の一人は、普通の大学に通らなかったので、と言っていました。
 パヤーメヌールは希望すれば誰でも自由に入学できるので、学生の年齢にも幅があります。その点教える側から言わせるとなかなか大変なことも多いようです。イランの教育は全般に渡って暗記が中心です。とにかく先生の言うことを一字一句そらんじる。英語教育でも同じです。基本的に大学の英語授業は文法訳読が中心なので、聴く話すことに関してはかなり弱いと言えます。意志ある学生は街中の英会話学校に通っているようです。
(写真左上:構内の桜、右上:図書館、中段左:アルボルズ山脈方角を望む、中段右:正門付近、下:構内廊下)

2005年4月22日 「大学(2)」

 パヤーメヌール大はテヘランの北東部外れにあり、私が住んでいる所からはかなり遠い所にあるので、日参している訳ではありません。革命前にアメリカによってつくられた建物だそうで、かなり老朽化がすすみ教員の個室もかなり狭く、見たところ約5u。
 ちなみに教員給与ですが、一番下の助講師で2万4〜5千円、教授で11万円、学科長あたりで14万円あたり、、、うーん。それからどう見てもやっている仕事の割には人間が多いんじゃないの、と思うのですが、まあそれはグローバリゼーションとか効率化とかいうアメリカ(あるいは日本?)文化に毒された人間の考えることなんでしょうね。各部署にお茶係のおじさんが必ずいて、だべっていると熱いのを持ってきてくれます。昔、小学校にいた用務員のおじさんのようで、こういう方の存在は心和みます。昼食は職員食堂で。女性は12時から12時45分、男性はその後1時半までと時間が分れています。メニューはやはり、、キャバーブなどです。やれやれ。まあとにかく安いので文句は言えないでしょうけれど、私も一緒にまずいと文句を言いながら食べています。
 子供のいる女性職員のために正門すぐ横に保育園があり小学校も近いようです。帰りのセルヴィスと呼ばれる職員バスでは子供を連れたお母さん達も多く、小学校帰りの子供達が大学構内で遊ぶ姿を見かます。この日はタンポポの種を吹いて飛ばして遊ぶ姿が。
(写真左上:桜(gilas)、右上:タンポポ、左下:セルヴィス、右下:食堂)

2005年5月10日 「ギーラーン州(1)」

 3泊4日、こちらの友人とアルボルズ山脈を越えてギーラーン州に行ってきました。彼はギーラーンの隣マーザンダラーン出身で、案内役を買ってくれました。ギーラーンはカスピ海沿岸にある緑深い地方です。まさに春真っ盛りで、行く先々新緑の風景が広がっていました。州都はラシュト。テヘランから車をとばして8時間くらいでしょうか。イラン=乾燥・砂漠というイメージとはほど遠い、心安らぐ地方です。降水量も日本並み(かそれ以上)ですし、食材の宝庫としても知られています。従って保養地も多く、夏は観光客でごった返すそうです。なによりバーザールを歩くと新鮮で豊富な量の野菜果物や魚に驚きます(写真1、2)。当然、値段もテヘランよりずいぶん安い。カスピ海で捕れる高級魚mahi-ye sefidの薫製もよく見かけます(写真3)。知人宅でご馳走になりましたが、塩気が効いてなかなか旨い。
 それにこの地方の名物shir torshi(ニンニクの酢漬け)は絶品ですね(写真4)。適度の酸っぱさが何ともいえず、ご馳走になった古漬けは今思いだしても垂涎ものです。これは間違いなく焼酎に合います。これはもう本当に、イラン滞在中最大の無念かも。
 この時期イランでは修学旅行のシーズンで、途中何度かその集団に出くわしました(写真5)。ドライブインではアイスクリーム。男女別学なので、たまに同じドライブインにバスが止まったらお互い意識し合っているのは端から見ていても微笑ましいというか、面白いですね。ここらあたりは日本とあまり変わらない風景です。(写真6:バーザールのナーン屋、写真7:夜のバーザール(ラシュト))

2005年5月10日 「ギーラーン州(2)」

 ギーラーンといえば良質のお茶とお米の産地として有名です。この時期ちょうど田植えシーズンで、この風景はまるで一昔前の日本です(写真1)。農村部の女性は農作業の時はもとより出かける時もチャードル(身体全体を覆う黒い布)は着用しません。これを見てもイスラームが都市、更に言えば商人の宗教であることがよくわかります。今年は最近まで寒い日が続いていたので、新茶の時期が2〜3週間ほど遅れているそうですが、この日ちょうど茶畑の手入れも行われていました(写真2、3)。なんだか、どう見ても日本みたいですね。
 ラシュトから小一時間のところにマースーレという小さな村があり、独特の生活と文化を保っています(写真4、5)。現在では観光地化してしまってかなりすれています。山肌にへばりつくようにして家々が並んでおり、屋根が通路になっています。
 バンダレアンザリーはラシュトから車で40分のところにある港町です。19世紀ロシアが最初に港を築いたそうです。久しぶりに潮の香りをかいで、宮崎が懐かしくなりました(写真6)。ここも魚が豊富です(写真7)。



2005年5月10日 「イラン温泉事情」

 イランに温泉−なんとも想像つかないかもしれませんが、あるんです。最も有名なのはイラン最北部アゼルバイジャン州のアルダビールですが、ギーラーン州のラームサル(ラムサール)にもあります。話の種にと入ってきました。結論から言いますと、お湯はいいけれど施設がきれいではない。折角なので浴びてきましたが、平均的日本人ですとまず躊躇すると思います。一応個室にはなっていますが、まあ庶民の温泉ですしイランですからこんなところでしょうかねえ。アルダビールの方はきちんとしているそうです。でも温泉は日本に限ります。(写真1:順番を待つ人たち)

<おまけ>
 お世話になった知人宅をでる際、旅人の安全を祈って水を撒いていました(写真2)。これは古代ペルシアのアナヒタ(水の女神)信仰からきていると言われています。さらにこの直前にコーランの下をくぐりました。こちらはもちろんイスラムの信仰に基づくものです。