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かつて掲載された「つれづれに」のログが時系列順においてあります。
授業やメイルでホームペイジの住所を紹介して、また自分の首を絞める羽目に陥りました。観念して、やることに致しましょう。柿干して 今年も暮れる 我鬼子
串間出身の犬と渋谷出身の猫。 永年奥さんが望んでいたラブラドール。4年前に、譲って下さった串間の方の家から前の家に(一年半前に今の家に引っ越して来ました)幼い姿を現わしました。 雨の日の大都会の駐車場でずぶ濡れになりながらあらん限りの声を振り絞って泣いていた子猫。長女に助けられ、飛行機で運べるようになったある日、今の家に姿を現わしました。 二人はすぐに仲良しになり、日当たりの良い居心地のいい居間を占領して、僕たちとぐちゃぐちゃに暮らしているというわけです。 当初は、本の並んだ二階の書斎に一人でと考えていたのですが、この雑多な空間が自然な居場所になりました。 そんなわけで、今の僕の状況を端的に表わすノアと三太をこのホームペイジの表題に選びました。僕も三太も、ノアも陽溜りのなか 我鬼子
ノアも、三太も僕も陽溜りのなか 我鬼子(改作)
今日で今年の授業は終わりました。あと一回です。あれもこれもと思いながら、もう終わりです。今日は、ビコの話が出来てよかったと思っています。授業用の専用ペイジを用意できなかったので、関連のファイルなど、整理して載せようと思っています。授業では言えなかった意見や質問などがありましたら、掲示板が使えますのでどうぞ。その意見への感想などもどうぞ。言い尽くせなかった、今年も終わる 我鬼子
何とか、授業も一区切り。冬休みに入ります。
冬休みに入って授業はなくなったものの、結構会議などがあってゆっくりしません。ファイルも置かないといけないし。今年も終わりそう、また生き永らえただけ 我鬼子
新年になりました。1976年から2003年までの<書いたもの>の一覧を大体まとめました。ファイルも準備中で、近いうちに掲載します。英語U4B(BSE[BBC]の日本語訳)のファイルと、公立大LLのファイル(『アフリカとその末裔2』の3章1,2の日本語訳)の校正をしています。冬休み明けに、何とか間に合いますように。起き上がるか、年が明ける 我鬼子
暮れの20日の掲示板に「・・・明日は朝から神戸です。中華街で澄んだスープのラーメンを食べて、時間があれば、明石で真っ白な麹を2枚買ってこようと思っています。」と書きました。ラーメンは、丁度出くわしてしまったルミナリエ(震災の翌年から、犠牲になられた方々に捧げる光の慰霊祭になっているようです)の雑踏をかき分けてまで食べに行く勇気が持てず終いで、結局食べられませんでしたが、真っ白な麹は2枚買ってきました。昔の佇まいそのままの店屋で、さりげなく昔ながらの品質を保っているのが何よりもすてきでした。いつもは自己流に漬けるのですが、今回はお店の人が薦めて下さった「甘酒の作り方」に従って作ってみました。ワープロ打ちの小さな用紙には、次のように書かれていました。 材料 もち米(お米):3合、生糀:1枚 @ もち米(お米)は一晩水につけ、やわらかめ[かゆ状]に炊いておきます。 A 糀はバラバラにほぐしておきます。 B @が熱めのお風呂ぐらい(42度くらい)まで冷めたらAを混ぜ込み、人肌くらいで一晩[10時間くらい]保温する。*保温する時の温度にもより保温時間は違ってきます。C 容器を覗いてみて上部に透明な液が浮いてきたら、なめてみましょう。甘みが強くなってきたら出来上がりです。 保温する時のポイントは・・・炊飯器で保温すると温度が高すぎて糀菌が死んでしまうので、うまく発酵しない。その為、昔ながらの広口の魔法瓶を使うのがベスト。魔法瓶がない時は、鍋を毛布などにくるんでコタツに入れると良いでしょう。 甘酒の召し上がり方は・・・湯を加えて好みの濃さに薄め(目安は1:1)弱火で温めお召し上がりください。*一度に飲みきらない時は、一度弱火で煮立てて発酵をとめ冷蔵庫に入れると良いでしょう。 こうじや 京作 この通りにやってみました。確かに、お店で普通に売られている味にはなりましたが、口に合いませんでした。微妙な酸味に欠けるのです。いつもは、瓶に炊きたてのご飯にほぐした糀を丁寧に交互に重ね、電気の絨毯の上で2、3週間ほど温めます。 どうも、人の好みは難しいもののようです。糀といっしょに、お味噌も買ってきましたが、こちらの方は永年探していた味でした。甘酒も切れ、寒の入り 我鬼子
公立大LLUの授業が昨日で終わりました。BCクラスの方は、途中から画面が映らなくて、分刻みで予定していたビデオも十分に使えませんでした。機械を中心にした授業が機械が使えなくなった時にどうなるかを身をもって体験するという皮肉な結末でしたね。しかし、今僕にできる限りをやりました。結果が伴わないとすれば、僕の力不足です。 LLUの授業はこれで終わりだそうで、来年からはCALL Cを担当するように言われています。一年生だそうで、発表なども含めもう少し関わってもらえる工夫をしたいと思っています。 ファイルは準備中です。
やっと、公立大LLU用のファイルを掲載しました。利用して下さい。このペイジの「Contents」の「授業」をクリック、次のペイジの「英語U4B」をクリック、そのペイジの「参考ファイル」の「ここ」をクリックすれば、ファイルが出てきます。(公立大のLLUのファイル置き場、間に合いませんでしたので。) わからない場合はCALL事務室の武下さんに聞いて下さい。 昨日から、課題を読んで成績をつけ始めたのですが、結構たくさんの人が課題を出していないのに気がつきました。その人たちは、試験当日に持ってくるのかな、筆記試験を受けるのかな?(何人かはテストを受けますということでしたし、何人かは試験当日に持ってきますということでしたが、それにしても多すぎますねえ)間違いがあるといけませんので、出された課題をチェックして、確認のために一覧表を武下さんにお願いして掲示してもらううもりです。 今年は授業も大変だったけど、後々まで大変、ですねえ、ほんと。大丈夫かいな。必修の教科やないのかな。 一月中に、グギさんの帰国についてと、エイズの小説についてと、この前のシンポジウムについてのまとめとを書きたいと思っていますが、さて、どうなりますか。庭に、小寒の水仙が一輪 我鬼子
今日は、北西の風がやたら強かったなあ。全国的にも、大荒れの気配だったようで、四月に信州に行った蓮見くん、橋口さん、大丈夫ですか、そう聞きたくなりました。 4年生の試験も始まりました。センター試験、修士課程、博士課程、前期、後期と試験が続き、それが済んだら、卒業式。今年は4月に入るとすぐに新学期が始まります。 4月からは法人化、更に大変そう。そんなこんなで、何だか薄ら寒い一日でした。北風が吹く、オリオンがくっきり 我鬼子
医学科2年生の<reading主体>のクラス(56人)と看護学科2年生の英書購読のクラス(2人)の授業が終わりました。 取り敢えず、終わりましたが、何だか不消化のまま終わったような気がしています。医学科の方は、全体がきつくて英語に割く時間がなかった人が多かったからでしょうか、看護学科の方は、2人だけだった割には量をこなせなかったからでしょうか。授業の中で出来ることなど限られていることは、元より重々承知してはいるのですが。 ただ、選択してもらえたことには、感謝しています。今後の励みになると思います。医学科はあと1年、今の方式でやりますので、余計にそう思うのかも知れません。いずれにしても、多少なりともお役に立てていたら、うれしい限りです。 今暫くは研究室にいると思いますので(正確には、どこにも行けずにこのままここにいると思われますので?)、僕で役に立つことがあれば、いつでもどうぞ。珈琲でも淹れましょう。また会うこともある、と言い聞かせて 我鬼子
見上げる、オリオンが真上 我鬼子
大寒に、看護学科編入3年生のクラス(5人)の授業が終わりました。今年初めての受け入れでした。折角の入学も何かのご縁、少しは歓迎の意を表したいと、「時間割上にない」クラスを設定しました。何らかのお役に立てたのなら、幸いです。 4月からは、新カリキュラムの医学科1年生と看護学科1年生の英語、旧カリキュラムの医学科2年生の英語、全学向けの主題教養科目(前期は医学部1年生、工学部2年生担当、後期は農学部、教育文化学部2年生担当)、それに農学部1年生の前期の英語を持つことになっていますから、編入生の特別クラスはたぶん持てないと思います。従って、初めてで最後のクラスでしょう。 今日の卒業判定会議で、6年生91名の卒業が決まりました。判定でもめる年もありますが、今年はすんなり決まりました。ひとまず、おめでとうございます。もうひと山、国家試験まで孤独な日々が続くと思いますが、ご健闘を祈ります。 僕自身は、受験制度とは相性が悪かったせいか、そこしか行くところがなくて外国語学部の夜間課程に通いましたが、最初からクラスや大学そのものに何も期待はしていませんでした。ですから、誰かが気にかけてくれていても、多分気づいてなかったと思います。今から思うと、そういう風にして自らの存在を自分流に確かめながら、辛うじて残っていた自尊心を守り続けていたのかも知れません。もう少し、他の人に歩み寄れなかったものかとも思いますが、もう一度その頃に戻れば、それはそれで同じことをしたような気もします。五十を過ぎても、形を変えながら突っ張り続けているわけですから。 ただ、今となっては、三十数年も前の話ですから、真偽のほどはわかりません。 大学が六甲山の麓にあり、帰りの坂道から眺める夜景は、心にしみいるほど澄んでいてきれいだったという記憶が残っています。時には雪も舞う1月から2月にかけての季節が一番寒かったように思います。 何より心が寒かった、眼下に夜景心は寒くない、無為に生き永らえても 我鬼子
久し振りの書き込みです。ずっと成績をつけるのに時間がかかっています。その合間に入試のことやら、4月からの授業の時間割のことやら、雑雑と日々が過ぎてゆきます。自分の意志を尊重して選択できるようにと考えてやっている2年生の授業、その成績をつけながら、2年生はやっぱり大変なんだろうなあと感じました。1年の時に比べたら、まともなレポートが少ないのも仕方がないのかな。時間があればと思いながら、やらざるを得なかった人も多かったのではと思いました。それでも、それなりに書かれているものもたまにあって、それはそれで感心しました。 その数延べ146名、数が多いと実際の作業は、大変です。後僅かになった残りの分を仕上げたら、明日からは1年生の分に取りかかります。結構自分のために書いてる人もいるので、時間がかかりそうです。句も拾えなくて、雑雑とした日日 我鬼子
椿山に水を汲みにいきました。山中を伝ってじわじわと流れ出る水を飲みたいと、出かけるようになりました。 二十数年も前に、奈良県吉野山の奥千本の桜が見たくて出かけた春の夕暮れ時に、西行庵の近くに芭蕉の句碑を見つけました。その句を一部拝借して、露とくとく まことに生命 すすがばや 我鬼子
(もう二十数年も前になりますが、高校の教員をしている時に、文芸部から何かを書いてくれと言われて「無題」という随想文を書いたのですが、上の句について次のように触れています。) 「 『無題』 タマ 露とくとく 誠に浮世 すすがばや 去年の春も、もう終わり頃だったか、吉野の桜の花を見に出かけた時であった。上千本の、奥の、西行庵の近くの夕暮れの、うす暗がりの中で、この芭蕉翁の句に出会ったのは………。 春は、僕にとって、いつも哀しい季節だった。春の頃には、なぜか、かなしいことが続いた。入学やら、卒業やら、花見やら、世の喧噪は、僕には、いつも、縁のないものだった。 冬は、寒くて、つらいこともあったが、そのつらさが、かえって、かろうじて生きるバネとなった。寒い冬の夜に、暖房具を使わないで、過ごしたこともある。指が冷たくて、かじかんで動かなくなると、木刀を振りまわし、かけまわっては、体を暖め、又、机に向った。そんな寒さが去って、春めいてくると、なぜかまた、わけもなくもの哀しかった。 旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる この句に、最初に出会ったのは、多分、中学校の頃ではなかったかと思う。文字の意味も何もわからなかった。高校になって、古典の時間に、奥の細道をやる頃になると、単行本を買ってきて、読むようになった。光陰は百代の過客にして、行き交ふ年も、又、旅人なり……あまりの句調のよさに、得意顔に覚えたりもした。しかし、本当にその句が切実なものになったのは、十九歳の春だった。意味もわからない。背景もさほど知らない。その人がどんな時代に生きて、どんな生活をしたか、想像の域を出ることはない。ただ、感覚が残っている。感覚だけが伝わってくる……そんな気がした。ずっと、ずっと遠いことのようにも思えるし、きのうのことのようにも思われる。 十七から二十一くらいまでの期間は、僕には悪夢の歳月であった。おそらく自分の持つ価値観が、大きく移っていった時代だった。そんな大げさなものではないかも知れないが、それが過ぎた頃には、たしかに自分が、それまでの自分とは違うものになっていた。 (過ぎ去ってしまえば何ともないことでも、その時、本人には、それこそ、生死にかかわることもあるらしい。) 悪夢。 ぼくは、それまで、世に絶対的なものがあると信じて、疑ったことがなかった。そのことを考えたこともなかった。だからこそ、生きるということを疑ったこともなかったし、生きるからこそ、生きなければならないという命題があった。すべて思う通り生きられるはずもなかったが、それでも、思いどおりにゆかないときには、それこそ、事あるごとに後悔をし、自分を責めた。 一日、六時間も寝た日には、ああ惰眠をむさぼって、自分は何となさけない人間だと本気で思った。大阪の街に出て、人の多さと、建物の大きさに驚いて、自分の非力を嘆いて、涙した。笑われるかも知れない。しかし、僕は本気だった。 何がきっかけだったかは知らない。そんな自分が、本当に…絶対的なものを信じているのか…もしかりに、あるとしても、わからないものをあると信じる自分が果たして、本当に、自分なのか……そんなことを思い出してから、心の中のすべてが、がらがらと音をたてて、くずれはじめた。 一瞬には、くずれなかった。長い歳月が必要だった。悪夢の連続であった。夜すら、ねむれなかった。ちょうど、大学入試や、家のごたごたが重なった。が、それどころではなかった。自分の存在がわからない…くる日も、くる日も、同じことを考えた。生きる命題が見つからない…そんな言葉に換えた……生きる命題が、見つからない… 旅が、身近かなものになった。下駄ばきに寝袋で出かけるようになった。駅のベンチに寝た。道端に寝た。草花が目に入ってくるようもなった。 山陰に出かけたときのことだった。前日、松江止まりの列車にのって、駅に降り立ったのが、夜の十一時すぎだった。駅のあたりをぶらぶらしながら、その日は、駅のベンチに寝た。翌朝、修学旅行にゆくらしい中学生の声におこされた。別にこれといったあてもなかったが、入ってきた鈍行列車に乗った。益田まで、十時間以上かかったろうか。秋だった。山陰独特の、どんよりした空だった。目の前の景色が、どこまでいっても、かわらなかった。しかし、退屈だとは思わなかった。時の流れが、わからなかった。 そんな頃だったと思う。毎日、毎日、寝床の中の暗やみで、悪夢をみた。ねられぬことを、心底つらいと思った。ある夜いつものように、ねむられないまま、あかりを消して、何時間も疲れた体を海老のようにかがめながら、同じことをくり返しくり返し考えていた。いまにも砕けそうな体とは、うらはらに、とがった神経だけが、なぜか、冴え渡っていた。 頭の中を、一つの思いが去来した。 なぜ、その句が浮かんできたのか、わからない……… 旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる ……浮かんでは消え、浮かんでは消えていった……知らずに泣いていた。 意識すればするほど、涙が止まらなかった。部屋には、他に誰もいないのに、なぜか、声が出せなかった。 今、僕は高校で英語の教員をしている。くる日も、くる日も、人に疲れながら、精一杯、精力的に、それこそ魂を削りながら、がたがたの体を引きずりながら…… 三十の坂を、のぼりだした。」 [兵庫県立東播磨高等学校文芸部「黄昏」6号(1978年6月30日)32〜34ペイジ所収]
立春。 1年生の成績をつけ終えて、一年の総括を立春に、と目論んでいましたが、30人分がまだ残ったままです。すでに、明日の朝には「大体成績をつけ終えましたので・・・」というプリントを配ってもらう手筈になっていますので、あと一踏ん張りしないといけなくなりました。総括は、それからということになりそうです。春立つ寒空に、月煌々と 我鬼子
昨日は大学院修士課程の入学試験があり、試験監督をしてから、すぐ採点を終えました。一応、今年度のすべての授業が終わり、成績も何とかつけ終えました。医学科一年生の課題の講評を書き、2003年度の総括をしようと思います。入学試験、卒業式が終わると、今年は4月の初めから新学期が始まります。 <一年生の課題の講評> 課題を読み終えて成績をつけたのはわずか数日前ですが、一度終えてしまうと随分と前の出来事のように思えます。従って、読んでいる最中の感想とは少し違ったものになりそうですが、まとめてみたいと思います。 いつも時間がかかります。筆記試験や、2年生の聞き取り中心の授業でやった聞き取りに関する試験のようなものだと何時間かで採点が出来ますが、課題を読むのは時間がかかります。今回も1月ほどかかりました。それに、難しいのは多分、何を評価するのか、どう評価するのか、そもそも評価出来るのか、といった基本的な点に確信が持てないからだと思います。入学試験の小論文でも迷うのは、その点です。 ただ、今年の場合もそうですが、前期をも合わせますと千くらいの課題を読んでますから、年によってはそれ以上を読みますから、課題の善し悪し、深さ浅さは嫌でも区別がつくのです。ただ、それを納得いくようにどう評価するか、どう評価出来るかです。 授業では、英語を手段に自分について考えて下さい、課題を読んでエセイを書いて下さいと言っていますから、ある課題図書を一冊読んでこう感じましたと書いても、それに関連した話題をインターネットで調べて丸写ししても、それはないだろうとか、大学生がそれだけしか書けないのか、とは言えないわけです。しかし、そこからはその人のメッセージ、自分の問題としての何かがこちらには伝わってきません。「課題図書を読みました、課題としてこれを調べました」としか伝わってこないのです。 そう多くはありませんが、味わい深い課題がいくつかありました。ある人はバズル・デヴィドソンの『アフリカの過去』を要約し、それぞれに自分のコメントをつけていましたが、その量と言い、その洞察力と言い、本当に感服しました。おそらくアフリカの歴史に関してあの人ほどの視野と思慮を備えた人はいないと僕が思っているせいでしょうか、尚更そう感じました。ある人は、ラ・グーマの『まして束ねし縄なれば』の分析を、歴史解釈と絡めながら見事に行なっていました。歴史を的確に捉えるのに随分と時間がかかったと思います。その捉え方、洞察の仕方に感心しました。ある人は、自らの英語のナレーション入りのDVDを編集していました。いずれも、課題を自分のためにやるという思いがなければ出来なかったと思います。表出された言葉や映像は深層のごく一部分でしかありませんが、それを手がかりに意思の伝達を図らざるを得ないわけですから、発する側の意図は、伝わるもので、汲み取れるものです。 16年前に、宮崎に引っ越して来た最初の日に、出版社をしておられる關さんという方から届けられた分厚い手紙に、次のような件があります。医学部に来るという僕に、医学部出身の経験を踏まえて、餞に下さった手紙です。みんなに買ってもらったテキストを出版して下さった方です。常々お話して下さる意識下の言語について次のように書かれています。 「・・・闇は光です この眼に見えるものはことごとく まぼろしに 過ぎません 計測制御なる テクニカル・タームをまねて 『意識下通信制御』なるモデルを設定するのは またまた 科学的で困ったものですが 一瞬にして千里萬里を飛ぶ 不可視の原言語のことゆえ ここは西洋風 実体論的モデルを 御許しいただきたい 意識下通信制御を 意識下の感応装置が 自分または他者の意識下から得た情報を 意識下の中央情報処理装置で処理し その結果を利用して 自分または 他者の行動を 制御することと定義するとき 人の行動のほとんどすべては 意識下通信制御によるものだと考えられます 少なくとも東洋人とアフリカ人には あてはまるはずです 私たちの行動のほとんどすべては 意識下の原言語できまるのであって 意識にのぼる言葉など アホかと思われるほど 些末なことです その些末を得意になって話しているのが ほかならぬ 学者文化人であって もう ほんまに ええかげんにせえ と 言いたくなります・・・」 医学部の学生と僕の関係については、次のように書かれています。 「・・・生物の成長というのは 細胞が個数を増す 細胞分裂と分裂によって 小型化した細胞がそれぞれ固有の大きさを とりもどす細胞成長とによって 達成されます 生物は本質的に成長するものなのですから 各細胞は 成長の第一条件たる 細胞分裂の傾向がきわめて強いのです しかし 無制限に 細胞の個数が増加して その結果 過成長すると こんどは 個体の生命が維持できなくなります そこで遺伝子の細胞分裂欲求≠ヘ 不必要なときには 抑制されています この抑制因子を モノーという人は オペロンと名づけました モノーのオペロン説です フランスというところは 困ったものでいまだにデカルトの曽孫のような顔をした人たちしかいません このモノーも デカルトの曽孫にちがいありません しかし 話を簡略にするためには このオペロン説は 便利です 化学変化を説明するのに 結合手なる 手を 原子または原子団がもつものとするのに似て こっけいですが御許しいただきたい さて このオペロンが はずれてしまうというか 抑制因子がはたらかなくなったとき 細胞は 遺伝子本来の 分裂欲求≠ノ忠実に従って 際限なく 分裂を繰りかえします ガンです そして ガンになりやすい体質は遺伝します これはオペロンが はずれやすい傾向が子や孫に伝わるためです たしか 一九二◯年代に 有閑階級という新語をつくり流行させたアメリカの社会学者の言説をまつまでもなく ヒトは侵略遺伝子≠持っています ヒトがすべて侵略者とならないのは この恐ろしい 遺伝子≠ノも オペロンのおおいがかけられていて 容易には 形質を発現することがないためです ツングースの侵略遺伝子≠フオペロンは 窮迫によってはずされてしまったのです それも ほんの七千年か八千年ほど前のことです そして このオペロンのはずれやすい傾向は 連綿と受けつがれ いまなお 子や孫が風を切って 日本じゅうをわがもの顔に歩きまわっています 天孫降臨族の末裔たちです 手っとりばやくのしあがることだけをひたすら思いわずらい 四六時中 蛇(蛇くんに邪気などない)のごとき冷たき眼を油断なく 四方八方にくばる この侵略者たちは もちろん 効率百パーセントの水平思考を好み鉛直思考など 思いもよらぬことなのです 玉田先生が 鉛直下の原言語に乱されて 思考が中断するなら 私のほうは 鉛直上の原言語に吸いとられて思考が消失します 中断と消滅 軽重の違いはあっても 二人とも やはり 頭が悪いのは 確かなようです その点 最近の学生は とくに 医学生は 頭の良い子ばかりだそうです なにしろ なんかの方法で 受験勉強をしなかった子は いないというのですから 学問≠ノ対する その真摯な態度と勤勉に 驚かずにはいられません これは頭の良い両親の指導のもとに 水平方向に 己れの行く末を見つめ かっちりと計画がたてられる 頭の良い子であることを意味しています 鉛直方向によそみをすることなど 思いもよらぬ 天才少年です・・・しかし頭の良い♀w生たちと頭の悪い°ハ田先生 この両者に虹の橋はかけられないと絶望するのは早すぎます 学生たちの 眠っている 意識以前に 無言で語りかけてください・・・意識下通信制御です 百億年の因縁なんぞ信じないぞ 数百万の祖霊 そんなものは ミイラに食わせてやる などと仰言ってはいけません そうすれば 玉田先生の学生のなかから 医者や医学者ではなく 医家が 必ず 生まれることを かたく 信じてください そして もちろん 学生に 好かれるように行動するのではなく いつも 御自分からすすんで 学生のひとりひとりが 好きになるようにつとめてください 良い頭の♀w生は 医学生の責任だとはいえません 親はもちろん あらゆるものがよってたかって腕によりかけ 作りあげた高級$l形であっても愛着をもってやれば ある日 ぱっちり眼を開き 心臓が鼓動をはじめ 体のすみずみに しだいに ぬくもりがひろがっていくことが 必ずあることを忘れないでください それと 医学部の学生は 最優秀と考えられていますが実際は 外国語も自然科学も数学もなにもかも まったくだめだということを 信じてください 子どもだから仕方のないことですが 世評がいかに 無責任ででたらめなものであるかを 玉田先生も 四月になれば いやというほど思いしらされるはずです たとえば 英語は 百分講義で英文科三ページがやっとのところを 医学部は十ページをかるがるとこなすのですが その医学部のひとりひとりをじっくり観察すると こいつ ほんまに 入試をくぐってきたんかいな と思う奴ばかりです それでもうんざりして見捨てたりせず この愚劣なガキどもの ひとりひとりからけっして眼をはなすことなく しっかりと 見守ってやっていただきたい なにしろ まだ人類とはならぬこども なのですから・・・」 もともと僕はそんな思いで授業をやっています。今のやり方がいいのかどうかわかりませんが、今回の授業が自分のために考える機会になったのであれば、うれしい限りです。 2年生では、プリントでお知らせした内容で、やりたいと思っています。 英語Tは4単位ですから、時間数に比例して、ゲストさん5割、横山さんと僕が2割5分ずつの割合で計算しました。課題には、一応全員にコメントをつけていますので、いつでも返却可能です。(課題については、Sは100〜90、Aは89〜80、Bは79〜70、Cは69〜60、Dは59〜30、Eは29〜0でつけました。筆記試験は10問で各10点でつけました。)
<2003年度の総括>の続きを、2月4日に書き始めた分も含めて、あらためてここに書くことにしました。 <2003年度の総括> 4月は心身ともによくない状態で始まりました。統合を目前にしていたということもあり会議の連続で、新入生の入学とともに、なかなか厳しい毎日となりました。 医学科の2年生の英語U1D(reading主体、37名)、英語 U2A(listening主体、25名)、1年生3クラス、農学部・教育文化学部1年各1クラス(今年度までは非常勤)計7クラスの合間に、通常の会議とは別に、統合に関する教育検討部会、入試問題検討部会、留学生・国際連携部会(確か、そんな名称でした)と3つの継続した会議あり、5月からは例年行なっている個人面接をその合間にやりました。 中でも教育検討部会は両大学の教育担当の副学長を中心に、カリキュラムから細かい規定まで毎週2時間から3時間のペイスで開催され、実質的なことをやったという思いが残っています。 医学部に関しては、現在基礎教育科目と呼ばれているいわゆる一般教育科目の総時間数を減らし、初修外国語も含めて基本的には大部分を選択科目に出来たことが大きな変化だったと思います(大変な時代を経験したみんなの先輩に報告したい気持ちです)。抵抗もありましたが、西森さん、糸永さん、板井さん、横山さん、池田さんの協力で、それに学長の松尾さんの列席という後押しもあって、長年学生から聞いていた意見を反映させることが出来たように思います。結果的には、新入生は、単位や試験で脅す人は避けることができる(必修ではないのですべてを取らなくてもよい)うえ、1年次でほとんどの教養の科目の履修が可能となりました。本来医学生が修得した方が望ましいと思われる教科を減らすことがいいことなのかどうかはわかりませんが、少なくとも「企業努力」もしない教員の横暴に対して一方的に黙るしかなかったという状況だけは避けられるわけです。本来は、情けない話ではありますが。しかし、今後、誰も授業を受けに来てくれないという事態も出るわけで、そのような事態の予測できる人には、大変な出来事でしょうね。過去の分まで、たっぷりと慌ててもらいましょう 統合に関しては、国の構造改革の一環でリストラそのものですから、給料は減る仕事は増えるというのが基本ですから、何もいいことはありません。現実に、新学期が始まる前から、すでに実務も会議も増えています。新学期になれば、木花キャンパスでの主題教養の150人から200人規模のクラスも加わることになっています。(すでに、大学ホームペイジにシラバスを書き込む科目登録なる作業も済んでいます) ただ、医学科しかなかった頃に比べれば、農学部や工学部、教育文化学部の人たちといっしょのキャンパスで2日も授業を受けるわけですから、かつての「辺境(偏狭?)の医大村」から脱却できる利点が学生にはあるかも知れません。 4月からの授業で基本的に変わったのは、パソコンを授業で使い始めたことです。資料の取り込みも含めて準備にかなりの時間がかかりましたが、うまく利用すれば効果があるように思えます。特に、リスニング主体の授業では、初めて聞き取り用の音声ファイルを作りCDにして配りました。授業ではそれぞれが発表にパソコンを使ってやってくれましたが、初めてにしては結構うまく行ったように思います。302教室のプロジェクターもいいものなので、余計にその印象が強いのかもしれません。1年生の301教室のプロジェクターは性能がよくなかったので、学生課で購入してもらった最新のプロジェクターに毎回パソコンとビデオを繋いでやりました。(実績を考慮して下さって、学生課の人が301教室とLL教室にも302教室と同じプロジェクターを入れて下さいましたから、4月からの1年生には、いい条件で見てもらえそうです) 後期は、このホームペイジを少し授業にも利用出来ましたが、前期には間に合いませんでした。ただ、2、3年前は筆で書いた原稿をオーヴァヘッドプロジェクターに写して授業をやっていましたから、明治維新から突然平成の時代になったようで、頭の中はもうぐちゃぐちゃです。もともと、ぐちゃぐちゃなのに、収拾がつきそうにありません。(機械類がまったくだめな僕がパソコンをやっているのは、ある人のおかげです。) 301教室でパソコンの接続を確かめて居たとき、「二人とも、科学研究費がついたとの知らせがありました」と横山さんが興奮気味にやってきました。 科研費については色々な経緯があったのですが、パソコン関係の備品の整備と手伝ってもらっている人への謝金にありがたく使わせてもらうことにしました。僕は「エイズとアフリカ文学」のテーマで、横山さんは英語教育のESP(English for Specific Purpose) のテーマで申請をしていました。 今回、統合後の大学での活動の広報活動の一環で「宮崎大学における研究の成果等を、広く地域社会にPRするための広報誌」(平成15年度版冊子)を作成して、文部科学省をはじめ、たくさんの教育機関や研究機関に配るそうです。大学のホームペイジにも掲載されるようで、すでにその原稿を次のように書きました。 ********** 宮崎大学における研究活動紹介 研究助成種目 : 科学研究費補助金 基盤研究(C)(2)「一般」 交付金額 : 2500千円(平成15年〜平成18年) 研究課題名 :『英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題 −文学と医学の狭間に見える人間のさが』 研究の内容と展望:[−エイズを主題とするアフリカ文学が描く人間の性(さが)−] 英語によるアフリカ文学が「エイズ」をどう描いているのかを探りたいと思っています。「エイズ」を正面から取り上げている作品はまだ多くはありませんが、文学作品を通して、病気の爆発的な蔓延を防げない原因や、西洋的な価値観とアフリカ的な見方の軋櫟などを、明らかに出来ればと考えています。 社会や学校にいつも疎外感を感じながら生きてきましたので、疎外された状況下での自己意識について考えることが多かったのですが、同じような問題意識をもったアメリカ人作家リチャード・ライトの祖先の地として、たまたまアフリカについて考えるようになりました。その過程で、英語は侵略者の使っていた言葉で、侵略が形を変えて今も続いていると思い始めてから、妙な空間をうろつく羽目になりました。 昭和64年度に「1950−70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」で科学研究費をもらったのですが、今回の「エイズ」と「アフリカ文学」、前回の「アパルトヘイト」、どちらも国の政策や利害と深く関わりがあるようです。 授業でもアフリカを取り上げていますが、偏見や無知や傲慢には、人間としての恥ずかしさを覚えます。アフリカにもすぐれた文学があり、すてきな人がいるという当たり前のことを伝えるのは、妙な空間にはまり込んだ人間の務めかも知れません。 (http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/)に書いたものを掲載しています。 (この研究を代表する著書・論文) “AIDS epidemic” in Africa and Its Descendants 2 Neo-colonial Stage (Yokohama: Mondo Books) by Tamada Yoshiyuki, 1998, pp. 51-58. 「アフリカとエイズ」、「ごんどわな」22号、2〜13ペイジ、2000年。 “Ngugi wa Thiong'o, the writer in politics: his language choice and legacy,”Studies in Linguistic Expression, No. 19 (2003), pp. 12-21 ********** 一年を通じて、準備が一番大変だったのは、2年生でした。内容的に結構準備のいる題材(聞き取り主体では、ニュースから映画や生放送までを題材に選びました、リーディング主体のクラスでは、医者と山頭火とジョーダンの伝記とエイズの小説をすべてスキャナで取り込んでプリントにしました、医学問題を取り上げたクラスでは、BSEと土呂久の砒素問題と医学用語を用意しました)で、準備に時間をかけた割には、基礎の教科が大変で英語に割く時間がなさそうでしたので、何となく消化不良気味に終ってしまいました。聞いている人が一人しかいなくても、実習明けでほとんどの人が欠席していても、準備をする方は、一応準備をしないといけませんでしたので、結構きつかったです。しかし、初めからその範囲でしかやれないこともわかっていましたから、予想通りと言えば、予想通りなんですが。 後期の看護学科3年の編入生には別枠で授業時間を設定しました。編入に際しての不足の単位を補う目的でしたが、5人だけの楽しい授業になりました。歓迎の意を表さなくてはと思ってやったのですが、喜んでもらえたようでよかったです。小回りがきくのは、単科大学ならではの良さなのでしょうが、統合後はその余裕があるかどうか自信がありません。 面接は、今年は例年より希望者が少なくて20人程度でしたが、話の内容の密度お濃い人も居て、入学してくる学生の抱えている問題の総量は、やっぱり毎年同じくらいなのかなと感じました。 教員側の無謀とも思える振る舞いに学生が重苦しい雰囲気をたっぷり味あわされた時代は、教員に対する不満の声が大きくて僕が聞き役にまわる時間が多かったように思います。あまりのあほらしさに、僕自身はいつでも引っ越しが出来る準備はしていたのですが、受け取ってくれる先が見つからないまま、逃げ遅れて、結局、だらしなく居着いてしまっています。 まだ、ありそうですが、大分書きましたので、しんどくなってしまいました。 寒い日が続いてますが、加江田川の川面のきらめきと海の色は、もう春ですね。あまりいいことのない統合ですが、折角の新しい出会いもあるでしょうから、何とか前向きに考えて、4月からの準備をするということにしときましょう。冷たい風に、川面はもう春のきらめき 我鬼子
寒い日が続いています。 前期試験の合格発表もあり、新入生の半数以上が決まりました。4月からの法人化に向けて、大変な所では大変ですが、あと一月もしないうちに新入生が入って来て、新学期が始まります。 もう一踏ん張り、後期の試験を終えて、新学期の準備に拍車をかけましょう。冷たい風が、新入生を運んでくるか 我鬼子
久しぶりに書きこみます。 今日から、新学期の授業が始まりました。今日は木花キャンパスで、農学部1年生の英語と医学部・工学部の南アフリカ概論がありました。遠いところの不慣れな工学部の大きな教室で授業をしました。自転車での行き来も、精神的にもいささか疲れました。 統合しても何もいいことがありませんが、せめて何かいいことを見いだしてやっていきたいものです。 ホームペイジにはだいぶ書き込みをしました。授業のペイジも使えるようになりました。折角大変な思いをしてやったのですから、少しでも役に立てばという思いで一杯です。新入生もようこそ、桜も散っている 我鬼子
木花キャンパスにて 山肌がさくらに霞む、新入生にこんにちは(改作) 我鬼子
木花キャンパスに続いて昨日から医学科の方でも授業が始まりました。 大学側の手違いで時間割に支障がありましたが、医学科一年生の人の機転のきいた行動に大いに救われました。久し振りに感激しました。重ねてお詫びとお礼を申します。 部屋にも1年生や看護学科の編入生が来始めて、新学期が始まったんだなあと実感します。大変な思いをして試験の準備をして、採点をして、その結果の新入生、編入生ですから、僕としては少し感慨があります。嫌なこともあるでしょうが、すてきな学生生活を過ごして卒業してもらえたらなあと願っています。金鳳花も、新入生にこんにちは 我鬼子
きのうから旧カリキュラムの医学科2年生も授業が始まりました。 種田山頭火は大正年間から昭和にかけて2度宮崎に来ていますが、そのころも野の花があちらこちらに咲いてたようで、きんぽうげやあざみ、萩や彼岸花などを好んで詠んでいます。(春の頃と秋の頃とにきたわけです)2年生の reading に焦点をあてるクラスでは、また、英語で山頭火を取り上げます。宮崎の山頭火について英語で書こうと永いこと考えています。 7、8年年前に、当時の医学科1年生(もう研修医を終えたかな?)の有志と高千穂神社の脇にある「分け入っても分け入っても青い山」の句碑を見ながら一句詠もう、と出かけました。実際には手前の日之影駅の温泉に浸かり、ビールで乾杯した方が印象に残っていますが、その時に書いた小旅行記を「書いたもの」に載せるつもりです。(まだ、ワープロの2DDフロッピーディスクに入ったままですので、移しかえないといけないのですが) 毎年、学校の周りや、加江田川や清武川の堤防にはきんぽうげやあざみがたくさん咲きます。今、きんぽうげと山藤がきれいなのを知ってますか?見上げれば、山藤の垂れ下がる 我鬼子
見上げれば、山藤が垂れ下がっている(改作) 我鬼子
4コマ目の日本語コミュニケーションの授業のあと会議があり、そのあと少しホームペイジの書き込みをしていたら、ひどい雨になりました。雨かっぱを着こんでえっちらおっちら自転車をこいで帰りました。 先週から面接を始めています。今書きかけの原稿がなかなか仕上がりません。授業の準備に時間がかかります。初めて医学科2年生でファイル置き場を使ってくれました。そんなことをしていたら、4月ももうすぐ終わりです。かえるが啼いている、うす暗がりを進む 我鬼子
連休も今日で終わりです。 一日目、初めて加江田渓谷沿いの道を自転車で遡って、途中から歩いて双石山(ぼろいしやま、509mだそうです)の中腹まで登りました。家からも、木花キャンパスからも見える山です。昔ならもちろん頂上まで登っていたでしょうが、今回は様子見で往復1時間ほどで行ける距離を、と始めから決め込んでいました。帰りは、足が笑いました。 3日目から、寝たきりです。たくさんすることはあるし、途中までは色々とやっていたのですが、蓄積疲労、八月までの長丁場、寝たほうがよさそうでした。青い渓流を歩む、みずが澄んでいた 我鬼子
原稿を書いたり、授業の準備をしたりの毎日だと、どうしても近視眼的になってしまうようです。昔なら、漂白の思い止まずと、日常から離れたくて旅にでも出たのでしょうが、最近はそんなふうでもなさそうです。 朝、三太と歩いていて向かいの山を眺めたら、雨の降りかけた気配に空も山も煙っていました。そろそろ梅雨が始まったのでしょうか。青い山山がけむる、梅雨が始まったか 我鬼子
つい先日「金鳳花も、新入生にこんにちは」などと書いたと思ったら、五月も終わり、梅雨入り宣言が出ました。 木曜日の夜、神戸からの帰りの飛行機で、付属病院に勤める卒業生と一緒になりました。統合後、一般教育の科目が減り、初修の外国語やほとんどの教科が選択になったこと、既修得単位が認められるようになった話をすると、信じられない変化ですね、と言ったあと「既修得単位を認められた人はどうするんです?基礎(講座)配属なんかがやれるといいですね」と付け加えました。 すべてが必修だった上に、結構強引な授業や理不尽な評価をする人たちが多くいて大変な思いを味わった人たちからすれば、「信じられない変化」ですが、新入生にすれば、初めからそうなのだからすべて当たり前、制度とはそういうものなのかも知れませんね。 掲示板に、はるかちゃんと清水から書き込みがありました。京都山科の洛和会音羽病院で臨床研修医をしているはるかちゃんが新入生の時に授業で出会ってから6年余り、岡山に住む清水とは高校2年生の担任として最初に出会ってから27年か28年かな、あまりの歳月にあきれます。 新任の2日目には早くもここは僕の居場所ではないからと高校を辞めることを考え、その後、読んだり書いたりする空間を確保してくれる場所として大学を選んだので、未だに教師となった自覚も、ましてや責任感も持てない身としては、何とも複雑な思いです。 「玉さん。ネットの世界はあなどれませんよ。」と言ってくれても、そんなものなのかなあと思いながら、1982年に書いて出した「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」を<書いたもの>に掲載できるようにと、せっせと校正に精を出している始末です。 どうなることやら、やれやれです。梅雨入りしたと言う、庭の紫陽花も花盛り 我鬼子
何もしない空間は、僕のように書くことを一番に考えて生きてきた人間にはことのほか大切なようです。 もちろん、日常をこなして行くのは、自らが望んで辿り着いた空間なのでそれはそれで大切なのですが、何かを書くためには、やはり何もない空間が僕には要るのです。 自分を持て余して、同じように自分を持て余した種田山頭火などを読んでほっとしながらも、 それでも気分が落ち込んで、どうしようもない自分が歩いているなどと呟くのも、それはそれできびしいものはあるのですが、きっちりと日常をこなす合間を見つけて何かを書くという仕業が僕には出来そうもないのです。 したがって、不定型の俳句も、永いこと自然には出てきません。小説を書く手がかりも、うしないかけるような充実した毎日です。どうも、疲れます。持てあます自分を、持て余している 我鬼子
梅雨の合間にねじばなが咲き出しました。ラン科の多年草だそうで、透明感のあるピンクの色合いがすてきです。こちらに来たときは、珍しくて集めて飾りましたが、陽の入る方に首を傾げるので、やはり野に置け・・・と最近は摘むのがためらわれます。 金鳳花や薊にねじばな、萩や尾花と野の花もなかなか豊富です。国富の法華岳の麓に住んでいらっしゃる小山さんから数年前に、野生の竜胆をもらった時は、痛く感動しました。淡い紫と小ぶりの花が何とも言えません。 大正と昭和の時代に宮崎を訪れた山頭火の日記にも、きんぽうげや萩の句がたくさん出てきます。車も通ってなかった道端には、野の花が咲き乱れていたんだろうなあと思います。今の市役所とデパートの前はロータリーになっていたそうで、その辺りからが宮崎神宮の参道になっていたようで、今の橘通りをお経を詠みながら托鉢してまわったそうです。本人は行乞をしたと言っていますが、もらったお布施は焼酎か安酒に消えていたようです。 かつて山頭火が行乞をしたと思われる大きな通りを自転車で通っている時に、袈裟をきた人から、突然、宮崎の人はいかん、布施をあまりくれん、宮崎の寺は泊めてもくれとぼやかれました。どうして僕が言われたのか、その辺りも定かではないある秋の日の一こまです。ねじばながいい、まっすぐにのびている 我鬼子
散歩をしていたら、鶯がほーほけきょけきょと啼きました。今日は、台風の影響でか、朝から雨が降り出しています。小雨になったのを見計らって、三太の散歩に出ました。 春先にたぶん啼く練習をしていた時よりは、ほーーーという出だしの音が澄んだきれいな響きでしたから、ずいぶん啼きこんで慣れたのでしょう。しかし、春先と同じようにほーほけきょけきょと啼いていました。ほーほけきょが自然なのか、ほーほけきょけきょが自然なのか、本人に聞かないとわからないかと考えながら、切り通しの坂を下りました。 しかし、本人に聞いてみても答えてくれる訳もないか。やれやれ。鶯が啼いていた、ほーほけきょけきょ 我鬼子
温泉を出たら、夏の空に満月がくっきりと浮かんでいた。 夏の暑さが本物になってきた。一番暑い夏の日に自転車で中国山脈の生野峠を越えたこともあるが、冷房を避けられない生活では、体温の調整が難しい。汗をどんどんかくのが体にいいいのだろうが、皮膚をやられる年齢には冷房もほどほどに、面倒くさいが微調整を繰り返すしかない。冷やすと体温調節がきかなくなるし、暑さに任せておいたら皮膚をやられる、やれやれである。鳥取砂丘の海辺では寝袋を使って眠ったが、蚊が一匹一晩中ぶーんぶんぶんと音を立てていた。潮風の吹く浜辺にどうして蚊がいたんだろう。それも一匹だけ。 2年生が骨の試験の時期になったので、折角 medical topics のクラスで医学用語をやっているのだからと、筋・骨格系の用語の準備をした。去年に引き続いてそのクラスでケニアを舞台にしたエイズの小説『ナイス・ピープル』を読み始めたら、7割方が熟睡だ。去年は二人か三人しか起きてなかったなあと考えながら、僕は誰に話しかけているんだろうという思いも横切る。「玉田さん、僕たちは所詮語学教師ですから」とおっしゃっていた宮田さん(現高知大学医学部)の顔が浮かぶ。先週は一年生のクラスで授業を辞めて出てきておきながら、来週はそのクラスで医学用語の解説と演習をするための準備に忙しい。やれやれである。 2,3日前、教育文化学部の院生から南アフリカ概論の時間に25分ほどアンケートの時間を割いてくれませんかというメイルが飛び込んだ。何とも、言えない。やれやれである。 一番熱い日を選んで自転車で生野峠を越えた日に、温泉に通うのに体力が要るなんて考えもしなかったなあ。本当にやれやれである。夏の空に満月がくっきり 我鬼子
一番暑い時期のようです。木花から研究室までの坂を自転車でのぼりながら、いつも、炎天をいただいて乞ひ歩くと詠んだ山頭火を思い出します。 昨日は農学部の人が3人、今日は医学科の人が2人、筆記試験を受け、前期の授業はすべて終わりました。あとは、成績をつけるだけです。まだ課題が出ていない人もいますが、今年からは出ていないなら30〜59をつければ再試験の機会を設けることが出来ますので、以前と比べれば楽になるのかも知れません。 どうも週に6コマの授業と合間の会議やらで追いまくられて、何だかひどく近視眼的な生活が続いていたように思えます。考えても碌なことしか浮かびませんが、それでも何も埋められていない空間が、僕には要るのです、という気がします。 早く成績を出して、しばらく空間を何も埋めないでいたいと思います。 土を運んで来て庭に拵えた畑を、何日か前から再開しています。去年は夏野菜を植えてみましたが、見事に葉を虫にやられてしまいました。気持ちの方が萎えてしまっていましたが、久し振りに草を集めてきて畑を覆い、大根の種を蒔きました。ちょうど木花キャンパスで草集めをしているときに医学科の数人と出会いましたが、たまちゃん何してるんやろと不審に思ったに違いありません。ご苦労様ですと言って通り過ぎてましたから、草の片づけでもしていると思えたのでしょうか。夕暮れの薄暗がりの中で、6カ所も蚊に喰われました。 夏場は成長が早く、早速芽が出ています。虫にやられないかどうかですが、住宅地の一角にある薬剤とは無縁の空間に虫が出ない訳もなく、あとは程度の問題です。さてどうなりますか。 土自体を栄養の固まりと考え草を覆って湿気を保ってやることによって微生物やミミズやらに栄養を食べてもらって耕してもらう訳ですが、最初そのことを実践している例を本で読んだ時は、では今までやってきた耕すこととは一体何だったのかと、妙に新鮮な感じがしました。やってみると、案外順調に行って収穫もそれなりにありました。 しかし、今の畑では虫の勢いが予想以上で、寒い時期を除いては、薬を使う以外手はないような感じがしていました。 しかし、もう一度やってみようと思い直しました。炎天に、やってみるだけの価値はあるかも知れませんから。炎天の、坂をのぼる 我鬼子
炎天の、坂道をのぼる(改作) 我鬼子
蒔いた大根は、雨も降ったせいか順調に大きくなっています。間引きをして、うまく育つかも知れません。 1年生の成績を何とか出しました。 去年の12月にホームペイジを始めてから、何だか追われっぱなしで、新学期から今日まで授業の準備の大半はそのための時間に取られました。もちろん、いい点はたくさんあるのですが、しばらく離れてみたいと思います。 後期が始まるまで、夏休みモードに入ります。夏休みに入る、出口は見えないまま 我鬼子
心は夏休みモードのまま、戻ります。 暑さと台風と、畑に出る余裕のなさで、折角の大根もやられてしまいました。あらためて、大根と法蓮草とブロッコリーとちしゃを蒔きました。いつもは、葉を巻かず、食べる分だけをはがせるリーフレタスを蒔くのですが、今年は種が手に入りませんでした。うちしゃはリーフレタスの仲間だそうです。山頭火にも ふるさとはちしやもみがうまいふるさとにいる など、よくちしゃが顔を出します。 古い種は発芽率がよくありませんし、芽が出ても育つとは限りません。人間といっしょかあ。さて、今回はどうなりますか。 夏休みモードのまま、それでもその間に色々ありました。前期・後期の試験も作り、看護学科の編入と医学科の修士課程の試験もありました。来年度の人事や授業担当についての会議もあり、もうすぐ4月から始まる教育文化学部の修士課程日本語支援専修の準備も始まります。担当科目は、翻訳論特論、アフリカ文化論特論、どうなるやろ。 出来たのはちょっぴりの骨休めだけ、まだもがいていますが、一つも書けませんでした。歳月は待ってくれないようです。葛の花が散っている、秋になった 我鬼子
夏休みには骨休みをしながら、DVDをまとめて観たのですが、ここは授業に使えそうとかこれはだめだとか、何とも悲しい見方です。ルーツの第一部とERを英語の字幕なしとありとで繰り返し繰り返し。ずいぶん以前に買ったLDからこしらえてもらった「赤ひげ」のDVDと衛星放送で録ったβから作ったDVDも、何回か観ることになりました。学生時代に映画館で観た時とは衝撃の度合いがもちろん違いますが、映画のテンポがあっているようです。しかし「赤ひげ」を授業で使えないか、膵臓癌の診断についての遣り取りのあと「・・・この病気に限らず、あらゆる病気に治療法などない。医術などと言っても情けないものだ。医者にはその症状と経過はわかるし、生命の強い個体には多少の助力をすることが出来る。だが、それだけのことだ・・・」と赤ひげが言い捨てる場面や、大けがで担ぎ込まれた女人足の外科手術の場面なんかはいけそうだ、などと考えるとは夢にも思いませんでした。 山頭火の日本語での資料も、日本語の材料をどう英語で表現するか、そんなことを考えながら、まとめました。山頭火の場合、あとは木村緑平さんのものを読んでみたいと思うくらいで、本人の書いたものについても本人について書かれたものについても、さして目新しいものがないように思えますので、今まで読んだものをいかに絞り込むかだけで終わってしまいました。 それでも追われて追われて、一日一日をこなすだけの毎日からしばし離れて、何とか後期も授業が出来るかなという気持ちになりました。いいのか、悪いのか。こうして月日は過ぎてゆくのでしょう。葛の葉が枯れて、秋も深まってゆく 我鬼子
毎年、通草を採りに行きます。イタリア料理店バルカドーロの鍋島さんは、奥さんが描いた本の通草の表紙絵を見て「まあ、おいしそう」とおっしゃいましたが、僕には通草はあくまで絵に描く素材です。 宮崎神宮のすぐ北の方に十年ほど住んでいましたが、最初に通草を見つけたのは平和台です。茂みの中から見上げた時に目に飛び込んできた鈴なりに実った通草の色鮮やかさは鮮明に残っています。風に当たらないところで育った通草は傷もなく色も鮮やかなようです。宮崎神宮でも市民の森でも見つけましたが、もともと通草は樹木には有害の蔓植物らしく、大抵は根こそぎ切られてしまいました。平和台では池に張り出した枝によじ登ってきれいな通草を手に入れたまではよかったのですが、勢い余って池に落ちてしまいました。その年の通草の絵の出来映えは、殊の外よかったような気がしました。 木花台に越してきたからも通草を見つけましたが、公園整備計画とやらのおかげでまた見事に切り取られてしまいました。それでも、今年もまた散歩の道すがらと、学校への行き帰りに、三カ所実をつけている場所を見つけました。どれも風のせいか、表面に幾分傷が見えるようですが。 今年もまた近いうちに、椿山公園への坂道に通草探しに出かけようとと考えています。 蒔いた大根とブロッコリーは早速芽を出しています。大きな種は芽を出すのがはやいのですが、法蓮草やレタスのように種の小さいものは、芽が出るまでに時間がかかります。 木花の百姓市を覗いたら、胡瓜の苗が出てました。夏野菜ですが、この辺りでは霜が降りる前まで収穫が可能です。2本買って、植えました。接ぎ木してあるので、収穫量も多いのかな。通草を採りにゆく、秋が始まった 我鬼子
夜、外に出たら、十六夜の月が照っていました。台風が来なければ、今晩は神戸のホテルでしたが、飛行機が飛びませんでした。 植え替えた胡瓜の苗はすぐに蔓を巻いていましたが、この雨風に葉がやられそうでしたので、雨のなか、蔓を丁寧にはずして葉を土に埋めてやりました。台風が去ったあと元に戻しましたが、無事育ってくれるでしょうか。大根の芽も雨にやられるまえに土を寄せましたので、何とか育ってくれるでしょう。大風が去って、十六夜の月が出た 我鬼子
3つも大きな颱風が来て、雨と風になすすべもなく、停電。それにつけても、日々の思い上がり、決して何も出来ない、何一つ出来ない無力な存在にしか過ぎないのに、何かが出来るという思いこみを持つ愚かさ、儚さ、情けないなあ。 明日から、また新学期が始まって、どうしようもない自分を持て余す余裕もなく、思い上がってまた生き恥を晒すのかなあ。ERの英語の字幕を抜き出し、音声ファイルを作り、スキャンして拵えたHuman Biology のSTDの文章にハイパーリンクをはって、明日の授業の準備をするくらいが、せいぜい出来ること、なんと愚かしいものか、いや、本当にそう思ってるんかいな。 1年生も含めた後期が始まります。大風去って、秋晴れの肌寒く 我鬼子
碌なこともせずに生き永らえて、先日五十五歳になりました。 色々なことがあって疲れ果てて早くから寝てしまいました。目覚めた暁方にこの書き込みをしている現実とは一体何なんでしょうねえ。 今日の夕方にはアフリカ文化論が始まりますが、どうも百数十名にもなるらしいです。たくさんの人でもひとかたまりに思える人はいいのでしょうが、一人一人を見てしまう僕なんかは、大きなクラスサイズの授業はどうも苦手です。どうなりますか。前期の英語の授業や、去年の授業でいっしょだった人と初めての人が交じっていて、話や映像が重ならないようにと気も遣いますから、なかなか大変です。ま、出来る範囲でするしかありませんが。夏休み前から準備して、いまだにはっきりとは全体像が出来上がっていません。やりながら反応をみて対応しようと思います。 今日は坂道を2往復しました。帰りは、雨のなか、傘をさして自転車をこいだのですが、背中がすっかり濡れてしましました。雨の坂道をこぐ、背中が濡れている 我鬼子
授業が始まって夏休みモードも自然に解除されたようですが、それどころではないというのが本当のところです。そのモードのお陰で、今年は少し心の余裕があるようで、えんどうの垣根もほぼ出来ました。去年捨てた通草が種から芽を出していたようで、蔓を金木犀にからめていたのですが、藤棚のような通草用の棚まで拵えてしまいました。実をつけるまで四、五年はかかるでしょうが、春先には花が咲くでしょう。 今年は颱風のせいで、金木犀より先に、お隣の山茶花が花をつけています。2年前に越して来たとき、ほぼ完成されていた庭に、新たに2メートルほどの金木犀を30本植えました。大塚さんの奥さんの百々子さんは庭を見て「この庭のどこに金木犀を植えるのよ」とおっしゃいましたが、二年後、生い茂った金木犀は人目を遮断する生け垣の役目を見事に果たし、何とも言えない香りを漂わせてくれています。 金木犀の漂う季節に生まれた長男に金木犀の犀の字をつけようと届け出を出しに明石の市役所に行ったのですが、人名漢字にはありませんと断られ、精の字をあてました。よかったのかどうかはわかりませんが、本人は金木犀が自分の花だと言っているようですから、気に入ってはいるんでしょうか。二十二年が経ちました。 アフリカ文化論は161名、結構かたまりとしての迫力があります。元々決して主体を考えての統合騒ぎではありませんので、何一ついいことはありませんが、せめて、前向きに考えましょう。一学年百人の医大では考えられなかった授業なのですから。 秋が深まってゆきます。木犀がにほふ、秋が深まっている 我鬼子
これから颱風がくるのかなあ。 日曜日に通草を採りに行きました。今年は台風のせいできっとないだろうなあとの予測に反して結構見つかりました。ただ、例年より半月は色づくのが遅くて、また出直しです。ついでに、山の水を汲んできました。 台風の前にも無力、停電すればほとんどが機能しなくなるほど危ういバランスの中でなりったている今の生活、本当はすべてに無力なのかもしれないなあ。何をしても、いつも生きる自信を失ってしまうことばかり。 先日、医学科1年生の人のお父さんから手紙が届きました。僕の書いた英文本を読んで下さるというのでお届けしたら、辞書を使って読みましたという手紙と、友人が出版されたアフガニスタンの写真集と友人と出版された劣化ウラン弾についての医学論文が届けられたというわけです。ブッシュの戦争犯罪を裁くという写真集を見ながら、どこにでも偉い人がいるなあと思いました。大学でここ数百年のアングロサクソンの侵略の話をし始めて20年あまりになりますが、同じ思いで生きておられる人たちがいるんだとも思いました。 何にもないくせに偉そうにわかった風な口をきいて、ろくなこともせずに生きながらえている身には、何とも望外な喜びです。小児科を担当なさっているとかで、いつかどこかでお会いできればと願っています。 今日は3回目の161人のアフリカ文化論がありました。少しペイスが出来そうで、これからだと思っています。選んでくれた人たちにも貴重な時間、僕にとっても大切な時間です。1回か2回ならうわべで済ませられますが、15回ともなるとそうはゆきません。地を隠し様がありません。折角の機会でもありますし、本にまとめられたらと思っています。今度は通草も、色づいているか 我鬼子
通草は落ちていました。 10個ほど連なっていた実の大半がぱっくりと口を開けて、中はもぬけの殻、季節の早さが読み取れなかったということでしょう。 もう少し奥まで探しに行って、新たに実をみつけました。崖によじ登って、辛うじて手に入れました。今年の通草探しは、これで終わりです。 重なった台風に、また地震、自然の猛威の前には何と儚い存在でしょうか。文句を言いながら、それでも雑事に追われる浅はかな日々、何だか情けないです。 地震は、文字通り土台が揺れるわけで、現実もそんな脆い土台の上にしか本当は存在していないのでしょうね。それにつけても人間の、いや我が身の傲慢はとどまる所を知らず、生きる自信もなくなります。通草は落ちていた、時の早さよ 我鬼子
一月ぶりの書込みです。 6コマの授業の分の書き換えと、授業の準備と、入試問題の点検やら来年度の時間割の調整、留学生用のニューズレターと日本語支援教育専修の速報の作成やらに時間を取られました。(やっとできあがって、更新履歴で紹介しています)アフリカ文化論は今年初めてですので、ビデオの編集やら資料の作成やらで結構時間がかかります。 庭に出る時間がなかなか取れませんが、大根も豌豆も順調に育っています。菠薐草は3回蒔きましたが、台風でやられとうとう消えてしましました。また、蒔くつもりです。 1週間もすれば12月、気温もだいぶ下がってきました。このところ、週に一度の割合で加江田の山に水を汲みに行っていますが、山も秋深しの佇まいを見せています。句も拾えずに、秋も深まった 我鬼子
何だか余裕もなく時が過ぎて行きます。 横山さんがイランに行きました。関西空港からの飛行機が飛び立つ頃のようです。7月までは研究室の親子電話は、実質上の親子電話ではなくなります。インターネットの環境はよさそうということですので、隣の部屋にいるような感覚で連絡が来るかも知れません。折角、イランに行くわけですから、日本のことはすっかり忘れて、楽しんでもらえるといいなあ。途中で、奥さんと子供さんも行かれるとか。 公立大の授業は12回しかありませんが、既に半ばを過ぎました。医学科の2年生は12月の授業を残すばかり。3年生からは英語の授業はありませんから、文字通りあと数回の授業でお終いです。カリキュラムの編成上、2年生はなかなかきつそうですので、もし時間があれば、もっと英語に時間を割けたやろな、と感じながら授業をするのですが、それでも英語に接する機会になればと願いながら、手を抜かずに準備をしています。 ただ、161名の大きなクラス、アフリカ文化論などは、初めての授業ですので、ビデオの編集や資料の準備に結構時間がかかります。それに、6クラスのホームペイジの書き換えや音声ファイルの作成やらに時間が取られて、医学用語の準備まで手がまわりません。ERなどから実際の用語の練習が出来るように工夫しようと考えているのですが、なかなか思うようには行きません。 来年は、これに教育文化学部の大学院修士課程の翻訳論特論とアフリカ論特論が加わりますので、ますますすることが増えそうです。社会人入学もありますので、結構年配のしかも現役の教員なども来られるようですので、おもしろい展開があるかも知れませんが。3月には研究誌も出すようで、日本初の専修ということで、ある出版社が出版を引き受けてくれるかも知れないそうです。日本人教師を海外に派遣している大きな団体国際交流基金は学生募集の案内をホームペイジに紹介してくれているとのことで、少しは注目されているんだそうです。さて、どうなりますか。 庭の豌豆が白い花をつけ始めました。気温が下がり、冬の始まりです。となりでは秋植えの胡瓜が小さな実をつけていますが、霜が降りると枯れてしまいます。実の収穫がなるかどうか微妙な塩梅です。豌豆の白い花で、冬が始まった 我鬼子
今年もまた、渋柿を剥いて干しました。八百屋さんでナイロン袋に入れられた渋柿の包みを抱えていたら、おばあさんがそれ干し柿よ、それ干し柿よと大きな声で話しかけてきました。田舎の良さというか悪さというか、渋柿がやっと出たなと思って買おうとしているのに、それ渋柿って知ってますかというお節介は、何というか、ほっといてくれと言いたくなるような。ま、ただただ黙っていましたが。ああいう場面に出くわすと、対応に苦慮して狼狽えます。おそらく僕の風体から、柿を干すイメージがわかないのでしょうね。もっと歳を重ねて人間が出来たら、そうですね、とにこやかに対応できるんでしょうかねえ。出来れば、そんな歳は重ねたくないような。僕としては、干し柿を買ってるだけなんですけどね。 干し始めてもう20年以上になります。宮崎に来る前に住んでいた朝霧(明石)には丸いタイプの渋柿がなり、同居していた奥さんのお父さんが毎年一つずつひもで結んで干していました。僕の方は細長いタイプの西条柿を探してきて、干しました。 宮崎にきてからは、山になっている実を見つけて干したりしましたが、小さい実だと出来上がったときに種ばかりになってしまいますので、やっぱり一時だけ出回る西条柿を見つけて干しています。 たくさん干すのは根気のいる作業ですが、陽に干すだけであのつやと甘みが出るのですから、感心するばかりです。 今年は、台風で実が落ちてえさが少ないせいでしょうか。干した柿をねらって、ひよが飛んできます。やられずに、無事に干し上がるでしょうか。 引っ越してきた2年前に、西条柿の若木を2本植えました。1本は枯れてしまいましたが、残った方の柿の木、いつか実をつけてくれるでしょうか。干した柿に、ひよも飛んできて 我鬼子
12月になりました。先日、庭に水仙が一本花を咲かせました。昨日は暴風雨が吹き荒れ、今日は冬の寒さが始まりました。 庭の大根をおろして食べました。市販のものはすでに大きくなっていますが、まだ大きくなる前に抜いてきます。煮てもやわらかく、おろしてもなかなかの味です。薬を使わないので、虫にやられないですむのは冬場の一時だけですが。 干し柿もわずかばかりできました。口には入らず、慌ただしく帰ってきた長女が東京の長男の所に持って行きました。ひよに持って行かれたようなものです。 今年の授業もあと3週間。2年生はそれで終わりです。来年は前期、横山さんがいませんし、2年生の新カリキュラムと看護学科の編入生の旧カリキュラムへの対応、看護学科と教育文化学部の修士課程の手伝いと、また色々ありそうです。 リストラの嵐に翻弄されることなく、大学はもともと学生のためにあるのだから、を忘れないようにしたいものです。庭の水仙、いちりん開いた 我鬼子
今年初めての書き込みです。来年のホームペイジの準備やら書いたものの校正や修正やら、授業のクラスのホームペイジの書き換えやらで結構時間が取られています。 昨日はセンター試験で、お昼から理科の3時間も監督がありました。普段時間通りに動いてないせいか、始まりの時間が少し早めになって、チャイムがなってからですねと同僚に耳打ちされました。 受けた試験では嫌な思いをした記憶しか残っていませんので、受ける側より長くてもまだ監督の方がいいと自分に言い聞かせています。 どうも僕はする順序にすんなりと従えない習性があるようで、この冬休みも、課題を読んで成績をつけたり、締め切りの近い原稿を書く方がいいに決まっているのに、ホームペイジの書き換えや、4月からの授業の準備をしたりしていました。成績と原稿の締め切りが近づいてから苦しくなるのがわかっていながら、すんなりとそうできないでいます。 きっと、人が人を評価など出来るものかみたいな思いが心のどこかにあってそうなるんだと思いますが、締め切り間近になるとそんな思いを押し殺して片づけざるを得ない自分の姿が目に浮かびます。 ここ何日かはずいぶんと寒い日が続いていますね。今週は医学科修士課程と博士課程(留学生)の試験があり、来週は教育文化学部修士課程(日本語支援専修)の試験があります。2月には学部の前期試験が、3月には看護学科修士課程と学部の後期試験があります。どれも採点をして、合否判定の会議に出ないといけません。大体、大学入試の準備を出来なくてどこにも行くところがなかった人間がそんなにたくさんの試験の採点をして、合否判定に関わっていいものなんでしょうかね。 大学の入学試験を受ける前に英語をやっていれば行くところがあったでしょうに、どうも順序がうまく行きませんねえ。 奥さんが2月のカレンダーに藪椿を描いてくれました。玄関の沈丁花の芽がはっきりとしてきました。毎年、試験の採点で缶詰にされるころに、事務室の前の沈丁花が香ります。 すべての採点を終えたら、また新入生を迎える季節です。試験の寒空に、藪椿が咲いている 我鬼子
雪が降りました。雪が舞ったのではなく、降ってうっすら屋根に積もりました。青空になってすぐに溶けてしまいましたが、加江田の山にはまだ残っています。学生のころに宮崎に来て、30年ぶりの雪だと聞いたことがありますが、積もったのは17年目の宮崎では初めてです。 猫のノアが窓ガラス越しに、一所懸命にしゃべりかけていましたので、窓を開けて抱いたまま舞う雪を味合わせてやりました。 新任の高校教員のときに授業をやめて雪合戦をしましたが、今から思えば、はしゃぐ姿を管理職はどう見ていたんでしょうね。何回かやりましたが、何も言われなかったところを見ると、黙認してくれていたんでしょう。僕の方は、鉄ちゃん(僕らは校長をそう呼んでました)、どうして校内放送で授業を中止して全校雪合戦せえへんねんやろ、器小さいなあと思ってましたが。 4日は、はや立春です。屋根の淡雪、朝陽に溶けてゆく 我鬼子
今日は節分、奥さんから「ほら、豆ね」と渡された豆を、食べました。あとで、(近所に声が聞こえないように)そっと豆をまくそうです。 今が、一番寒い時期でしょうか。それでも明日は立春です。春にふさわしく、日本語支援教育専修の合格発表がありました。16人の受験で合格者は6名、定員割れの多い修士では異例の競争率です。今の大学からの合格者はなく、旧の宮崎大学から一人、あとはすべて外からです。20代から60代、女性ばかりとなりました。 一昨日の書き込みのあと研究室に出かけたのですが、まさに吹雪、「屋根の淡雪、朝陽に溶けてゆく」から状況は一変しました。お昼過ぎにまた医学部から木花に自転車で移動したのですが、南国宮崎ではなく雪国の宮崎の吹雪の中の移動となりました。部屋の中では味わえませんが、一時は先が見えずに、まさに吹雪の中の坂道を行く、思いでした。 やっと161人のアフリカ文化論の課題を読んで成績をつけました。2つの課題でしたので、実際には300ほどでしたが、何日か、かかりました。まだ、返却希望の人に資料などをつけて戻さないといけませんが、ま、一段落です。実際には医学科の通年90人の方が課題としては多いですので(90×4)、まだ一山あるのですが。 本を読んで、自分の問題として考えてくれる人もいて、うれしかったです。そっと豆をまく、無病息災を祈りながら 我鬼子
温泉に出かける途中に見た海は、もう春の色をしていました。陽が照り出したせいもあるでしょうが、冬の海の色ではありませんでした。立春も、過ぎたわけです。 4月からの日本語支援教育専修(教育文化学部修士課程)でご一緒する長友さんのお誘いで、マルチリンガリズム研究会で発表することになり、その資料作りに3日ほどかかりました。本当は先に成績を出す方がいいのですが、どうも順序が後先になります。「アフリカ紹介 ―言語、文学、エイズと日本語支援専修」と、これで本当にいいのかしらんというタイトルですが、取り敢えず、概要を長友さんに送りました。 <概略> 「国内外の外国の方の日本語支援に携わる(あるいは携わっている)人に、二人の知り合いのアフリカ人を軸にして、言語や文学やエイズの問題をからめながら、アフリカのお話をしたいと思います。 一人は八十年代の初めに知り合ったケニアのギクユ人で、現在四国学院大学の教員をしているムアンギさんで、もう一人は、1992年に知り合ったジンバブエのショナ人ゲイリーさんです。ムアンギさんは、ギクユ語、スワヒリ語、英語、日本語を話し、ゲイリーさんはショナ語と英語を話します。 アフリカに文学があることも知らない、日本はODAなどを通してアフリカに援助をしてやっていると考えているおおかたの日本人の自己意識の問題を、ケニアの作家グギさん、南アフリカのスティーヴ・ビコ、アメリカのマルコム・リトゥルの問いかけた問題に照らして、考えてみたいと思います。 資料は、基本的に日本語訳をつけています。参考にして下されば幸いです。」 土曜日に久し振りに東京にでかけます。お茶の水女子大学であるということですので。春の海をながめて歩く、湯に急ぐ 我鬼子
今日の看護学科の授業で今年度の授業が終わりました。それぞれのクラスのホームペイジもその都度書き換えましたし、授業の準備もやれるだけはやりましたから、結構きつかったです。今、課題を読んで成績をつけていますが、そちらの方も時間がかかっています。それでも医学科2年生90人分の五分の一ほどが終わりました。これが終わったら、あとは看護学科の30人分でお終いです。 明後日は私費留学生、そのあと前期、後期、看護学科の修士、それと医学科修士・博士の3次と続きます。ま、そっちの方は、授業のように準備に時間がかからない分、いいんですが。それでも、問題作りと採点に、打ち合わせなどの会議がそれぞれ何回かありますので、時間は拘束されます。それが済んだら、ほっと一息、また、新学期です。 もうすぐ、授業用の分と英語科のペイジを新年度分に書き換える予定です。授業用のペイジに、課題図書の項目を付け加えるつもりです。大体の下準備は出来ています。もうすぐ沈丁花もにほひ出す、春も間近か 我鬼子
玄関脇にある植え込みの沈丁花がほころび始めました。左右の植え込みに一本ずつ赤い沈丁花を植えたつもりだったのですが、花が咲いてみると一本は白でした。白の方は、まだ蕾のままです。 看護学科30人の課題を読んで、やっと成績をつけ終えました。実質的には授業が終わっていますので、成績をつけて、そのあとに総括をするのは、なかなかしんどいです。しかし、今年はかなり無理をして授業でホームペイジを使った最初の年でもありますので、力を振り絞って、ホームペイジに書き込んだ内容を確かめながら、総括をすることにしましょう。4月から、また新入生を迎えての授業もありますから。 <2004年度>の総括 大学は授業料の値上げを、決めました。来年度の非常勤講師の予算も大幅に削り、5年間で非常勤の予算を零にする方針を出しました。定員の削減に対応するために、不補充の原則も打ち出しました。不補充とは辞めたあとを補充しないということです。来年度、心理学の人は定年ですが、そのあとを補充しない、つまり、優先順位からすれば、医学部の一般教育を担当している科目はその原則に従って自然消滅する、英語科もその範疇に入っているというわけです。 現状がどうあれ、現状でやれることをやるしかありませんから、やれることをやろうと思っていますが、実際は厳しいと思います。 医学科2年生の英語は二つとも、最初の授業で担当者が模擬授業あるいは授業の解説をして、学生にクラスを選んでもらいました。出来るだけ希望に添う努力をしたつもりですが、何人か「自発的に」動いてもらうことになりました。申し訳ないと思っています。既修得単位を認められている人を除いて90人程度に対して4クラスですから、1クラス20人強ですが、実際には僕は2クラスで90人を担当しました。成績をつけながら、人数の多さを再確認しました。2005年度の前期は何とか踏ん張って今の制度がやれるようにしましたが、今年で最後でしょう。大学全体では英語のクラスサイズは50人が基本ですから、医学部だけ少人数でということは許されないと思います。結局、通年では今年の前期が最後になり、来年は、全学に合わせて指定の50人クラスにせざるを得ないでしょうね。 医学科2年生(月曜日の英語U1,3)の Reading 主体のクラスでは、伝記など結構資料を用意して、ある程度はやれたように思います。特に、山頭火については、単なる英語での生涯の紹介にとどまらず、夏休みに資料を新たに作って、俳句の日本語訳を少しでも試みたのが、成果だったと思います。 金曜日の英語U2,4の Medical Topicsのクラスでは、諦めずにエイズの小説と医学用語をやれたのはよかったと思います。ただ、用語の小テストを最後までやれなかったこと、ERを使って用語を練習する準備に時間を取れなかったのが、心残りです。2年生は基礎科目が急に増えて、英語に割ける時間も限られていますので、その中で何が出来るか、が今後も大きな鍵になると思います。もう半年は、同じような感じでやれますので、今年の経験を何とか生かしたいと思っています。 医学科の一年生については、最初エイズやエボラのことに時間を取り、いざ本論に入ろうとした時、かなりの人が授業に来てくれなくなっていましたので、心残りがあります。出席をきっちりとは取らなかったのですが、それでも半分くらいは出席をとった形で記録を残していました。最後に確認してわかったのですが、規定の回数(5回)を超えていた人が10人近くいました。本当は受験資格なしで、成績欄に斜線をいれる、つまり再試験なしで自動的に再受講にも出来たのですが(看護学科や他の学部では実際に斜線を入れられている場合が多いです)、他にも5回以上休んでいる人がいたかも知れませんので、60点をつけることにしました。きっちりと出席の記録を残していない僕が悪いのでしょうが、これで来年から、きっちりとした出席の記録を残さないといけなくなりました。ある線を踏み越えないでいてくれていたら、大体でやり過ごせたのですが(これまでなぜ落とさないのかとよく言われても、無為な閉塞感をつくり出さないことを優先させてきました。目にあまる人もいましたが。)、これで身構えて臨まなくてはいけなくなったようです。 教員の授業評価で、すべて1をつけた人が2人いました。準備はなされていましたか、教育への熱意が感じられましたか、に1をつけられても、今のところこれ以上の準備は出来ませんし、熱意も持てそうにありません。課題も、課題だから本を1冊読んで書いたという人が大半でした。やっぱり、気持ちが萎えました。でも、最後の気持ちを振り絞って、2年生の前期だけでも、4クラスを設定して自由にクラスを選んでもらうようにしました。医学部だけ特別になぜ本来50人2クラスの所を4クラスにするのか、という全学からの非難を承知のうえで、そう設定しました。気持ちが通じますように、と祈るばかりです。人の命をあずかる立場に立つ人に、人の気持ちを汲んでもらえる、当たり前の人間であって欲しいと願っています。 主題教養の前期の南アフリカ概論と後期のアフリカ文化論は、新しく始まった科目です。統合というリストラのなかで、不本意に始まった教科ですが、やる限りは、受ける側にそんな経緯など関係がないでしょうから、意地でも、手を抜かないと決めていました。 南アフリカ概論は70人と少人数でした。おそらく、入学時に数行の案内の情報があっただけで選択の余地もなかったでしょうから、仕方がないと思います。 工学部と医学部の組み合わせでした。工学部は英語の担当者の間では、反応のない敬遠される学部ですが、進んで発表もしてもらえたし、結構手応えがあったと思っています。工学部の高橋くん、日高くん、孫田くん、看護学科の鍋島さん、藤田さん、河野さん、小田さん、鈴木さん、医学科の溝口さんと小田くんの発表には、正直感服しました。 初めてでしたので、全体の配分の見当がつき兼ねました。ビデをを見てもらう時間が多かったですので、もう少し話をする時間を増やしていた方がよかったかなと思います。それと、もう少し多く、歌の紹介が出来ていればと思います。講義が終わったあと、南部アフリカの歌のDVDを探し当てました。次回は、うまく編集をして、聴いてもらえるかなと思っています。 アフリカ文化論は、161名の大きなクラスでしたが、ホームペイジもプリントも小さなクラスと同じように使いました。156名の教室で、教務の方は受講調整をするとおっしゃったのですが、椅子を入れてもらって調整をしないで下さいとお願いしました。第二希望に回されるより、一回くらい椅子の席を我慢してもらう方がいいと考えました。何人かの人は椅子が不満だった、人数が多すぎたという感想を書いていましたが。自由な座席にして欲しかったという意見もありましたが、関取に殺到する姿を見ていましたから、少々不満でもあの方がよかったと思っています。161名の座席表を作るのに苦労しましたし、毎回拡大コピーをして教室の扉に貼るのも、表を書き換えるのも結構面倒くさい作業でした。医学部が本拠地ですから、わざわざ毎回、時間前に表を張り替えに行きました。 授業でも言いましたが、ヨーロッパ人が侵略を始める前の、アフリカ人の文化とか歴史に多くの時間を割けたのは、予想外でした。多分、退屈して寝てしまう人がもっと多くなると予測していたからです。体育の後のたくさんの部屋で寝てしまう人も多かったのですが、それでも聞いてもらっているような気がしていました。それは、課題を読んでも気持ちが伝わって来ました。 (長いので、中途ですが、休憩します。追って、残りを掲載します。)庭の沈丁花がにほひ出した、春も始まった 我鬼子
<2004年度>の総括、長くて一休みしている間に、春一番が吹いたようです。田圃に水が張られて、超早稲米の田植えが始まります。 今日は前期の試験、試験の間中、出題者の一人として本部管理棟にある狭い一室に待機していました。みんなも、去年か一昨年には、同じように不安な面持ちで試験を受けたのかなあと、自転車を生協の脇にとめたあと、キャンパスを歩きながら考えました。 今年は全学部とも倍率が高かったようですね。決して学校の評判がいいなどと考えてはいけません。制度が変わる前は、浪人した人たちや、一度大学を出た人たちが安全策にランクを落としてくるからです。医学科の場合、センターで85〜87%くらいに団子になっているようですから、明日の採点次第でひっくり返りますし、去年もそうでしたが、面接でもふるいにかけられて、センター高得点でも結構落ちる訳です。 明日は、採点です。 <2004年度>の総括、の続きです。 (アフリカ文化論の続きです) 今回、『ルーツ』の著者のアレックス・ヘイリーがクンタ・キンテの生まれたガンビアのジュフレ村を訪ねて村のグリオの口から直接クンタ・キンテの名前を聞く場面を紹介するつもりでしたが、最後の方は特に、時間が足りなくなってしましました。 来年は、植民地化以前のアフリカ人と文化、植民地化と現在の諸問題、クンタ・キンテのその後、についてそれぞれ三分の一ずつやってみようと思っています。アフリカの場合もそうでしたが、アメリカも支配する側からみた「アメリカ」が支配的ですから、奪われた側、クンタ・キンテの側から見た「アメリカ」を取り上げようと思います。アフリカと違って、『ルーツ』を含め、アメリカの資料は腐るほどありますから、腐らぬ前に使ってみたい気持ちもあります。 看護学科の授業は、30人と他のクラスに比べて少なくてすぐに名前が覚えられたこともありますが、楽しかったです。全員来てくれた時が何回かありました。月水金と5コマ、他の日も詰まっているというきつい日程の中の4コマ目でしたので、熟睡している人もいました(授業が終わっても寝ている人がいましたので、起こして「さしあげました」)が、聞いてもらっているような気がしていました。 初めて全員にCDを焼いて配りました。CDを使って聞き取りをやる時間が取れませんでしたし、医学用語もほんのさわりだけになってしまって申し訳ないと思っています。 進学や就職では何故か英語が要りますので、僕でお役に立てるなら、いつでも言って下さい。3年次か4年次に、進学・就職の準備講座みたいな選択のクラスを作れたらと考えていますが、実現しますかどうかは、わかりません。 授業ではありませんが、4月から始まる教育文化学部大学院修士課程学校教育専攻日本語支援教育専修の設立にかかわり、先月入学試験を終えました。16名の受験があり、6名の合格者を決めました。修士課程では、英語科をはじめ「応募者零」のところもあるそうですので、大健闘でしょう。今後も、留学生の受験も含め、多くの受験が見込めそうですし、修了後の就職も、国内の大学や地方自治体、国際交流基金やJICAから派遣される日本語教師、アジアを中心とする国での日本語教師など、需要はあるそうですので、大学全体のひとつの起爆剤になるかも知れません。 合格者は6名とも、動機付けもしっかりとし、目的意識も高く、年齢層も今年卒業見込みの人から30代から60代と幅広いです。僕自身は、前期はアフリカ論特論、後期は翻訳論特論の選択科目を担当しますが、運よく受講者があれば、何らかのお役に立てればと思っています。大量に読める資料もスキャナで取り込んで、出来るだけため込もうと、夏休みくらいから準備をしています。晴れてよかった、受験生の寒さ和らいで 我鬼子
梅も散り、椿も盛りを過ぎました。土筆と菫が一気に目立ち始めました。 2004 年度の総括をした後も、たくさんすることがありました。4月からの時間割の確認、シラバス登録、成績入力、私費留学生、前期、看護学科修士課程の試験と続きました。やっと明日が後期、15 日の医学科修士の試験が終われば今年度合計10回の試験が終わりです。受験するより試験する側の方がましだと言っても、これだけ多いと、ねえ。問題も作らないといけないし、打ち合わせに採点に合否判定と、試験よりもそっちの準備の方が大変、でもあと 2 回で終わりです。 臨床の人たちは医局に残る人が少ないのは宮崎出身の人が少ないからだと信じて疑わず動きませんから、入試の制度も現役の宮崎出身者を出来るだけ確保する方向に動いています。反対するなら、対案を出せと言われても、臨床の場に関われないのだから、出しようもなく、宮崎の現役に有利な入試問題を作れと言われても、ねえ。結局、押し切られる形で、来年からは推薦枠入試が始まるようです。今年の面接も、学科試験も今までとは少し傾向の違う層を受け入れる流れになったようです。それがいい方向なのかどうか、僕にもわかりません。僕の方は百年一日の如く、やれたらいいんですけどね。さて、どうなりますか。何とか 2 本目の原稿も終ったようですし、新学期に備えて、本格的に準備を始めようと思います。今年は、大学院日本語支援専修の授業と、急遽頼まれた公立大2年生の選択授業(前期)が初めてですので、どうなるのか楽しみでもあります。選択の場合は、もろに授業の質が問われますから。後期の授業を終えた人たちが110人いますが、その人たちが授業と僕自身をどう見てくれていたかが、わかります。 門土社の關さんが、南アフリカ概論とアフリカ文化論の講義録を本にとおっしゃって下さっていますので、授業が始まると、去年以上に追われそうです。 たいへんなことも多いのですが、何が起こるかわかりません。悪いことばかりでもないでしょう、か。明日は晴れる、受験生にも温かそうで 我鬼子