アレックス・ラ・グーマ(Alex La Guma)
ゴンドワナ7号(横浜:門土社、1987年)の記事(→玉田吉行著「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」19-24頁と→玉田吉行著「アフリカ・アメリカ・日本」24-25頁。)の挿絵に描いたアレックス・ラ・グーマの肖像画です
<解説>~玉田吉行著『アフリカ文化論1 南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社、2007年)から抜粋~ 九章 アレックス・ラ・グーマ
ラ・グーマは1925年にケープタウンに生まれました。父親が解放運動の草分けの一人でしたから、早くから政治意識に目覚め、高校を中退したあと、46年にはストライキを先導して会社を解雇されました。48年には共産党に入党し、55年には南アフリカ・カラード人民機構の議長に選ばれています。同じ年にケープカラード社会での人望と文才を認められて、反政府路線の週刊紙「ニュー・エイジ」に記者として採用されました。57年からコラム欄「わが街の奥で」を書き始め、62年に破壊活動法によって記者活動を断念させられるまで健筆を揮いました。
56年には他155名とともに反逆罪の嫌疑で逮捕されています。以来、60年、61年、63年、66年にも逮捕・拘禁されていますが、それはラ・グーマが白人政府に脅威を与える存在だったからです。66年に釈放され,5年間の自宅拘禁を強いられたラ・グーマは、家族と共にロンドン亡命の道を選び、祖国を離れます。
亡命してからもラ・グーマは、積極的に反アパルトヘイト運動を続け、70年にANCロンドン地区議長になり、78年にはカリブ代表としてキューバに赴任しました。様々な国の作家と連帯しながら精力的な創作活動を展開し、70年にはアジア・アフリカ作家会議からロータス賞を授与され、79年には議長に選出されています。81年には来日して会議などに出席し「日本をどう変えるかはあなたがたの問題ですが、原則的なことは、日本の物資的豊かさは第三世界の搾取の上に成り立っていることです」と語りました。
しかし、85年に心臓発作のため、60歳の若さで2度と還らぬ人となりました。
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