梅の季節に

 「私の絵画館」「モンド通信」(1月号)に収載予定です。

 昨年の夏、一枚の葉書が届きました。大切な方の訃報でした。“私の高校に来ませんか”と新卒の私に声をかけて下さった元校長先生です。
 私たち、教員の一部と生徒達は、鉄夫という名前から親しみをこめて「鉄ちゃん」と呼んでいました。また短気でせっかち、怒るとひどく怖いので「馬場鉄」とも恐れられていました。あらゆる方面に博学で、集会においても、生徒達は鉄ちゃんの話を毎回楽しみにしていたくらいです。「私は昔短歌を作っていましたが、最近は歌が詠めなくなりました。何故なら、私が不しあわせではなくなったからです。」そんな話を十六歳の高校生たちにむかって淡々と語りかけました。
 その鉄ちゃんが、私にとって特別な存在だったのには、わけがあります。私は教師になった最初の一年間、毎回自分の漢文の授業の前に、校長室で鉄ちゃんの特別講義を受けていたのです。
 実は、私は高校生の時から教師になるまでの十年間、漢文をまともに勉強せずにすごしてきました。それでも教員採用試験の国語には漢文が入っています。試験をあとひと月程にひかえた時、いくらのんきな私でもアセリました。そして考えた末、漢文を捨てることに決めました。
 試験当日、私は四問のうち三問だけを解き、漢文は白紙のまま提出しました。二次の面接の時、試験官の方が最後に、“漢文は教員になってからしっかり勉強して下さいね。”と優しく笑って言われました。
 そんな私が、校長先生の方針で教員用のトラの巻もない高校で、いきなり教え始めたのです。漢文を最も得意とする鉄ちゃんは、とても見ていられなかったのでしょう。授業の前に、次の授業内容を校長室でみっちり講義してもらい、その内容を今度は私が教室で生徒に伝える。その繰り返しで、最初の一年間を何とかやり終えました。
 漢文の個人講義はさすがに一年間だけでしたが、授業でわからない事があると、あいかわらず私は校長室に飛びこんでいきましたし、鉄ちゃんも何か話したい時には、職員室にやって来て他の先生方にはわからないように目で合図をして、校長室に呼んでは、話をしてくれました。
 修学旅行の見送りに行った時には、走り出す新幹線のなかからホームにいる私と年配の女の先生にむかって、投げキッスをしてくれたり。校長と一教員ではありましたが、同時に私だけの図書館でもあり、また娘を心配する父親のようでもありました。
 何故あのような関わり方が可能だったのか、と思い返すことがあります。心意気のある個性派校長が、まだかろうじて残っていられた時代だったこと。新設一年目の高校で、国語の教員が私一人だったこと。そしてその私が信じられないくらい漢文も古文もろくに勉強していなかったこと。それらのおかげではないかと思います。
 “誰にも知られずそっとこの世を去りたい”と言っておられたのに、こんな文章を書いてしまいました。ごめんなさい、そしてありがとうございました。

最終更新日: 2011年 2月 9日 11:06 PM   カテゴリー: 私の絵画館, 絵画,
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