玉田吉行の『ナイスピープル』を理解するために
小島けいのブログを更新している玉田吉行です。
僕のホームページ→「ノアと三太」に写真入りの「玉田吉行の『ナイスピープル』を理解するために」を紹介したいと思いますので、この画面をお借りします。
* 横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』をよりよく理解してもらうためのエセイを連載しています。No. 9(2009年4月10日)から始めて、No.41(2012年1月10日)までの21回を書きました。(途中何回か、書けない月もありました。)
エセイのタイトルの一覧のあとに、最新号<21>と初回の<1>を載せています。
<26>→「シンポジウム「アフリカとエイズを語る」報告(5)」 No. 46(2012/6/10)
<25>→「シンポジウム「アフリカとエイズを語る」報告(4)」 No. 45(2012/5/10)
<24>→「シンポジウム「アフリカとエイズを語る」報告(3)」 No. 44(2012/4/10)
<23>→「シンポジウム「アフリカとエイズを語る」報告(2)」 No. 43(2012/3/10)
<22>→「シンポジウム「アフリカとエイズを語る」報告(1)」 No. 42(2012/2/10)
<21>→「(21)『ニューアフリカン』:エイズの起源(4)米国産の人工生物兵器としてのウィルス」 No. 41(2012/1/10)
<20>→「(20)『ニューアフリカン』:エイズの起源(3)アフリカの霊長類がウィルスの起源」 No. 40(2011/12/10)
<19>→「(19)『ニューアフリカン』:エイズの起源(2)アフリカ人の性のあり方 」 No. 39(2011/11/10)
<18>→「(18)『ニューアフリカン』:エイズの起源(1)アフリカ人にとっての起源の問題 」No. 38(2011/10/10)
<17>→「(17)雑誌『ニューアフリカン』」No. 34(2011/6/10)
<16>→「(16)メディアと雑誌『ニューアフリカン』」 No. 33(2011/5/10)
<15>→「(15)エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(四) アパルトヘイト政権の崩壊とその後」 No. 32(2011/4/10)
<14>→「(14)エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代(三) アパルトヘイト政権との戦い」No. 31(2011/3/10)
<13>→「(13)エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(二)育った時代と社会状況二 アパルトヘイト」No. 21(2010/4/10)
<12>→「(12)エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(1)育った時代と社会状況1」 No. 20(2010/3/10)
<11>→「(11)エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」No. 19(2010/2/10)
<10>→「(10) エイズ治療薬と南アフリカ(2)」No. 18(2010/1/10)
<9>→「(9)エイズ治療薬と南アフリカ(1)」No. 17(2009/12/10)
<8>→「(8)南アフリカとエイズ」No. 16(2009/11/10)
<7>→「(7)アフリカのエイズ問題を捉えるには」No. 15(2009/10/10)
<6>→「(6) アフリカでのエイズの広がり」No. 14(2009/9/10)
<5>→「(5) アフリカを起源に広がったエイズ」No. 13(2009/8/10)
<4>→「(4) 1981年―エイズ患者が出始めた頃(2) 不安の矛先が向けられた先」No. 12(2009/7/10)
<3>→「(3) 1981年―エイズ患者が出始めた頃(1)」No. 11(2009/6/10)
<2>→「(2) エイズとウィルス」No. 10(2009/5/10)
<1>→「(1) 『ナイスピープル』とケニア」No. 9(2009/4/10)
最新号<21>→「(21)『ニューアフリカン』:エイズの起源(4)米国産の人工生物兵器としてのウィルス」 No. 41(2012/1/10)
今回は「エイズの起源」の4回シリーズの最終回で、「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」についてです。
編集長のバッフォ・アンコマーは「ニューアフリカン」で早くからエイズが人工的に生み出された病気だと主張して来ました。信頼のおける科学者に依頼してその根拠を示し、判断は読者に委ねました。原稿を依頼された一人が米国の皮膚科医でエイズと癌の研究者アラン・キャントウェルJrです。キャントウェルは、男性同性愛者に接種されたB型肝炎ワクチンの影響でエイズ患者が生まれ、HIVは癌研究を隠れ蓑に米国政府が継続した生物兵器の開発実験の過程で生み出された人工ウィルスである疑いが濃いと結論づけています。
1978年11月にニューヨーク市で男性同性愛者にB型肝炎ワクチンの接種実験が行なわれたすぐ後に、エイズ患者が大量に出始めたのは事実です。接種実験を実施したのはポーランド系ユダヤ人医師のウォルフ・シュムーニス(Volf Szmuness)で、第二次大戦中、政治犯としてシベリアに連れて行かれた人物です。戦後釈放され、中央ロシアで医学部に入り、1959年にはポーランドへの帰国許可が出て、公衆衛生を専門に肝炎の専門家になりました。1968年に家族でニューヨークに亡命し、1968年にニューヨーク市血液センターに技師として採用されたのち、コロンビア大学に招かれ肝炎の世界的な権威になっています。
性の解放が叫ばれた1970代初期には男性同性愛者の間で性感染症、特にB型肝炎が急速に拡大して当局の懸念が大きくなり、シュムーニスが開発中のワクチンが実験的に接種されたわけです。シュムーニスは治験の対象に高学歴の白人で、性的に活動的な男性同性愛者を選びました。治療費などで優遇しましたので、志願者を難なく集め、CDC(米国疾病予防管理センター)、NIH(米国国立衛生研究所)や大手の製薬会社の協力を得て治験を実施しました。1978年の11月にマンハッタンのニューヨーク市血液センターで第一グループの1083人にワクチンが接種され、翌年の10月まで治験が続きました。96%の成功率を収めましたが、3ヶ月後の一月に若い白人の男性同性愛者が原因不明の病気になりました。1980年の3月には、CDCの監督の下に、サンフランシスコ、デンバー、セントルイス、シカゴで1402人へのワクチン接種が継続され、その秋にサンフランシスコで最初のエイズ患者が出ました。
アフリカ人やアメリカの同性愛者のHIV感染源としてワクチン接種に最初に注目したのは米国人医師ロバート・ストレクターで、「エイズは実験室のウィルスを遺伝子操作して造られた病気で、そのウィルスが故意に、或いはたぶん偶発的に、世界の人口を制御するための殺人因子として人間集団に注入された」と指摘しました。政府の遺伝子組み換えによる超強力細菌兵器開発計画疑惑については、前号の→「(20)『ニューアフリカン』:エイズの起源(3)アフリカの霊長類がウィルスの起源」 No. 40(2011/12/10)で、「遺伝子操作で、細菌に対して免疫機構が働かなくなる、極めて効果的な殺人因子となる超強力細菌の開発は可能である」と1969年に医師ドナルド・マッカーサーが国会で証言したこと、国立癌研究所が生物兵器開発研究の批判をかわすために1971年に大統領ニクソンが米国陸軍生物兵器研究班の主要な部分を移した施設であったこと、アフリカ起源説を主張するギャロやエセックスが学問的に重大な間違いをおかしたにもかかわらず政府や製薬会社やマスコミに守られたことなどについて書きました。シュムーニスによる男性同性愛者へのB型肝炎ワクチンの接種実験がCDCやNIHや製薬会社と連携した癌研究の一環であり、1971年以来癌研究を隠れ蓑に生物兵器の研究が続けられたことを考えれば、HIVが人工的に米国政府に造られたウィルスであるという主張は空論ではありません。(キャントウェルは、後に政府によって公開された情報から、1940年代の冷戦時代の初めから70年代まで政府が秘密裏に行なった放射能実験が著名な大学で実施され、非常に高い評価を受けている医者や科学者が研究に関わっていた事実が明るみに出たこと、犠牲者がしばしば貧乏人や病気の人、恐らくはアフリカ系アメリカ人やいわゆる「アメリカインディアン」に多いことから推測すれば、エイズについてもその可能性は極めて高いと指摘しています。)
製薬会社や政府と密接な関係にあり、資金提供も得ている主流派は「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」を「陰謀説」と切り捨てますが、資金獲得のためには製薬会社はもちろんのこと研究者やNGO、国連さえもエイズ患者やHIV感染者のデータを水増しして利用して来た、などの根本にも関わる政治的な思惑や経済的な絡みなど、これまでの歴史的な経緯を総合的に判断すると、HIVが米国で人工的に作られたウィルスである可能性は高いと言わざるを得ません。
次回からは、11月に宮崎で行なったシンポジウム「アフリカとエイズを語る」についての報告記事をシリーズ(「ナイスピープルを理解していただく為に」)でお伝えしたいと思います。(宮崎大学医学部教員)
初回の<1>→「(1) 『ナイスピープル』とケニア」「モンド通信(MonMonde)」 No. 9(2009年4月)
エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を順次メールマガジン「モンド通信MonMonde」で紹介し、それと並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などをシリーズでお届けしようと思います。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。
「ナイスピープル」
『ナイスピープル』は1992年の出版です。アメリカでエイズ患者が出始めたのが81年、ケニアでは84年頃のようです。社会現象が作家に咀嚼されて小説や物語になり、それが印刷されて本になるのに必要な時間を考えれば、極めて早い時期に出版されたと言えるでしょう。エイズに関しての物語としては一番初期の作品で、歴史的にも価値のあるものだと思います。
著者のワムグンダ・ゲテリアについて詳しくは判りませんが、この本の紹介では1945年にケニアで生まれ、本書の主人公が学んだナイジェリアのイバダン大学、イギリスのオクスフォード大学、オースラリア国立大学で学んだとなっています。ケニア人のムアンギさんからこの本を借りたのですが、その時の話では、「高校の同級生で、たしか獣医やなかったかな。」ということでしたが、紹介記事では「環境と開発の経済で林学の修士号を取得している。」と記されています。物語『チェプクベの黒い黄金』という著書を85年に出しています。チェプクベはケニア西部の都市の名前で、黒い黄金は多分珈琲豆のことだと思います。
『ナイスピープル』は最初アフリカンアーティファクツという出版社で出版されています。その後、ヘンリー・チャカバさん(92年にジンバブエの首都ハラレで、ブックフェアに来ておられたチャカバさんとお会いしたことがあります。)が経営する東アフリカ出版社で再出版されたようで、現在、アメリカのミシガン州立大学出版局からも出版されています。オーストラリアに留学している時に読んだ新聞記事「アフリカのエイズ 未曾有の大惨事となった危機」がこの本を書く動機になったと書かれています。今回の日本語訳で詳しく読めますが、「(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないかと言われています。病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。」が本の最初に載せられた「著者の覚え書き」の一部です。
医者などの専門的な知識や技術を必要とする人たちの間にもエイズが蔓延する事態に痛く危惧を覚えたようです。タイトルの「ナイスピープル」は主人公の医師ムングチのように、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員を指しています。「クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。」と本文に紹介されています。
ムアンギさん
ケニア人で身近で接したことがあるのは2人だけです。ひとりは四国学院大学の教員をしているムアンギさん、もうひとりは宮崎大学の留学生だったサバです。どちらもナイロビ大学を卒業したと言っていました。
ムアンギさんとは兵庫県の明石に住んでいた80年代の半ば頃に知り合いました。(ちょうどケニアなどのアフリカ諸国でエイズ患者が出始めた頃ですね。)詳しくは忘れましたが、神戸にある黒人研究の会で知り合ったような気がします。高校の教員を辞めて大学の職を探している時に、大阪工業大学でいっしょに非常勤をしたこともあります。87年だったと思いますが、資料を探すためにニューヨークハーレムにある公立図書書館を訪れる前に、UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)に滞在していた大阪工大のESSの学生の宿舎に寄ったあと、キャンパスをいっしょに歩いたりもしました。日本では日本語しかしゃべってこなかったムアンギさんが、アメリカでは英語でしゃべりかけて来ました。ギクユの人でナイロビ大学を卒業したあと、国費で京都大学に坂本龍馬の研究に来たとか。卒業後に法学部の助手もやっていたそうです。同じギクユ人の作家グギさんが来日したときに世話をしたら、ケニアに帰れなくなったのだそうです。当時のケニヤッタ政権に反対する立場にいたグギさんの友人は、ケニアでは反体制の危険分子だったというわけです。
2003年にいっしょに宮崎でシンポジウム(下にポスター)をしたときのムアンギさんです。
シンポジウム「アフリカと医療~世界で一番いのちの短い国~」(2003)のポスターの写真
サバ
もう1人のサバはルヒアの人で、宮崎大学の体育館で他の留学生や教員といっしょにバスケットをやった仲です。当時は農学部大学院博士課程の国費留学生で、醸造とかが専門でワインを作ったりしていたようです。普段は週に1回いっしょにバスケットをするだけで、ほとんど個人的な話はしませんでした。ちょうど英文の2冊目の本を書いていた時で、どうしてもケニアの事情が知りたくて聞くことにしました。その時のことをまとめて、英文のテキストに載せました。以下の文章がその日本語訳です。
(旧宮崎大学でサバや大学生とバスケットをしていた時の写真です。)
私がケニア出身の学生とケニアの状況について話をしたとき、その学生は現体制についての不満を言いました。「私は日本に来る前、ナイロビ大学の教員をしていましたが、5つのバイトをしなければなりませんでした。大学の給料はあまりに低すぎたんです。学内は、資金不足で「工事中」の建物がたくさんありましたよ。大統領のモイが、ODAの予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りを持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りを一つ、それも丸ごとですよ!ニューヨークにもいくつかビルがあって、マルコスやモブツのようにスイス銀行にも莫大な預金があります。今、モンバサに空港が建設中なんですが、そんなところで一体誰が空港を使えるんですか?私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されてしまいました。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかわかりません。あそこじゃ十分な給料はもらえませんからね。92年以来、政治的な雰囲気が変わったんで政府の批判も出来るようになったんですが、選挙ではモイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」(『アフリカ、その末裔たち2―新植民地の局面―』(横浜:門土社、1998年刊)
(『アフリカ、その末裔たち2―新植民地の局面―』の表紙絵の写真)
何年か前に、現在長崎市民病院で研修をしている服部晃好くんとサバの送別会をしました。その時は、奈良にある関西文化学術研究都市の会社に就職すると言っていましたが、その後は会っていません。6年間ですっかり身につけた日本語で「小腹が空いた」などと言っていましたが、まだ日本にいるんでしょうか。
服部くんは名古屋の大学の工学部を出て暫くガス会社の研究所で働いたあと、海外青年協力隊の理科教師としてタンザニアのキゴマの中学校で3年過ごしたあと、ケニアでJICAの調整員を2年やったそうです。その後医学部を出て、いつかは再度アフリカに行くために、熱帯研究所のある長崎大学で医師の研修を受けることにしたそうです。
アフリカ音楽にも詳しく、会社を休んでユッスー・ンドゥールのコンサートに出かけたと言います。音楽の解説記事を頼んで、大学の授業でも使わせてもらっています。このシリーズでその解説記事なども紹介したいと思っています。(宮崎大学医学部教員)