玉田吉行の「アフリカ史再」

 小島けいのブログを更新している玉田吉行の→「ノアと三太」に「アフリカ史再考」を紹介したいと思いますので、この画面をお借りします。門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に2012年6月から連載中です。一覧のあとに最新号>を載せています。一覧です。

<4>「アフリカ史再考④牧畜生活:ケニアのポコトの人々」(No.54  2013年2月10日)
<3>「アフリカ史再考③ナイルの谷」(No.50  2012年10月10日)
<2>「アフリカ史再考②『アフリカシリーズ』」(No.49  2012年9月10日)
<1>「アフリカ史再考①アフリカ史再のすすめ」(No.48  2012年8月10日)

最新号です。

「アフリカ史再考④:大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人」
玉田吉行

 「アフリカ史再考」を再開します。

 今回はアフリカ大陸で人々がどのように暮らしていたかという話です。バズル・デヴィッドスンが「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)の2回目「大陸に生きる」のなかで紹介しているケニア北部に住むポコト人を中心に、牧畜生活を取り上げます。
 アフリカの生活のあり方として牧畜や農耕はかなり新しいもので、それ以前に野生の動物を狩り、木の実や草の根を集めて暮らしていた時期が長いことありました。「アフリカシリーズ」が収録された1980年代当初でも、中央アフリカのピグミーやナミビア・南アフリカのカラハリ砂漠に住むサン人の中には、昔ながらの原始的な生活が見られていたようです。
 デヴィッドスンは、ザイール(現在のコンゴ)の森で狩猟民として獲物を求め、絶えず移動生活をしているピグミーの1930年代の様子を収めたフィルムを紹介しながら「未開と言われる彼らが如何に巧妙な橋造りをするかを知ることが出来ます。」と解説しています。密林の中で橋を架けて獲物を追う技術は移動生活には不可欠で、ピグミーは必要に応じて集まったり分散したりしながら生活をしていました。従って、固定した社会はありませんでした。
 デヴィッドスンはまた、「サン人は狩猟採集の生活をしてきました。その人達が使う道具は手近な材料を使った単純なものです。矢尻の先に塗る毒はカブト虫の中味を絞り出して作っています。これにアロエの汁を塗って毒が落ちないようにします。道具は石器時代とは変わらないとはいうものの、獲物を追い詰める技術では彼らに敵う者はありません。」と解説しながら、狩猟しながら移動生活を続けるサン人を紹介しています。
 その後、村を作り定住生活をするようになりますが、そのためには狩猟採集で必要だった技術以外に大発見が必要でした。動物を飼い慣らして家畜にするようになったことで、アフリカでは今から6000年前か7000年前のことです。その結果、人口は増え、家畜のための水や草を求めて人々は広い範囲に散って行って行きました。その中には東アフリカの大地溝帯までやって来た人たちもいました。ケニア北部に住むポコト人もその子孫と思われます。
 ポコト人が住んでいる地域は、一年の大半はとげだらけの灌木に覆われた乾燥した土地で、灌木は雨期のほんの数週間だけ青青と生い茂ります。
 狩猟採集の生活から食べ物を管理して定住する生活への変化は画期的なものでした。牧畜生活が始まると水や草があるところには人が集まり、そこに共同体が生まれます。当然、入り組んだ社会組織も出来てくるわけです。
 デヴィドスンはポコト人が住んでいる地域を訪れしばらく生活を共にしながら次のようにその人たちの生活を紹介しています。(写真1:ポコト人を紹介するデヴィドスン)

13年2月用アフリカ史再考4写真1:ポコト人とデヴィドスン

「ここにあるポコト人の住まいは見た目には何ともまあ原始的で みすぼらしく、住民はお話にならないほど貧しく無知に見えます。しかし、実際生活に彼らと生活を共にしてみると、それはほんのうわべだけのことで、うっかりするととんでもない誤解をすることが、すぐわかって来ます。私はアフリカのもっと奥地を歩いた時にも、何度となくそれを感じました。外から見れば原始的だ、未開だと見えても、実はある程度自然を手なずけ、自然の恵みを一番して能率的に利用とした結果で、そこには驚くほどの創意、工夫が見られるのです。」

 他の草原の住人と同様に、ポコト人にとって最も大切な財産は牛です。その人たちの生活は牛を中心に展開します。雨期の間は、多いときは村には200人もの人が住みます。しかし、乾期になり草や水が乏しくなるにつれ、牛を連れて遠くまで足をのばさなければなりませんので、村の人口は次第に減っていきます。そして、次の雨期とともにまたみんなが村に戻って来ます。
 ポコト人の主食はミルクです。栄養不足を補うために時々牛の血を料理して食べますが、肉を食べるのは儀礼の時だけです。ミルクと血だけで暮らすにはたくさんの牛が必要です。それに干魃などの天災にも備えなければいけませんので、牛の他、山羊や駱駝(らくだ)も飼うようになりました。
 女性は夫とは別にかなりの数の自分の家畜を持っています。(写真2:ポコト人女性)男性が牛を追い草原に行っている間は、村に残っているのは女性と子供と老人だけです。

13年2月用アフリカ史再考4写真2ポコト人女性

 遙かに北の方から入って来た駱駝はミルクを取るために飼われています。ポコト人は、ビーズなどの贅沢品を外から買うだけで、ほとんど自給自足の生活をしています。必要なものは自分たちのまわりにあるもの、特に家畜から作り出します。山羊の皮をなめして毛をそぎ取り、油で柔らかくして衣類をこしらえます。牛の糞は壁や屋根に塗りつけます。断熱と防水の効果があるからです。そうして作った小屋は、子牛や子山羊を昼間の暑さから守ったり、乳離れをさせる時に使います。
 ポコト人の社会では男女の役割がはっきりしています。家庭は女性の領域で、家事、雑用、出産、育児を担っています。材料集めだけでも大変なこの土地では重労働ですが、それをこなすのが女性の誇りとなっています。
 厳しい自然を生き抜くには自分たちの周囲にあるものを詳しく知り、利用できるものは最大限に利用することが必要です。家の周りの藪も薬や繊維や日用品などの宝庫です。カパサーモと呼んでいる根を煎じて腹痛や下痢の時に子供に飲ませます。デザートローズの樹の皮を粉末にして水と混ぜて殺虫剤を作り、駱駝のダニを退治します。
 こうしてポコト人は厳しい自然をてなづけて、ほぼ自給自足の生活を続けて来たわけです。
 食べて出す、寝て起きる、男と女が子供を作って育てる、生まれて死ぬ。基本的な人の営みは、基本的にはそう変わらず、営々と続いています。
 1992年にジンバブエに行った時、3人のショナ人にインタビューをさせてもらいましたが、3人とも田舎で育ち、少年時代は大草原で牛の世話をして暮らしたと話していました。今も田舎ではポコト人とは少し違うでしょうが、遙かな大草原で一日じゅう牛を追いながら暮らしている人たちもいるわけです。ジンバブエ首都ハラレは1200メートルの高原地帯にありました。(ケニアの首都ナイロビは標高1600メートルです。)
 ジンバブエ大学英語科教員のツォゾォさんは、バンツー(Bantu)とはPeople of the peopleの意味で、アフリカ大陸の東側ケニアから南アフリカまでの大草原で遊牧して暮らす人たちが自分たちのことを誇りにして呼んだ呼び名です、と言いながら、インタビューに応じて子供時代のことをしゃべってくれました。
 「ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれています。その村からグレートジンバブウェのあるマシィンゴまで200キロ、国の中央部に位置する都市グウェルまで150キロ離れていて、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそうです。・・・ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていましたので昔のようにはいきませんでしたが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごしたチヴィの村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうです。
 一族には、当然、指導的な立場の人がいて、その人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていました。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれて、比較的恵まれた少年時代を過ごしたと言います。
 村では、12月から4月までの雨期に農作業が行なわれます。野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度をしたり、子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉をひいてミリミールをこしらえたり、ビールを作るなどの家事に専念します。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通でしたので、ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛や羊や山羊の世話に明け暮れたそうです。
 4月からは、男が兎や鹿や時には水牛などの狩りや、魚釣りに出かけて野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたと言います。」
 「ジンバブエ滞在21ツォゾォさんの生い立ち」(「モンド通信」No.55 ) に収載されています。雑誌「ごんどわな」(23号74-77ペイジ)「ジンバブエ大学② ツォゾさん」でも少し紹介しています。
 ガーデンボーイとして安い賃金で働いていたゲイリーもインタビューに応じて次のように話してくれました。
「私は1956年4月3日に、ハラレから98キロ離れたムレワで生まれました。ムレワはハラレの東北東の方角にある田舎の小さな村です。小さい頃は、おばあさんと一緒に過ごす時間が多く、おばあさんからたくさんの話を聞きました。いわゆる民話などの話です。家畜の世話や歌が好きでした。聖歌隊にも参加していて、いつでもよく歌を歌っていました。」「モンド通信」(No.46  2012年6月10日)「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」
 ジンバブエ大学の学生のアレックスもインビューに応じてくれました。
「普段の生活はゲイリーの場合とよく似ています。小さい時から、1日じゅう家畜の世話です。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていません。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから日没まで、再び家畜の世話だったそうです。『学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ。』とアレックスが述懐します。」「モンド通信」2012年6月号「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」

 次回は「大陸に生きる(2)農耕生活:ナイジェリアのスクール人」です。(宮崎大学医学部教員)

最終更新日: 2013年 4月 7日 2:59 PM   カテゴリー: ジンバブエ, 未分類, 案内
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