小島けいのジンバブエ日記:3回目:7月27日(曇り)ジンバブエ大学
「続モンド通信11」、2019年10月20日)
「小島けいのジンバブエ日記:3回目:7月27日(曇り)ジンバブエ大学」
「小島けいのジンバブエ日記」の3回目です。
今年の6月、住宅地に咲くジャカランダの花を見て、<この花を見ると、いつもアフリカの旅を思い出すよ>と相方に話したところ<机を整理していたら、こんなのが出てきたけれど・・・>と、一冊のぶ厚いノートを渡してくれました。
それは、私たち家族がアフリカ・ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の記録でした。私は旅の初めから毎日、その日の出来事を書きとめていましたので、きっとノートは何冊にもなっていたはずですが、今残っているのはこの一冊だけでした。
ノートを開くと、今まですっかり忘れてしまっていた大変な日々がそのままよみがえり、読んでいくうちに心が苦しくなるほどでした。
あの夏から27年すぎましたが、アフリカの状況はさほど変わっていないような気がします。
そこで、忘れきってしまう前に、実際にあったアフリカでの毎日を、一部だけでも書き残したいと思いました。
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3回目:7月22日(曇り)ジンバブエ大学
(ジンバブエ大学構内。木の横にあるのは、アイスクリーム売りの自転車)
ジンバブエ大学は、この国唯一の総合大学です。ここが相方の留学先ですが、出発までに担当教授の受け入れ再確認の返事をもらえないまま、現地に来てしまいました。
さらに、私たちの出発後日本に届いた「もう一度手続きを」という手紙が、ハラレに転送されて来ました。彼は青くなり、その後、意を決して大学に乗り込みました。
けれども、再手続要請の手紙を書いた科長代行のツォゾォさんも、当の本人が目の前に現われてはどうしようもありません。一瞬のとまどいの後、歓迎して受け入れてくれました。いかにも、アフリカ的経過です。
ツォゾォさん
国民的作家であるツォゾォさんの授業を通して、幾人かの大学生と親しくなりました。なかでも「ハロー・マイフレンド!」といつも陽気に現われるアレックスには、タマさんはショナ語を、子供たちは英語を教えてもらいました。
アレックスと長男
また彼はアレックスに、日本人だけでは入り難い街の酒場や、ETと呼ばれる乗り合いタクシーに乗ってロケーション(黒人居住地区)にも、連れていってもらいました。
他にも優しくてひかえ目なジョージ、詩やお話しを書いているイグネイシャスなど、それぞれ素敵な若者です。家の状況は厳しそうですが、「三度の食事が保証されている三年間は天国です」と、大学生活を楽しんでいました。
ジョージ(小島けい画)
ジンバブエの精鋭たちである彼らから「日本の街では忍者が走っているのか」と真面目に質問されたのには驚きましたが、「アフリカに行くならライオンに気をつけて」と送り出してくれた日本人と<あいこ>かも知れません。
ハラレの街にも日本車は溢れていましたが、正しい情報は互いに欠けたままなのだと、つくづく思った一件でした。
アレックスたちの学生寮ニューホール
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