小島けいのジンバブエ日記12回目:「アフリカの旅―前と後―」
小島けいのジンバブエ日記12回目:「アフリカの旅―前と後―」(小島けい)
今でこそ、アフリカの情報も多少は入ってくるようにはなりましたし、ましてやインターネットという便利な物も普及していますが。
私たちがジンバブエに行こうと決めた約三十年前は、アフリカでの生活が実際にどういうものかは、全くわかりませんでした。
そこで、日本から直接アフリカの生活に入るのではなく、一度どこかに滞在し少し体調を整えてから、ジンバブエに向かおうと思いました。
ジンバブエの地図
帰りも同じように、どこかでアフリカでの生活の疲れを少しとってから、日本への長旅に備えたいと考えました。
そうして、往きはロンドンで帰りはパリで、それぞれ一週間程すごすことに決めました。
どちらにも、相方が以前アメリカやカナダでの国際会議でお会いして、再会を約束した方たちがおられました。
ただ、旅を記録した3~4冊のノートは、最後の一冊以外は紛失しましたので、断片的な記憶にたよるしかありません。
<ロンドン編>
ロンドンでまず思い出すのは、ヒースロー空港です。
<やっと着いたあ・・・・>と四人はそれぞれ背中にはリュックを担ぎ、大きなトランクをゴロゴロ引っぱりながらタクシー乗り場に向かいました。するとすかさず二人の男の人がやってきて、サッサと荷物を二台の車に積み込みました。何かを考える間もなく、宿に向かって出発です。
ところが、これが空港名物(?!)の<白タク>だったとわかったのは、もはや宿についた後でした。
ロンドンの宿は、私の大学時代の友人が経営している日本人向けのインです。大学時代は、最初はケービング部(洞窟探検部)で、後では部をやめて二人で一緒にケイビングをやっていたお友だちですが。
その頃は、ロンドンで3~4件のインの経営者となっていて、中でも一番落ち着くからと住宅街にある<イン>を紹介してくれました。
<イン>
彼女の<イン>は、ビジネスマンや旅行者にとても人気でした。何故なら朝食に、しっかりした日本食の<定食>を出してくれるからです。
私たちの滞在中も、朝からハンバーグ定食やら天ぷら定食が出ましたが、慣れない外国生活では、とてもありがたいものでした。
朝ご飯をしっかり食べた後は子供たちのリクエストで、大英博物館でミイラを見たり、シャーロックホームズの家(?!)を訪ねたりしましたが。
もちろん一番の目的は、相方が研究している南アフリカの作家<アレックス・ラ・グーマ>の奥さんであるブランシさんに会うことでした。
ラ・グーマは、1966年にANC(アフリカ民族会議)の指示でロンドンに家族で亡命し、その後ソ連とキューバに外交官として招かれたりしましたが。1985年に亡命先のキューバのハバナで急死しました。60歳の若さでした。
ラ・グーマ(小島けい画)
私たちが訪れた頃、ブランシさんはロンドンで一人暮らしをしておられました。古いアパートのなかの一軒が彼女の住まいでしたが、1階は玄関、2階が居間兼台所、3階が寝室になっていました。つつましい生活のようでしたが、清潔感のある落ちついた雰囲気の家でした。それは、ブランンシさんの温かくもの静かな性格と重なりました。
彼女は私たちのために、ミートボールのような郷土料理を準備して待っていてくれました。心のこもったおいしい食事の後に、相方は、結婚式や、ソ連で(長男・次男も一緒に)撮った写真をいただいたり、本だけでは知りえない作家の実像や様々な体験談
をいろいろ聞かせていただき、大きな感銘を受けたようでした。
二人が話し込んでいる間、私と子供たちはアパートのまわりの庭を散策したりして、ロンドンという街をそれなりに楽しんで過ごしました。
<アフリカのお母さん>という感じのブランシさんとの時間は、四人にとってあったかい、そして心地よい数時間となりました。
その後世界の情勢は変わり、お会いした数年後にブランシさんは南アフリカへの帰国が実現しますが。相方との交流は、南アフリカにもどられてからもしばらく続いていたそうです。
ブランンシさん(小島けい画)
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