私の絵画館45:「山羊のみた夢 」3

 

私の絵画館45:「山羊のみた夢 」3

 

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ある日キャンパスに散歩に行くと、途中の斜面の草が刈られていました。咄嗟に、あの子たちは大丈夫かしらん?と思いました。

そこは2ヶ月前の雨の夕方、あの子たちの姿を見た場所でした。
私が折り返して帰ろうとした時、5~6m先に見なれない動物が立っていました。その姿を見た瞬間、私の頭のなかではふだんよく使う動物の名前が浮かんでは消え、ぐるぐるかけめぐりました。★ 続きは題をクリック ↑



私の絵画館44:「 山羊のみた夢 」2

 

私の絵画館44:「 山羊のみた夢 」2

 

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「山羊のみた夢 2」

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六月のある日、新聞に山羊のことが書いてありました。敗戦後の食糧難の時代に、エサ代がかからず栄養価の高い乳が飲めるということで、山羊を飼うことが奨励された時期があったとか。けれどまもなく、大量に乳をとることのできる乳牛に変わり、山羊は激減したとありました。

時々牧場に草を食べに来てくれる黒山羊を思い出し、なるほどなあと思いました。★ 続きは題をクリック ↑



私の絵画館43:浜辺(三太と海)

 

私の絵画館43:浜辺(三太と海)

 

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兵庫県にあるJR朝霧駅は、残念なことに花火大会の事故で有名になってしまいましたが、私が通勤していた頃は、まだ直接海辺に続く階段はありませんでした。★ 続きは題をクリック ↑



私の絵画館42:天馬とカサブランカ 

 

私の絵画館42:天馬とカサブランカ

 

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いつの間にか、何故か、今私は4匹の猫たちに囲まれて暮らしています。

生まれつき胃腸が弱かったり魚アレルギーのため魚を食べさせられない等、それぞれ問題点のある猫たちですので、世話は大変ですが、十二分に可愛くいとおしい存在です。★ 続きは題をクリック ↑



私の絵画館41:モモコとたんぽぽ

 

私の絵画館41:モモコとたんぽぽ

 

 
以前、キャバリアという種類のブリーダーをしておられる方からの依頼で→「モモちゃんとひまわり」(2011年8月10日:)という絵を描きました。

前の飼い主から虐待を受けていたモモちゃんは、新しい飼い主さんにもなかなか心を許しませんでした。何ヶ月もしんぼう強くあたたかく接し続けた結果、ようやく心を開くようになりました。
それでも、モモちゃんは死ぬまで、家族以外には身体をさわらせなかったそうです。それだけに、特別な想いがあり忘れられない子でした、とお聞きしました。★ 続きは題をクリック ↑



私の絵画館40:さくらちゃんと桜

 

私の絵画館40:さくらちゃんと桜

 

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今、宮崎の桜は満開です。

今年は花が咲き、咲ききって散るまでの速さが、例年以上のように思われます。美しいさくら色をゆっくり愛でるひまもなさそうです。

そんな春が、いつからか、私にとっても哀しい季節になりました。けれど沈みがちな気分になる時でも、いつものように“こんなふうになったらいいなあ”と思うことをできるだけ口に出して言うようにしています。そうすると思ったことが実現する可能性が高くなると思うからです。★ 続きは題をクリック ↑



私の絵画館39:玄風と紫木蓮

 

私の絵画館39:玄風と紫木蓮

 

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宮崎の冬は、それなりに寒い。

いくら南国とはいえ冬は寒いのだということを、<外>から来た人のほとんどは知りません。

25年前の3月末に引越してきた時、私たちもそうでした。南国で、3月も終わりだというので、かろうじて持って来た暖房は、
小さな電気ストーブだけでした。★ 続きは題をクリック ↑



私の絵画館38:レオくんと日々草

 

私の絵画館38:レオくんと日々草

 

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人の考え方は皆ちがう。そんな当たり前のことを、よりしみじみ思うようになったのは、絵を通していろいろな方と接するようになってからだと思います。

以前、ひめつる日々草と犬ちゃんを絵に描いた時。

ああ、できた、きっと喜んで下さるだろう。そう思って画像でお送りしましたが、翌日かかってきたお電話の声は、何だか怒っていらっしゃるようでした。★ 続きは題をクリック ↑



私の絵画館37:バーニーと水仙

 

私の絵画館37:バーニーと水仙

 

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時代遅れというのか、時代の主流からはずれているというべきか、私は今もパソコンと無縁で暮らしています。もちろんブログもありますし、お客様とメールでのやりとりもしていますが、
それはひとえに“あの人”“この人”のおかげなのです。★ 続きは題をクリック ↑



私の絵画館36:ラックくん、アンくんと椿

 

私の絵画館36:ラックくん、アンくんと椿

 

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父は20年前に84歳で亡くなりましたが、晩年、新しい知識を私たちに嬉しそうに教えることがありました。その時私は、またテレビの受け売りでしょう、と心のなかでちょっとバカにしていました。

けれど最近の私は、とても父に似てきてしまいました。絵を描くのに眼鏡が手放せなくなってからは、絵を描く時以外は、極力眼鏡を使わないようにしています。そのため、よほどでないと本も読まなくなりましたし、この頃は新聞さえも面倒になりました。★ 続きは題をクリック ↑