「椿山」

 出版社門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信」(MonMonde)の「私の絵画館」(連載中)の次号(No. 30:2011年3月10日)に収載予定の「椿山」です。

      「椿山」                    小島けい

 家から南の山の方へある程度入ったところに「椿山」があります。
 こちらが椿山、という気楽そうな看板につられ、すぐそこら辺にあるのだろうと思い一人で向かったのですが、山の入り口で改めて「ここから○Km」とあり、なんと!と思ってしまいました。
 くねくねした山道をどんどん登って行くのですが、出会う車もなく人もなく、ほんとうにこの奥にあるのだろうか、と危ぶみ始めた頃、突然ラブラドールの子犬が飛び出してきて、横を走り出しました。家にいるラブラドールの“三太”の子犬の頃を思い出し、あまりの可愛さに、“もし捨て犬だったらどうしよう。連れて帰ろうかしらん。”などと迷っていると、道の左側の奥に民家が一軒見えました。子犬のほがらかさから考えても、きっとそこの犬ちゃんなのだろうと納得し、またくねくね登っていくと、おいしい山の水の流れる”水場”がありました。
 さらにそこからいくつもの曲がり道を登ったところで、ようやく「椿山」に着きました。
 一応は公園ということですが、展望のための広場があるだけで、後は近くの山を散策できる小径が整備されているようでした。
 たまたま私が初めて椿山に行ったその時は、他に誰もいませんでした。眼下に広がるいくつもの山々と木々。空ははるかに高く、その空のむこうの方にはほんの少し海も見えるようでした。静寂のなか聞こえるのは、風の通りすぎる音と小鳥のさえずり。そこは自然のなかにそっと入り込める別天地でした。
 その「椿山」に犬の“三太”をぽつんと置いてみました。きっと三太にも、風の音・小鳥の鳴き声が聞こえているのだと思います。




最新作(2011/2/22)です:「ころちゃん」

 ”火の国テリア”の「ころちゃん」です。
 絵のご注文を受ける時には、お写真をお預かりするのですが。その時、できるだけ目がはっきり映っているのがあれば嬉しいのですが・・・・とお願いしています。
 けれど実際には、白黒の写真をカラーで描いて、というのがあったり。可愛くてとてもいい写真だと思っても、逆行のため肝心の目や鼻がもう一つよく見えない場合があったり、といろいろです。
 でも、今回の「ころちゃん」のお写真は、あまりにも飛び抜けていて、ちょうどそばにいた人たちも元飼い主さんも一緒に大笑いしてしまいました。
 ころちゃんは何年も前に亡くなっており、唯一残っていたのがこの写真だったとか。全体の色はこげ茶色、耳はおおきくてとがっている。目はくりっとしていてとても可愛かった、というお話を参考にして、描きました。
 喜んでいただけるといいのですが・・・・。



新作(2011/2/10)です:「水仙」


出版社門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信」(MonMonde)の「私の絵画館」の→『水仙』(No. 18:2010年2月)


ブログの→「水仙」、→2010年用カレンダー「私の散歩道2010」の1月の「水仙」、ブログの→「水仙とぴのこ」、→2011年用カレンダー「私の散歩道2011~犬・猫・時々馬~」の2月の「水仙とぴのこ」もどうぞ。




梅の季節に

 「私の絵画館」「モンド通信」(1月号)に収載予定です。

 昨年の夏、一枚の葉書が届きました。大切な方の訃報でした。“私の高校に来ませんか”と新卒の私に声をかけて下さった元校長先生です。
 私たち、教員の一部と生徒達は、鉄夫という名前から親しみをこめて「鉄ちゃん」と呼んでいました。また短気でせっかち、怒るとひどく怖いので「馬場鉄」とも恐れられていました。あらゆる方面に博学で、集会においても、生徒達は鉄ちゃんの話を毎回楽しみにしていたくらいです。「私は昔短歌を作っていましたが、最近は歌が詠めなくなりました。何故なら、私が不しあわせではなくなったからです。」そんな話を十六歳の高校生たちにむかって淡々と語りかけました。
 その鉄ちゃんが、私にとって特別な存在だったのには、わけがあります。私は教師になった最初の一年間、毎回自分の漢文の授業の前に、校長室で鉄ちゃんの特別講義を受けていたのです。
 実は、私は高校生の時から教師になるまでの十年間、漢文をまともに勉強せずにすごしてきました。それでも教員採用試験の国語には漢文が入っています。試験をあとひと月程にひかえた時、いくらのんきな私でもアセリました。そして考えた末、漢文を捨てることに決めました。
 試験当日、私は四問のうち三問だけを解き、漢文は白紙のまま提出しました。二次の面接の時、試験官の方が最後に、“漢文は教員になってからしっかり勉強して下さいね。”と優しく笑って言われました。
 そんな私が、校長先生の方針で教員用のトラの巻もない高校で、いきなり教え始めたのです。漢文を最も得意とする鉄ちゃんは、とても見ていられなかったのでしょう。授業の前に、次の授業内容を校長室でみっちり講義してもらい、その内容を今度は私が教室で生徒に伝える。その繰り返しで、最初の一年間を何とかやり終えました。
 漢文の個人講義はさすがに一年間だけでしたが、授業でわからない事があると、あいかわらず私は校長室に飛びこんでいきましたし、鉄ちゃんも何か話したい時には、職員室にやって来て他の先生方にはわからないように目で合図をして、校長室に呼んでは、話をしてくれました。
 修学旅行の見送りに行った時には、走り出す新幹線のなかからホームにいる私と年配の女の先生にむかって、投げキッスをしてくれたり。校長と一教員ではありましたが、同時に私だけの図書館でもあり、また娘を心配する父親のようでもありました。
 何故あのような関わり方が可能だったのか、と思い返すことがあります。心意気のある個性派校長が、まだかろうじて残っていられた時代だったこと。新設一年目の高校で、国語の教員が私一人だったこと。そしてその私が信じられないくらい漢文も古文もろくに勉強していなかったこと。それらのおかげではないかと思います。
 “誰にも知られずそっとこの世を去りたい”と言っておられたのに、こんな文章を書いてしまいました。ごめんなさい、そしてありがとうございました。



野原(寝そべるノア)

 以前描いた絵の画像を取り込みました。
 ノアについては→「ノアです」、→「桜とノア」、→「ブログを再開します。ノアです。」でもどうぞ



新作(2011/1/21)です:「山茶花」

 ピンクで一重の山茶花です。

 一重の白いさざんかは、→「山茶花」でどうぞ。


 母は私が二十七歳の時に亡くなりました。十一月でした。
忌引きは一週間程ありましたが、母のいなくなった家に居ることがつらく、確か五日目くらいに出勤しました。

 通勤の電車が特急待ちで止まるホームに、大きな山茶花の木が一本ありました。
その朝、ドアが開いたちょうどその前に、白い山茶花は、こぼれんばかりに咲いていました。

 数日前から思考も何もかも止まったまま、ぼんやりドアの横に立っていた私に、その白さが飛びこんできました。
そして、心にしみ入りました。
何のつながりもありませんが、私はその時、「ああ、母の花だ。」と思いました。

 その思いは、何十年たっても変わりません。
ですから、一番最初に描いた山茶花は、もちろん白い花でした。


 出版社門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信」(MonMonde)の「私の絵画館」に連載中の→『山茶花』(No. 28:2010年12月10日)でもどうぞ。




新作(2010/12/29)です:「梅ちゃん2」

 →「梅ちゃんと桔梗」でもどうぞ。



新作(2010/12/29)です:「萌ちゃん4」

「萌ちゃん1」「萌ちゃん2」「萌ちゃん3」「萌ちゃんとこすもす」もどうぞ。



額に入りました(2010/12/28):萌ちゃん4

「萌ちゃん1」「萌ちゃん2」とと「萌ちゃん3」もどうぞ。



最新作(2010/12/12)です:「木立ダリア」

 →「木立ダリア」でもどうぞ。