私の絵画館:「チェリーちゃん・ハッピーちゃんとチューリップ」(小島けい)

                           「続モンド通信4」、2019年3月20日)

私の絵画館:「チェリーちゃん・ハッピーちゃんとチューリップ」(小島けい)

昨年の春頃に書いた文章に、<上質なタオルの生産地として注目されていた愛媛県の今治市ですが、最近では全く違う理由で、えらく有名になってしましました>とあります。確かに1年前はそうだった・・・・と思い出します。けれど新しい大学も出来てしまうと、もうはやニュースにとりあげられることはなくなりました。
あの今治も落ち着いたのかなあと、以前短い間ですが、住んでいた私は、小さい城跡なんぞを思い出しています。
父は明治の終わり頃に生まれた人で、すでに何十年も前に亡くなりましたが、紡績の技術者でした。今からふり返れば、父が紡績の仕事にたずさわっていた時期は、日本の紡績が栄えていた時代とほぼ重なり、そういう点では、とても幸運だったのかもしれません。
当時は日本の各地に工場があり、両親は転勤で何十回も引っ越しをしたと聞きました。
しばらく前、何人かでの食事会の時、<私は小さい頃ずっと塀の中で暮らしていたから・・・・>と話をしたら<どういうこと?!>と回りの人たちから、びっくりして聞き返されましたが。
この場合の<へい>は板べいで、決して映画に出てくるようなコンクリートの頑丈な塀のことではありません。
実は、各工場には必ず社宅があり、それらが高い板塀で囲われていた記憶があるのです。私は小学校6年生の3学期に西宮から今治に引っ越しました。私たちが入った社宅は、美しい浜辺と道路一本をへだてた場所にありました。そのため500坪以上あったと思われる敷地の半分程は砂浜そのままで、昔からはえている巨大な松たちが、大きな枝をあちこちに延ばしていました。
奥の方には、当時としてはまだ珍しいテニスコートがあり、その横が祖母が耕すには広すぎる畑でした。
実際に生活をする家の前方には、日本庭園が造られており、池には鯉が泳いだりしていましたが。この家で珍しかったのは、玄関の間を入るとすぐ横に、小さな窓の3畳の部屋があったことです。私たちには必要ありませんでしたが、昔でいう女中部屋、今でいうなら住み込みのお手伝いさん用の部屋があったのです。
そしてもう一つは、広い廊下の片側にトイレが三つ並んでいたことです。
昔ですので、男性用女性用の二つはあたりまえですが、女性用がもう一つというのは何だったのか。一つはお客様用としてなのか、今考えてもよくわからないままです。
当時、工場長の社宅はおおよそ500坪くらいが普通だったらしいというのは、次に明石へ引っ越してみて見当がつきました。
ただ、各工場によりこだわった部分は異なるようで、明石の家には<電話室>がありました。いわゆる木で作られた電話ボックスが、玄関の間の次にドンとあったのです。
まだ電話そのものにも慣れていなかった私は、お友だちにかける時も、緊張してドキドキしながら電話室のドアをあけたものでした。
明石の家は今治より少し後の時代に作られたのか、南側の庭は日本庭園ではなく、バドミントンがのびのびできるくらいの一面の芝生でした。
父は、この明石の工場を最後に退職しましたが、それからまもなく、今治も明石も、工場が閉鎖されたと聞きました。
私が住んでいた少し時代後れのような社宅も、今では跡かたもなく、なくなってしまいました。

この絵のモデルは、ポメラニアンこのハッピーちゃんとチェリーちゃん。
まだ大分県の九州芸術の杜の<ギャラリー夢>で、個展をしていた時に出逢いました。

二匹は、ご家族と一緒に北九州から来てくれました。ハッピーちゃんが男の子で、チェリーちゃんが女の子ですが、どちらもとても元気で愛らしかったのを覚えています。
その可愛らしさには、明かるいチューリップがぴったりと思い、たくさんのチューリップの花と描きました。
まだまだ元気に遊んでくれているかしらん?!と思いながら、この絵を選びました。



私の絵画館:「ロバのパオンちゃん」(小島けい)

                             続モンド通信5(2019年4月20日)

私の絵画館:「ロバのパオンちゃん」(小島けい)

私は馬も好きですが、ロバも大好きです。<ロバ好き>になったのは、パオンちゃんというロバと出会ったからです。
その出会いは、ちょうど14年前乗馬に通い始めた頃で、かってにパオンちゃんと名付けたそのロバの絵を、私は何枚も描きました。ロバ主さんは優しい方で、それらのほとんどを購入して下さいました。
そのため、今手元にはパオンちゃんの絵が少ししか残っていません。

私は新しいパオンちゃんの絵を描きたい!と思い、しばらく前からとりかかっているのですが、使っている写真は、左目の部分だけが暗くてよく見えません。
そこで何か参考に出来るロバの写真はないかしらん?とロバを検索していたら、えっ?!と思いました。
10年以上前に描いた<トンネルのパオンちゃん>が載っていたのです。そしてそこをクリックすると文章も読むことができました。

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高速道路の下のトンネルに、その驢馬(ろば)はつながれていました。名前は「パオンちゃん」と、私が勝手に名づけました。
驢馬(ろば)の鳴き声を聞いたことがありますか。
「パホパホ、パオーン」と、それはもう大きな声で鳴くのです。
その声があまりに大きすぎて、預けられている小さな牧場内では飼えません。そこで、私が通う牧場の外れにあるトンネルで暮らしています。
いつも独りでいるパオンちゃんは、小道の向こうの牧場に行きたくてしかたがありません。なにしろ、そこにはたくさんの馬、そしてポニーや、犬などがいますから。そうそう、最近は子馬も生まれましたしね。
パオンちゃんはトンネルの向こうの栴檀(せんだん)の木にくくられていますが、時々脱走しては仲間のところに走ります。
あまりにうれしくて、顔を空に向けたまま走るのですよ。
こんなパオンちゃんでしたが、別の牧場の方に気に入られ、引っ越しをしました。
今は、空に近い広い高原の牧場で、1番の人気者となり、楽しく過ごしているそうです。…………

という文章を書いてから2年後、高原の牧場にいるパオンちゃんとようやく再会を果たすことができました。
パオンちゃんは突然現われた私に、最初は少しとまどっているようでしたが、そこは馬よりも賢いと言われる驢馬(ろば)のこと、そのうち胸に頭を押しつけるようにすりつけてきました。きっと思い出してくれたのだと私は思います。
いつもひとりぼっちで寂しそうだったパオンちゃんが、青い空、白い柵、広い牧場のすばらしいパノラマのなかで、のんびり草を食べている姿を見て、ほんとうによかった!と思い、私は目的地へむかいました。
実はその高原からさらに40分ほど行った飯田高原の「九州芸術の杜」というところで、その10月、私は個展を開いていました。榎木孝明美術館をはじめ、小さなログハウスの美術館が点在するなかのギャラリー「夢」においてです。
その年はご縁があって、急きょ10月に個展をしましたが、今年は昨年同様、九月に個展を開きます。
大きな樹々に囲まれ、そこだけ別世界のゆったりした時間が流れている美しい場所に、今年もでかけることができる。誰にともなく、心から、感謝です。

「驢馬のパオンちゃん」(No. 25:2010年9月)



私の絵画館:「レオンくんと古城」(小島けい)

                                 続モンド通信6(2019年5月20日)

私の絵画館:「レオンくんと古城」(小島けい)

 

最近私の携帯には、毎晩いえ時には日に何度も決まった相手から電話がかかります。その相手とは、猫の“のらちゃん”です。

名前の通り元のら猫のその子は、4年前の5月頃突然娘のところにやってきました。そして家の外からどのように察知するのか、行く部屋行く場所の一番近い窓から、大きな声で必死になき続けました。しかもそのなき声は、今まで聞いたことのないような低くて太いダミ声でした。

東京で猫は飼えないから、と聞こえないフリ?をし続けていた娘でしたが。このままでは隣り近所から通報され殺されてしまうにちがいないと心配になり、目立たないところにエサを置くことにしました。“

すると少しずつですがなく回数が減り、いつのまにか玄関のドアの前で寝ているようになりました。ひどい雨の日、ずぶ濡れになっているのを見かねて箱を置くと、その中にもぐり込み安心して眠りました。

ある時試しにドアを開けてみると、最初は恐る恐る少しずつ入ってきましたが、そのうち家にあがりこみ長い時間くつろぐようになりました。

そうして<完全家猫>の座を獲得し“のらちゃん”となりました。

不思議なことに、あれほど低くて太い大きなダミ声だったのが、大切に可愛がられているうちに、ふと気付けば少し高めのかわいいか細いなき声にかわっていました。

保護された時が推定1歳でしたので、これまでの<のら生活>ではいろいろ大変なことも多かったと思うのですが、今やおしゃべり大好きな猫となり、<電話かけて!>とせがむようになりました。その電話を受けて私が話しかけると、じっと聞いていてそれなりにいろいろ返事をしてくれます。

今でも時折、自分で携帯にタッチして一人でニュースを聞いていたり。のぞき込んでタッチして自撮りの写真をとったりするそうですので、そのうち電話も一人でかけたい時にかけてくるようになるのではないか?!と、ひそかにその日がくるのを待っているこの頃です。

モデルは、チャイニーズ・クレステッドのレオンくんです。とても珍しい犬種だそうで、私自身も実際にはまだ会ったことがありません。

長い毛のもち主ですので、カットのしかたでずいぶん印象もちがってくるようです。いずれにしても<高貴な雰囲気>は動かしがたく、気品ある美しさには、やはりドイツの古いお城があうのではないか。そんなふうに思い、小さく描き入れてみました。



私の絵画館:「パンダ」(小島けい)

                             続モンド通信7(2019年6月20日)

私の絵画館:「パンダ」(小島けい)

少し前、上野動物園のシャンシャンが2歳の誕生日をむかえたと話題になっていましたが。
私がこのパンダの絵を描いたのは2009年<花のカレンダー>を全国発売していただいた時です。
花の絵に加えパンダの絵も描いて送って下さい、と言われました。それまでパンダをきちんと見たこともありませんでしたが、慌てて2枚のパンダを描きました。
そのうちの一枚、この絵が<カレンダーにもれなく3枚入るパンダトレカ>となりました。青空を背景とするもう一枚の絵も私は好きでしたが、他のクリエイターさんたちと重なっていないからでしょうか、こちらが私のトレカとして選ばれました。
大好きな笹の葉のなかで小枝にのって遊んでいるパンダの子供を、想像して描きました。無邪気でのんびりした様子が、今も愛らしいなあ・・・と思います。

(「2019年小島けいカレンダー「私の散歩道ー犬、猫ときどき馬」6月に収載)



私の絵画館:「ナミブ砂漠」(小島けい)

                           「続モンド通信8」(2019年7月20日)

私の絵画館:「ナミブ砂漠」(小島けい)

<気配>

私は40年以上前に、モンゴルのゴビ砂漠に行きましたが。そこは<月の沙漠>の歌にあるような砂漠とは、全くちがいました。
砂丘というよりは草原でしたが、背たけの低い草の緑はあまり目立たず、むき出しの土地がどこまでも広がっていました。
観光客が泊まるパオだけは用意されていましたが、それ以外は見わたす限り何もありません。その<360度何もない>ということに圧倒された記憶だけは、遠い昔ですが、今も何故か覚えています。
一方、ナミビアのナミブ砂漠は、ゴビ砂漠とは全く対照的です。世界最古の砂丘といわれるこの場所は、オレンジ色と影の対比が美しく、一度描いてみたいと以前から思っていました。
この砂漠らしい<砂漠>には、ふつうラクダが描かれるのでしょうが。ずっと前に見た二頭の一瞬の姿が忘れられず、暑い砂漠に登場してもらいました。

<巣立ちの後に>

この頃の私は、<子供たち>が巣立ってしまった寂しさを感じています。今どこで暮らしているのだろう?と空っぽになった場所を見ては、思ってしまします。
2,3ヶ月前だったでしょうか。アトリエのベランダで、しきりに鳥のなき声がするようになりました。窓の外を見ても姿は全く見えませんが、声だけは確かにするのです。
ところがそのうち、家の猫たちが朝ご飯の後、そそくさと2階に上がっていくことに気が付きました。そしてある程度の時間をすごすと<やれやれ、今日のご用事が終わりましたよ>という満足気な顔で階段を下りてくるのです。
2階で何をしているのだろうと見てみると、アトリエの窓の外を、網戸越しに食いいるように見ています。猫たちの後で私も一緒に外を見ていると、しばらくしてベランダのすぐ横に付けてあるBSの丸いアンテナに、一羽の鳥がバサッバサッと音をたてて飛んできました。口には細長い枯れ草をくわえています。そして、その位置から再び羽を広げてま上に飛び上がりました。

鳥は雀の3~4倍の大きさで、ほっそりとした姿です。初めて見る鳥でした。
草は巣作りに使うのでしょう。鳥は毎日何回も草をくわえて運んできました。その度に必ずアンテナに止まるので、猫たちは間近に見る実物の鳥に色めきだち、今にも網戸を破りそうな勢いです。
アンテナから次に一体どこに飛ぶのかしらんと、鳥が遠くへ出かけた後ベランダに出てみました。するとベランダの屋根の端の方に直径10cmほどの丸い穴が空いています。2・3年前新しいクーラーに替えた時、その穴の横にあらたに管を通したようで。不要となった以前の穴は、簡単には防いだはずですが。それがはがれ落ちてしまったのでしょう。
鳥はその穴から天井部分に入り、巣作りをしているらしく、枯れ草のはしが板のすき間から何ヶ所もはみ出して垂れていました。
それから毎日、猫たちと私は折をみては窓の外を観察しました。鳥はあいかわらず、外から帰ると必ず一度アンテナに止まり、まわりを確かめてから数10cm上の巣穴へ入りました。
そのうち天井あたりから幼いなき声がひんぱんに聞こえるようになり、親鳥の動きも俄然活発になりました。バッタのような虫をくわえて帰ってきては、すぐまた再び飛びたちます。
ある時、巣の中の声が異常にけたたましくなり、大騒ぎしているので見てみると、穴から追い出された1羽のスズメが、あわてて逃げ出していきました。不法侵入者を家族総出で追いはらったのでした。
そうこうしているある日、親鳥とそっくりな形の小さな鳥が、巣からおりてきてアンテナに止まり、次に向かいの家の屋根に飛んでいきました。
卵からヒナにかえった子供たちが、とうとう外へ飛べるようになったのです。私は嬉しくて、下絵用のノートにメモ書きを残しました。6月25日でした。

 

その直後、九州南部では恐ろしいほどの大雨となり、やむなくアトリエの窓にもシャッターをおろしました。
数日後大雨が一段落して、そおっとシャッターを開けましたが、その時、鳥たちはもういませんでした。雨が止むのと同時に、巣立ったようでした。

子供が巣立つと寂しいとは、時々耳にしますが。
小鳥たちの巣立ちに少し寂しさを感じつつ、猫たちと私の特別な<今年の春>が終わりました。
もうすぐ、夏です。



私の絵画館:「りんちゃんとすずちゃんとメキシコ」(小島けい)

                             続モンド通信9(2019年8月20日)

私の絵画館:「りんちゃんとすずちゃんとメキシコ」(小島けい)

トイ・プードルのりんちゃん・すずちゃんの飼い主さんは、長い間メキシコで暮らしておられました。

そこで、絵の背景には<メキシコの太陽>と<ウチワサボテン><柱サボテン>を入れて、とのご希望でした。

知っているようで、実はあまりよく知らないメキシコでしたので、それから<メキシコの太陽>やサボテンがはえている大地の色などを、いろいろ調べました。

そして何回かラフ・スケッチのやりとりをした後、完成したのがこの絵です。

飼い主さんはこの絵をとても気に入って下さり、ご自分の行きつけのお店何軒かにも、この絵を使った個展の案内ハガキを、置いていただけるよう手配して下さいました。

今年ももうすぐ、大好きなりんちゃん・すずちゃんと飼い主さんにお会いできます。九月がとても楽しみです!



私の絵画館:「旅する子猫―2―サントリーニ島」(小島けい)

                          「続モンド通信10」(2019年9月20日)

私の絵画館:「旅する子猫―2―サントリーニ島」(小島けい)

ずっと以前は、小さなザック一つと竹かごのバスケットだけで、アラスカの氷河やゴビの砂漠、そしてパリにも行きましたが。

いつからか家を空けることが至難の技となりました。それはごく自然の流れで、子供たちだったり、犬だったり。そして今は猫たちという大切な存在を、第一に考えてのことでした。

そこで、私が旅に出るかわりに、行ってみたいなあ・・・・と思う街を、子猫たちに旅してもらうことにしました。

それは、モロッコの青い街<シャウエン>から始まり、今年で6作目となりましたが。 この絵は、旅する子猫シリーズの第2作目。青い海と白壁の家並が美しい、ギリシャの<サントリーニ島>です。



私の絵画館:「子猫の四季 <秋>」(小島けい)

                            続モンド通信11(2019年10月20日)

私の絵画館:「子猫の四季 <秋>」(小島けい)

 <小島けい個展―2019->は、今年も無事に終えることができました。ご来場下さいました皆様に、心より御礼申し上げます。

今回から期間をこれまでの2週間から1週間に致しましたが、とても充実した日々となりました。短かくなった分、お会いできなかった方たちもおられますが、次の機会を楽しみに、と思っております。

 

楽しかった個展のご報告は、また次回に詳しく・・・・。

一昨年の個展の後、私はオーナーの映子さんに、来年は<子猫の四季>という題で4枚の絵を描いてきますね、とお約束しました。この絵はその<秋>です。

春は白木蓮、夏は白い百合、冬には赤いやぶ椿でと考えた時、秋はやっぱりイチョウだ!と思いました。そして、この絵ができました。



私の絵画館:「アフリカの犬」

                            続モンド通信12(2019年11月20日)

私の絵画館:「アフリカの犬」(小島けい)

この絵には元になった絵があります。

そこに犬は登場していませんが、<土壁の家の窓から外を見ている女性>の絵です。

もうずいぶんと昔。私が神戸で伊川寛という先生の教室に通っていて、まだ油絵を描いていた頃。当時は、教室以外では、描きたいものを描きたい大きさで描いていました。そのために美しい瞳が印象的なアフリカの女性を、30号の大きなキャンバスに油絵で描きました。

最近では、飾る場所も考えて大きさを決めますが。確かに30号の絵はどこにでも置くわけにはいかず、明石の実家に住んでいた時は、玄関にドン!と置いていました。

そして宮崎に来てからは、借りていた家に置き場所はなく、大きな壁がある相方の研究室に置いてもらっていました。

最近<ジンバブエ日記>を書くようになり、ふとこの大きな絵を思い出しました。開けられた窓の下を、私たちがアフリカで借りた家にいた犬<デイン>のような犬が歩いている完璧な<番犬>だったデインではなく、もっと優しげな犬です。アフリカの日常に、なにげなくあったような風景となりました。

ちなみに<デイン>の犬種は、ずっとわからないままでしたが、ケニアの保護区で密猟を取り締まるために活躍している<ブラッドハウンド>ではないか。最近見た映像から、そんなふうに思っている最近の私です。



小島けいのジンバブエ日記11回目:「空港にて」(小島けい)

小島けいのジンバブエ日記11回目:「空港にて」(小島けい)

 

ハラレの借家

10月3日

ハラレ最後の日。家主の老婆の突然の帰国で、時間的にも精神的にもすっかり狂ってしまいましたが、とりあえず18時40分二台のタクシーで、慌ただしく借りていた家を出発。空港に向かいます。
ジャカランダで薄紫に染まる街並みを見ながら<やれやれ・・・>と思ったのもつかの間。私たち二人が乗ったタクシーの運転手は道をよく知らないようで、どうも変な方向から空港に向かい、普通の倍くらいの時間がかかってしまいました。当然、子供たちの乗ったタクシーとはすっかり離れてしまいました。

 

ジャカランダで薄紫に染まる街

 そうしてようやく空港にたどり着きましたが、タクシーを降りた瞬間、そこには目を疑うような光景がありました。ハラレに到着した日はお昼頃で、小さな空港は閑散としていましたが。目の前の夜の空港には、どこからこれだけの人が集まったのかと思うほどの人々が押しよせて、空港の外の方まで人であふれています。

 

ハラレ国際空港

 先に着いたはずの子供たちとアレックスとジョージはどこ?と捜しますが、あまりにも多くの人、人、人でなかなか見つけられません。そうこうしているうちに私たち二人は大きな流れのなかに飲みこまれ後からずんずん押されて、気がつけば手続きの場所まで来てしまいました。もしかしたら中にいるかもしれないと思い、とりあえず長い時間をかけて手続きをすませ、空港内に入りました。そして再びごった返す人々の中にび四人をさがしますが、見つけることができません。

 

ジョージ

 やはり子供たちは手続きもできず、ゲートの外で私たちを待ち続けているにちがいないと、もう一度人々の間・彼方に目をやり捜し続けていました。すると、はるか向こうの建物の端の方で、茫然と立ちすくみ、私たちを必死に目で捜している四人を発見!
大きなトランクを持ったままでは動くこともままならないので、私だけが迎えに行くためもどろうとしますが、係員から<一度入ったら出ることはできない!!>と強く止められます。<飛行機に乗る子供たちがまだあそこにとり残されているから>といくら説明しても、<No!!>というだけで、ラチがあきません。
飛行機の搭乗時間も迫っていました。このままあの四人が私たちを見つけられなければ、子供たち二人はアフリカにとり残されてしまう!!その恐怖が走った瞬間、私は混雑する人ごみの流れに逆らいジリジリと戻り始めました。ゲートが近付くと、係員に見つけられないよう身をかがめしゃがんだまま、どんどん中に入ってくる人々の足の間を逆行してゲートをすり抜け、ようやく四人のところにたどり着くことができました。
そうして、何とか無事に子供たちの手続きも終え、最後まで子供たちを守ってくれた信頼できる友人アレックスとジョージにお別れの挨拶。別れ際には、柵のこちらからむこうへもう使うことのない私たちが持っていたすべてのハラレのお金を二人に渡します。ほんとうにたくさんの<タテンダ!!(ありがとう)>押し寄せる人々の中で、大声でこの一言を叫ぶのが精一杯でした。

 

アレックス

 ジンバブエのハラレの空港で決して冗談ではなく、あやうくはぐれてしまうところだった私たち四人は、こうして何とかパリへの長い飛行機の旅路に着くことができました。