続モンド通信6(2019/5)

2010年~の執筆物アフリカ系アメリカ, リチャード・ライト, 私の絵画館, 続モンド通信

1「レオンくんと古城」(小島けい)
2「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「レオンくんと古城」(小島けい)

最近私の携帯には、毎晩いえ時には日に何度も決まった相手から電話がかかります。その相手とは、猫の“のらちゃん”です。

名前の通り元のら猫のその子は、4年前の5月頃突然娘のところにやってきました。そして家の外からどのように察知するのか、行く部屋行く場所の一番近い窓から、大きな声で必死になき続けました。しかもそのなき声は、今まで聞いたことのないような低くて太いダミ声でした。

東京で猫は飼えないから、と聞こえないフリ?をし続けていた娘でしたが。このままでは隣り近所から通報され殺されてしまうにちがいないと心配になり、目立たないところにエサを置くことにしました。“

すると少しずつですがなく回数が減り、いつのまにか玄関のドアの前で寝ているようになりました。ひどい雨の日、ずぶ濡れになっているのを見かねて箱を置くと、その中にもぐり込み安心して眠りました。

ある時試しにドアを開けてみると、最初は恐る恐る少しずつ入ってきましたが、そのうち家にあがりこみ長い時間くつろぐようになりました。

そうして<完全家猫>の座を獲得し“のらちゃん”となりました。

不思議なことに、あれほど低くて太い大きなダミ声だったのが、大切に可愛がられているうちに、ふと気付けば少し高めのかわいいか細いなき声にかわっていました。

保護された時が推定1歳でしたので、これまでの<のら生活>ではいろいろ大変なことも多かったと思うのですが、今やおしゃべり大好きな猫となり、<電話かけて!>とせがむようになりました。その電話を受けて私が話しかけると、じっと聞いていてそれなりにいろいろ返事をしてくれます。

今でも時折、自分で携帯にタッチして一人でニュースを聞いていたり。のぞき込んでタッチして自撮りの写真をとったりするそうですので、そのうち電話も一人でかけたい時にかけてくるようになるのではないか?!と、ひそかにその日がくるのを待っているこの頃です。

モデルは、チャイニーズ・クレステッドのレオンくんです。とても珍しい犬種だそうで、私自身も実際にはまだ会ったことがありません。

長い毛のもち主ですので、カットのしかたでずいぶん印象もちがってくるようです。いずれにしても<高貴な雰囲気>は動かしがたく、気品ある美しさには、やはりドイツの古いお城があうのではないか。そんなふうに思い、小さく描き入れてみました。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界

「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)を修士論文の軸にしようと考えたのは、もちろんファーブル(Michel Fabre)さんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright)を読んで行間から感じられる人柄に感動したからでもありますが、ファーブルさんが書いておられた「地下に潜む男」辺りから、普遍的なテーマへの広がりを見せ始めたというのが手がかりになりました。大学では英語はやりませんでしたが、少なくとも購読の時間のテキストだったのも一つのきっかけになったかも知れません。

修士課程一年目の1981年にニューヨークの本屋で、まさか「地下に潜む男」が収められている雑誌「クロスセクション」(Cross-Section, 1944)を見つけるとは思ってもませんでしたが、その雑誌で方向性を確認したような気持ちになり、ライトは人種主義に対する抗議から脱皮して、より普遍的なテーマへの広がりを見せた、という仮説で行こう、とはっきりと気持ちが定まりました。

「クロスセクション」

『リチャード・ライトの未完の探求』

「ジム・クロウ体制を生きるための倫理」(“The Ethics of Living Jim Crow,” 1938?), 『アメリカの飢え』(American Hunger, 1938?),『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945), 「ビガーは如何にして生まれたか?」(“How Bigger Was Born?,” 1938?), 「私は共産主義者になろうとした」(“I Tried to Be a Communist,” 1938?)などの自伝的なスケッチも入れたいと思いましたが、小説に限定して、「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)を軸に、抗議のテーマでは『アンクル・トムの子供たち』(Uncle Tom’s Children, 1940)、『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963年死後出版)、『アメリカの息子』(Native Son, 1940)を、普遍的なテーマとしては『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)、『残酷な休日』(Savage Holiday, 1954)、及び『長い夢』(The Long Dream, 1958)を選び、表題を“Richard Wright and his World”(「リチャード・ライトの世界」)に決めました。

3学期制の夏休みに入る前辺りから本格的に書き始めましたが、仕上げるのに2年次の一月末日の提出期限ぎりぎりまでかかってしまいました。電動タイプが出始めたころで、毎日電動タイプの前で原稿を書きました。ちょうど二人目の長男が生まれた頃で、長男には電動タイプの音が子守り歌代わりの一つだったかも知れません。産休明けに職場復帰した母親に代わって、僕が母親の役目を果たしました。タイプを打ちながら、2時間おきにミルクをやったのを覚えています。時間をかけたにもかかわらず、最後の日は徹夜になって、大学まで二時間ほどタクシーに乗って行きました。まさに期限ぎりぎりの提出劇でした。

博士課程に行く必要がありそうと思い、京都大学、大阪市立大学、神戸大学と通える範囲の大学を受験しましたが、受け入れ先は見つかりませんでした。それぞれの大学で様式は違うものの論文の概要を求められました。今はとても書けないだろうなと思える内容です。肩に力が入っていたのでしょう。京都大学に出した400字詰め原稿用紙10枚の概要です。

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リチャード・ライトの世界(RICHARD WRIGHT AND HIS WORLD)

文学研究科英文学専攻望              玉田吉行

リチャード・ライトは一般に、アメリカ白人の人種主義に対する抗議作家としてのレッテルが貼られているが、「地下に潜む男」(”The Man Who Lived Underground,” 1944)以降の作品には、単に抗議作家としての評価に甘んじることなく、むしろ人種主義に対する抗議を越えようとするライトの様々な試みが窺える。本論文では主要な小説の主人公の跡を辿ることにより、単に抗議小説家としての評価だけでは正当に評価し切れないライトの世界を探って行く。ここで取り扱う主人公は、『アンクル・トムの子供たち』(Uncle Tom’s Children, 1940)のビッグ・ボーイ(Big Boy)とその他の主人公達、『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963年死後出版)のジェイク・ジャクソン(Jake Jackson、『アメリカの息子』(Native Son, 1940)のビガー・トーマス(Bigger Thomas)、「地下に潜む男」のフレッド・ダニエルズ(Fred Daniels)、『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)のクロス・デイモン(Cross Damon)、『残酷な休日』(Savage Holiday, 1954)のアーススキン・ファウラー(Erskine Fowler)、及び『長い夢』(The Long Dream, 1958)のレックス・タッカー(Rex Tucker)である。尚、前3作については第2章に於いて人種主義抗議(Racial Protests)と題して、更に、後の4作については第3章に於いて、人種主義抗議を超えて(Beyond Racial Protests) と題して、それぞれ取り扱うものである。

『アンクル・トムの子供たち』では、ライトは、田園のアメリカ南部に於ける白人の抑圧の恐怖が、黒人にとって如何に大きなものであるかを強調しながら、もはや「アンクル・トム」の如く白人に忍従するばかりではない世代のビッグ・ボーイ達を描くことを通じて、特に白人に向けての強い抗議を表明している。同時に、その作品では、虐げられた黒人の解放への願いを込めて、白人の暴挙の真只中でさえ執拗に自分達の人間性にしがみつこうとする新しい世代の黒人群像を描き出すことによって、ライトは虐げられた同胞黒人に対する深い哀れみを示している。

『ひでえ日だ』では、北部の大都市シカゴに於ける黒人の生活の悲惨な実態に主として目を向けながら、目には見えないが、しかし巧妙な人種隔離(racial segregation)によって挫かれた、又、過度の物質文明によって阻まれたジェイクを描くことにより、主人公をその情況に追い遣った白人への抗議を示唆している。その作品では、同時に「一般大衆をして自らの窮状に気付かせる為の政治教育の必要性」を暗に示しながら、教養がなく、偏見に満ち、アメリカ物質主義(American materialism)に犯された極く平凡な労働者層を描くことによって、自分達の窮状の実態に気づき得ない同胞黒人へ厳しい警告を与えている。

前2作で示された抗議と警告の度合いは、『アメリカの息子』で、更に強まりを見せる。人種隔離の現状の中で、白人少女と黒人少女殺害という犯罪へ駆り立てられて行くビガーの物語を通じて、ライトは長年の暗黙の人種隔離政策によって抑圧し続ける白人に対する烈しい抗議を提示するとともに、その惨状にあまりにも黙従し続けた、又、現在も尚、従順に惨状を受け容れ続ける黒人に対して、その現状が如何に耐え難いものであろうとも、断じて目をそらすことなく、自らの本当の姿を正しく認識する必要があるという厳然たる警告を発している。その抗議と警告から、読者はビガーがアメリカの生み出した所産であるばかりか、大多数の人間が、日常の惰性に埋没する中で如何に自分たちの本当の姿に気づき得ない存在になってしまっているかを思い知らされる。白人側も、黒人側も、ライトによって描き出された現状を渋々でも認めざるを得ない程、その物語の抗議としての、又、警告としての力は圧倒的なのだが、それにもかかわらず、何か大切なものが欠けている感を抱かせる。それは、隔離によってもたらされた窮状の原因と結果をライトは見事に描き出して見せはしたが、現状を描くことにあまりにも重点を置き過ぎた為に、現状への解決策を見い出そうとする点にまで、目が行き届かなかったことに起因する。前3作では、黒人世界と白人世界の接触する所、つまり黒人と白人との間の裂け目に飛び散る火花にばかり心惹かれて、黒人たること自体への問いかけが案外なおざりにされてきた。換言すれば、ライトは人種主義によってもたらされたもの、つまり黒人の現状を見事に描き出すことには成功したが、黒人であることが意味するもの、即ち如何に黒人が、この矛盾した世の中で生きてゆくべきかという問題にまでは注意を払えなかったということである。それだけ人種主義によってもたらされたものが想像を絶するものであったとも言えようが、重点が、黒人たること自体への問いかけに置かれていたというより、むしろ黒人の実態を暴くことに置かれていたという実情は否定し難い。

『黒人の息子』(非凡閣、1940年)

それに反して、「地下にひそむ男」では、官憲に無実の罪を押し着せられた末の逃亡中、隠れ込んだ地下世界に於いて、自らの本当の姿に目覚め、今まで気付き得なかった新しい視点を獲得するに至るフレッドを描くことを通して、人種主義によってアメリカの一部でありながらそこから除外されているが故に「黒人は誰よりも早く世の中の矛盾に気付き得るのである」という利点を暗示することに努めている。ライトはこの作品に於いて、人種主義の生み出したものから、世の中で黒人であることに意味するものへ、言い換えれば、過去によってもたらされた現在から、未来を生み出すべき現在へとその目を転じることによって、単なる人種主義に対する抗議を一歩踏み越えようとしている。その見方は、この小説の初稿脱稿の後直ちに送ったとされる友人レノルヅ宛ての書簡中の「自分がまともに人種問題を踏み越えようとしたのはこれが初めてである・・・・・」というライト自身の言葉によっても窺い知ることが出来る。

青山書店大学用教科書

フレッドが獲得した<地下>の視点は『アウトサイダー』に於いて、更に広がりと深まりを見せる。不具故に、逆に他の人間よりもよく世の中の不条理に気づくという局外者(outsider)の視点に立ち得た州検事ハウストン(Houston)の言葉を借りて、実は人種隔離によって虐げられた黒人こそがアメリカ文化の内側と外側の両側に立ち得る二重の視点(a double vision)を賦与されるべき有利な地点に居るということを明示している。そして、主人公クロスを通じて人種主義によって、もはや世の中の価値や意義を見い出せなくなった矛盾した世の中で如何に生きて行くかを描こうとしている。結局は、局外者としての自らの方に従って殺人という行為を繰り返す主人公しか描けなかったところから判断して、必ずしも解決への道を示したとは言い難いが、アメリカの一部でありながらそこから排除されることにより、何世紀にも渡って虐げられ続けてきたアメリカ黒人の窮状を、むしろアメリカ文化の内・外両側に立ち得る有利な地点として捉えようとした姿勢は、ライトの黒人たること自体へのひたむきな問いかけの広がりの、或いは深まりの表われに他ならない。その意味では『アウトサイダー』は「自らの体験を取り扱うという特殊なものに焦点を当てることによって普遍性を達成」しようとしたライトの新たな一つの試みであったと言える。

橋本福夫訳(新潮社、1972年)

『残酷な休日』では、自らの心の中からぬぐい去りことの出来ない母親像に、ある夫人のイメージを重ねることで現実の殺人という犯罪を引き起こすに至る白人アースキンを描くことにより、罪と罰の問題を扱っている。その作品で、ライトは初めて登場人物の総てを白人にするという新しい設定の中で人種問題という枠を超えようと努めている。特に、日常の惰性の中に埋没しているが故に気づかない不安や焦燥の問題、それはおそらくパリ亡命中のライトの体験する西洋文明を含む現代文明が個人に生み出す得体の知れぬ不安や焦燥の問題でもあるのだが、その問題にライトは焦点を当てようとしている。退職によってそれまでの拘束から解き放たれて、一見自由になったと思えた時、突然得体の知れぬ不安に襲われるという主人公を通して、一体、個人にとって本当の自由とは何か、或いは、本当の意味での個人の解放とは一体何かという問いをライトは投げかけようとしている。それは、人種問題を離れて、現代文明の抱えた問題に正面から取り組もうとしたライトの新しい試みの一つであったと言える。

『長い夢』では、人種主義に支配されないパリに於ける主人公アレックスの亡命生活を描くことを目論んだ3部作の第1作として、故郷アメリカ南部を離れてパリに亡命するに至る主人公の過程に焦点が合わされている。ライトの突然の死により、3部作の完成はみなかったが、この作品が人種主義のない情況の中での主人公の生活を描く中で、黒人であることの意味を問いかけようとするライトの新たな試みの第1の布石であったことは、死後出版された第2部の一部分からも知ることができる。

木内徹さん寄贈の訳『長い夢』(水声社、2017年)

以上の考察から、リチャード・ライトは単に人種主義に対する抗議小説家ではなく、むしろ人種主義によってもたらされたものから、黒人であること自体への問いかけをなすことにより、換言すれば、過去によってもたらされた現在から、未来を生み出すべき現在に目を転じることによって、人種主義に対する抗議をという枠を越えようとした作家であったと考えるのである。

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大学を探すために最低限必要だった修士号は何とか手に入ったものの、博士課程はどこも門前払い、途方に暮れるという言葉が一番相応しい状況を生み出すことになりました。

高校の教員の五年間は、教科に、ホームルームに、クラブ活動にと、楽しかったものの時間に追われる日々、久しぶりに開いた『ブラック・パワー』(Black Power, 1953)の活字が踊って見えました。その割には、三学期制の一学期は、ゼミで渋々イギリスの詩人キーツの詩を読んだり、必修の教養科目や英語評価論などの出来れば避けたい科目と落とさない程度につき合う羽目にはなったものの、夏休みにアメリカで資料を集め、帰ってからは修士論文にかかりっきりになれました。

普遍的なテーマへの移行を論証するにはテーマ自体も大きすぎましたし、二年足らずの期間は短すぎたとは思いますが、何とか仕上がったのは、若さゆえの賜物だったのでしょう。書く空間を確保するための第一歩を辛うじて踏み出せた、と思いました。(宮崎大学教員)

元は→“Richard Wright and His World” (兵庫教育大学第245号、兵庫教育大学図書館)

修士論文扉