つれづれに

つれづれに:コンゴの独立

「アフリカシリーズ」のコンゴの独立

 コンゴの独立の話である。一般教養と医学を繋(つな)ぎたいと英語の授業でエボラ出血熱から始めたら、映像を手掛かりに思わぬ視界が開けた。歴史を遡ると、2回目と1回目のエボラ騒動も、独立時とコンゴ動乱の延長上にあった。アメリカに担がれたモブツの独裁で、賄賂はザイール社会に浸透し、公務員の給料が支払われず、賄賂が生活手段の一部になっていた。経済も破綻し、あらゆるものに皺寄せが行っていた。中でも、医療施設は最悪だった。1985年にアフリカでもエイズが流行り始め、2回目の騒動の時は深刻な事態に陥っていた。そこへエボラウィルスの追い打ちである。ラッサ(Lassa)、ハンタウィルス(Hanta virus)などと同じく、バイオセーフティ指針(Biosafety Level、BSL)の一番危険なレベル4エボラウィルスの感染者にマスクや手袋もなしに治療に当たれば院内感染者も増える。基本的な器具や必需品が決定的に不足していたのである。

エボラウィルスの顕微鏡写真

 1960年の変革の嵐(The Wind of Change)に乗ってコンゴも宗主国ベルギーから独立したが、1995年2回目の流行→1976年の1回目の流行→1963年のコンゴ危機→独立という縦軸だけを追っても全体像は見えない。横軸というか、欧米やアフリカ大陸全体との関係を視野に入れる必要がある。「アフリカシリーズ」(↓)ではコンゴの独立の前に1957年にアフリカで最初に独立したガーナを取り上げている。

 第二次大戦では欧州が戦場になり、欧州諸国はアメリカに負債が出来た。戦争で総体的な力が落ちたとき、それまで植民地で苦しめられてきたアフリカやアジア諸国は声をあげて立ち上がった。それが変革の嵐である。率いたのは、若き日に欧米に留学していた人たちである。イギリスはアフリカの一番よく栄えていたところを植民地にした。現地の人を懐柔して出来る限り制度も利用した。間接支配と呼ばれる。フランスが植民地にしたところは条件が良くなかったので同化政策を取った。直接支配とよばれる。ガーナはゴールドコースト(黄金海岸)と呼ばれていたイギリスの模範的な植民地だった。独立の動きを最初は警戒して抑えにかかったが、勢いがついてきた時、戦略を変えた。出来るだけ邪魔をして独立させ、混乱に乗じて傀儡の軍事政権を立てたのである。従って、獄中にいたエンクルマが出所して選挙戦を戦い首相になった。ケニヤッタやマンデラなどと同じく、獄中から即首相になったわけである。

 如何にイギリス政府が悪意に満ちていたかはエンクルマが書いた自伝『アフリカは統一する』(↓)の中に連綿として綴られている。イギリスの思惑通り、ベトナム戦争終結に向けてハノイに行っている間にクーデターが勃発、一時盟友のギニア・ビサウのセクゥトーレのところに身を寄せていたが、1972年にルーマニアで客死した。たくさんの分厚い著書をも残している。それだけ言いたいことが多かったんだろう。野間寛二郎さんが理論社からたくさん翻訳出版をしている。出版事情を知っているだけに、奇跡に近い歴史的な業績である。なぜか宮崎大学の図書館本館に全集が揃っているのを見た。誰が購入したんやろといつも思うが。1960年に独立をして、独立の式典(↑)でエンクルマは涙を流したが、植民地支配から戦後の新しい支配体制再構築の幕開けになったのは悲劇としか言いようがない。

 コンゴの独立はさらにひどかった。ルムンバが国民に選ばれて首相になったとき、ベルギー人官吏8000人は総引き揚げ、行政が育つ間もなく国内は大混乱、そのど軍事クーデターが起きた。宗主国はベルギーだが、クーデターを画策したのはアメリカで、ルムンバ内閣の1員だったモブツを担ぎ、ルムンバを惨殺させた。閣僚の一人カビラは殺されることを予測して南東部のキヴ州に逃れた。まさか、30年後に周りに担がれてキンシャサに来てモブツ政権を倒すことになろうとは誰も予想出来なかっただろう。なぜアメリカがしゃしゃり出て来たのか?次回はアメリカの国防総省ペンタゴンである。

ルムンバ(小島けい画)

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つれづれに:映像1976年

 2回目にエボラ出血熱が流行した際の映像が残っていたのは嬉しかった。1976年にコンゴで未知のウィルスが発生したときに、アメリカから2人の医師が現場にかけつけた時の映像である。2005年のドキュメンタリー(↑)の中で、その映像を見つけた。1回目の発生についてはウェブでも調べてある程度は概要を把握していたので、映像は有難かった。

 「アフリカシリーズ」で見たコンゴの独立(↑)とコンゴ危機の映像は目に焼き付いていた。ベルギーから独立を果たし、民衆に選ばれた首相ルムンバが、アメリカに担がれたモブツに率いられた軍隊に飛行機から引き下ろされ連行されて、後に惨殺されたときの映像である。ルムンバ内閣の1員だったモブツに目をつけたアメリカが担ぎ出したわけだが、その映像には精悍(せいかん)な若き日のモブツ将校(↓)が闊歩(かっぽ)している。30年後の肥ったモブツ(↓)の映像をCNNのニュースで突き付けられたとき、後世畏(おそ)るべしを実感した。後の世代は、30年前の映像と30年後の映像を同時に見比べられるのだから。これを文字通り一目瞭然(りょうぜん)というのだろう。

 1976年の映像は、米国GBH局で2005年に製作された「人類の健康を守れるか(RX for Survival?)」という4回シリーズのドキュメンタリーの3回目「エイズ・鳥インフルエンザ対策」の中で紹介されていた。当時私は、エイズで外部資金を交付されていたので、資料探しの意味もあってかなりの衛星放送を予約録画していた。謝金も使えたので、映像や音声の編集も学生に手伝ってもらえた時期である。

 米国疾病予防センター(CDC、↑)から派遣された2人の医師ジョー・ブレミング博士と同僚が見たものは、大半の医療関係者やパイロットが完全なパニック状態に陥っている異様な様子だった。教会に行く途中で火が見えた。村人が自分たちの小屋を燃やしていた(↓)のだ。精霊を殺す伝統的な手法を信じる村人には他に術がなかったのだろう。教会から修道女が飛び出して来た。医者は中に入ったときの感想を「私が今まで見てきた中でも最も哀しい光景です」と語っている。

 番組は「日々刻々とより国際化しつつある世界では、すべての感染症の脅威は実際に増しつつあります。ヒト免疫不全ウィルス(↓)のような慢性的な殺し屋を制御することは可能でしょうか。鳥インフルエンザのような致死的な脅威を死者が増える前に止めることが出来るでしょうか。一体どれくらい私たちは安全なのでしょうか?これからお送りするのは生き延びるための処方箋についてです」で始まってる。

 一般教養と医学を繋(つな)ぐためにエボラ出血熱に目を向けて始めたのだが、映像から思わぬ視界が開けた。1976年の様子を再現した映像もみつかったし、1995年の肥ったモブツと1963年の軍服姿の精悍なモブツを見比べることができた。アフリカの世界を広げてくれたのは「アフリカシリーズ」だが、その映像がますます意味を持っていく。次回は精悍なモブツがアメリカに踊らされたコンゴ危機と、独立である。

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つれづれに:1976年

 1回目にエボラ出血熱の流行があったのは1976年である。大学に入ったのが1970年の再安保改定の年だから、2年留年をしてすでに卒業していた年で、生きても30までかと諦めて余生を過ごしていた最中である。2年留年をして最後の年に英会話だけを残して、さてどうするべえと考えていた時に、突然母親の借金、それで人に借金してまで生きんでもええように、急遽(きょ)定収入を確保することに決めた。卒業前に一度高校教員の採用試験と大学院を受けて指針が決まり、準備を始めた。大学院でも学割がもらえるやんと思って受けただけだったが、次の年もついでに受験した。まったく英語をしていなかった反動もあって、1年間は寝ても覚めても英語ばかりだった。夢で英語を言うてたやんと言われたから、本当に英語ばかりだったんだろう。捨てた世の中に関心の持ちようがなかったので、普段でも新聞やテレビは別世界だったが、その年は更に徹底していた。まさかアフリカでエボラ騒動があったとは。後に日本語訳を言われて色々調べている時に、1976年のソウェト蜂起も知らないで南アフリカの作家の作品を日本語訳するなんてと思ったが、人のことは言えない。今と違って衛星放送もスマホもパソコンもなかったので、それほど報道はなかっただろうし、今よりもっとアフリカに無関心な人が多かっただろう。その点、今は当時の状況が細かくウェブでも検索できる。ある程度研究に予算を割いて、薬やワクチンの研究や開発も続けているということだろう。

 最初のエボラ出血熱は先にスーダン南部で、次いでコンゴ北部で発生した。1976年6月末に、スーダン南部のヌザラとマリディを中心に284名が感染し、患者の53%の151名が死亡している。2カ月後に、コンゴ北部のヤンブク教会病院を舞台として大発生が起こった。約2カ月間の318名の患者のうち、280名が死亡した。致死率は88%である。しかし、同じ注射器を使ったり、マスクや手袋やガウンもなしに治療に当たっていたと言うから、基本的には機器不足が原因である。ウィルスの特性が強いので症状や感染拡大の展開が極めて速いが、感染患者の隔離をしっかりとして、医者や看護師が防護して治療に当たれば、患者が自力で恢復するか死亡するかすれば、流行は停められる。基本的な医療機器不足は深刻である。それに賄賂社会は、隔離政策でさえも賄賂がきくと言われる。そっちの方が問題だろう。

 致死率が高いのも恐怖を煽(あお)った一因だが、メディアの報道の仕方にも問題がある。1995年の2回目の報道も例外ではなかった。5月13日のデイリー・ヨミウリの記事の小見出しには「しばしば激しい内出血が起こり、内臓が溶けてどろどろになる」とある。しかし、事実は違う。1週間後の特集記事では「死体解剖は極めて気持ち悪かったが、いったん血液をきれいにすると、内臓はちゃんとそのままだった」とある。見出しに大げさで不正確な文字を躍らせたということだろう。デイリー・ヨミウリが「ロサンジェルス・タイムズ」から買った記事だから、西海岸のたくさんの人が記事を目にしたわけである。特集記事は、南アフリカの週刊紙「メール&ガーディアン」(↓)のもので、イギリスで日曜毎に発行される週刊紙「オブザーバー」から買った記事である。

 開発・援助でたかり慣れしたモブツが1976年の1回目の流行を利用して、国際社会にうちの国は大変なんだとアピールして、あわよくば寄付や援助を引っ張ってこようと画策したわけである。首都に危機が迫っているときに、たくさんの報道陣や護衛や関係者を引き連れて、である。

 このとき、アメリカから医師2人が首都のキンシャサに飛び、そこからプロペラ機でヤンブクの教会病院に駆けつけている。そのプロペラ機やがたがた道も走れる四輪駆動車を借りるのが大変だった、と『ホット・ゾーン』に詳しく書いてあった。モブツに賄賂(わいろ)を求められたからである。1995年の記事にあった「賄賂はザイールの社会と政府に深く染み込んでおり、‥‥」という記事は、本当だったわけである。後にこの時のドキュメンタリーが放映されて、二人の医師が利用したプロペラ機と四輪駆動車を実際に目にすることができるようになった。同じ場面でエボラ川が映し出されていたが、ウィルスはその川に因(ちな)んで命名されたそうである。ベルギーの植民地だったので、車が川を渡る時に、フランス語表記Rivière d  Ebolaの立て看板が映っていた。

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つれづれに:音声「アウトブレイク」

 「アウトブレイク」は一般教養と医学を繋(つな)ぐ手懸かりを探していた私には、なかなかいい素材だった。まだ本格的に医学英語をやり始めていなかったが、その第一歩くらいにはなったと思う。感染症に関する医学用語を、どちらかというと実際よりは早めのスピードという設定で聴くことができたのだから。

陸軍がエボラウィルスで製造した生物兵器を、映画で脚色して内部告発したとしても、その映画に投資して莫大な利益を得た人たちがいたとしても、映画自体はテンポもよくておもしろく、医学的な知識と用語も満載だった。

宮崎医大講義棟、最初は4階で、後には3階で授業をした

 医学科の一般教育学科目の英語を担当し始めたが、医者や研究者には出来ない授業をしようと考えていたから、医学の知識は一向に増えなかった。しかし、気持ちは医学の方に向いていたので、エボラ出血熱を利用してウィルスや感染症についての知識は確認しておきたかった。その点では、映画を見ながら調べることも多かった。バイオセーフティ指針(Biosafety Level、BSL)という言葉もこの映画で初めて意識した。アメリカに戻って研究所にエボラウィルスの確認作業に研究所に出かけたとき、4つのレベルを英語字幕付きで紹介してくれている。SAMRIID(United States Army Medical Research Institute of Infectious Diseases)という研究所のレベル1:肺炎球菌(Pneumococcus)、サルモネラ菌(Salmonela)、レベル2:肝炎(Hepatitis)、ライム病(Lyme disease)、インフルエンザ(Influenza)、レベル3:炭疽(Anthrax)、チフス(Typhus)、ヒト免疫不全ウイルス(H.I.V.)の区域を通ってレベル4:エボラ(Eboa)、ラッサ(Lassa)、ハンタウィルス(Hanta virus)の区域に到着する設定である。それぞれの用語の発音は聞けないが、綴(つづ)りは確認できる。

レベル4のエボラの猛威については、アフリカへ行く途中の飛行機の中での遣り取り、実際の感染現場の村の様子と、この研究所の顕微鏡で覗いた世界で映像や音声として伝えてくれる。飛行機の中で中年の大尉ケイシーが年下の大尉ソールトに諭すように言い聞かせる。現地についても戸惑わないようにというお節介だろう。

エボラウィルスの顕微鏡写真

 ケイシー:最初患者がウイルス(virus)に感染したとき、インフルエンザに似た(flu-like)兆候(symptons)を訴え、その後2~3日で小さな膿疱(pustules)とともにピンクの病変(lesion)が出始める。まもなく膿疱は破裂して一種の乳液状の血と膿(うみ、pus)に‥‥

最後の言葉を遮り、年下の大尉が続けてかなりの早口で基礎知識を諳(そら)んじ始める。姿勢は直立不動である。

ソールト:病変が本格化する(full blown)と、触るだけでどろどろになりそうになる。嘔吐(おうと、vomitting)下痢(diarrhe)、それに鼻、耳、歯茎(gums)、目の出血(hemorrhage)が見られ、内臓(internal organs)が機能しなくなる。それらはまさに‥‥

防護服に身を固めた3人は村に到着して、そろりと建物の中に入ると、患者が目や鼻から出血して折り重なって死亡していた。初めての現場でソール大尉は吐きそうになり、防護服を外してしまう。隔離しろ、と叫ぶ主人公サムに、村人が「空気感染(airborn)はないよ」と語りかける。村人が3人を感染源の井戸に案内し、患者1号(the patient zero)の様子や致死率(the mortality rate)が100パーセントで、村全体がやられてしまった状況を語る。

研究所では、朝早くから待機していたソールト大佐が顕微鏡の映像を2人とサムの元妻に解説する。

 ソールト:ではみなさん、始めましょう。画像は8時間に渡って録ったものです。ウィルスに出遭う前の通常の健康な肝細胞です。1時間で一つの細胞が侵入して増殖し、細胞を死なせました。そして、たった2時間で、その増殖細胞が近くの細胞、ここにも、ここにも侵入して、果てしなく増殖し続けています。

ケイシーが思わず声をあげる。

ケイシー:こりゃすごい。5時間なんて。細胞に感染して複製し、すぐに細胞を死なせてしまう。やられた細胞の数はたぶん合ってる。エボラは数日間で細胞をこうしてだめにしてしまう。

 実際の授業では、4つの場面で聞き取りシートを作って演習をした。言葉を聞き取ってもらいながら、医学用語の使い方にも慣れればという気持ちもあった。あくまで、興味を持つ程度でしかなかったかも知れないが、「アウトブレイク」は一般教養と医学を繋(つな)ぐ手懸かりにはなった。その流れで、次に同じくウィルスによる感染症のエイズを取り上げたのだから。