つれづれに

つれづれに:映像1976年

 2回目にエボラ出血熱が流行した際の映像が残っていたのは嬉しかった。1976年にコンゴで未知のウィルスが発生したときに、アメリカから2人の医師が現場にかけつけた時の映像である。2005年のドキュメンタリー(↑)の中で、その映像を見つけた。1回目の発生についてはウェブでも調べてある程度は概要を把握していたので、映像は有難かった。

 「アフリカシリーズ」で見たコンゴの独立(↑)とコンゴ危機の映像は目に焼き付いていた。ベルギーから独立を果たし、民衆に選ばれた首相ルムンバが、アメリカに担がれたモブツに率いられた軍隊に飛行機から引き下ろされ連行されて、後に惨殺されたときの映像である。ルムンバ内閣の1員だったモブツに目をつけたアメリカが担ぎ出したわけだが、その映像には精悍(せいかん)な若き日のモブツ将校(↓)が闊歩(かっぽ)している。30年後の肥ったモブツ(↓)の映像をCNNのニュースで突き付けられたとき、後世畏(おそ)るべしを実感した。後の世代は、30年前の映像と30年後の映像を同時に見比べられるのだから。これを文字通り一目瞭然(りょうぜん)というのだろう。

 1976年の映像は、米国GBH局で2005年に製作された「人類の健康を守れるか(RX for Survival?)」という4回シリーズのドキュメンタリーの3回目「エイズ・鳥インフルエンザ対策」の中で紹介されていた。当時私は、エイズで外部資金を交付されていたので、資料探しの意味もあってかなりの衛星放送を予約録画していた。謝金も使えたので、映像や音声の編集も学生に手伝ってもらえた時期である。

 米国疾病予防センター(CDC、↑)から派遣された2人の医師ジョー・ブレミング博士と同僚が見たものは、大半の医療関係者やパイロットが完全なパニック状態に陥っている異様な様子だった。教会に行く途中で火が見えた。村人が自分たちの小屋を燃やしていた(↓)のだ。精霊を殺す伝統的な手法を信じる村人には他に術がなかったのだろう。教会から修道女が飛び出して来た。医者は中に入ったときの感想を「私が今まで見てきた中でも最も哀しい光景です」と語っている。

 番組は「日々刻々とより国際化しつつある世界では、すべての感染症の脅威は実際に増しつつあります。ヒト免疫不全ウィルス(↓)のような慢性的な殺し屋を制御することは可能でしょうか。鳥インフルエンザのような致死的な脅威を死者が増える前に止めることが出来るでしょうか。一体どれくらい私たちは安全なのでしょうか?これからお送りするのは生き延びるための処方箋についてです」で始まってる。

 一般教養と医学を繋(つな)ぐためにエボラ出血熱に目を向けて始めたのだが、映像から思わぬ視界が開けた。1976年の様子を再現した映像もみつかったし、1995年の肥ったモブツと1963年の軍服姿の精悍なモブツを見比べることができた。アフリカの世界を広げてくれたのは「アフリカシリーズ」だが、その映像がますます意味を持っていく。次回は精悍なモブツがアメリカに踊らされたコンゴ危機と、独立である。

つれづれに

つれづれに:1976年

 1回目にエボラ出血熱の流行があったのは1976年である。大学に入ったのが1970年の再安保改定の年だから、2年留年をしてすでに卒業していた年で、生きても30までかと諦めて余生を過ごしていた最中である。2年留年をして最後の年に英会話だけを残して、さてどうするべえと考えていた時に、突然母親の借金、それで人に借金してまで生きんでもええように、急遽(きょ)定収入を確保することに決めた。卒業前に一度高校教員の採用試験と大学院を受けて指針が決まり、準備を始めた。大学院でも学割がもらえるやんと思って受けただけだったが、次の年もついでに受験した。まったく英語をしていなかった反動もあって、1年間は寝ても覚めても英語ばかりだった。夢で英語を言うてたやんと言われたから、本当に英語ばかりだったんだろう。捨てた世の中に関心の持ちようがなかったので、普段でも新聞やテレビは別世界だったが、その年は更に徹底していた。まさかアフリカでエボラ騒動があったとは。後に日本語訳を言われて色々調べている時に、1976年のソウェト蜂起も知らないで南アフリカの作家の作品を日本語訳するなんてと思ったが、人のことは言えない。今と違って衛星放送もスマホもパソコンもなかったので、それほど報道はなかっただろうし、今よりもっとアフリカに無関心な人が多かっただろう。その点、今は当時の状況が細かくウェブでも検索できる。ある程度研究に予算を割いて、薬やワクチンの研究や開発も続けているということだろう。

 最初のエボラ出血熱は先にスーダン南部で、次いでコンゴ北部で発生した。1976年6月末に、スーダン南部のヌザラとマリディを中心に284名が感染し、患者の53%の151名が死亡している。2カ月後に、コンゴ北部のヤンブク教会病院を舞台として大発生が起こった。約2カ月間の318名の患者のうち、280名が死亡した。致死率は88%である。しかし、同じ注射器を使ったり、マスクや手袋やガウンもなしに治療に当たっていたと言うから、基本的には機器不足が原因である。ウィルスの特性が強いので症状や感染拡大の展開が極めて速いが、感染患者の隔離をしっかりとして、医者や看護師が防護して治療に当たれば、患者が自力で恢復するか死亡するかすれば、流行は停められる。基本的な医療機器不足は深刻である。それに賄賂社会は、隔離政策でさえも賄賂がきくと言われる。そっちの方が問題だろう。

 致死率が高いのも恐怖を煽(あお)った一因だが、メディアの報道の仕方にも問題がある。1995年の2回目の報道も例外ではなかった。5月13日のデイリー・ヨミウリの記事の小見出しには「しばしば激しい内出血が起こり、内臓が溶けてどろどろになる」とある。しかし、事実は違う。1週間後の特集記事では「死体解剖は極めて気持ち悪かったが、いったん血液をきれいにすると、内臓はちゃんとそのままだった」とある。見出しに大げさで不正確な文字を躍らせたということだろう。デイリー・ヨミウリが「ロサンジェルス・タイムズ」から買った記事だから、西海岸のたくさんの人が記事を目にしたわけである。特集記事は、南アフリカの週刊紙「メール&ガーディアン」(↓)のもので、イギリスで日曜毎に発行される週刊紙「オブザーバー」から買った記事である。

 開発・援助でたかり慣れしたモブツが1976年の1回目の流行を利用して、国際社会にうちの国は大変なんだとアピールして、あわよくば寄付や援助を引っ張ってこようと画策したわけである。首都に危機が迫っているときに、たくさんの報道陣や護衛や関係者を引き連れて、である。

 このとき、アメリカから医師2人が首都のキンシャサに飛び、そこからプロペラ機でヤンブクの教会病院に駆けつけている。そのプロペラ機やがたがた道も走れる四輪駆動車を借りるのが大変だった、と『ホット・ゾーン』に詳しく書いてあった。モブツに賄賂(わいろ)を求められたからである。1995年の記事にあった「賄賂はザイールの社会と政府に深く染み込んでおり、‥‥」という記事は、本当だったわけである。後にこの時のドキュメンタリーが放映されて、二人の医師が利用したプロペラ機と四輪駆動車を実際に目にすることができるようになった。同じ場面でエボラ川が映し出されていたが、ウィルスはその川に因(ちな)んで命名されたそうである。ベルギーの植民地だったので、車が川を渡る時に、フランス語表記Rivière d  Ebolaの立て看板が映っていた。

つれづれに

つれづれに:音声「アウトブレイク」

 「アウトブレイク」は一般教養と医学を繋(つな)ぐ手懸かりを探していた私には、なかなかいい素材だった。まだ本格的に医学英語をやり始めていなかったが、その第一歩くらいにはなったと思う。感染症に関する医学用語を、どちらかというと実際よりは早めのスピードという設定で聴くことができたのだから。

陸軍がエボラウィルスで製造した生物兵器を、映画で脚色して内部告発したとしても、その映画に投資して莫大な利益を得た人たちがいたとしても、映画自体はテンポもよくておもしろく、医学的な知識と用語も満載だった。

宮崎医大講義棟、最初は4階で、後には3階で授業をした

 医学科の一般教育学科目の英語を担当し始めたが、医者や研究者には出来ない授業をしようと考えていたから、医学の知識は一向に増えなかった。しかし、気持ちは医学の方に向いていたので、エボラ出血熱を利用してウィルスや感染症についての知識は確認しておきたかった。その点では、映画を見ながら調べることも多かった。バイオセーフティ指針(Biosafety Level、BSL)という言葉もこの映画で初めて意識した。アメリカに戻って研究所にエボラウィルスの確認作業に研究所に出かけたとき、4つのレベルを英語字幕付きで紹介してくれている。SAMRIID(United States Army Medical Research Institute of Infectious Diseases)という研究所のレベル1:肺炎球菌(Pneumococcus)、サルモネラ菌(Salmonela)、レベル2:肝炎(Hepatitis)、ライム病(Lyme disease)、インフルエンザ(Influenza)、レベル3:炭疽(Anthrax)、チフス(Typhus)、ヒト免疫不全ウイルス(H.I.V.)の区域を通ってレベル4:エボラ(Eboa)、ラッサ(Lassa)、ハンタウィルス(Hanta virus)の区域に到着する設定である。それぞれの用語の発音は聞けないが、綴(つづ)りは確認できる。

レベル4のエボラの猛威については、アフリカへ行く途中の飛行機の中での遣り取り、実際の感染現場の村の様子と、この研究所の顕微鏡で覗いた世界で映像や音声として伝えてくれる。飛行機の中で中年の大尉ケイシーが年下の大尉ソールトに諭すように言い聞かせる。現地についても戸惑わないようにというお節介だろう。

エボラウィルスの顕微鏡写真

 ケイシー:最初患者がウイルス(virus)に感染したとき、インフルエンザに似た(flu-like)兆候(symptons)を訴え、その後2~3日で小さな膿疱(pustules)とともにピンクの病変(lesion)が出始める。まもなく膿疱は破裂して一種の乳液状の血と膿(うみ、pus)に‥‥

最後の言葉を遮り、年下の大尉が続けてかなりの早口で基礎知識を諳(そら)んじ始める。姿勢は直立不動である。

ソールト:病変が本格化する(full blown)と、触るだけでどろどろになりそうになる。嘔吐(おうと、vomitting)下痢(diarrhe)、それに鼻、耳、歯茎(gums)、目の出血(hemorrhage)が見られ、内臓(internal organs)が機能しなくなる。それらはまさに‥‥

防護服に身を固めた3人は村に到着して、そろりと建物の中に入ると、患者が目や鼻から出血して折り重なって死亡していた。初めての現場でソール大尉は吐きそうになり、防護服を外してしまう。隔離しろ、と叫ぶ主人公サムに、村人が「空気感染(airborn)はないよ」と語りかける。村人が3人を感染源の井戸に案内し、患者1号(the patient zero)の様子や致死率(the mortality rate)が100パーセントで、村全体がやられてしまった状況を語る。

研究所では、朝早くから待機していたソールト大佐が顕微鏡の映像を2人とサムの元妻に解説する。

 ソールト:ではみなさん、始めましょう。画像は8時間に渡って録ったものです。ウィルスに出遭う前の通常の健康な肝細胞です。1時間で一つの細胞が侵入して増殖し、細胞を死なせました。そして、たった2時間で、その増殖細胞が近くの細胞、ここにも、ここにも侵入して、果てしなく増殖し続けています。

ケイシーが思わず声をあげる。

ケイシー:こりゃすごい。5時間なんて。細胞に感染して複製し、すぐに細胞を死なせてしまう。やられた細胞の数はたぶん合ってる。エボラは数日間で細胞をこうしてだめにしてしまう。

 実際の授業では、4つの場面で聞き取りシートを作って演習をした。言葉を聞き取ってもらいながら、医学用語の使い方にも慣れればという気持ちもあった。あくまで、興味を持つ程度でしかなかったかも知れないが、「アウトブレイク」は一般教養と医学を繋(つな)ぐ手懸かりにはなった。その流れで、次に同じくウィルスによる感染症のエイズを取り上げたのだから。

つれづれに

つれづれに:「アウトブレイク」

 映像や音声をたくさん使って英語の授業をしていたので、授業で使える映像や音声に敏感になっていたからだろう。2回目のエボラ騒動と同じ年に上映されたアメリカ映画「アウトブレイク」(↑)もすぐにDVDを手に入れて、授業でも利用した。世紀末騒動に加えて、生物兵器と絡(から)んだこのアメリカ映画も危機感を煽(あお)った一因だろう。

一般教養と医学を繋(つな)ぐためにエボラ出血熱に目を向けたやさきだったから、なおさら貴重な映像だった。テンポのいいハリウッド映画は楽しいので、一石二鳥だ。医学英語もたくさん出てくるし、何より早口の人が多いので、聞き取りの練習用にもいい。

 映画は、既にベストセラーとなっていた小説『ホット・ゾーン』にも出て来るエボラ出血熱を参考にして製作されたという。その本には、1976年の1回目の流行時の様子も詳しく描かれている。主人公は陸軍の伝染病研究所の研究者でもあり、軍人でもある。未知のウィルスが出た知らせを受けて、西アフリカに飛び、感染者から血液サンプルを持ち帰った。後に、研究所ではそのウィルスから秘密裏に生物兵器を製造する。1990年代に感染源と思われるチンパンジーが密輸されて、その時と同じ菌が入り込んで感染が広がった。密かに製造されていたワクチンを試したが、効果はなかった。変異していたからである。空気感染するようになって、ウィルスはより強力になっていた。瞬く間に感染が拡大し、カリフォルニアのある町では手が付けられない状況になった。政府は大統領命令を出して爆弾で町ごと気化させようとするが、主人公と友人が爆撃機の軌道に入り込んで、投下阻止に成功した、そんな話である。

エボラウィルスの顕微鏡写真

 1970年代の後半に発生したエボラ騒動の際にコンゴに飛んで患者から血液サンプルを採取し、爆弾を投下して証拠隠滅をはかったのちにアメリカに持ち帰り、陸軍の研究所でエボラウィルスを使って生物兵器を製造したと言う話を、映画で脚色して誰かが内部告発したわけである。HIVでも同じことをやっている。生物兵器開発を問われた国会議員が事実として証言したので、以降は研究開発を隠すために研究所を軍隊の研究所に移したというのもよく知られている。HIVの場合は団体を作って活動したが、政府やCDC(米国疾病対策予防センター)や製薬会社の資金に無視された。しかし、考えてみると、エボラ菌を作って生物兵器を製造したことをねたに映画を作ったわけだが、その映画が利益をあげるとふんで投資をしてぼろ儲けした人たちがいる。大がかりな映画には莫大な費用がかかる。奴隷貿易の蓄積資本で資本主義へのスピードは加速され、消費が一気に拡大し、体制維持のための武器開発のためにも多大な費用がかかる。核兵器だけでなく、一台何兆円もする戦闘機を敗戦国に買わせて、拡大した軍需産業で働く人たちの仕事を確保している。製造された武器を使う必要もあり、常にどこかで戦争を起こしている。ペンタゴンの描くアメリカ民主主義は、今のところ大成功というわけである。

一般教養と医学を繋(つな)ぐためにエボラ出血熱に目を向けたために、またあらたな絶望感を味わうことになった。

1995年のCNNニュース

映画film Outbreak

Casey: When the ( patient ) first gets the ( virus ), he complaints flu-like ( symptons ), 'n then in two or three days, pink lesion begins to appear all over his body, along with small pustules that soon erupt with the ( blood ) and pus, a kind of milky substance….
Salt: When these particular lesions become full blown, they feel mush to the touch, there is ( vomitting ), ( diarrhea ), ( bleeding ) in the nose, ears, gums, the eyes’ hemorrhage, the ( internal ) ( organs ) shut down. They look….

 

 

Sam: The ( first ) ( case ), ( patient ) zero?
Murby: A young man called Nmurazo, worked with a white man to build a, a road into Kinshasa. And when he returned, he was sick….
Sam: I see.
Murby: …and he drank from this ( well ). From there it spreads to the ( entire ) village.
Sam: Did you ( identify ) the ( carrier ), the ( host )?
Murby: No. When we arrived, the boy was incoherent. He died, ah, two hours later. He couldn’t tell us how he got it.

Salt: O.K., ( sirs ). Here we go. These ( pictures ) were taken over a ( period ) of eight hours. ( Normal ) ( healthy ) ( kidney ) ( cells ) before they meet the ( virus ). In the ( space ) of an ( hour ) a ( single ) ( virus ) has ( invaded ), ( multiplied ), and killed the ( cell ). And in just ( over ) two hours its ( offsprings ) have ( invaded ) ( nearby ) ( cells ) here and here, ( continually ) ( multiplying ).

授業では、医学用語がたくさん使われている4つの場面で聞き取りシートを作って演習をした。言葉を聞き取ってもらいながら、医学用語の使い方にも慣れればという気持ちもあった。アフリカに向かう飛行機の中

感染場所のある村

感染症センターbiohazzard level紹介

研究所顕微鏡の前 絵bら

 

 

Outbreak

爆発的感染力を持ち保菌者の生命を2~3日で奪う新種の病原体が米国本土に上陸。1つの町が閉鎖に追い込まれるパニックへ。エボラ出血熱を参考にした戦慄のサスペンス!

ベストセラー実録小説「ホット・ゾーン」も取り上げた“エボラ出血熱”を参考に、未知のウイルスが巻き起こす恐怖を描いて大反響を呼んだヒット作。専門家をして“地球上における人類の永続的優位を脅かす、最大の存在”と言わしめるのがミクロの怪物、ウイルス。思わず手に汗握るスリルを満載した、戦慄と興奮の話題作だ。出演は「レインマン」の名優D・ホフマンはじめ、「ティン・カップ」のR・ルッソ、「ショーシャンクの空に」のM・フリーマンら。監督は「ザ・シークレット・サービス」のW・ペーターゼン。
爆発的感染力を持ち保菌者の生命を2~3日で奪う新種の病原体が米国本土に上陸。1つの町が閉鎖に追い込まれるパニックへ。エボラ出血熱を参考にした戦慄のサスペンス!

合衆国陸軍で伝染病を研究している科学者サムは出張先のアフリカで、新種の病原体“モタバ・ウイルス”の人間に対する猛烈な威力を知る。彼が米国に帰国後、カリフォルニアのある町で同じような伝染病が発生し、サムと仲間の科学者たちは現地に向かう。どうやらウイルスの感染経路はアフリカから米国に密輸された、1匹のサルらしく、一同はその行方を追う。さらに、この事故にはほかにも意外な背景もあることが分かっていき…。

監督
ウォルフガング・ペーターゼン原題/Outbreak
制作年/1995
制作国/アメリカ
内容時間(字幕版)/129分
内容時間(吹替版)/129分
ジャンル/サスペンス/ミステリー

アフリカのモタバ川流域にある小さな村に派遣された米国陸軍伝染病医学研究所のサムは、体中の皮膚が赤黒くふくれあがり苦痛にうめきながら死んでいく住民たちの姿を目にする。同じ頃、カルフォルニア州のシーダー・クリークという町で同じ症状の伝染病が発生した。ペスト以上に確実に死をもたらすというこの絶望的なウイルス。ところが、陸軍から持ち出された未知の血清が、このウイルスに奇跡的な効果をもたらすという意外な出来事が起こった。発見されたばかりのウイルスに効く血清をなぜ陸軍が持っていたのか。疑念を抱いたサムは、陸軍幹部マクリントック少将が企んでいた驚愕すべき事実を知る。世紀末的な新型ウイルスの脅威を描いたサイエンス・スリラー。

キャスト
出演
ダスティン・ホフマン
レネ・ルッソ

 

1995年の春に突然エボラ出血熱流行の報道が流れた。コンゴでの流行も初めてではなかったが、テレビでも連日報じられ、ニュースや新聞などでも大々的に扱われた。80年代の後半にベルリンの壁が崩壊し、1990年には27年ぶりにネルソン・マンデラが釈放され、4年後には大統領になった。前年にサンフランシスコで大きな地震があり、年が明けて淡路・阪神大震災もあった。都市直下型の地震の映像はかなりインパクトが強かった。またぞろ、世紀末かという報道も出始めたころである。その前の年にコンゴから持ち帰った強力なウィルスのサンプルで生物兵器を造り、大統領命令でその兵器が投下されそうになったというアメリカ映画が公開されて話題になった。その分余計に、エボラ出血熱が大きく取り上げられた傾向は否めないだろう。

その頃録画したCNN(Cable News Network)ニュースは、一般教育と医学を繋ぎたいと考えていた私には、想像以上に使い勝手があった。ただ授業で扱うには準備も必要だった。コンゴの歴史だけでなく、感染症に関する医学の基礎知識も必要だった。ニュースでは、先ずキャスターが、ザイールでエボラウィルスによって百名以上の死者が出て、更に36人以上の人が感染している状況を伝者が出たことを伝えて、現地の特派員に経過報告を求めている。特派員は、先にモブツ大統領が北東部の小さな村を訪問したことを伝え、密林の映像を映しながら、感染源が特定できていない状況を伝えた。そして欧米から送られた国際医療チームの様子を映したあと、大統領のインタビューを挟み、予算的にも科学的にも解決策を見つけるのは極めて難しいと結んである。

1976年

リチャード・プレストン『ホットゾーン』

「人類の健康を守れるか?」というドキュメンタリー

戦後体制の実態

一握りの階級が欧米と手を握って利益を享受

インタビューから支援慣れ、貰うことを当然と考えている

つれづれに:ニュースを聞く

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

 独り言や面接で英語が勝手に口から出て来るようになったあと、次は聞く、だった。相手の言っている内容を正確に聞き取れないと理解出来ないからである。会話も続かないし、意志の疎通も図れない。聞けるようになるには、聞くしかない。英語も言葉の一つだから、当たり前と言えばごく当たり前のことである、やってみて実感しただけの話である。

聞いて理解できるようになるために、英語の授業で映像や音声をたくさん使っていたので、それを利用した。バスケットボールをやったときもそうだったが、シュートやドリブルなどの各部分の力を集中して高める分習法と言ったところか?ちょうど衛星放送が使えるようになったので、先ずはBBC(British Broadcasting Corporation)、ABC(American Broadcasting Companies)、CNN(Cable News Network)、NHKBS1などのニュースを録画して、繰り返し聞いた。特にマンデラの釈放時前後の英語放送は全部予約録画した。1995年の淡路阪神大震災の時も可能な限り録画して聞いた。

ニュースを聞いてわかったことがいくつかある。一つは意外と簡単だったことである。考えれば、キャスターが予め用意された原稿を読む場合が多いので、スピードも速くないし、いわゆるわかり易い標準的な喋(しゃべ)り方なので慣れればそう難しくないわけだ。俗語や聞いたことのないような言葉もそうは出て来ない。中に挿入されるインタビューが早かったりするが、流れで慣れれば大体わかる。

NHKBS1のニュースはわかり易かった。取り上げる題材が国内のことが中心なので、内容が大体わかっている場合が多い。それに、キャスターのレベルがたかい。シンショウカルナというキャスターがCNNのメインキャスターだったという話も聞いた。概してできる女性の集団で、微笑みながら軽快にニュースを読んでいるという感じだった。女性の声の質や音の高さの方が耳に心地よい気がする。一度、ネクタイを締め髪を七三に分けた男性のキャスターが登場したが、その違いをはっきりさせるために登場させたんやない?と思えるほどだった。緊張気味で頬(ほほ)の筋肉が固まっていたせいか、音がくぐもって聞きづらかった。おそらく真面目で優秀な人だったと思うので、かえって気の毒な感じがした。2ケ月ほどで交代した。

1995年エボラ出血熱を報じるCNN

 1995年の震災後、各国は地震をどう伝えたか?という特集があった。英語ニュースでは、アメリカやイギリス以外に、香港やフィリピンのニュースがおもしろかった。香港はイギリス英語ぽかったし、フィリピンはたぶんタガログ訛(なま)り?という感じだった。その頃、バングラデシュの人がよく研究室に来ていて舌を巻くベンガリーズイングリッシュに慣れていたし、ジンバブエではショナイングリッシュの洗礼を受けていたので、そう苦にはならなかった。

 赴任したすぐあと、4年生がひとり部屋に来た。英語をするにはどうしたらいいでしょうか?と聞かれたので、いやー、英語が苦手でどうしたらいんでしょうねえ?と答えた。最初の年は2年生と1年生しか持たなかったので面識はなかった。今度来た新しい人どんな人やろと覗(のぞ)きにきたのか、いまだにその真意はわからない。その後何回か部屋に来て、次の年の講演会を手伝ってもらったり、家に来たりもしたが、そのあと医者になってからは会っていない。

だいぶ英語が使えるようになった頃、授業で顔を合わせていた1年生が部屋に来て同じような質問をした。その時は、最初にニュースを聞いてみたら?とテープをたくさん渡した。陸上をやっている背の高い真面目な学生で、トラックの上やキャンパスでヘッドフォーンをつけた姿を時々みかけた。1年ほどあとに部屋にきて言ったのが印象的だった。

「大体わかるようになりました。株価まで聞き取れます」

卒業後、精神科でバイトしながら基礎系の研究室で博士号を取った。そのあと大学内で何度か通りすがりに会った。研究室に残るような話をしていたが、今はどうしているんやろ?

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

 1988年に宮崎医大に赴任して以来、それまで書いていた雑誌の記事の他に、テキストの編纂(→「テキスト編纂1」、→「テキスト編纂2」)に→「日本語訳」と、次々に出版社の人から言われて、小説を書き出せなかった。することがあり過ぎて、月日が過ぎていったというのが実際だったかも知れない。

授業は1年生の100人を4クラスにわけて最初は通年で週に4コマだけだったし、教授会は教授だけだったので、会議らしい会議もなく、ほぼ全部の時間をわりと自由に使えた。小説を書く空間が欲しくて探して辿(たど)り着いた格好の場所だったわけである。おまけに、→「研究費」までついていた。1年目に出した書類で、2年目には100万円も交付された、のに書き出せなかったのである。

授業に関する時間の締める割合は多かった。映像や音声や、英語も使っていろいろ工夫もしたし、準備にも時間をかけていたからである。元々一般教育英語学科目というのが授業担当の名目だったので、臨床医や基礎の担当者にはできないものをという意識が強かったが、どうも一般教育を大事だと思ってない人が多い風だった。医学をしに来たのに関係のない一般教育ばかりという傾向である。それで、医学と一般教育を繋(つな)ぐ形でやってみるかと思い始めた。のちに、教授になったあとすぐに、海外での臨床実習用の講座を担当して本格的に医学に特化した英語をする前に、自然と医学についても避けては通れないだろうと考えていたわけである。

「日本語訳」の作業を終え、家族で在外研究にジンバブエに行ったあとしばらく出版社からの要請の声も静かだったので、→「衛星放送」と英字新聞の力を借りて、医学と一般教育を繋ぐ具体策を考えは始めた。出版社からはジンバブエの話を本にまとめるようにいわれて半年ほどで一気に書き上げてはいたが、ちょうど1995年に西アフリカで流行したエボラ出血熱をやってみる気になった。舞台は赤道が国内を左右に通る大きな国コンゴだった。

 歴史を理解するために、資料を集め始めた。デヴィドスンの「アフリカシリーズ」では1800年代後半からの植民地時代と1960年前後の独立・コンゴ動乱が取り上げられていたし、『アフリカの闘い』にはそのほかに、戦後の新植民地時代の典型としてのコンゴの詳細な記述があった。そこに当時はまだあったロンドンのアフリカブックセンターで見つけた植民地時代とレオポルゴ2世について詳しく書かれた『レオポルド王の亡霊』という分厚い本が加わった。

 植民地時代→独立・コンゴ動乱と、30年続いていたモブツの独裁政権が時代的に繋がり、広がりを見せて行ったのである。そして、1995年の春先に、衛星放送でエボラ出血熱の流行を伝えるCNNニュースを録画した。

つれづれに:ニュースを聞く

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

 独り言や面接で英語が勝手に口から出て来るようになったあと、次は聞く、だった。相手の言っている内容を正確に聞き取れないと理解出来ないからである。会話も続かないし、意志の疎通も図れない。聞けるようになるには、聞くしかない。英語も言葉の一つだから、当たり前と言えばごく当たり前のことである、やってみて実感しただけの話である。

聞いて理解できるようになるために、英語の授業で映像や音声をたくさん使っていたので、それを利用した。バスケットボールをやったときもそうだったが、シュートやドリブルなどの各部分の力を集中して高める分習法と言ったところか?ちょうど衛星放送が使えるようになったので、先ずはBBC(British Broadcasting Corporation)、ABC(American Broadcasting Companies)、CNN(Cable News Network)、NHKBS1などのニュースを録画して、繰り返し聞いた。特にマンデラの釈放時前後の英語放送は全部予約録画した。1995年の淡路阪神大震災の時も可能な限り録画して聞いた。

ニュースを聞いてわかったことがいくつかある。一つは意外と簡単だったことである。考えれば、キャスターが予め用意された原稿を読む場合が多いので、スピードも速くないし、いわゆるわかり易い標準的な喋(しゃべ)り方なので慣れればそう難しくないわけだ。俗語や聞いたことのないような言葉もそうは出て来ない。中に挿入されるインタビューが早かったりするが、流れで慣れれば大体わかる。

NHKBS1のニュースはわかり易かった。取り上げる題材が国内のことが中心なので、内容が大体わかっている場合が多い。それに、キャスターのレベルがたかい。シンショウカルナというキャスターがCNNのメインキャスターだったという話も聞いた。概してできる女性の集団で、微笑みながら軽快にニュースを読んでいるという感じだった。女性の声の質や音の高さの方が耳に心地よい気がする。一度、ネクタイを締め髪を七三に分けた男性のキャスターが登場したが、その違いをはっきりさせるために登場させたんやない?と思えるほどだった。緊張気味で頬(ほほ)の筋肉が固まっていたせいか、音がくぐもって聞きづらかった。おそらく真面目で優秀な人だったと思うので、かえって気の毒な感じがした。2ケ月ほどで交代した。

1995年エボラ出血熱を報じるCNN

 1995年の震災後、各国は地震をどう伝えたか?という特集があった。英語ニュースでは、アメリカやイギリス以外に、香港やフィリピンのニュースがおもしろかった。香港はイギリス英語ぽかったし、フィリピンはたぶんタガログ訛(なま)り?という感じだった。その頃、バングラデシュの人がよく研究室に来ていて舌を巻くベンガリーズイングリッシュに慣れていたし、ジンバブエではショナイングリッシュの洗礼を受けていたので、そう苦にはならなかった。

 赴任したすぐあと、4年生がひとり部屋に来た。英語をするにはどうしたらいいでしょうか?と聞かれたので、いやー、英語が苦手でどうしたらいんでしょうねえ?と答えた。最初の年は2年生と1年生しか持たなかったので面識はなかった。今度来た新しい人どんな人やろと覗(のぞ)きにきたのか、いまだにその真意はわからない。その後何回か部屋に来て、次の年の講演会を手伝ってもらったり、家に来たりもしたが、そのあと医者になってからは会っていない。

だいぶ英語が使えるようになった頃、授業で顔を合わせていた1年生が部屋に来て同じような質問をした。その時は、最初にニュースを聞いてみたら?とテープをたくさん渡した。陸上をやっている背の高い真面目な学生で、トラックの上やキャンパスでヘッドフォーンをつけた姿を時々みかけた。1年ほどあとに部屋にきて言ったのが印象的だった。

「大体わかるようになりました。株価まで聞き取れます」

卒業後、精神科でバイトしながら基礎系の研究室で博士号を取った。そのあと大学内で何度か通りすがりに会った。研究室に残るような話をしていたが、今はどうしているんやろ?

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった