つれづれに:挨拶(あいさつ)
昨日も白浜(↑)の鍼灸整骨院に自転車で行くことが出来た。当たり前のように行けるのは、有難い。もうすぐ74歳だから、もちろん年齢の割りにはという面もある。しかし、いつでも誰でも事故に遭い、病気になる可能性はあるのだから、普段通りに生活出来るのは何よりである。去年の生体組織検査の時から、雨の時は車で送り迎えをしてもらっているので、余計にその思いは強い。雨が降らなければ、自力で行ける。昨日は先週より海の青さの鮮やかさが少なかった(↓)気がするが、それでも充分に海はきれいだった。
昨日20日(上)と先週16日(下)
距離からすれば、幹線道路の歩道を通っていくのが時間的には一番短くていいのだが、加江田川に架かる橋を渡って高架をくぐり、すぐに幹線道を左に折れて、川と海の岸壁沿いの小道を進むことが多い。岸壁沿いをしばらく行くと、左手に対岸の総合運動公園の室内競技用のドーム(↓)が見える。
更に進むと、右手に曽山寺浜のレストラン(↓)が見える。その前の公園から、歩行者・自転車専用道路に入る。
専用道路は総合運動公園から旧パームビーチホテル(↓)の結婚式用のチャペルの前まで続く。そのコースを行く方が、車の騒音を聞かなくて済むし、何より海が見放題だからである。
大学が神戸で、非常勤先が大阪の大学が多かったから、都会の人混みをけっこう経験している。神戸から電車で西に1時間ほどの田舎町から三宮(↓)で乗り換える時や、明石に住んでいる時には満員電車で大阪に行き、日本で一番込み合うと言われる梅田の地下街を通って地下鉄に乗り換えていた。避けられなくて利用したが、人混みは心底疲れて、気持ちが荒(すさ)む。込んだ電車の中で、なぜか山頭火が読みたくなって、立ちながら読んでいた時期もある。大阪の人と争って大阪駅で電車に乗り込んで座る勇気がなくて、毎回、帰る方向とは逆に一駅戻って、新大阪駅で座る場所を確保していた。
そんな都会では、もちろん行き交う人と挨拶を交わすことは先ずない。その方が自然だろう。小説を書くために時間を確保したくて大学を選んだので、研究は念頭になかったが、大学では教育と社会貢献の他に研究が求められる。便宜上、科学研究費や大きな外部資金に書類を出した。資金でも獲れば、大学では外向きには研究もしている風に装えるからである。しかし、額面が大きくなると、人件費や旅費にうまく使わないと、なかなか使い切るのも難しい。パソコンを使うようになって、機器やソフトやプリンターにも経費がかかってはいたが、それでも機器や消耗品だけではなかなか使いきれない。理系の人から、試験菅などでいくらあっても研究費は足りないと聞いたことはあるが、文系の場合、そうは要らない。使いあぐねて本や雑誌に使う人もいたが、本は図書館が購入したことになって貸出扱いになり、時々「外部から貸し出している本の請求がありましたので提出して下さい」と丸で図書館が買ったもののようなもの言いをする係の人に嫌な思いをして以来、買わなかった。それに、気軽に書き込んだり、コピーしやすいように切ったりも出来なかったし。統合後は研究費も激減したが、それまでは研究費も充分なくらいにあったから、余計に予算の消化も必要だった。それで旅費や人件費に使うようになって、神戸と東京によく出かけた。神戸なら黒人文庫のある神戸市外国語大学図書館(↓)とアフリカの雑誌が読める万博跡の国立民族学博物館、東京ならアフリカの雑誌のある東京外国語大学のアジアアフリカの研究所、その辺りなら充分に資料探しの名目上の出張目的の要件を満たす。だから、年に何回かは都会に出かけた。その都会では、挨拶を交わさない方がむしろ自然だった。交わすには人が多過ぎる。
宮崎ではわりと自然に行き交う人と挨拶を交わす。小中学生は学校で挨拶するように言われてるからかも知れないが、こちらも自然に言葉が出てくる。いいとかわるいとか言うつもりはないが、ほんとに割りと自然な感じで挨拶を交わしている。
それで、海岸線の自転車・歩行者専用の道路(↓)でも、挨拶を交わす。軽く会釈をするか、にこっと笑う場合もある。特に意識をしてはいないが、そういう感じで自転車に乗っている。
曽山寺浜辺り南の方向
ミシシッピに行ったとき、車が通り過ぎたあと、荷台に乗っていた青年が笑顔で「ハゥアユドゥイン?」と言っていた。ジンバブエのハラレで家族で暮らした借家の近く(↓)を歩いていたら「マシィカティとかマングワナニ」とか声をかけられた。日本語ならこんちは、こんばんはに相当する。あまり深い意味はなく、自然に挨拶を交わしてたような気がする。田舎と大都会の違いの一つかも知れない。そんなわけで、自転車・歩行者専用の道路でもいつものように微笑むか、軽く挨拶を交わしている。宮崎では子供を人質に取られたよう感覚で学校では嫌な思いばかりだったので、とても「都会にはない田舎ならではの‥‥」とかは言えないが、自然にそんな動きにはなるようである。