つれづれに

つれづれに: 堀切峠下海岸道路①

今日で十月が終わる。

一昨日、堀切峠下海岸道路に行った。内海にある南風茶屋に食べに行った帰りに一度、車で通ってもらったことがある。今回は、白浜でマッサージをしてもらったあと、南風茶屋まで行くのに、その海岸道路を通ったわけである。家からは往復ほぼ4時間、昨日は寝たきり、ごろごろするだけだった。片道1時間なら次の日に足の重を少し感じるだけで済むが、4時間に耐えられる年齢ではなくなったらしい。行く前に大学の研究室に行き、帰りに海岸道路に入る道がわからなくて旧道トンネル横の堀切峠に登る坂道の手前まで行った分の約1時間は余計だった。普通は3時間の行程だ。

だいぶ前から電動自転車を使っている。最初の電動自転車はバッテリーの持続時間も短かいうえ、バッテリーを使わない場合、重くて漕げなかったが、今のは充電して持つ時間が長いうえ、バッテリーを使わない場合も普段通りに使える。十数万もするだけあって、各部品の造りがしっかりしているのだろう。実感する。滅多にバッテリーは使わないが、次回は電動の機能を使って、3時間の行程で行くとしよう。

堀切峠下海岸道路はいつも出かける木崎浜→曽山寺浜→青島海岸→(青島港)→白浜の延長上にある。木崎浜の波打ち際で撮った上の写真を拡大すれば、突き当り左手に見える青島から南側は海岸線が曲がっているので見えないのがわかる。青島のすぐ右に、ホテルサンクマールが小さく見える。今回の海岸道路はそのホテル脇の小さな砂利道から入る。結果的に、普段木崎浜からは見えない堀切峠を見に行く、ということになる。

片道1時間ほどの行程だが、行くまでにいろいろなところを通る。折角なので、写真入りで紹介したいと思う。海岸道路に行き着くまでに相当時間がかかりそうなので、今回は堀切峠下海岸道路①である。

木崎浜は清武川と加江田川の間に広がる砂浜で、サーフィンをする人たちには有名である。去年はコロナ騒動で海に入ることも叶わない時期があったが、毎年各地からサーファーが訪れる。中級者向けのいい波が来るらしい。年末には九州内からだけでなく、関西や関東方面からもサーファーが訪れる。県外ナンバーの方が多い時があるが、手続きをしていない学生のナンバープレートだけではなそうだ。木崎浜→曽山寺浜→青島海岸→白浜については書いたことがある。→「久しぶりに木崎浜に行って」(2018/01/13)

清武川の堤防(写真①)の突き当りを右に折れると、木崎浜が広がる。国土交通省の管轄で護岸工事が行われているようで、防波堤(写真②)の横に道が作られていることが多い。今回の海岸道路もそういった種類の道路のようである。ただし、車が行き交えるほどの道幅はなく、通行量も多くないので手入れはほぼされていないので、薄の類の草が道に大きくはみでたり、がけ崩れで流れ出した土が道路にそのままになっていたり、排水がうまくいかなくて水溜まりになっている個所もある。

清武川の堤防

防波堤(写真②)

最近、といっても数年前に木崎浜と曽山寺浜を結ぶ橋(写真③)が出来たようである。北側の運動総合公園から青島海岸までの道路を歩行者と自転車用に整備して、マラソンコースにも使えるようになっている。

曽山寺浜への橋の入り口

木崎浜と曽山寺浜を結ぶ橋(写真③)

加江田川河口(手前が木崎浜、対岸が曽山寺浜)

白浜に行くときは、いつも下曽山寺のホテル青島水光苑(野球の巨人の2軍や青山学院大学の駅伝チームなどの実業団が使ったりしているようだ)近くの裏道を通って、木崎浜←→曽山寺浜の橋からの道に入る。

曽山寺浜横の海岸道路、先に青島が見える

写真が多いので、堀切峠下海岸道路①はここで終わる。次回は青島→青島港→白浜→ホテルサンクマール脇の海岸道路入口まで、か。

一日じゅう寝ていたので、何とか回復した模様、さっき衆議院の選挙に二人で行ってきた。いつも入れたい候補があるわけではないが、自民党以外、これは投票ができるようになってからは変わっていない。自民党の過半数割れ、そんな見出しが見られるといいが。

今から、何とか普段通りの散歩に出かけられそうである。

つれづれに

つれづれに:山頭火の世界④ー防府②

「つれづれに:山頭火の世界③ー防府①」(2021年7月29日)の続きである。前回書いてから2か月以上が過ぎているので、またこの世界に入り直す必要がある。今回は生まれた家と山頭火と俳句について書こうと思う。

山頭火が句をたくさん作ったのは行乞の旅の途中だったし、行乞記などの日記は頭陀袋に入れて持ち歩いていたことを考えると、よくも資料が残っていたものだと感心する。

笠を被り、地下足袋を履き、錫杖を持ち、背中に頭陀袋かけての行乞の旅だったようである

旅先でたまった日記を北九州の飯塚で炭鉱医をしていた『層雲』の俳友木村緑平さんに送り、それが大切に保管されて大山澄太さんに手渡ったと言う。その資料や山頭火本人から託された資料や関係者への聞き取りや本人からの話を大山澄太さんがまとめたわけである。山頭火が木村緑平さんと大山澄太さんの二人と出会っていなかったら、資料は散失して、今の私たちは、大山澄太著『俳人山頭火の生涯』(彌生書房)や大山澄太編『山頭火の本』(春陽堂、12冊と別冊2冊の計14冊)の一次資料とも言える資料を読むことは叶わなかっただろう。

大山澄太さん

木村緑平さん

前回紹介したように、生まれた家の隣人や山頭火自身から大山澄太さんが直接聞いた話によれば、山頭火はずいぶんと裕福な家に生まれたようである。裕福な家がよかったどうかはその人本人にしかわからない。ひょっとすれば本人にもわかっていなかったかも知れない。時代や意識の問題もある。概ね、親の考え方で子供への接し方も変わる。誰も元から親だったわけではない。子供が生まれて物理的、生物学的には親になっても、子供にとってのいい親になるかどうかは、その親と子の関係次第だろう。本人の生まれ持った資質も大きい。

山頭火の父親は善良な地主で、大柄で性格も大らか、役揚の助役をしていた時に、政友会の顔役として政治に手を出すようになったらしい。岸信介、安倍晋太郎、晋三の出た山口の地元の名士、今なら自民党後援会会長と言ったところか、党本部からばら撒かれた大金を受け取っていたかも知れない。女性にはだらしなかったようで、妾を複数かかえていたようだ。妻が自殺した時も、妾と旅行に出て家にはいなかったと言われている。妻の死後も、子供は母親任せにして、ますます女性に溺れ、親の財産を守れなかった。家を手放して購入した醸造所も山頭火と二人で潰してしまった。そして、別々に夜逃げした。

母親は五人の子供を産んで、山頭火が十歳の時に井戸に投身して自殺している。

子供五人は山頭火の祖母が育てたようである。「私の祖母はずいぶん長生したが、長生したためにかえって没落転々の憂目を見た。祖母はいつも、業やれ、業やれと眩いていた。私もこのころになって、句作するとき (恥かしいことには酒を飲むときも同様に) 業だな、業だなと考えるようになった。」と後に山頭火は書き残している。

山口県現防府市の生家跡地

山頭火の行乞記などを読んで、わかったような気になった時期もある。おそらく、自分の意識下で山頭火の生き方や句に何かが反応したからだろう。前回書いたように「芸術作品は自己充足的なもので、この眼に見えるものはことごとくまぼろしに過ぎないのなら、眼に見えるものから読み取るしかない。自分の中に無限に広がる無意識の世界、意識下の現言語でしか感知できないのかも知れない。」(山頭火の生涯①」(2021年7月25日)

長くなりそうなので、時代や意識の問題などは次回、また。

つれづれに

つれづれに: 柿6個

朝晩急に寒くなって、俄かに柿が色づき始めた。去年は二度と経験出来ないほどの生り年だったようで、200個以上の実を捥いで、干した。風で50個以上は落ちてしまったから、そう大きくない樹に250個以上が実をつけていたわけである。捥いで取り込むのも、洗って、剥いて、陽に干すのも一気には行かなかった。最後は力尽きて、何個かは熟し過ぎて干せなかった。二人でそんなに食べられるわけもなく、ひたすらあちこちに配るはめになった。この上なく干し柿が好きだという御仁にも大量に送り、痛く感謝された。保存食とはいえ冷蔵庫に入れても、ある時期を過ぎれば黴が生える。黴を落として酢の物にして食べる日が続いた。

今年も芽が出て青葉になったが、実をつけたのは7個だけ、そのうち1つが風で落ちてしまった。残った6個が色づき始めたのである。

柿を干し始めてからずいぶんになる。親子三人で転がり込んだ妻の父親の家の裏手に渋柿がなっていた。明石の中朝霧丘という優雅な地名の広い一軒家だった。普通の大きさの丸柿だったので、干すと小さくなった。干し始めると店先に大きな渋柿が並んでいるのが目について、箱ごと買って来て縁側に干し始めた。箱に西条柿と書いてあった。宮崎に来てからすっかり忘れていたが、今の木花の家に越して来てから、また干すようになった。宮崎神宮で買った苗が七年目に一個だけ実をつけた。その後、去年のように200個以上も実をつけるようになった。

初めて生った西条柿を枝ごと切って、妻に描いてもらった

去年広島から来た学生にお裾分けをしたら「西条はうちの隣町です」と教えてくれた。ウェブの郷土史研究会のサイトによれば、広島県の西条(現東広島市)が原産で、その地名が柿の名前になっているらしい。「東広島市の長福寺の縁起に、一二三八年(暦仁元年)僧良信が本尊薬師如来の霊夢により、弟子信常を鎌倉の永福寺へ遺して求めた霊種を寺内に植えたのが西条柿の原種とある」と刻まれた市史跡の写真も載っていた。「果実は縦長で側面に四条の溝があります」とも書かれていたが、庭に生っている実には溝がないので、かけ合わせて作られた品種かも知れない。

柿については「つれづれに」に、既に3回書いている。↓

  • 2008/12/31  渋柿を吊せなかった、今年が暮れる
  • 2017/10/30  昨日やっと柿を干しました

三冊の表紙絵にもなって、残っている。↓

『馬車道の女』(1991/11/16)

『一番美しく』(1995/3/10)

『随所に主宰とならん』(2000/2/24)

剥いて陽に干すだけで、何とも言えない色と艶と甘みが出るのだから、太陽の力には恐れ入る。そんな季節になった。捥いで、洗って、剥いて、陽に干す、そんな作業が年々きつきなってきている。

つれづれに

つれづれに: 葛

久しぶりの更新である。

朝晩はだいぶ冷えるようになった。下が13度か14度、上が23度か24度、一気に秋の到来である。この前書いた時に発生しかけていた台風も来なくて済んだ。ありがたいことである。

よく食べ、よく歩き、よく寝る、大事だとはわかってはいても、毎日続けるのは難しい。金曜日は2時間ほど自転車に乗ったので歩けなかったし、土日も歩けなかった。4、5日畑に出ないとブロッコリーもこの惨状である。↓

糸ほどの虫がこんなに大きくなっている、この虫は黒い

昨日の夕方に、虫を潰して希釈した酢をかけたが、今朝出てみると、まだ葉っぱにも地面にも虫がうようよしていた。茎を揺らすと、ぱらぱらと小さな虫が落ちて、くねくね歩いている。数えたわけではないが、100匹では済まないだろう。この作業を続ければ、12月に収穫出来そうだが、遠い道のりである。胡瓜が花を咲かせ、何本かが実をつけている。二期作は成功したようである。ただ、春先の勢いはない。どのくらいまで育つんだろう。

オクラはまだ花を咲かせ、毎日何個かの実が収穫できる。丸鞘オクラは実自体が大きいので、毎日3~4個獲れれば、足りる。南瓜は柵を取り払い、南側の金木犀も刈り込んだ。放っておくと、これから陽が入らなくなるからだ。冬場は日差しも弱く、陽が当たる時間も短かい。絹鞘豌豆、レタス、ブロッコリー、小葱の種も蒔いた。二回目である。うまく芽が出てくれればいいが。蒔く時期も、難しい。

十数個の実は枝につけたまま。作業の途中で7、8個は枝が取れてしまった

葛である。大体7月から9月くらいに紫色の花を咲かせる。かなりの繁殖力で、巻き付かれた方は大変である。

道草や烏瓜などの蔓植物以外に、表紙絵のために梅や桜や山茶花や椿も探したことがある。椿は一重で、藪椿が多かった。最初のカレンダーの表紙になった。その椿も毎年葛に覆われて、最近はきれいな椿をみかけなくなった。腰の曲がった老婆が野菜を作っている結構広い畑の端の方に植えてある椿で、放ったままである。

葛に覆われた藪椿

最近は一人暮らしが怪しくなってきて、親戚の家に車で出かけて家を空けることが多くなったからか、尚更である。葛の蔓を払う人がいないと、花も咲かなくなる。葛は草のわりに花の占める割合が極く僅かだが、近くでかげば、甘酸っぱくて、藤に似たとてもいい香りがする。紫と緑の色合いがいい。カレンダーにはたくさん使っているが、本には使わなかったようだ。探してみたが、表紙絵は見つからなかった。↓

2004年10月(手描きカレンダー)

2010年9月

2010年9月(花カレ)

2011年9月(花カレ)

2014年9月

都会の明石は坂道も多く、地面そのものが少なかった。昔は山や畑ばかりだったようだが、神戸や大阪のベッドタウンになってからは須磨、垂水、舞子、朝霧、明石、西明石と西へ、西へと開発先が伸びて行ったようである。西明石までは複々線で、その後も大久保、魚住、土山と住宅地が増え続けている。北の方は神戸市で、地下鉄も伸びて、開発が進み、土の地肌が見える地面がますます減っている。そんな都会の朝霧から越して来たので、すぐ手に入る通草や烏瓜や葛が珍しかったのかも知れない。ちょうど本の表紙絵に使うようになって、色んな花を探し回った。宮崎に来て、もう三十年以上の月日が経った。