つれづれに:山頭火の世界④ー防府②(2021年10月28日)

つれづれに

つれづれに:山頭火の世界④ー防府②

「つれづれに:山頭火の世界③ー防府①」(2021年7月29日)の続きである。前回書いてから2か月以上が過ぎているので、またこの世界に入り直す必要がある。今回は生まれた家と山頭火と俳句について書こうと思う。

山頭火が句をたくさん作ったのは行乞の旅の途中だったし、行乞記などの日記は頭陀袋に入れて持ち歩いていたことを考えると、よくも資料が残っていたものだと感心する。

笠を被り、地下足袋を履き、錫杖を持ち、背中に頭陀袋かけての行乞の旅だったようである

旅先でたまった日記を北九州の飯塚で炭鉱医をしていた『層雲』の俳友木村緑平さんに送り、それが大切に保管されて大山澄太さんに手渡ったと言う。その資料や山頭火本人から託された資料や関係者への聞き取りや本人からの話を大山澄太さんがまとめたわけである。山頭火が木村緑平さんと大山澄太さんの二人と出会っていなかったら、資料は散失して、今の私たちは、大山澄太著『俳人山頭火の生涯』(彌生書房)や大山澄太編『山頭火の本』(春陽堂、12冊と別冊2冊の計14冊)の一次資料とも言える資料を読むことは叶わなかっただろう。

大山澄太さん

木村緑平さん

前回紹介したように、生まれた家の隣人や山頭火自身から大山澄太さんが直接聞いた話によれば、山頭火はずいぶんと裕福な家に生まれたようである。裕福な家がよかったどうかはその人本人にしかわからない。ひょっとすれば本人にもわかっていなかったかも知れない。時代や意識の問題もある。概ね、親の考え方で子供への接し方も変わる。誰も元から親だったわけではない。子供が生まれて物理的、生物学的には親になっても、子供にとってのいい親になるかどうかは、その親と子の関係次第だろう。本人の生まれ持った資質も大きい。

山頭火の父親は善良な地主で、大柄で性格も大らか、役揚の助役をしていた時に、政友会の顔役として政治に手を出すようになったらしい。岸信介、安倍晋太郎、晋三の出た山口の地元の名士、今なら自民党後援会会長と言ったところか、党本部からばら撒かれた大金を受け取っていたかも知れない。女性にはだらしなかったようで、妾を複数かかえていたようだ。妻が自殺した時も、妾と旅行に出て家にはいなかったと言われている。妻の死後も、子供は母親任せにして、ますます女性に溺れ、親の財産を守れなかった。家を手放して購入した醸造所も山頭火と二人で潰してしまった。そして、別々に夜逃げした。

母親は五人の子供を産んで、山頭火が十歳の時に井戸に投身して自殺している。

子供五人は山頭火の祖母が育てたようである。「私の祖母はずいぶん長生したが、長生したためにかえって没落転々の憂目を見た。祖母はいつも、業やれ、業やれと眩いていた。私もこのころになって、句作するとき (恥かしいことには酒を飲むときも同様に) 業だな、業だなと考えるようになった。」と後に山頭火は書き残している。

山口県現防府市の生家跡地

山頭火の行乞記などを読んで、わかったような気になった時期もある。おそらく、自分の意識下で山頭火の生き方や句に何かが反応したからだろう。前回書いたように「芸術作品は自己充足的なもので、この眼に見えるものはことごとくまぼろしに過ぎないのなら、眼に見えるものから読み取るしかない。自分の中に無限に広がる無意識の世界、意識下の現言語でしか感知できないのかも知れない。」(山頭火の生涯①」(2021年7月25日)

長くなりそうなので、時代や意識の問題などは次回、また。