つれづれに:水仙(2023年12月24日)

つれづれに

つれづれに:→「水仙」(すいせん、小島けい絵のブログ)

小島けい画「水仙とぴのこ」

 昨日「冬景色」で畑の水仙の写真を載せ、久しぶりに「今年も水仙が咲き出したか」の句も添えた。もちろん、山頭火が借りた山口防府市の農家の空き家を其中庵と呼び定住し始めて少し落ち着いた頃に詠んだ「ここにも水仙の芽かよ」の模作である。すいせんは好きな花の一つでいろいろと思い出すことも多い。

 →「水仙郷襖絵」もその一つである。早くに→「諦観」を感じ「生きても30くらいやろな」と余生のつもりでその日を遣り過ごしていたから、結婚も考えたこともなかったが、生きていると、正確には死なないでいると何が起こるかわからないものである。結婚をして、子供も出来た。淡路島の黒岩水仙郷(↓)に行ったのは、結婚して次の年に生まれた娘がまだお腹の中にいる頃である。妻が産休に入ってすぐに、明石港からの連絡船で淡路島に渡ってすいせんを見に行った。宮崎にいると淡路島の自生の水仙郷の話を聞くことはまずないが、二人とも海を隔ててはいるもののそう遠くないところに住んでいたので、電車の中や駅などの水仙郷の広告を目にしていた。

 結婚した当初は朝霧駅(↓)近くのマンションに住んでいたが、出産前後は妻の父親と住んでいた→「中朝霧丘」の家で過ごしたあと、新しく出来た職員住宅に3人で入った。産後の休みの間に、入り口の真新しい襖一面に水仙郷の絵を妻が描いた。甘酸っぱい香りが漂ってくるくらいの優しい絵だった。引っ越しのときに、どうして持ち出さなかったのかが悔やまれる。二人が働いている状態で、娘がよく熱を出した。熱がなかなかさがらなかったある日「わたし、家に帰る」と言って、父親の家に3人で転がりこんだ。妻を亡くして老けかけていた妻の父親は孫と最愛の娘が転がりこんで来て、若返った。→「明石」は思っていた以上に、居心地がよかった。生まれ育ったところがひどすぎた反動もあったかも知れない。

 結婚したのは、書きたい思いが残っていたからだろう。1浪しても受験勉強ができなかったので→「夜間課程」で手を打って大学(↓)に行き始めた。その頃は(→「大学入学」)授業料や電車の定期代がかなり安かったが、→「牛乳配達」ではきつかった。何年かのちに、家庭教師を頼まれるようになって経済的にも、気持ちの上でも少し余裕が持てるようになった。(→「家庭教師1」、→「家庭教師2」、→「家庭教師3」、→「家庭教師4」

 書きたい気持ちに気づき始めたのは、夕刊に連載していた立原正秋(↓)の小説を読んだときからである。文章との相性がよかったのかも知れないが、自分と社会のことを考えるようになり、おそらく無意識の深層に少しだけ触れるようになったような気がする。その意味では、30を過ぎても生き在(ながら)えているのは、その作家のお陰かも知れない。よかったのか、わるかったの‥‥。