つれづれに

先月久しぶりに「つれづれ」を更新したとき、「これからは決まった時間にいく必要もなく、時間はあるようですので、毎月20日に更新している続モンド通信に合わせて、せめて月に一回くらいは『つれづれ』も更新出来ればいいんですが。」と書いたものの、もう25日。遅ればせながら。

何とか滞っていた続モンド通信を今月は書き(「アングロ・サクソン侵略の系譜26:A Walk in the Night」)、4年間最終年度の科学研究費の前年度の最終報告を書きました。

大学にいる限り教育、研究、社会貢献を求められるようで、居やすいように研究をする振りをして何回か科研費をもらい、ごまかしごまかし退職したものの、退職後も専任に再任用され、また研究をする振りをして科研費をもらっています。まさか、その研究だけが残り大学の研究室を使うことになるとは、ほんと何が起こるかわからんもので。

30年以上もためた、学生からの課題や感想文を整理中で。小説に使えればと思って取って置いたものながら、ほんまにようさんあって。使えることを祈りながら、今年中には整理を終えて部屋も空にしないとと思っています。

小説の方も天気に合わせたように停滞気味です。一週間ほど前から虫にやられたか、帯状疱疹か、背中に変な発疹のようなものが。充分に機能を果たさないとまではいかなくてもあっちこっち体にもがたがきてるようで。どうも全般に停滞気味、という近況報告です。

畑はレタスやブロッコリーの季節が過ぎ、胡瓜、茄子、トマト、オクラ、南瓜などの夏野菜、青虫から蚊の季節に移っているようで。次回までには、規則正しい生活のリズムが取り直せるとええんやけど。牡丹がそろそろ今年も咲くかなあ。

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信30(2021/5/20)

 

アングロ・サクソン侵略の系譜27:A Walk in the Night

概要

A Walk in the Nightは前回書いた『夜の彷徨』の註釈書です。→「アングロ・サクソン侵略の系譜26:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』 」続モンド通信29、2021年4月20日)

門土社の關功さんから薦められて大学のテキスト用に出版してもらったものです。実際の出版は予想以上に大変で、アフリカ関係で利益が出ることはほぼないようです。印刷して下さった本は旧宮崎医科大学医学科の一年生と旧宮崎大学農学部、教育学部などの英語のテキストとして学生に買ってもらい、何とか在庫はなくなりましたが。その後も本を出してもらいましたが、同じように学生に買ってもらいました。ほんとうに、なかなか厳しかったです。

A Walk in the Night (1989年4月20日)の小島けい作の表紙絵で、南アフリカの街角を描いています。

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」で全体をご覧になれます。

表紙絵は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」(→」(「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」[「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年]に映画評を掲載しています。) の一場面をモデルに水彩で描いています。

本文

A Walk in the Night はラ・グーマの最初の作品でナイジェリアで出版されましたが、アメリカやイギリスでも簡単に手に入りました。すでに門土社から大学用のテキスト 版は出ていましたので、改訂版をということらしかったです。本文はイギリスのHeinemann Educational Books版のA Walk in the Night and Other Storiesから取ったようでした。イギリス英語で註をつけるのは結構大変でした。南アフリカの現役作家ミリアム・トラーディさんを宮崎にお招きしたときに知り合ったコンスタンス日高さんにいろいろ聞きました。ケープタウンにも住んだことがあるらしく、辞書ではわからないニュアンスも聞けました。

ナイジェリア版(神戸市外国語大学図書館黒人文庫 )

ラ・グーマは最初の物語A Walk in the Nightの舞台に自分が生まれ育ったケープタウンの第6区を取り上げました。1966年に強制的に立ち退きを迫られて、住んでいたおよそ5万人の人たちとともに消えてしまいました。(1988年11月28日の「タイム」誌の記事に、当時空き地のままに放置されていた第6区の様子が写真入りで紹介されています。)

「タイム」誌の記事から;第6区の今と昔

同じ年、ラ・グーマは家族を連れて南アフリカを離れ、ロンドンに亡命しました。

2回の世界大戦で西洋社会の総体的な力が低下したとき、1955年のバンドン会議を皮切りにそれまで虐げられ続けて来た人たち立ち上がり、本来の権利を求めて闘い始めました。アフリカ大陸には変革の嵐(The wind of change)が吹き荒れ、南アフリカでもアパルトヘイト体制に全人種が力を合わせて敢然と挑みかかりました。ラ・グーマも200万人のカラード人民機構の指導者として、同時に作家として戦っていました。

『夜の彷徨』はそんな闘いの中で生まれた作品です。1956年以来、逮捕、拘禁が繰り返される中で執筆されたもので、厳しい官憲の目をかい潜って草稿が無事国外に持ち出され、1962年にナイジェリアで出版されました。作家のデニス・ブルータスは『アフリカ文学の世界』(南雲堂、1975年)の中で「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中にも小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜員か国家警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである。」と紹介しています。作品は奇跡的に世の中に出たわけです。

A Walk in the Nightには、職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが第6区で過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれています。『全集現代世界文学の発見 9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に日本語訳が収められています。

今回はその日本語訳の一部について書こうと思います。アドニスが同じぼろアパートに住む落ちぶれた白人を瓶で殴り殺してしまったあと部屋に戻った時に、ドア付近で物音がして、警官が来たのではないかと怯える次の場面です。

His flesh suddenly crawling as if he had been doused with cold water, Michael Adonis thought, Who the hell is that? Why the hell don’t they go away. I’m not moving out of this place, It’s got nothing to do with me. I didn’t mean to kill that old bastard, did I? It can’t be the law. They’d kick up hell and maybe break the door down. Why the hell don’t go away? Why don’t they leave me alone? I mos want to be alone. To hell with all of them and the old man, too. What for did he want to go on living for, anyway. To hell with him and the lot of them. Maybe I ought to go and tell them. Bedonerd. You know what the law will do to you. They don’t have any shit from us brown people. They’ll hang you, as true as God. Christ, we all got hanged long ago.

「きっとおれはやつらに話しに行ったらいいんだ。ベドナード。おまえは警官がおまえをどうするかわかっているな。やつらはおれたち茶色い人間のことなど、これっぱしも聞いてくれやしない。やつらはおまえの首をつるしちまう、これは確かだ。ああ、おれたちは大昔から首つりにあっている。」が下線部の日本語訳です。問題はいろいろありそうですが、今回はBedonerd.→「べドナード。」の日本語訳に限って、です。

日本語をつけた人はおそらくBedonerdがわからなくてカタカナ表記にしたと思いますが、根はもう少し深いように思えます。

その人はBedonerdがアフリカーンス語だと知らなかったのではないでしょうか。ん?場所がケープタウンの第6区やと、主人公がカラードやと知ってたんやろか、と思ってしまいます。知っていれば、アフリカーンス語の辞書を引けば済むわけですし、たとえ知らなくても文脈から、くそっとか、そりゃだめだ、くらいのあまり品のいい言葉ではないと想像がつくはずです。(A Walk in the Nightの註釈書では、Bedonerdに「バカな。(Afr.)=crazy; mixed up」の註をつけました。)

野間寛二郎さんはこの本が出された頃にガーナの元首相クワメ・エンクルマのものをたくさん翻訳されていますが、わからなことが多いからとガーナの大使館に日参して疑問を解消したそうです。わからないなら知っている人に聞く、それは普通のことです。brown peopleを茶色い人間とほんやくしていますが、混血の人たち(coloured)のことで、自分たちのことを茶色い人間とは呼ばないでしょう。ひょっとしたらアパルトヘイト政権が人種別にWHITE, ASIAN, COLOURED, BLACKと分類し、EnglishとAfrikaansを公用語にしていたという史実も知らなかったのでしょうか。ほんやくを依頼された人も依頼した出版社も、お粗末です。

1987年にカナダに亡命中のセスル・エイブラハムズさんをお訪ねしたご縁で翌年ラ・グーマ記念大会に招待されてゲストスピーカーだったブランシ夫人とお会いしました。1992年にジンバブエに行く前にロンドンに亡命中の夫人を家族で訪ねました。そのご縁で、ある日ブランシ夫人の友人リンダ・フォーチュンさんから『子供時代の第6区の思い出』(1996年)が届きました。ラ・グーマやブランシさんや著者のリンダ・フォーチュンさんが生まれ育った第6区の思い出と写真がぎっしりと詰まっていました。

その人たちの残した尊い作品を見るにつけ、ほんやくをする人の気持ちの大切さが思われてなりません。

第6区ハノーバー通り

 本の巻末にラ・グーマの略年譜・著訳一覧・南アフリカ小史・ケープタウン地図をつけました。

執筆年

1989年

収録・公開

註釈書、Mondo Books

ダウンロード

A Walk in the Night by Alex La Guma

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信28(2021/3/20)

 

アングロ・サクソン侵略の系譜25:体制再構築時の狡猾な戦略―ガーナとコンゴの場合

第二次世界大戦直後に、それまでの植民地体制から新たな搾取構造を構築した際に取った「先進国」側の狡猾な戦略について絞って書きたいと思います。第1回Zoomシンポジウム↓で大雑把に紹介した内容の詳細です。→「Zoomシンポジウム2021:第二次世界大戦直後の体制の再構築」

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

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第1回Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―第二次世界大戦直後の体制の再構築

日時:(2021年2月20日(土)10:00~12:00発表:

発表者:

玉田吉行(多文化多言語教育研究センター特別教授):「体制再構築の第一歩―ガーナとコンゴの独立時」

寺尾智史(同センター准教授):「列強による分断の果てに――赤道ギニアのビオコ島、アンゴラ飛地のカビンダの現代史」

杉村佳彦(同センター講師):「マオリの都市化―戦後不況を乗り越えて得たもの―」

司会:中原愛(地域資源創成学部2年)

参加者:キム・ミル(地域資源創成学部2年)、得能万里奈(地域資源創成学部1年)、SILUMIN SENANAYAKE(工学部3年)、山田大雅(工学部1年)、國本怜奈(農学部1年)、金子瑠菜(防衛大医学部1年、杉井秀彰(工学部2年)、ルトフィア・ファジリン(宮大研究生)、ユ・ハンビッ(元宮大留学生)

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① はじめに

この五百年ほど、アングロ・サクソン系を中心にした欧米諸国は、奴隷貿易による資本蓄積によって農業中心の社会から産業社会への「近代化」をはかり、奴隷制や植民地支配体制で暴利を貪り続けてきました。植民地争奪戦が余りにも苛烈で世界大戦の危機を感じて、宗主国はベルリンで会議を開きましたが、結局二度の世界大戦で殺し合いました。その結果、欧米諸国と日本の総体的な力は低下して、それまでの植民地支配による搾取構造を続けられなくなり、新しい形の搾取体制を再構築せざるを得なくなりました。自称「先進国」は自国の復興に追われますが、それまで抑えられていた「発展途上国」は欧米諸国に留学していた若き指導者を中心にそれまで無視され続けて来た権利を奪い返すために独立運動を展開し始めました。「発展途上国」の総体的な力が上がったわけではありませんでしたが、時の勢いとは恐ろしいもので、いわゆる祖国解放に向けての変革の嵐(The Wind of Change)が吹き荒れました。今回はガーナとコンゴでその時に取った「先進国」の狡猾な戦略に絞って書いて行きます。②ガーナの場合、③コンゴの場合、④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、の順に書いて行こうと思います。

取り上げるのはガーナとコンゴ、資料はクワメ・エンクルマとトーマス・カンザの著書とバズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」です。ガーナの初代首相エンクルマは自伝『アフリカは統一する』(Kwame Nkurumah, Africa Must Unite, 1963)を、トーマス・カンザは『パトリス・ルムンバの盛衰』(Thomas Kanza, The Rise and Fall of Patrice Lumumba, 1978)を書き残しています。

「アフリカシリーズ」はアフリカを誰よりも総体的に眺められた英国人バズル・デヴィドスンの映像です。そこにはもちろん、二人の生き証人も登場しています。1983年にNHKで放送された45分8回シリーズの番組で、英国誌タイムズの元記者で後に多数の歴史書を書いたデヴィドスンが案内役で、日本語の吹き替えで放送されています。アーカイブにもなく、今となってはとても貴重な映像です。1980年代半ばに、先輩の小林さんの世話で大阪工業大学で非常勤講師をしている時に、英語の授業で使っていたLL教室でコピーさせてもらい、その後映像ファイルにして英語や教養の授業でも継続的に使ってきました。「アフリカシリーズ」については「続モンド通信」の連載の一つに書きました。「アングロ・サクソン侵略の系譜17:『 アフリカの歴史』」「続モンド通信20」2020年7月20日)

「アフリカシリーズ」

② ガーナの場合

それまで押さえつけられていたアジアやアフリカで独立に向けての胎動が始まったとき、宗主国はそれまでのようにその動きを押さえにかかりました。しかし得策ではないと見るや、押さえるのをやめ、独立過程を妨害して国を混乱させ、政敵を担いで軍事政権を樹立する戦略に切り変えました。予想以上に変革の嵐が激しかったのと、第二次世界大戦で疲弊した自国の復興に追われて植民地支配どころではなかったからです。混乱を引き起こし、これ見たことかと誹謗中傷し、アフリカ人に自治の能力はないと嘲りました。

ガーナは当時イギリス領ゴールド・コーストと呼ばれ「模範的な」植民地でしたから、欧米に留学経験のあるエンクルマなどの若き指導者に率いられる運動を押さえるために指導者を投獄して抑えにかかりましたが、時の勢いは抑えきれませんでした。そこで、戦略変えました。抑えきれないなら、独立の過程を可能な限り妨害したのち、「民主主義的な」選挙を経て独立を承認→独立後国内を混乱に陥らせたのち別の指導者を立ててクーデターを画策して軍事政権を樹立、傀儡を操作して国外から支配を継続する、という流れでした。のちに他の植民地でもほぼ同じような経過を辿っています。

1947年に故国に戻り、統一ゴールドコースト会議の書記として精力的に活動をしていたエンクルマが、大衆に促されてその職を辞して会議人民党 (Convention People’s Party) を指導して行くことを決意した時のことを次のように書き残しています。

「私を支持してくれる人びとのまえに立ちながら、ガーナのために、もし必要なら、私の生きた血をささげようと私は誓った。

これが黄金海岸の民族運動の進路を定める分岐点となったのだ。イギリス帝国主義のしいた間接統治の制度から、民衆の新たな政治覚醒へと ? 。このときから闘いは、反動的な知識人と首長、イギリス政府、「今すぐ自治を」のスロ一ガンをかかげた目ざめた大衆の三つどもえでおこなわれることになったのだった。」(エンクルマ著、野間寛二郎訳『わが祖国への自伝』筑摩書房、1967年(Kwame Nkrumah, The Autobiography of Kwame Nkrumah, 1957))

「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」

会議人民党を率いるエンクルマは大衆の圧倒的な支持を得て、即時の自治を要求しました。当時エンクルマの右腕だったコモロ・べデマは当時の様子を次のように話しています。

「私たちは若く行動的で、演説も力強かった。もちろん、エンクルマの人柄も若い人をひきつけました。急進的で、確かに先輩たちより多くのものを求めました。即時自治も求めました。新憲法である程度の自治が認められましたが、私たちの要求は完全自治でした。」(「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」)

エンクルマは当選し、1957年に初代首相になりました。しかし、政権に就き、首相官邸に入った初日からイギリスの悪意を思い知らされることになりました。当日のことを伝記に次のように記しています。

「遺産としてはきびしく、意気沮喪させるものであったが、それは、私と私の同僚が、もとのイギリス総督の官邸であったクリスチャンボルグ城に正式に移ったときに遭遇した象徴的な荒涼さに集約されているように思われた。室から室へと見まわった私たちは、全体の空虚さにおどろいた。とくべつの家具が一つあったほかは、わずか数日まえまで、人びとがここに住み、仕事をしていたことをしめすものは、まったく何一つなかった。ぼろ布一枚、本一冊も、発見できなかった。紙一枚も、なかった。ひじょうに長い年月、植民地行政の中心がここにあったことを思いおこさせるものは、ただ一つもなかった。

この完全な剥奪は、私たちの連続性をよこぎる一本の線のように思えた。私たちが支えを見い出すのを助ける、過去と現在のあいだのあらゆるきずなを断ち切る、という明確な意図があったかのようであった。」(野間寛二郎訳『アフリカは統一する』(理論社、1971年、Kwame Nkrumah, Africa Must Unite, 1963)

『アフリカは統一する』

イギリスの思惑通り、ベトナム戦争終結に向けて毛沢東と会談するために中国を訪れている時にクーデターが起き、結局エンクルマは生涯祖国に戻れませんでした。1972年にルーマニアで寂しく死んだと言われています。

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(「黒人研究」第55号、1985年)

③ コンゴの場合

パトリス・ルムンバ

コンゴの場合、ベルギーの取ったやり方は、もっと極端であからさまでした。1960年、ベルギー政府は政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置きませんでした。ベルギー人管理八千人は総引き上げ、行政の経験者もほとんどいませんでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、国民の圧倒的な支持を受けて首相になったパトリス・ルムンバの排除に取りかかります。当時ルムンバ内閣で国連大使に任命されていたトーマス・カンザは当時の模様を次のように話をしています。(のちに『パトリス・ルムンバの盛衰』(Thomas Kanza, The Rise and Fall of Patrice Lumumba, 1978)でも詳しく書いています。)

「私は27歳で国連大使となりました。閣僚36人中大学を卒業した者は私を入れて僅かに3人でした。

大国がコンゴに経済的な利権を確立するためにはルムンバが邪魔でした。私は国連でコンゴ危機を予め肌で感じました。国連軍は主にアメリカやヨーロッパ諸国から資金を得ていますから国連軍介入も遅れ、コンゴはたちまち国際植民地と化してしまったのです。」バズル・デヴィドスン作「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」(NHK、1983年)

危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しましたが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ・セセ・セコ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったかも知れません。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

『パトリス・ルムンバの盛衰』

「コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』」(1984年に「ごんどわな」25号に収載予定で送った原稿です。)→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」(「ESPの研究と実践」第5号、2006年)

④ アングロ・サクソン侵略の系譜の中で

2019年の後半からコロナ騒動の渦中にいる今、その騒動の実態を把握し、今後を予測するにはあまりにも大きすぎて途方にくれるばかりですが、歴史とはそういうもので、いつか全体像を把握できるときが来るのかも知れません。

今回科研費のテーマに選んだこの五百年ほどのアングロ・サクソン侵略の系譜も、元々あまりにも大き過ぎてまとめられるものではありませんが、それでも侵略された側が残した記録の中にその形跡を見つけ出すことは可能です。

人々の幸せな暮らしを夢見て大衆から圧倒的な支持を受けて初代首相になったエンクルマもルムンバも無残に排除されてしまいましたが、その人たちが、あるいはその人たちの周りの人たちが残した痕跡を、後の世の人たちが辿り、その中から何かを掘り起こすことは可能かもしれません。そういった意味では、エンクルマの『アフリカは統一する』も、トーマス・カンザの『パトリス・ルムンバの盛衰』も、バズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」も後の世の人たちに伝えたかった魂の記録で、今回の作業はその中から何かを取り出す作業だったんだと思います。(宮崎大学教員)

バズル・デヴィドスン

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信30(2021/5/20)

私の絵画館:アイリッシュ・セッター(ローラ)とマーガレット(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑨:贈り物(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜26:A Walk in the Night(玉田吉行)

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1 私の絵画館:

アイリッシュ・セッター(ローラ)とマーガレット(小島けい)

 私が乗馬で通う牧場の犬たちは、代々<アイリッシュ・セッター>という犬種です。賢くて人なつっこく、走るのが大好きな犬たちです、

通い始めて間もない頃、レイチェルという犬が子供を産みました。全部で何匹だったか、6~7匹もいたでしょうか。レイチェルは一生懸命にお乳をあげましたが、とても追いつきません。

すると、いつも横にいるお婆ちゃんにあたるルーシーのお乳が、突然出始めました。それからは毎日、交替で子供たちにお乳を飲ませる日々となりました。

そんなことが実際に起きるのだ!?と、生き物の不思議にびっくりしたのを覚えています。

「レイチェルと子供たち」

 お婆ちゃんのルーシーは、それから長く生きましたが、何年か前に静かに息をひきとりました。

オーナーのメグさんに、これでルーシーを描いてほしいと渡された写真は、目を閉じて寝ているルーシーに夕日が射し、毛が黄金色に輝いていました。

その毛の色が描きたくて、少し濃い目の紙を使いました。花は木立ちダリアを選びましたが。カレンダーのこの絵を見たある方が<この世ではないような>と言われました。

<ルーシーと木立ちダリア>

カレンダー「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」11月

 意識したわけではありませんが、ルーシーが天国で安らかに眠っていてくれたら……そう見えてもいいかなあ、と思いました。

いつのまにか年を重ねたお母さんのレイチェルも、ゆったり座っていることが多くなり、次はレイチェルとマーガレットを描きました。牧場にいる猫たち<ジェリー>(上)と<ジャガー>(横)にも登場してもらいました。

<レイチェルとマーガレット>

カレンダー「私の散歩道2015~犬・猫ときどき馬~」表紙絵

 牧場の下には日豊本線が通っています。

夕方に解き放たれた犬たちは、大喜びで牧場内を走り回りますが、時には雑木をわけ入り線路まで行ってしまうことがあります。

ずっと牧場で暮らしている犬たちはそのあたりのことがわかっているのでしょうが。やってきて間もないシェルターは、若くて元気がありすぎたため、ある日、電車にはねられて亡くなってしまいました。

<シェルターとログハウス> No. 54

カレンダー「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」11月

 このことがあってから、もう繰り返さないようにと、広馬場の少し上に、がけをけずって細長いドッグランが作られました。今では、みんないつでも自由に走り回っています。

<シェルター>では「モルディブの海」という絵も描きました。

<モルディブの海>

カレンダー「私の散歩道2019~犬・猫ときどき馬~」8月

 この絵を見たメグさんは、「シェルターを思い切り走らせてあげたくて。たった一度、シェルターだけを連れて海に行ったことがありました。その時のことを思い出します。」と静かに話されました。

シェルターが旅立った後にも、牧場では子犬たちが産まれました。何匹かいるなかで、牧場に残ったのがエリーとメイです。

幼なくて可愛いい二匹を、ラベンダー畑と一緒に描きました。

<エリーとメイとラベンダー畑>

カレンダー「私の散歩道2016~犬・猫ときどき馬~」表紙絵

 そしてこの絵は、レイチェルの子供の<ローラ>。2年前に亡くなった彼女を、オーナーがお好きなマーガレットと描きました。後ろは、牧場に何頭もいる、小さな種類の山羊です。産まれて間もないおぼつかない足どりで、ぴょんぴょん跳ねる子山羊たちです。

<ローラとマーガレット>

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」4月

(小島けい)

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑨:贈り物(小島けい)

人の世は、一年前よりもさらに、先の見通せない状況になっていますが。季節は、人知れずきちんと少しずつ移っていて、山の黄緑が勢いを増し<山笑う>頃になりました。

そのような自然のなか、鳥たちはいつも通りの営みを続けています。

2年前、アトリエのベランダの庇(ひさし)に鳥が巣を作りました。その時のことを私は<巣立ちの後に>(「ナミブ砂漠」「続モンド通信8」2019年7月20日])という文章で、次のように書きました。

「この頃の私は、<子供たち>が巣立ってしまった寂しさを感じています。今どこで暮らしているのだろう?と空っぽになった場所を見ては、思ってしまします。

2,3ヶ月前だったでしょうか。アトリエのベランダで、しきりに鳥のなき声がするようになりました。窓の外を見ても姿は全く見えませんが、声だけは確かにするのです。

ところがそのうち、家の猫たちが朝ご飯の後、そそくさと2階に上がっていくことに気が付きました。そしてある程度の時間をすごすと<やれやれ、今日のご用事が終わりましたよ>という満足気な顔で階段を下りてくるのです。

2階で何をしているのだろうと見てみると、アトリエの窓の外を、網戸越しに食いいるように見ています。猫たちの後で私も一緒に外を見ていると、しばらくしてベランダのすぐ横に付けてあるBSの丸いアンテナに、一羽の鳥がバサッバサッと音をたてて飛んできました。口には細長い枯れ草をくわえています。そして、その位置から再び羽を広げてま上に飛び上がりました。

鳥は雀の3~4倍の大きさで、ほっそりとした姿です。初めて見る鳥でした。

草は巣作りに使うのでしょう。鳥は毎日何回も草をくわえて運んできました。その度に必ずアンテナに止まるので、猫たちは間近に見る実物の鳥に色めきだち、今にも網戸を破りそうな勢いです。

アンテナから次に一体どこに飛ぶのかしらんと、鳥が遠くへ出かけた後ベランダに出てみました。するとベランダの屋根の端の方に直径10cmほどの丸い穴が空いています。2・3年前新しいクーラーに替えた時、その穴の横にあらたに管を通したようで。不要となった以前の穴は、簡単には防いだはずですが。それがはがれ落ちてしまったのでしょう。

鳥はその穴から天井部分に入り、巣作りをしているらしく、枯れ草のはしが板のすき間から何ヶ所もはみ出して垂れていました。

それから毎日、猫たちと私は折をみては窓の外を観察しました。鳥はあいかわらず、外から帰ると必ず一度アンテナに止まり、まわりを確かめてから数10cm上の巣穴へ入りました。

そのうち天井あたりから幼いなき声がひんぱんに聞こえるようになり、親鳥の動きも俄然活発になりました。バッタのような虫をくわえて帰ってきては、すぐまた再び飛びたちます。

ある時、巣の中の声が異常にけたたましくなり、大騒ぎしているので見てみると、穴から追い出された1羽のスズメが、あわてて逃げ出していきました。不法侵入者を家族総出で追いはらったのでした。

そうこうしているある日、親鳥とそっくりな形の小さな鳥が、巣からおりてきてアンテナに止まり、次に向かいの家の屋根に飛んでいきました。

卵からヒナにかえった子供たちが、とうとう外へ飛べるようになったのです。私は嬉しくて、下絵用のノートにメモ書きを残しました。6月25日でした。

その直後、九州南部では恐ろしいほどの大雨となり、やむなくアトリエの窓にもシャッターをおろしました。

数日後大雨が一段落して、そおっとシャッターを開けましたが。その時、鳥たちはもういませんでした。雨が止むのと同時に、巣立ったようでした。

小鳥たちの巣立ちに少し寂しさを感じつつ、猫たちと私の特別な<今年の春>が終わりました。

もうすぐ、夏です。」

今回も、しばらく前から毎朝ベランダのあたりでしきりに鳥の鳴き声がしていました。猫たちが何か用事ありげに、2階のアトリエに通うところも一緒でした。

それでも、<まさかねえ・・・>と半信半疑だったのですが。先日机にむかっていると、後ろでバタバタと音がします。気づかれないようにそっと外をのぞいてみると、エサをくわえた親鳥が、やはりアンテナに一度止まり、そこから上の巣へと飛びました。2年前よりも小さく、モズを少し細くしたような姿でした。

種類は違うけれど<また鳥が来てくれた!>

気のめいるようなニュースが多いなか、ふあっと心のどこかが明かるくなりました。

このひそかな喜びは<同じ空間に、人間とはちがう生き物が、平穏に暮らしているよ>という鳥からの贈り物のような気がします。

きっとあとひと月もすれば、子供たちも飛び立ってゆくのでしょうが。それまでは今年も、私と猫の楽しみの日々が続きます。

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3 「アングロ・サクソン侵略の系譜26:A Walk in the Night

概要

A Walk in the Nightは前回書いた『夜の彷徨』の註釈書です。→「アングロ・サクソン侵略の系譜26:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』 」続モンド通信29、2021年4月20日)

門土社の關功さんから薦められて大学のテキスト用に出版してもらったものです。実際の出版は予想以上に大変でアフリカ関係で利益が出ることはほぼないようです。印刷して下さった本は旧宮崎医科大学医学科の一年生と旧宮崎大学農学部、教育学部などの英語のテキストとして学生に買ってもらい、在庫はなくなりました。その後も本を出してもらいましたが、同じように学生に買ってもらいました。なかなか厳しかったです。

A Walk in the Night (1989年4月20日)の小島けい作の表紙絵で、南アフリカの街角を描いています。

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」で全体をご覧になれます。

表紙絵は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」(→」(「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」[「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年]に映画評を掲載しています。) の一場面をモデルに水彩で描いています。

本文

A Walk in the Night はラ・グーマの最初の作品でナイジェリアで出版されましたが、アメリカやイギリスでも簡単に手に入りました。すでに門土社から大学用のテキスト 版は出ていましたので、改訂版をということらしかったです。本文はイギリスのHeinemann Educational Book版のA Walk in the Night and Other Storiesから取ったようでした。イギリス英語で註をつけるのは結構大変でした。南アフリカの現役作家ミリアム・トラーディさんを宮崎にお招きしたときに知り合ったコンスタンス日高さんにいろいろ聞きました。ケープタウンにも住んだことがあるらしく、辞書ではわからないニュアンスも聞けました。

ナイジェリア版(神戸市外国語大学図書館黒人文庫 )

ラ・グーマは最初の物語A Walk in the Nightの舞台に自分が生まれ育ったケープタウンの第6区を取り上げました。1966年に強制的に立ち退きを迫られて、住んでいたおよそ5万人の人たちとともに消えてしまいました。(1988年11月28日の「タイム」誌の記事に、当時空き地のままに放置されていた第6区の様子が写真入りで紹介されています。)

「タイム」誌の記事から;第6区の今と昔

同じ年、ラ・グーマは家族を連れて南アフリカを離れ、ロンドンに亡命しました。

2回の世界大戦で西洋社会の総体的な力が低下したとき、1955年のバンドン会議を皮切りにそれまで虐げられ続けて来た人たち立ち上がり、本来の権利を求めて闘い始めました。アフリカ大陸には変革の嵐(The wind of change)が吹き荒れ、南アフリカでもアパルトヘイト体制に全人種が力を合わせて敢然と挑みかかりました。ラ・グーマも200万人のカラード人民機構の指導者として、同時に作家として戦っていました。

『夜の彷徨』はそんな闘いの中で生まれた作品です。1956年以来、逮捕、拘禁が繰り返される中で執筆されたもので、厳しい官憲の目をかい潜って草稿が無事国外に持ち出され、1962年にナイジェリアで出版されました。作家のデニス・ブルータスは『アフリカ文学の世界』(南雲堂、1975年)の中で「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中にも小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜員か国家警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである。」と紹介しています。作品は奇跡的に世の中に出たわけです。

A Walk in the Nightには、職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが第6区で過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれています。『全集現代世界文学の発見 9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に日本語訳が収められています。

今回はその日本語訳の一部について書こうと思います。アドニスが同じぼろアパートに住む落ちぶれた白人を瓶で殴り殺してしまったあと部屋に戻った時に、ドア付近で物音がして、警官が来たのではないかと怯える次の場面です。

His flesh suddenly crawling as if he had been doused with cold water, Michael Adonis thought, Who the hell is that? Why the hell don’t they go away. I’m not moving out of this place, It’s got nothing to do with me. I didn’t mean to kill that old bastard, did I? It can’t be the law. They’d kick up hell and maybe break the door down. Why the hell don’t go away? Why don’t they leave me alone? I mos want to be alone. To hell with all of them and the old man, too. What for did he want to go on living for, anyway. To hell with him and the lot of them. Maybe I ought to go and tell them. Bedonerd. You know what the law will do to you. They don’t have any shit from us brown people. They’ll hang you, as true as God. Christ, we all got hanged long ago.

「きっとおれはやつらに話しに行ったらいいんだ。ベドナード。おまえは警官がおまえをどうするかわかっているな。やつらはおれたち茶色い人間のことなど、これっぱしも聞いてくれやしない。やつらはおまえの首をつるしちまう、これは確かだ。ああ、おれたちは大昔から首つりにあっている。」が下線部の日本語訳です。問題はいろいろありそうですが、今回はBedonerd.→「べドナード。」の日本語訳に限って、です。

日本語をつけた人はおそらくBedonerdがわからなくてカタカナ表記にしたと思いますが、根はもう少し深いように思えます。

その人はBedonerdがアフリカーンス語だと知らなかったのではないでしょうか。ん?場所がケープタウンの第6区やと、主人公がカラードやと知ってたんやろか、と思ってしまいます。知っていれば、アフリカーンス語の辞書を引けば済むわけですし、たとえ知らなくても文脈から、くそっとか、そりゃだめだ、くらいのあまり品のいい言葉ではないと想像がつくはずです。(A Walk in the Nightの註釈書では、Bedonerdに「バカな。(Afr.)=crazy; mixed up」の註をつけました。)

野間寛二郎さんはこの本が出された頃にガーナの元首相クワメ・エンクルマのものをたくさん翻訳されていますが、わからなことが多いからとガーナの大使館に日参して疑問を解消したそうです。わからないなら知っている人に聞く、それは普通のことです。brown peopleを茶色い人間とほんやくしていますが、混血の人たち(coloured)のことで、自分たちのことを茶色い人間とは呼ばないでしょう。ひょっとしたらアパルトヘイト政権が人種別にWHITE, ASIAN, COLOURED, BLACKと分類し、EnglishとAfrikaansを公用語にしていたという史実も知らなかったのでしょうか。ほんやくを依頼された人も依頼した出版社も、お粗末です。

1987年にカナダに亡命中のセスル・エイブラハムズさんをお訪ねしたご縁で翌年ラ・グーマ記念大会に招待されてゲストスピーカーだったブランシ夫人とお会いしました。1992年にジンバブエに行く前にロンドンに亡命中の夫人を家族で訪ねました。そのご縁で、ある日ブランシ夫人の友人リンダ・フォーチュンさんから『子供時代の第6区の思い出』(1996年)が届きました。ラ・グーマやブランシさんや著者のリンダ・フォーチュンさんが生まれ育った第6区の思い出と写真がぎっしりと詰まっていました。

その人たちの残した尊い作品を見るにつけ、ほんやくをする人の気持ちの大切さが思われてなりません。

第6区ハノーバー通り

執筆年

1989年

収録・公開

註釈書、Mondo Books

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A Walk in the Night by Alex La Guma