1 私の絵画館:「りんちゃんとすずちゃんとメキシコ」(小島けい)
2 アングロ・サクソン侵略の系譜7:「修士、博士課程」(玉田吉行)
3 小島けいのジンバブエ日記:「1回目7月21日」(小島けい)
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1 私の絵画館:「りんちゃんとすずちゃんとメキシコ」(小島けい)
トイ・プードルのりんちゃん・すずちゃんの飼い主さんは、長い間メキシコで暮らしておられました。
そこで、絵の背景には<メキシコの太陽>と<ウチワサボテン><柱サボテン>を入れて、とのご希望でした。
知っているようで、実はあまりよく知らないメキシコでしたので、それから<メキシコの太陽>やサボテンがはえている大地の色などを、いろいろ調べました。
そして何回かラフ・スケッチのやりとりをした後、完成したのがこの絵です。
飼い主さんはこの絵をとても気に入って下さり、ご自分の行きつけのお店何軒かにも、この絵を使った個展の案内ハガキを、置いていただけるよう手配して下さいました。
今年ももうすぐ、大好きなりんちゃん・すずちゃんと飼い主さんにお会いできます。九月がとても楽しみです!
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2 アングロ・サクソン侵略の系譜7:「修士、博士課程」(玉田吉行)
前回(→「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」)紹介しましたように「リチャード・ライトの世界」で修士論文を書きましたが、修士課程に行ったのは、小説を書くには大学が一番よさそう、それには最低限修士は要るやろな、と思ったからです。
5年間の高校の教員生活に疲れ果て(とても面白かったのですが、教科にホームルームに課外活動とやたらすることも多く、書いたり読んだりするにはほど遠い毎日でしたので)、しばらくはゆっくり眠ってから、の一心で高校に在籍したまま、教員の再養成課程にもぐりこみました。兵庫教育大学大学院学校教育研究科教科・領域教育専攻言語系コース修士課程というえらい長い名前の課程です。5年の教員歴が受験資格、二期生、地元枠で優遇、管理職になりたい人のための課程、そんなことも後で知りました。
入学試験を受けるのに卒業大学の教官の推薦書が必要とのことで、愛校心などまるでない僕は、結局講義でマルクスの労働と人間疎外の問題を何やら熱く語っていたかすかな記憶を手繰り寄せ、その教官の住む奈良の自宅までおずおずと出かけました。「管理職を養成して職員を分断支配することを目論む教員再養成の大学院の新設に私は強く反対している、お前は何を考えているのか」、とその人に怒鳴りつけられ、結局、推薦書は書いてもらえませんでした。試験当日、試験会場の甲南女子大学の校門前でその人はマイクを持って大声で演説をしていました。やめて帰えろ、と引き返していましたら、車が止まって受験生らしき人から甲南女子大学はどこですか?と聞かれました。ここぞとばかり乗り込んで一気に校門を突破しようと目論んだのですが、車は校門の真正面で止められ、人だかりの中に放り込まれるはめに。お前、その髭で教育出来るんか?放っといてくれ。
結局、もみくちゃにされ、こづかれ、押されて、気がついたら、校門の中、ま、いいや、このまま試験を受けよ、それが後から振り返れば、大きな分岐点となりました。
マイクを持って日教組の旗振りをしていた人は、大学紛争で学生側につき反体制の姿勢を示していたようですが、のちに学長になりました。それも、二期も。人に熱心に票を頼んでましよ、と同僚だった後輩が言っていました。言うこととすること違うなあ、と思いますが、給料と手当てまでもらいながら、入学式も欠席、学校もろくに行かないまま、修了、そんな僕が偉そうなことを言えるとも思えませんが。
そして、「リチャード・ライトの世界」という修士論文が残りました。
その修士論文で、京都、大阪市立、神戸大学の博士課程を受けましたが、すべて不合格、(「黒人研究」に2本だけ)のに大学の職が見つかるわけないわなあ、どうしよう、と文字通り途方に暮れました。
教員の再養成課程でしたから、本来は高校に戻るべきですが、校長に会って事情を話すと、大学でがんばって下さいとすんなりと承認してくれ、無事無職になりました。
7年間在職した兵庫県立東播磨高校
それでも、お世話になっていた小林さん(当時大阪工業大学一般教育英語科の教授)が夜間課程の英語の非常勤3コマを用意して下さっていました。教育歴なし、研究業績殆どなしで、よう取ってくれはったなあと今は思いますが、1985年、1コマ16000円、月に4万8000円の浪人生活の始まりでした。
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3 小島けいのジンバブエ日記:「1回目7月21日」(小島けい)
今年の6月、住宅地に咲くジャカランダの花を見て、<この花を見ると、いつもアフリカの旅を思い出すよ>と相方に話したところ<机を整理していたら、こんなのが出てきたけれど・・・>と、一冊のぶ厚いノートを渡してくれました。
それは、私たち家族がアフリカ・ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の記録でした。私は旅の初めから毎日、その日の出来事を書きとめていましたので、きっとノートは何冊にもなっていたはずですが、今残っているのはこの一冊だけでした。
ノートを開くと、今まですっかり忘れてしまっていた大変な日々がそのままよみがえり、読んでいくうちに心が苦しくなるほどでした。
あの夏から27年すぎましたが、アフリカの状況はさほど変わっていないような気がします。
そこで、忘れきってしまう前に、実際にあったアフリカでの毎日を、一部だけでも書き残したいと思いました。
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1回目:7月21日
1992年の夏、私たち家族は「アフリカで暮らす」ということだけを目標に、ジンバブエの首都ハラレで、3ヶ月をすごしました。
ジンバブエの地図
行く前もそうでしたが、帰った後も、アフリカは遠い。日常の雑事に追われていると、時の流れも加わり、あの鮮烈だった日々がどんどん遠ざかり薄れていきます。
「旅は終わった。けれど、私のアフリカは今から始まる」と旅の終わりに思いました。その想いを消さないためにも、ハラレでの<普通>の毎日を、少し書き綴ってみようと思います。
(1) 7月21日(快晴)ハラレ着
アフリカ文学、特に南アフリカの「アレックス・ラ・グーマ」の作品を読んでいた相方は、留学先に南アフリカを望んでいましたが、当時まだ日本とは教育や文化の交流が禁止されていました。
アレックス・ラ・グーマ(けい画)
ケープタウン遠景:テーブルマウンティンを望む
そこで南アフリカに一番近く治安も良いと聞くジンバブエの、ジンバブエ大学に短期留学を決めました。さらに14歳の娘と10歳の息子を、短かい期間でも現地の学校に通わせたい。そのような希望を実現するために、在ハラレの吉國さんご夫妻に多大なご迷惑をかけ、白人街に一軒の家を借りました。
私たちの滞在中スイスに里帰りする老婆の家は、月額10万円。大学の敷地に近く、広い道路をはさんで「アレクサンドラパーク小学校」があるという、願ってもない場所です。約500坪の家は、広い芝生の庭とL型の建物から成っています。玄関を中心に、広いリビング、食堂と明かるい台所。そして寝室が3つです。
500坪の借家
まず驚いたのは鍵の多さです。玄関の1枚のドアに3箇所、そこからどの部屋に行くにもまた鍵です。さらに、鏡台やたんすの引き出し、冷蔵庫に至るまで、家中が鍵だらけでした。
また家具付きとは聞いていましたが、庭番のゲイリーと番犬のデインもいました。すこぶる大きなデインが黒人に吠える姿には迫力がありますが、私たちには最初から吠えませんでした。きっと小さな時から、黒人にだけ吠える訓練をされているのでしょう。
日本の家に比べるとずいぶん大きなこの家ですが、プールや夜間照明付きのテニスコートのある両隣りは、敷地も数倍あり、庭番も3、4人います。
ゲイリーとデイン
何はともあれ、まずまず快適なこの家で、私たちのアフリカでの生活が始まりました。