つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:借家に

 最悪の宮崎初日は宿泊所を移動して朝を迎えた。二日目も雨で、やはり肌寒かった。入る予定の借家に向かった。タクシーに乗り、中心街の橘通や宮崎駅を越えて、宮崎神宮駅(↑)より少し北の地域にある借家に15分ほどで着いた。紹介してくれた人の持ち家で、百坪余りあるようだった。10年余り住んでいた中朝霧の家と同じくらい位の敷地なので、狭い思いはしなくて済みそうである。話では、旧宮崎大学はこのあとすぐの4月1日から家から20キロメートルほど南にある学園木花台に移転する予定だった。宮崎神宮辺りに県立図書館などの文化施設があり、その近辺に教育学部と農学部と工学部の別々のキャンパスがあるらしかった。推薦してくれた人は元々旧宮崎大学農学部におられた方で、通勤圏内に分譲されていた新築の家を購入されていたようだが、これから行く宮崎医科大学に異動したので、通勤圏内の南宮崎駅近くに新築の分譲住宅を新たに購入したと聞く。宮崎駅から大淀川を越えて駅一つ南の駅付近である。今は宮崎駅近辺に中心が移っているが、昔は南宮崎駅辺りが中心だったらしい。宮崎交通の経営する宮交シティというショッピングセンター(↓)があり、今はなきダイエーも入っていた。その人が異動で新しい家に移ったあと、そのままにしていた家を借りたというわけである。

 大学の英語科には同僚となる助教授の人がいるらしく、私が着任するのでその人が秋から在外研究に行けるらしく、現在持っている農学部の英語の非常勤を任せたいらしかった。全学の英語は教育学部の英語科が世話しているようなので、まだ旧校舎にいる英語科の人に会いに連れて行ってもらえるらしい。新学期の始まる前に二人で会いに行ったら、私が通った神戸の大学と同じように木造の2階建ての建物だった。建てられた時期が同じで、仕様が似ていたんだろう。教育学部の前身が旧宮崎女子師範学校で、このあと文科系の大学が用地を活用すると言っていたが、作るかどうかも含めて話し合いはこれからだそうである。人口が30万人ほどの地方都市に大学?と思ったのは、百万都市の神戸市でさえ、市立大学を維持するのは財政的に難しいというような話を聞いたことがあったからである。前身が農業専門学校と工業専門学校だった農学部(↓)と工学部も近くにあったらしい。同僚に紹介されたのは教育学部英語科の主任の人だったようで、上智大出身でイギリス文学が専攻、言葉遣いも丁寧な英国紳士風、だった。

 家は1階は6畳3部屋に台所兼食堂、2階は6畳2部屋で、東側の玄関先と南側に庭、西側に広い畑があった。子供が2階、私は西の6畳、妻は6畳二間続き、テレビを6畳二間続きに置いたので居間を兼ねそうである。南北の風通しはよさそうである。南が2軒、東が1件、西が1件と隣り合わせだが、西は畑が間にあるので直接接しないでもよさそうである。北側がわりと近いので、今のところ家がないのは有難い。妻の父親が滞在するときは、子供部屋にどちらかに泊ってもらい、子供に移動してもらうことになりそうだ。
 妻は引っ越し作業が落ち着けば、毎日でも描きたいとうずうずしている。娘は近くの小学校に、息子は幼稚園に行くことになりそうである。幼稚園はすぐ近く、小学校もそう遠いなさそうで、どちらも近いうちに挨拶を済ませておこう。少し東に県道があり、そこから東に少し行けば日向灘である。自転車も運んで来ているので、いろいろ探ってみよう。この日、郵便受けに最初の郵便物が届いた。予め引っ越し日を知らせていたので、この日に着くように出されたものらしい。出版社の社長さんからの分厚い手紙だった。
 次は、初めての郵便物、か。

すぐ近くにあった宮崎神宮

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:お別れ

 その時はそうも思わなかったが、私たちが宮崎に行ってしまったら会うのはこれが最後になると知って「中朝霧丘」の家に来て下さった人がいた。妻からその人の話はよく聞いていたが、お会いしたのはその時が初めてである。妻が異動して通った高校で同僚だった人である。中朝霧の家の最寄り駅はJR朝霧駅(↑)で、一駅西が明石駅(↓)、次が西明石駅でその駅までは複々線である。その区間も含めて海側には神戸と繋がっている山陽電鉄が走っている。公共の交通の便はいい。市立商業高校はその私鉄沿線にあったので、妻は明石駅から山陽電鉄を使っていた。その人の家は海岸近くの高校と私鉄の駅のすぐ近くにあったようである。

 私よりだいぶ年上の人で、戦前に旧京都帝国大學の法学部に入ったらしい。妻の父親が九州の国立大工学部を出て、私たちが転がり込んだ家に定住するまで大手の紡績会社の技術職として工場を転々としていたが、工場長の待遇はかなりのもので、スラム同然の地域に住んでいた私と比べると、同じ時代に生きていたとはとても思えなかった。多くの人が大学に行ける今とは違って国立大学に行く人の割合は極めて少なく、その中での旧帝大系の東大は別格、それに次ぐ大学である。卒業して順調に行っていれば、相応のポジションにいて、相応の生活をしていたはずである。その人がどういう経緯で市立商業高校(↓)の英語教師をしていたのかはわからないが、二人目の息子が生まれた直後で妻が一番大変な時期にお世話になった。家事に育児に私の母親の借金にとほんとうにぎりぎりの毎日だったし、一年目から担任していたクラスでは「わたしせんせの言うことわからへん」と言われることも多く精神的にもきつかったから、学校での理解と助けは特別だった。産休明けに妻が担任を持たずに済んだのも、図書部所属で長に配慮してもらったお陰である。授業時間以外は図書室の一室であまり気を遣わずに過ごせたので、大部屋の職員室にいなくても済んだ。同じ時期に産休明けで出て来た同僚が、どうしてあの人だけ担任を持たなくていいの?と漏らしたと聞く。

 その後、妻は神戸市の普通科の新設校に異動し、最後は家の近くの自分の通った高校(↓)に異動した(→「再び広島から」)が、ずっとその人との遣り取りは続いていたようだ。いつの頃からか、年末に弟の家とその人の家のおせち料理も作るようになっていた。高校の職と子供二人の世話に食事や家事だけでもかなりの負担だったのに、共働きの弟夫妻も母親の借金返済のために大変な思いをしていたので、せめておせちでもと毎年渡すようになっていた。ちょうどお世話になっている時期だったので、その人にも日頃のお礼にとおせちを持って行くようになった。その人は妻を33歳で亡くして以来、障害のある幼い娘さんを一人で育てていた。年末には二人で「魚の棚」に出かけ、昼網の鯛や生きた海老を買い込んで、妻が料理した。煮物には時間もかかる。妻の母親からは結婚したら料理をするから、今は料理せんでもいいよと言われて育ったようなので、料理の経験はなかったが、結婚した最初から家で料理もしてくれたし、弁当も作ってくれた。妻の父親も子供ももちろん私も、毎回おいしく食べさせてもらっていた。運んだおせちも、いつもなかなかの味だった。昼網で仕込んだ魚介類は、酒好きのその人には格別だった気がする。

 その日はお昼前に家に来られた。妻がおせちの支度をしている間、お昼と夜の二食の相手は私の役目だった。お酒が大好きな人で、日本酒の熱燗をちびりちびりやりながら、ほんとうにおいしそうに食べていた。私は今はまったく飲まないが、その頃はビールを少しは飲んでいた。元々アルコールは体に合わないようだし、無理やり飲まされる場所を極力避けていたこともあって、酔い潰れたことはない。酔う前に、戻してしまうことが多かったのは、無意識に体の防御作用が働いていたのかも知れない。その日は、ビールを少しずつ飲んで、もっぱら聞き役に回った。素敵な人の話は長時間聞いていても、飽きることはない。楽しいひと時だった。十時くらいだったか、そろそろお暇をと立たれて玄関で挨拶をしたとき、人目を憚らずにはらはらと涙をこぼしておられたが、その人の生き方の結晶のような涙に思えた。おせちを抱えて、暗闇の中を帰っていった。私たちはいつでも会えると考えていたが、会ったのはその時が最後だった。年賀状は毎年届いて歌が添えられていたが、ある年から年賀状も来なくなった。妹さんから、少しぼけが入り出しまして、というはがきをもらったのが最後である。
 次は、横浜から、か。

山陽電鉄

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:横浜から

 宮崎に引っ越しをする前に、もう一組「中朝霧丘」の家に来て下さった人たちがいる。「横浜」の出版社の社長さんと編集者の人である。二人が来られるというので、先輩にも初めて家に来てもらえた。グギさんの友人も是非にという出版社の社長さんのたっての願いで、総勢4人になった。先輩は筋金入りの酒好きで、指導主事は退任する際に次の人を指名するという旧弊のお陰で33歳の若さで声がかかった強者である。「塩屋の海岸(↑)で釣りしてたら、『わし今年で退職やけど、あんた指導主事どうや』と電話がかかって来てな。いつもいっしょに飲んでる酒友だちからや。33歳の時やったなあ」と話をしてくれた(→「あのう……」)ことがある。その日も→「魚の棚」(↓)の昼網の海老や鰈を肴に好きな酒を飲みながら、終始上機嫌だった。

 グギさんの友人も酒は嫌いではないようで、同じくほろ酔い加減で終始上機嫌だった。黒人という言葉がよく使われるが、ビコが裁判で反論していたように「ブラックと言うよりブラウン」に近い。漆黒というより濃い目のブラウンの感じに近い。酒が入ると血の巡りがよくなって少し赤みを帯びる。ブラウンがかった葡萄色のような色合いである。母国語がギクユ語でナイロビ大学では講義はすべて英語、日本に来てからは日本語、他にもいつだったか、宮崎の大学で「いっしょにバスケットボールの試合をしていた(↓)人がルヒア人だった」という話をしたときに、「ルヒア語もわかるよお」と言ってたから、数か国語は出来るようだった。もっとも英語も日本語も関西訛りが入っているような独特の口調だった。全体にちょっとペースがゆっくりで、せっかちな私は時々苛々して揶揄(からかう)う時もあった。特に「イギリスに侵略されてキリスト教を押し付けられた」と言っているわりには、本人もグギさんもクリスチャンで、当然のような顔をしているのがどうも気に入らなかった。それもあって「侵略されて何がクリスチャンやねん?おかしいやろ」とかみついたら「実は、たまださん、元々ケニア山の麓には神様がいてはって。それがキリスト。ですからキリストは元々白人やないんやねん、黒人やったというわけです。だからクリスチャン」とぶつぶつ言っていた。先輩は「まあまあ」と言いながら、真っ赤な顔で上機嫌が続いていた。

 社長さんは、縄文時代は……とか、アフリカとアジアは……とか、相変わらず壮大な話を展開、先輩とグギさんの友人もその話に同調して意気投合、反アングロ・サクソン系の侵略の歴史認識が前提で話が続いている感じではあったが、聞いてる方はなんだかよくわからなかった。大体、終始そんな調子だった。妻は料理に忙しく、子供たち二人は大人の話を充分に理解しながら、一緒に座って話を面白そうに聞いていた。妻の父親の家の一番いい部屋を長時間独占しての我が物顔、可愛い娘と孫二人のためとは言え、今から思うとその寛容さに感謝するばかりである。わが身の図々しさは、この上なしだった。金大中や金芝河さん(→「1」、→「2」、→「3」、→「4」→、「5」)の死刑判決に抗議してグギさんが川崎で講演したときに後輩として手助けしたために、帰国すれば反体制分子として殺される状況にあったグギさんの友人。グギさんに会いにケニアを訪れ、グギさんの日本語訳を出版し続けている出版社の社長さんと編集者。私とグギさんの友人の非常勤を世話し、グギさんの日本語訳をその出版社から出してもらった先輩。その人たちが酒を飲みながら、主に社長さんと先輩とグギさんの友人が繰り広げた、時代と社会の枠を越えた寄多噺だった。

金芝河さん:『不帰』の扉写真

 宮崎へ引っ越したあとすぐに、黒人研究の会の総会でこの時の3人ともう一人の会員とでシンポジウムを開催した。専任になり損なった大阪工大が会場だった。妻には出版社の社長さんから演劇の本の装画を依頼され、私には雑誌の記事のほか、大学用テキストや翻訳本の依頼もあった。前年のカナダ訪問時に、翌年の発表を言われていたので、着任早々から次から次へとすることが待ち受けていた。
 次は、宮崎へ、か。

宮崎医科大学(旧ホームページより、今は宮崎大医学部、花壇の一部は駐車場に)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:宮崎へ

 私は非常勤ばかりだったので特別に挨拶の必要もなく、先輩に報告するだけでよかったが、妻はやっと家の近くの自分の通っていた高校(↑)に異動出来た一年目で退職することになって、それなりの挨拶もあった。子供も二人あり、異動先近くの父親の家に同居している人がまさか一年目で退職すると考える人はいなかったようで、他の教員とはうまく行かないが頼りにされ始めていた同じ国語科の男性教員が、特にがっくりとしていたらしい。異動した年に県立高校からは珍しく県代表で野球部のチームが甲子園に行った。中学校から、普通なら特待生として私学に引き抜かれる投手二人が入学して来たらしく、あれよあれよろいう間に甲子園に行くことになった。私も妻も高校野球に関心があったわけではないが、担任した生徒は大喜び、当日は子供二人も担任の生徒に混じって応援に行ったようだ。そんなこともあって、ときどき学校帰りに生徒が家に寄ってくれたりしていた。引っ越し前にはわざわざ何人かが挨拶に来てくれた。宮崎に来てからも、何年かは年賀状が届いていた。宮崎の話がなければ、高校を辞める理由もないので、そのまま続けていた可能性は高い。私の大学の口以外は、充分にそれぞれが楽しく過ごしていたわけである。

 本人は二人の出産に家事に育児に、その上私の母親の借金までが重なって大変な毎日、元々体も弱かったので、客観的に見てもそのまま続けるには負荷がかかり過ぎていた。若さと母親の自覚だけで持っていたので、「再び広島から」電話があって「宮崎決まってんて」と話したとき「ほんと、わたし辞めてもいいの?」が第一声だった。また妻の父親が一人暮らしになるが「熊本の人やから九州には馴染みもあるし、気軽に宮崎に来られるから、パパは大丈夫よ」とも言っていた。妻の父親は上3人が男の子で、妻がずいぶん年が行ってから生まれた初めての女の子だったこともあり、ずいぶんの可愛がりようだったらしい。しかし、当の本人はそれほどでもなく、父親が結婚相手の身上調査でもしようものなら「家を出て行くで」と3番目の人に脅されて、父親が私の身上調査を断念したと聞く。一番目の時は実際に調査を依頼して反対をしたが、結局は押し切られたらしい。娘の小学校(↑)と息子の幼稚園にも挨拶を済ませた。

 なかなか大学の職が決まらず、やっと決まった先が遠い宮崎になってしまったが、単身赴任は考えたことはない。4人がいっしょの方がいいと親二人は考えていたし、子供二人は特に反対もしなかった。問題はないと子供の意向について考えもしなかったが、一言聞いておくのが自然だったかも知れない。普段から、親と子もたまたまの縁で、元々別の人間やからと言っていたのだから、尚更である。飛行機で事故にでも遭ったらと心配した妻の意向で、列車で行くことにした。3月28日の朝、西明石駅(↑)から新幹線に乗った。妻の父親と弟夫婦と甥が見送りに来てくれた。小倉で日豊本線の特急(↓)に乗り換え、宮崎に着いた。

 宮崎に着いたのは夕方でまだ明るかったが、雨模様で肌寒かった。知り合いに任せていた宿泊先は国家公務員宿舎だったが、これがよくなかった。トイレと浴場が共用、それに食事がお粗末過ぎたし、建物自体も古くて饐(す)えた臭いもして、侘しい感じが漂っていた。学校が終わってから遅くまで引っ越しの荷造りが続いていたし、荷物を出した後も前の晩まで何やかやと大変だった。当日も朝早くから起きて出る間際までいろいろ出発準備に追われていたし、新幹線はまだしも、小倉からの特急の5時間が特に長かった。宿泊所に着いた時は、ほっとして余計にどっと疲れが出始めていた。元気なら一日くらいは何とか我慢できたかも知れないが、強行日程のあとの妻には酷だった。それに南国だからという思い込みで、3月末の宮崎の寒さへの備えも不十分だった。色んな要素が重なり過ぎたのである。すぐにホテルを探し回って何とか近くのホテル(↓)をみつけて移ったが、辺りはすでに真っ暗で、雨も降り続いていた。何とも後味の悪い、最悪の宮崎初日だった。
 次は、借家に、か。