つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:サンフランシスコ2

 初めてのアメリカが「サンフランシスコ」(6月19日)だった。1981年の夏で、同じ時期にエイズ患者が出た(↑)という歴史的な出来事があったことも全く知らなかった。アメリカも5回目、初めての英語による発表である。サンフランシスコまで5歳の息子にはきついからと、「ハワイ」(8月1日)を経由した。ワイキキの浜(↓)に出て、ホテルのテラスから夕陽を眺めた。真冬のクリスマスイブに日本を出て、真夏のクリスマスの朝にホノルルに着いた。サンフランシスに着いたのは夜で、夜霧のサンフランシスコではなかったが、細かい雨が降る晩秋の雰囲気だった。

 「MLA(Modern Language Association of America)」は文学や語学の全米でも大きな学会で、毎年会場を持ち回りするようで、その年はサンフランシスコ(↓)だったわけである。日本でもそうだが、会場の持ち回りに合わせて家族旅行を楽しむ人もいる。名目があれば、大学の研究費も使いやすいからである。私は学会自体が苦手なので余程のことがない限り行かなかったが、周りでも全国大会は必ず行く人が多かった。精勤に行けば実益も兼ねて全国を巡ることが出来るというわけである。アメリカの場合は日本と比べ物にならないほど広いし、長期休暇を取って旅行に出かける率が高いそうなので、その傾向はより強いのではないか。サインフランシスコは気候も極端な暑さや寒さとは無縁のようだし、行ってみたい場所も多い。

ゴールデンゲイトブリッジ

 夏にラ・グーマの話を聞きに行ったエイブラハムズさん(→「1」、→「2」、7月30日~31日)も夫婦(↓)でサンフランシスコに来ると言っていた。カナダはアメリカに近いから、アメリカの学会とも深い繋がりがあるようだ。次の年にエイブラハムズさんが主催した会議にはアメリカからの参加者も多かった。エイブラハムズさんやグギさんのように亡命して大学の職にいる人も多い。もっともサンフランシスコには二人でMLAには行くけど「ヨシの発表には行かないでおくよ。アメリカのアフリカに関する発表の程度はわかってるから、聞きに行くのも気の毒だしね」と、にやーっと笑いながら言っていた。南アフリカだけでなくアフリカや世界情勢についての基本的な素地が欠けているのを、3日間で見抜かれてしまっていたわけである。その後数十年間南アフリカを皮切りにガーナ、コンゴ、ケニアなどの歴史や情勢を詳しくみていくに連れて、全体像を把握するだけでも時間がかかるものだと嫌でも思い知らされた。

 学会がホテルを借り切って、会場として使用し、会員はホテルに宿泊、料金は大幅に割り引きされていた。普段泊まるホリデイインよりも更に豪華な(↓)だった。案内された部屋はかなり広い二部屋続きのスウィートルームだった。きっと手違いだと思うとフロントと交渉して、二部屋の少し小さい方の部屋を使うことになった。元々部屋を使う予定だった人が変更を知らされずに部屋をノックして一悶着あったが、なんとか一件落着である。部屋には大きなダブルベッドが二つ、子供たちは大はしゃぎだった。

 初めての英語の発表なので、少し準備もしたかったが、とてもそんな雰囲気ではなかった。ようやく子供たちが寝た後、一人で廊下に出て、長椅子に座り、発表予定のペーパーを小さな声を出して読んだ。しばらくしてそっと部屋に戻り、翌朝まだ眠っている3人を起こさないようにそっと部屋を出て、会場に向かった。会場には2年前にシンポジウムに誘ってくれた人も伯谷さん(↓、左側)も、部屋の前の方に座っていた。私を見つけた伯谷さんが立ち上がり「よく来てくれましたね」と言いながら近づいてきた。いよいよ英語での発表である。
次は、MLA、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ハワイ

 ハワイに行った。エンパイアステイトビルディング(↑)に登った時、エスカレーターで途中の階で降ろされ、展望台へのエレベーターを待つ人混みを見て以来(→「ニューヨーク」(6月21日)、名所と称される所には行かないと決めていたが、家族で有名なハワイに行き、ワイキキの浜にも行ってしまった。「ライトシンポジウム」(7月22日)で伯谷さん(↓)からの「MLA(Modern Language Association of America)」での誘いを引き受けたとき、「サンフランシスコは日本から一番近いですから、家族も連れていらっしゃいよ」と言われた。

 帰ってそのことを話したら、妻も二人の子供も大はしゃぎだった。大学院に行き始めてから子供との時間も増えていた。「中朝霧丘」(6月17日)の家に3人で転がり込んだあと息子が生まれ、母親代わりをさせてもらって、更に子供との時間が増えていた。妻の父親も含めて5人でよく食べに出かけた。その日、妻は料理を作らなくてもよかったし、私も後片付けをする必要がなかった。明石駅前の商工会議所のビルの1階にあるレストランに行って、「明石城」(↓、7月1日)を眺めながら食事を楽しんだ。舞子海岸近くにある舞子ヴィラのレストランも食べやすかった。妻の父親は学校には行くべきだと考えていたが、私たちはそうは思っていなかったので、学校のある日に4人で出かけることもあった。サンフランシスコもその延長だったようである。妻は折角だからビジネスクラスにしようと言うし、子供二人も大はしゃぎで嬉しそうだった。下が5歳だったのでサンフランシスコまで一気に行くのはきついと思い「ハワイに寄るんもええかもな」と思い着きで言ってみたら、「ハワイに行ける!ワイキキで泳げるやん」とさらに大騒ぎになった。

 伊丹空港を発ったのはクリスマスの夜で雪でも降りそうな寒さだった。日本とハワイとの時差は19時間だそうで、ホノルルに着いたのはクリスマス当日の朝だった。北半球の真冬の夜に飛行機に乗って、南半球の真夏の朝に着いたというわけである。太陽がきらきらと輝き、目にまぶしかった。空港からタクシーに乗って、ワイキキ浜のそばのホテルに直行した。途中、窓から外を眺めていた息子が「サンタクロース(↓)や、真っ赤な服着て浜を走ってるで」と、大きな声で叫んた。真夏に赤い服を着て、暑いやろなあと思いながら、私もサンタクロースが走っている方を見た。

 いつも通りホリデイ・インクラスで予約したが、ホテルもすこぶる快適で、部屋のベランダで沈む夕日(↓)を堪能した。3人は浜の勝っちゃん店という日本食屋を気に入って、各自好き勝手に注文をしておいしそうに食べていた。3人は英語はしゃべれなかったが、支障はないようだった。ワイキキ浜の近辺には日本人も多かったように思う。妻が浜でスケッチしていたら、スケッチされた少女の母親が近づいてきて是非売ってくれと紙幣を出し始めた。妻は恥ずかしそうに、どうぞもらって下さいと言いながらスケッチを渡していた。担任した高校生が「修学旅行」(6月1日)の文集を自発的に作ったとき、職員何名かと47人全員の似顔絵を描いてもらったが、それぞれぞくっとするほど特徴を捉えていた。今は犬や猫や馬の絵を頼まれて描くことが多いが、肖像画の需要があれば喜ぶ人も確実に増えると思う。

 ワイキキのホテルと浜(↓)で充分に寛いだあと、1987年MLAの会場のサンフランシスコに出発した。
 次は、サンフランシスコ2、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:エイブラハムズさん1

 ニューヨークからトロントまで飛行機で1時間ほど、空港からはバスに乗って45分ほどでセントキャサリンズに着いた。玄関のドアをノックしたら、エイブラハムズさんが現れた。微妙な瞬間だった。手紙には来て下さいとは書いたが、日本からほんとに来たか、そんな表情だった。奥に女優のような金髪の女性(↓)が座っていて、こちらを向いていた。

 アメリカに来て1週間ほど、電話が繋がらないままだった。ニューヨーク(↓)のホテルで電話をしながら、このまま帰ることになるのかと諦めかけたとき、電話の向こうで声がした。長期の休暇に出ていたらしい。充分予測出来たのに、そんなことも考えずに飛行機に乗った。「北アメリカに来たら電話して下さい」という手紙の指示に従ったわけだが、それにしてもよく会えたものだと、今なら言える。

 ラ・グーマと同じように亡命したと言うことだった。二十歳の時にANCの車で国境を越え、タンザニアとインド経由でカナダに渡り、市民権を取って博士課程を修了したらしい。今はブロック大学文学部(Humanities)の学部長(Deans)、学生は4万人ほど、直前に寄ってきたUCLAの規模と似ている。「ミシシッピ」(7月22日)の本屋さんのリチャーズさんが届けてくれたAlex La Guma(↓)は博士論文を元にして本に仕上げたらしい。作家論と作品論が本格的だったので、やっぱり博士論文だったんだと納得した。

 来た時にドア越しに見えた白人女性は再婚相手で、その女性の子供もいっしょに住んでいた。エイブラハムズさんにも離婚した南アフリカの人との間に大学生の子供がいて、出入りしていると言っていた。女性の子供は中学生の女の子で、夕食のあとアブドラ・イブラヒムという南アフリカの歌手の曲に乗って、エイブラハムズさんと軽快に踊っていた。

 一日目の夜はエイブラハムズさんが料理(↓)を作ってくれた。インド風のカレーやナンはおいしかった。ズールーとインドの血が混じっているそうなので、アパルトヘイト体制の下では「カラード」と分類されたと言う。3回刑務所に入れられたらしい。自分で英語をしゃべるようになると決めてからそう経っていないので、聞き取れる自信もなく、用意していた超小型のカセットレコーダーで録音させてもらった。ジョンに聞いてもらって、雑誌に使うつもりだった。録音した拘置所の部分である。
「私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。サッカーの競技場のことで反対したんです。アフリカ人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです。」

 中学生の女の子ともだいぶ仲良しになった。(↓)お返しに餃子を作ったときも横でいろいろ手伝ってくれた。家ではよく強力粉で皮を作り、大きなボール一杯の具でたくさんの餃子を作って焼いていた。ただ、ミンチ肉も小葱もないカナダでは、日本のようには行かなかった。女の子は珍しいのか、これは何?あれは何?と質問攻め、楽しかったが、料理の英語は聞いたことがなかったので返事に困った。言葉がなかなか出て来なくて、苦戦した。エイブラハムズさんとはしっくり行ってないのか、ずっと近くにいていろいろ話しかけてきた。
次は、エイブラハムズさん2、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:エイブラハムズさん2

 丸々3日間も泊めてもらった。しかし、手紙で「行ってもいいですか?」と書いて押しかけたほとんど知らない人をよく泊めてくれたものだ。しかも日本人である。南アフリカの白人には世界中の非難をものともせずに貿易を続けてくれた名誉白人でも、アフリカ人にとってはまるで違う。選挙権も認めず人権を無視して弾圧を続ける白人政府に抗議しただけなのに、無差別に発砲されたシャープビルの虐殺(↓)を機に、国連も経済制裁を強化して外からの圧力を強めた。

 50年代に入りアフリカに吹いた変革の嵐(The Wind of Change)に乗って南アフリカでも国民会議を開き、自由の憲章を採択して解放に向けて動き出していた矢先で、そう遠くない時期にアパルトヘイト政権が崩壊して多数派アフリカ人の時代が来ると誰もが信じて闘っていた。そこに水を差したのが日本と西ドイツで、親書を出して経済制裁を何とか凌ごう躍起になっている白人政府と、第二次世界大戦で途切れていた長期の通商条約を恥ずかしげもなく結んで白人政府に加担した。八幡製鉄、今の新日鉄は5年の長期契約を結んだ。

 アフリカ人にとっては手痛い裏切りだった。それを機にアフリカ人側はそれまでの非暴力を捨てて武力闘争を開始、アメリカやイギリスや日本の支援を受けて白人政府は警察力と軍事力に更に予算をつぎ込んで締め付けを徹底して、指導者をほぼ全員逮捕した。国を救うはずのロバート・ソブクウェ(↑、小島けい画)やマネルソン・マンデラ(↓)を拘禁し続けた。そんな裏切りの国から、来たのにである。

 本当は博士論文を書いたように学者が一番いいが、解放した時に祖国のために役に立てるように管理職に就いているという。このあと、東海岸のノバ・スコシアの小さな大学の副学長を引き受け、マンデラが釈放されて1994年に大統領になった時は、公募でマンデラのテレビ面接を受けて、6万人の学生がいるウェスタンケープ大学(↓)の学長になったと、記事と手紙をくれた。この時話してくれていた長年の夢が叶ったわけである。

 しかし、シンポジウムで伯谷さんに誘われてMLAでの発表を決め、戻ってラ・グーマでの発表を決めて準備を始めたものの、南アフリカの歴史も政治情勢も、インタービューを受けるには基礎知識がなさ過ぎた。だから、余計によく付き合ってくれたと感謝する。丁寧に、丁寧に子供を諭すように話をしてくれた。本当はもっとアフリカ民族会議(ANC)に寄付をするつもりだったが、カナダドルで1000ドルしか渡せなかった。母親の借金や定職がない中で4回もアメリカに来たりしていたので、それが精一杯だった。

 ラ・グーマ(↑、小島けい画)も亡命していたので、書いたものの保管も大変だったと思う。エイブラハムズさんは最初学者としてラ・グーマの話を聞いて親しくなったようだが、最後は書いたものの管理も頼まれていたようだった。ラ・グーマがキューバで急死したあとも、夫人のブランシさんを助けて励ましていたようだ。ラ・グーマとエイブラハムズさんの関係を聞いて、種田山頭火と大山澄太さん(↓)の二人を思い出していた。行乞していた山頭火が旅先から飯塚で炭鉱医だった木村緑平さんに書き溜めた日記をどっさり送り、それを広島の大山澄太さん(↓)が整理して、死後資料をまとめて世に送り出している。二人は山頭火と雑誌「層雲」の俳句仲間だっただけである。

 歴史的な資料が今読めるのはそういった人を思いやれる周りに恵まれていたからだと思う。エイブラハムズさんのAlex La Gumaを読んでいるとき、行間に同じにおいがした。最後の夜に「ヨシ、来年ラ・グーマの記念大会で発表するか?2年前に予定してたけど、アレックスの急死で、ブランシさんはそれどころじゃなくて。だいぶ落ち着いたみたいで、来年の夏にその記念大会の予定、もちろんブランシさんがゲストで北米に亡命している南アフリカの同胞とソ連からも来てもらうつもり。ヨシは日本の状況も話してくれたら」と言われた。MLAに続いて、英語での発表とうことらしい。キューバから来られる夫人のブランシさんに会えるわけだ。急展開である。3日間いっしょに過ごしながら、エイブラハムズさんはラ・グーマのかけがいのない友人でもあり、良き理解者でもあったんだ、としみじみと実感した。
次は、ハワイ、か。
行ったときのことは「ゴンドワナ」(↓)に詳しく書いた。(「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」、1987)

 8月になりました。「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬2022~」8月(↓)