アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ

2019年10月23日1976~89年の執筆物in English,アレックス・ラ・グーマ,南アフリカ

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1985)を知るために、カナダに亡命中の南アフリカ人学者セスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた際の紀行・記録文です。見ず知らずの日本からの突然の訪問者を丸々三日間受け入れて下さったエイブラハムズ氏の生き様、そのエイブラハムズ氏が語る「アレックス・ラ・グーマ」を、録音テープの翻訳をもとにまとめたものです。

                                           ラ・グーマ

本文(写真作業中)

カナダにひとり、祖国を離れてアパルトへイトと闘う南アフリカ人がいた。

セスル

8月下旬、私はカナダに亡命中のセスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた。一昨年、まだアレックス・ラ・グーマが存命中に出版された単行本『アレックス・ラ・グーマ』で初めて名前を見かけたのだが、今回お会いするまでは、その本の著者だということ以外ほとんど何も知らなかった。著書に含まれた伝記、作品論を読んで魅かれ、もっと知りたい、やる限りはラ・グーマを正当に評価したい、そんな思いでガナダに行った。しかし、暖かく迎えていただき、丸々3日間本当にお世話になった。忙しい身にも拘わらず、長時間にわたるインタビューにも快く応じて下さった。お蔭で、頂戴したラ・グーマの草稿のコピーなどの資料とともに、かなりの録音テープと写真を持ち帰ることが出来た。すべてを紹介することは到底できないが、写真やインタビューの翻訳を交えながら、南アフリカの解放の日に備えて異国の地でアパルトへイトと闘うアレックス・ラ・グーマの伝記作家セスゥル・A・エイブラハムズ氏の姿をお伝えしたい。

セスルの本

目的地はオンタリオ州セイント・キャサリンズ。案内書には、ナイアガラ半島上にあるオンタリオ湖畔の町、人口は12万4千、とある。有名なナイアガラの滝が近い。ニューヨーク市からカナダ航空で約一時間、トロント空港に着く。空港からはリムジンが直接、玄関先まで運んでくれた。閑静な住宅街である。玄関に最初に現われたのは夫人のローズマリー(Rosemary)さん。後ろからエイブラハムズ氏が、遠くからようこそ、と微笑みながら現われた。挨拶もそこそこに、私は鞄から「ゴンドワナ」8号や出発の2日前に小林先生が届けて下さった川崎でのラ・グーマの写真など、日本からのみやげを取り出した。写真を見つめながら、エイブラハムズ氏は早速、85年にラ・グーマと一緒にソ連に招かれた時の模様を語り始めた。

目の見えぬ老人、本を小脇に抱えて

 エイブラハムズ氏 まず、1985年6月に、ソビエト作家同盟がモスクワでアレックス・ラ・グーマの60歳の誕生日を祝って記念の一夜を設けてくれたときのことをお話したい。会場には千人以上の人が来てラ・グーマを祝福してくれました。私も講演者のひとりでしたが、本当にたくさんの人がラ・グーマを読んでいるのに驚きました。誰もが、著書にサインをしてもらおうと本を小脇に抱えながら会場に来ていました。その中に老人がひとり、たぶん70代の後半だと思いましたが、その人、目が見えないのに、手にはラ・グーマの本が一杯!ラ・グーマのところに近づいて行ってサインを頼んでいました。とても感動的な体験でしたよ。実際、ソ連の出版社はよくやりました。ラ・グーマの作品集を50万部刷って、一ヶ月ですべて売り尽くしました。お蔭で、ラ・グーマはソ連では人気作家です。もちろん、本人は何度もソ連に足を運んでいますが。また、ラ・グーマは南アフリカ共産党の一員でしたし。父親もそうでしたから、その関係でもソ連とは深い繋がりがあったのです。ラ・グーマの本はソ連の多くの言葉に翻訳されています。ですから、ソ連では広く読まれ、尊敬されてもいるのです。そして、多分いつの日か、日本でも同じくらいたくさんの人がラ・グーマを読む(!?)・・・・・・(笑いながら)

写真4ラ・グーマ2ソ連で

-そうなったら本当にいいですね・・・・・・

(うなずきながら)

南アフリカで、ラ・グーマが読める

 エイブラハムズ氏 そうですね、南アフリカにとって、南アフリカ人にとって、ラ・グーマは、黒人作家の中では南アフリカが生んだ最高の作家だと誰もが考えていますからね。また、ピーター・エイブラハムズを除いて、南アフリカのどの黒人作家よりもたくさんの本、たくさんの小説を書いていますから。ピーター・エイブラハムズが南アフリカについて書いたのは何年も前のことで、今は書いていません。そして、最近、アフリカ全般についてやカリブについて書き始めました。アレックス・ラ・グーマには五つも小説があって、たぶん南アフリカ黒人の間では最高の作家ですよ。でも、今重要なのは、 アレックス・ラ・グーマのものが南アフリカでは禁止されていて、南アフリカの人に読めないということです。発売も禁じられています。しかし、現在、政府に許可を申請している南アフリカの出版社がいくつかあります・・・・・・。

写真5 A Walk

-本を出すための、ですか。

エイブラハムズ氏 そう、本を出すための、ですよ。そして、出版社側は多分可能だと考えています。というのも、ケープタウンのフィリップス・ カンパニーから、ごく最近ですが手紙が来て、ラ・グーマのものを出版できるようにしてもらえるかどうか、と私に打診してきたからです。『夜の彷徨』の出版を考えていて、出版社はその再版を出したいとの意向です。 たぶん、近いうちに、南アフリカの人はアレックス・ラ・グーマが読めるようになりますよ。

(エイブラハムズ氏は、ラ・グーマとピーター・エイブラハムズを黒人作家と呼び、カラード作家とは言わなかった。カラードとは言わないのですか、との問いには、南アフリカ政府が、白人以外の人々を、黒人、カラード、インド人の各人種グループに意図的に分断しようとしたために、人々はカラードと呼ばれるのを嫌い、今では「カラード」を使わず、白人、黒人だけを用いています、との答えが返ってきた。人々は政府のたくらみによって人種別に分断され、結束できなくなる危険性を充分に感じていたのである。黒人、カラード、インド人からなる三人種体制の政府の悪だくみを見事に描いたポスター劇『かつての兄弟』が門土社総合出版刊行のterra創刊号(1986年9月号、5~7ペイジ)で紹介されたが、興味深いことに、エイブラハムズ氏は、その作者ドン・マッテラとは高校時代の同級生であった。ただし、当時、ドン・マッテラは政治には関心がなく、街にたむろするチンピラで(『夜の彷徨』のマイケル・アドゥニスたちのように)、大変おっかなかった、そうである。「あいつは大へん変わったんですよ。政治的になって・・・・・・」と言いながら、エイブラハムズ氏は含み笑いを見せた・・・・・・)

現在何が起こっているかを知ってほしい

エイブラハムズ氏は次に、キューバで行なったラ・グーマとのインタビューの模様を語り始めた。ラ・グーマの作品や南アフリカでの体験について二人で議論に議論を重ねたことを振り返りながら「あなたがここに居る間にその時のテープを聞かせてあげますよ。テープを聞いたら、そしてラ・グーマ本人の声を聞いたら、きっと何かいいアイデアが浮かびますよ・・・・・・そう。あの人はとっても親切でしたよ。しかし、もうこの世には・・・・・・もし生きていれば、あなたがどんな質問をしても何でも答えてくれるんですがね。あの人は本当に優しくて、暖かい人でしたよ・・・・・・」と非常に感慨深げな様子であった。おそらく、ラ・グーマとのありし日々が思い出されたのであろう。

もしラ・グーマが生きていれば、ここに来る前に、私はきっとラ・グーマに会いに行っただろう、そんなことを思いながら、しかし、ある後ろめたさが、どうしても念頭から離れなかった。

最近、ラ・グーマのものを集中して読むようになり、必然的に南アフリカの歴史や政治などに関するものを併せて読むようになった。特にアフリカの場合、文学と政治を切り離しては考えられないからである。本誌前号でも触れたように、私はアメリカの黒人作家リチャード・ライトを通してアメリカ黒人の歴史を知り、ライトの『ブラック・パワー』を通じてアフリカを考えるようになった。アメリカ黒人の歴史から奴隷貿易の理不尽を、『ブラック・パワー』から植民地支配の爪あとを教えられた。また、ラ・グーマや南アフリカの歴史を通して、西洋中心の<横暴>や、その<横暴>によってもたらされた惨状を垣間見た。そして、様々な係わりの中で、自分自身が現に所属する日本政府の過去と現在の理不尽な数々の所業について考えるようになった。

1960年、シャープヴィルでの白人政府の蛮行に対して各国が経済制裁を開始したとき、白人政権の要請に応えて日本政府は国交を回復した。そしてその見返りに、「居住地区に関する限り」、名誉白人として白人なみの扱いを受けている。

写真シャープヴィル

アフリカ行動委員会を創設した故野間寛二郎氏が「たんなる貿易のために、日本人が白人に分類されているのは、日本の民衆の恥辱ではないでしようか」というANC代表の手紙を紹介したのは1969年のことだ。(『差別と叛逆の原点』理論社、1ペイジ)また、来日した詩人マジシ・クネーネがある対談の中で、“Japan is killing us!”と言ったのもその頃である。(『日本読書新聞』1970年4月13日~5月4日、及び『新日本文学』1971年3月号110ペイジに紹介されている)

以来、そんな悲痛な叫びを無視して、日本企業は両政府の完全な庇護のもと、着々と「実績」を伸ばし、「南アフリカ共和国」との貿易高は、アメリカ合衆国に次いで世界第2位となった。ごく最近、円高の影響で、とうとう第1位になった、と報じられた。

個人が好むと好まざるとに拘わらず、私達が搾取する側、つまり加害者側に立っているのは明らかであり、私はそんなニッポンから来たニッポンジンの一人には違いないのだ、ある負い目というのは実はその辺りに原因が潜んでいたのである。聞くところによると、来日したラ・グーマはそんな日本や日本政府に対して容赦なかったらしい。ラ・グーマ同様、筋金入りの南アフリカ人エイブラハムズ氏とむかいあって、そんな負い目が私にはなおのこと重く感じられた。

「残念ですが、日本の現状は決していいとは言えません・・・・・・」と、私の方から済まなさそうに切り出した。私は、ヨーロッパやアメリカ経由で紹介された日本人のアフリカ観や、現実のアフリカ認識が貧しすぎることをまず伝えたかった。そこで、特に紹介の役割を担うべき知識人や学者でさえ、正しい視点や考えを持てない人がいる現状から話し始めた。

写真セスル

しかし、私の懸念を察してか、エイブラハムズ氏は私の話を遮って「何より、こうしてはるばる遠い日本からラ・グーマのことを聞くためにわざわざ私に会いに来てくれたじゃないですか・・・・・・」と前置きして次のように喋り始めた。

エイブラハムズ氏 あなたは出来る限リ多くのことを知りたいと思っている。だからそのことについてあなたが書き始め、ラ・グーマを日本の人たちに紹介するときには、真実でないものにではなく信憑性に拠りどころを求めて何かを語ろうとするでしょう。それがたいへん役に立つのです。というのも、私たち南アフリカ人にとって日本や日本の人たちが、一体現在何が起こっているのかを正確に知ることこそが大切であるからです。また、日本は大変な経済大国で南アフリカに莫大な投資をしているからです。そして私たちの目標は南アフリカに投資するすべての国に投資を止めさせることです。もし、日本や西ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、カナダなどの国が経済援助を続けるのを白人政権が知れば、現状は今のまま変わることはありません。そうなれば、政府は自分たちの体制に何ら間違いはないと言うだけです。そんな状態で一体どうして変革することが出来るというのでしょうか。だから、これらの金持ちの国々が、つまりこれら経済大国が南アフリカへの投資を中止すべきだと実感しているのです。更に私たちは、日本がアジアの国で第三世界の国々、殊にアフリカとはもっと親密であるべきであり、従って日本から援助が得られると見ているのです。もし日本が私たちの立場に耳を傾けるのが難しいというのなら、アメリカやイギリスを説得するのはもっと難しいでしょう。なぜならあの人たちは、南アフリカの白人は自分たちの同胞であり、日本人は南ア白人とは同胞ではない、だからどうして日本人が南ア白人政府を援助すべきなのか、と主張するからです。そこには明らかに経済が存在しているのです。

エイブラハムズ氏が語る日本への願いは、先般来日したANC(アフリカ民族会議)議長オリバー・タンボ氏やUDF(統一民主戦線)のアラン・ブーサック師などが口を揃えて訴えた内容と同じである。(その人たちの来日講演記録が二冊出版されている。アフリカ行動委員会発行の『日本を訪れた自由の戦士たち』と部落解放研究所発行の『魂の叫び-アパルトへイトの撤廃を!人間の尊巌を-』である)ANCの一員であるエイブラハムズ氏は、カナダに亡命以来ずっと、南アフリカの実状を訴えるのに東奔西走して来たという。当初はほとんど反応を示さなかったカナダ政府や市民も、最近は比較的協力的になり、カナダのANC会員も、現在では30名になった、と感慨深げな様子であった。5月末にはアラン・ブーサック師が講演したらしい。「南アフリカの現状はなお厳しく、人々の日常生活は非常に大変ですが、事態は日々変化しており、よい方向にむかって前進しているのは確かで、解放の日が来るのもあとわずかですよ」と言ったあと、「しかし、南アフリカの解放の日のために生涯すべてを捧げたラ・グーマが、その日を迎えることなく、1985年に死んで行ってしまったのが何ともやりきれないですよ」とエイブラハムズ氏はしんみりと付け加えた。

オリバー・タンボ

(折りしも、11月5日、ゴバン・ムベキ氏(77)が他4名とともに釈放された。63年7月に逮捕され、翌年、元ANC議長ネルソン・マンデラ氏らとともに、国家反逆罪で終身刑を言い渡されて以来24年間獄中にいたムベキ氏は、元ANC全国委員長である。釈放に当たっては当局から何の条件もつけられなかったらしく、ポートエリザベスでの記者会見では、マンデラ氏が釈放されることも確信している、と語ったという。「ムベキ氏の釈放は内外の反アパルトへイト政策反対運動の勝利だ。マンデラ氏らの釈放も勝ち取っていく」とのANCスポークスマンの声明は、うれしい知らせである)

写真マンデラ

本誌8号のヨハネスブルグの街の写真を見ながらエイブラハムズ氏は「私の故郷ですよ」と懐しそう。ケープタウンの写真の載っているペイジでは「ラ・グーマの故郷はこのケープタウンですよ・・・・・・・」とやはり感慨深そうであった。表紙を飾っているムファーレレ氏がいるヴイットヴァータースラント大学はエイブラハムズ氏が一年間通った所であった。それらの写真が様々な思い出を蘇らせたのであろう。

黒人搾取の上に成り立つ白人社会の特権を享受している白人作家と、惨めな生活を強いられる黒人作家との間の、おのずからのテーマの違いに触れ、ラ・グーマの本が南アフリカの問題や状況を取り扱っている点を強調したあと、エイブラハムズ氏は次のように語った。

歴史を記録する

エイブラハムズ氏 ラ・グーマは、だだ書くためにだけ書いたのではないのです。南アフリカの人々の現実の問題についての物語を語るために書いたのです。だから、ラ・グーマの本は、将来もその意味でいつも重要であると思います。物語としてだけではなく、歴史としても大切なのです。というのも、ラ・グーマは南アフリカの歴史を記録するのだと常々言っていましたから。

-あなたの本の中で、特に強調されていたところですね。

エイブラハムズ氏 ええ、私はラ・グーマが歴史の記録家であることを自認していた点を強調しました。そのためにラ・グーマは南アフリカの人々の生活を赤裸々に描き出す必要があったのですよ。そのことは大変重要です。だから、これからもラ・グーマの本がいつも大切になってくると思うのですよ。いつか南アフリカにアパルトへイトがなくなる日が訪れても、若い人たちがかつてこの国に起こった歴史を知れば、将来同じ過ちを二度と繰り返さなくて済むでしょう。私たちには、白人至上主義を黒人至上主義に置き換えないということが大事なのです。すべての人間が民主的な諸権利を与えられて、膚の色が黒いとか、褐色だとか、あるいは白いとかという人間としてではなく、ただ生きて、人間らしい生き方をしようとしている人間としてみなされることこそ大切なのです・・・・・・・アレックス・ラ・グーマは黒人と白人の統合ではなく、人類としての統合をとても深く信じていました・・・・・・・すべての人間がその膚の色の故ではなく、その人間性によって尊敬されるような南アフリカを、そしてそのような世界を実現するために努力することこそがラ・グーマの一生の目標だったのです。

-ANCの政策ですね。

エイブラハムズ氏 そう、ANCの政策です。ANCの政策と全く同じですよ。よりよい世界を、そしてよりよい社会を築くために、人間の肌の色や富や醜美とかではなく、人間としてあなたを判断するということです。ラ・グーマはそれが好きでしたし、固く信じてもいました。それはラ・グーマの最もすばらしかった点のひとつだと私は考えています。もしあなたがラ・グーマを訪ねて行ったとしても、あの人はとても気軽に応じてくれていますよ。あの人はあなたを日本からやってきたという目で見たりはしなかったと思います、たとえ日本がANCの最大の支援国のひとつだとしても。あなたを日本という国で判断したりはしません。あなたを南アフリカの問題に関心のある人間として、また平等な社会をもたらしてくれる変革を望んでいる人間としてきっと見てくれていますよ。それがあの人の見方なんです・・・・・・・。

到着してから未だわずかな時間しか経ってはいなかったが、エイブラハムズ氏のそんな話を聞いているうちに私の心は幾分か軽くなっていた。

お互いの紹介もほとんどしないまま、ラ・グーマを軸にいっきにここまで話がすすんだが、話を一時中断して、奥さん、一歳になったばかりの長男と4人で散歩に出ることになった。二人はいつもタ方のこの時間にベビーカーに子供を乗せて散歩しながら寝かせつけるのが日課とのことだった。エイブラハムズ氏がベビーカーを押しながら、4人は家の近くをゆっくりと散歩してまわった。エイブラハムズ氏は、この子の名前アレクセイ(Alexei)はアレックス・ラ・グーマとプーシキンから取ったのですよ、と相好を崩しながら嬉しそうに言った。ラ・グーマへの思い入れはもちろんだが「真の国民文学の創始に努力し、リアリズム文学を確立し、ロシア文学を世界的意義と価値のあるものにした」とされるアレクサンドル・プーシキン(Alexsandr Pushkin, 1799-1837)への思い入れが強かったのだろう。すでに秋の気配の漂うカナダのタ暮れの中で、アレクセイ君、ベビーカーに揺られながらいつのまにか寝息をたてていた。

夕餉の食卓には、中国風の長い箸が並べられてあった。遙かアジアの地からの訪問者に、という配慮が感じられた。

写真食事

楽しいカナダ式中華風夕食が済んでから、いよいよ本格的インタビューが始まった。

写真食事

エイブラハムズ氏は、1940年にヨハネスブルク近郊のブルドドープ(Brededorp)生まれで、日本でも早くから紹介されているピーター・エイブラハムズと同郷であった。新聞のコラム欄を通してその存在を知ってはいたものの、ケープタウン生まれのラ・グーマとは南アフリカ国内での面識はなく、二人が最初に出会ったのは国外に於いて、それもお互いに亡命者としてである。

先述のドン・マッテラの話などをしたあと、エイブラハムズ氏は自らの生いたちを語り始めた。

12歳で拘置所に

エイブラハムズ氏 私は父親がインド出身で、母親がユダヤ人の父とズールー人の母を持つ家庭に生まれました。ですから住んでいた地域内では政府に「カラード」と分類分けされました。わたしの家は貧しく、子供は6人でした。しかし、母親は子供が学校に行き、教育を受けることに殊のほか熱心で、教育を受けていさえすれば、自分ひとりでやっていける、と常々言っていました。私のいた地域は貧しく、とても貧しく、本当に貧しくて、私はかなり小さい時から白人、黒人間の不平等を意識するようになりました。ですから、私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。

-拘置所にですか。

エイブラハムズ氏 拘置所、刑務所にですよ。スポーツの競技場、サッカーの競技場のことで反対したんですよ。黒人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。 だから、私は白人の競技場にみんなを連れて行ったんです。

-砂利のところでプレイするのは大変だったでしょう。

エイブラハムズ氏 そりゃもうとても大変でしたよ。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです、それから・・・・・・・。

-どれくらいの期間ですか。

エイブラハムズ氏 そうですね、それぞれ短かくて、1、2週間ほどでした。そのあとわずか16歳でANCの会員になりました。

カナダに亡命して

コロネイションビル高校を出たあと、エイブラハムズ氏はヴィットヴァータースラント大学に進んだが、99パーセントが白人のその大学では黒人は授業に出ることと図書館を利用することしか許されなかった。従って、一年で退学、その後エイブラハムズ氏は現在のレソトの大学で学士号を取得して再び南アフリカに戻り、7ヶ月間無免許で高校の教壇に立った。

1961年5月には、共和国宣言に抗議して行なわれた在宅ストを指導したため、今度は裁判なしに4ヶ月間拘禁されている。

その後、1963年には、ANCの指示に従って、エイブラハムズ氏は単身、ANCの車で国境を越え、スワジランド、タンザニアを経てカナダに亡命した。(のちに、エイブラハムズ氏が亡命したことにより、母親が逮捕され、兄が教職を奪われたことを口づてに聞かされたという)

ラ・グーマより15歳年下のエイブラハムズ氏は、わずか12歳で拘禁され、ラ・グーマより3年も前にすでに亡命していたことになる。

カナダでは市民権を得て、修士号、博士号を取ったあと、大学の教壇に立ち、今日に至っている。カナダにはアフリカ文学のわかるものがいなかったため、詩人ウイリアム・ブレイクで博士論文を書いたそうである。

ラ・グーマと出会って

そんなエイブラハムズ氏がラ・グーマと出会ったのは、客員教授としてタンザニアのダル・エス・サラーム大学に招かれた時で、1976年のことである。当時、ラ・グーマは客員作家として同大学に滞在していた。

2年後、二人はロンドンで再会したが、その時エイブラハムズ氏はラ・グーマに関する本を書くことを決意し、1980年あたりから本格的にその作業に取りかかっている。

1982年には、家族からの要請もあって、ラ・グーマの出版や原稿の管理を頼まれ、更に伝記家としての仕事も引き受けた。現在、ラ・グーマの未出版の短篇、父親についての伝記、口ンドン時代に書かれたラジオ劇、第3章で絶筆となった遺稿『闘いの王冠』(Crowns of Battle)などを一冊にまとめて出版することを考えているという。

ロンドン、キユーバでのラ・グーマ

ラ・グーマが家族とともにエイブラハムズ氏に原稿管理などの依頼をしたのも、78年からキューバに行ったのも、経済的な事情と深く係わりがあった。ラ・グーマは既に何冊も本を出し、国際的な名声も高かったが、出版社からの支払いなども悪かったようで、保険会社に勤めるなど一時は不本意な仕事に就かざるを得なかった。口ンドンでの生活についてエイブラハムズ氏は言う。

ラ・グーマ写真

エイブラハムズ氏 アレックスは経済的にはあまりうまく行ってはいませんでしたね。あの人の家庭は経済的にはいつもぎりぎりで、やっと何とかやっていけるというところでした。家に食べ物が何もない日が何日もありました。子供たちも小さかったし、 ロンドンではどこで食べものを手に入れたらいいのか本当に途方に暮れてしまいました、と奥さんから聞いたことがあります・・・・・・・。

ブランシ写真

ANCの指示に従って、単身、国を離れたエイブラハムズ氏も「カナダに来て2、3年は南アフリカが恋しくて恋しくて、とても寂しい思いをしましたよ」と言っていたが、家族を伴っての亡命であったにしろ、自分の国を、その人々を誰よりも愛したラ・グーマには、国を離れざるを得なかったこと自体がやはりやりきれなかったのであろう。一方では、精力的に創作活動や解放闘争を展開しながらも、もう一方では、側目が気遣うほど酒と煙草が過ぎたらしく、当然体調もよくなかったという。あるとき、いつものように深酒をした翌日、飛行機である会合に出かけた際、昨晩一緒に酔いつぶれたエルシィ・ナイティスという、当時「セチャバ」の編集長をしていた南アフリカ人が、機上で心臓麻痺を起こし死んでしまったことがあった。未だ20代の若さの青年の死はラ・グーマには相当こたえたようで、そんなこともキューバ行きを決意した原因のひとつらしい。そのあたりの事情に触れながらエイブラハムズ氏は語る。

セスル写真家族

エイブラハムズ氏 不運にもこのときANCはラ・グーマに経済援助をしてやれませんでした・・・・・・・それもラ・グーマがキューバに行った理由のひとつですよ、というのはANCはその方がラ・グーマにはいいだろうし、キューバでなら十分な暮らしも出来るだろうと考えたからです。キューバ政府は実際、住宅や食べものの資金援助をしてくれました。

-キューバ政府が、ですか。

エイブラハムズ氏 そうです、キューバ政府はANCを南アフリカ人の合法的な代表だとみています。ですから、南アフリカ代表を外交官として処遇してくれるのです。

-キューバ在住のですか。

エイブラハムズ氏 そうです、キューバ在住の、です。政府はラ・グーマを外交官居留地内の住宅に住まわせてくれました。住まいは無料で、特定の商店などから食料が買えるクーポン券や車などを与えてくれました。それがはじめてのケースだったのですが、78年から85年までのことです。

キューバではANCカリブ主代表として、ジャマイカやトリニダードなどを訪れたり相変わらず多忙な日々を送った。この間、エイブラハムズ氏は『アレックス・ラ・グーマ』の執筆にむけて、当地を2度訪問している。

当時アジア・アフリカ作家会議の議長を務めていたラ・グーマが日本アジア・アフリカ作家会議主催のアジア・アフリカ・ラテンアメリカ(AALA)文化会議に出席するため川崎市を訪れたのもこの頃である。

ラ・グーマ川崎

85年10月には、エイブラハムズ氏の大学で開催される会議にラ・グーマが出席し、併せてカナダ旅行もする予定で、エイブラハムズ氏は切符の手配や発表論文などすべての準備をすでに終えていた。それだけに、ラ・グーマの突然の訃報にはことのほか強いショックを受けたようで「まさかそんなことになるとは誰も夢にも思っていませんでしたから、本当に驚きました。南アフリカの人々にとって、酒は何もためにならんですよ」とエイブラハムズ氏はわびしそうにつぶやいた。

キューバでは盛大な葬式が取り行なわれ、カスト口の弟が代表弔詞を述べたり、ANC事務総長なども当日出席したという。

この10月には、ラ・グーマの3回忌法要が行なわれ、長男ユージーンが出席しているはずである。ユージーンはソ連の女性と結婚して二児があり、現在モスクワに住んでいる。

次男バーソロミューは、東ドイツですでに写真の勉強を終え、現在ザンビアの首都ルサカにあるANC本部の映画班(“The ANC film unit”)で働いている。

尚、ラ・グーマの死後、ブランシ夫人は再びロンドンに戻って生活している。

ブランシ写真

わが子を見つめる父親のように

エイブラハムズ氏は、このようにおおざっぱにラ・グーマの生活を概観したあと、著書『アレックス・ラ・グーマ』でも強調したように、ラ・グーマがどれほど南アフリカの人々を思い、その人たちのために書き続けたかを、やはり語り始めた。

エイブラハムズ氏 そう。アレックス は、事実「カラード」社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました、というのは、その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。

6区写真

ラ・グーマはまた、自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て「仕方がないな、この子供たちは・・・・・・」と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・・・・・。

6区写真2

「カラード」人口の特に多いケープ社会では、見た目には白人と区別のつかない人間もいて、アメリカ社会でもそうであったように、「白人」になろうとする「パーシィング(パッシング)」(“passing”)の問題も当然見られたが、「自らの人間的尊厳を忘れるな、あるがままの自分に誇りを持て」と言い続けた。

人々とともに

人々のために書き、人々とともに生涯闘い続けたという点では、アメリカの黒人作家ライトやボールドウィンとは趣きが少し違う。エイブラハムズ氏はその二人を引き合いに出して言う。

エイブラハムズ氏 リチャード・ライトはパリに行き、それからアメリカでの自分の人生について本を書きました。すべてが怒りや苦渋から生まれています。ライトは決してアメリカに戻りたがりませんでした。合衆国の黒人の置かれた状態に非常に腹を立てていたからです、そうでしょう。ある意味では、ジェイムズ・ボールドウィンもライトと同じで、過去に起こったことに大層な憤りを感じていました。しかし、アレックス・ラ・グーマの場合は違います。アレックス・ラ・グーマが救われたのは、あの人が人々とともに政治運動や解放闘争の真只中にいたからです。解放運動のために働きながらも、同時に作家である場合には、闘争理念の中にこの闘いを勝ちとるのだという強い信念が存在し、その信念を絶えず保ち続ける必要のあることを充分承知しています。その場合には、自分たちが今やっていることを書き、その運動が正しいということを書けばいいわけです。そして、一緒に協力してやって行けば、必ずいつか勝利を得るのです。しかし、もし協力してやらなかったり、政治運動をしなかったり、やったとしても孤立して個人的にやるなら、終始腹を立てる可能性がより強くなってしまう。というのは、どこにも逃げ場所がなくなるし、よりかかれる社会がなくなってしまうからですよ。アレックス・ラ・グーマには、ただ創作活動だけではなく、現実的で、政治的な仕事があったから、信念を保ち続けることができたのですよ。

ライト写真

ラ・グーマはすばらしい芸術家でもあつた

エイブラハムズ氏は更に続ける。

エイブラハムズ氏 ラ・グーマはいつでもすぐに心を切リ換えることが出来ました。多くの作家は、自分が作家でしかなく、自分を世間から切リ離して考えるようになるから、なかなかそれが出来ません。そして、結果的には問題が頭の内側に残り、やがては感情の中に沈澱して自らを破滅へと追い込んでいく。もし、地域社会や世間の中に深く係わっていれば、他の人間にも精力を注ぐ必要があるから、時間的にも、自分に腹を立ててばかりいるわけにはいかなくなる。今思えば、これがラ・グーマにとってはよかったのだと思います。ラ・グーマは作家になる前に、まず政治に巻きこまれました、それがよかったのです。もし、まず作家になり、次いで政治に関係していたとすれば、きっと問題があったでしょう。それから、あの人はいともたやすく、文学技法を駆使してものを書くことが出来たのです。それは、ラ・グーマに才能が、ものを書く才能があったからですし、たとえ政治的に係わっていても、人に教義や信条を説いたりしないやり方で、物語を語ることが出来たからです。ラ・グーマはただ物語を語っただけなのです・・・・・・・そして、物語を読めばわかりますが、決してどう考えるべきかを語ってはいません。あの人は物語を読者に委ね、どうすべきかを読者に決めさせるのです。断じて、これが愛だとか、これが人生だなどとは言いません。ラ・グーマは「ここにひとつの物語があるから、あとはあなたの方でうまくやって下さい」というのです,例えば、短篇「コーヒーと旅」をみても、カフェで婦人の怒りが爆発したとき、そんなにもひどい扱いを受けたからその婦人の怒りが爆発しているのだとラ・グーマはいいませんでした。その状況が、非人間的で、扱いが人間の尊巌を傷つけるやり方だったからその婦人の怒りは爆発したのだというだけです。しかし、うたい文句など一切与えられず、ただひとつの物語が与えられているだけなのに、もし私があなたと同じ立場にいたなら、きっと全く同じやり方で行動したでしょう、と読者は考えるようになるのです・・・・・・・詩であれ、小説であれ、たくさんの南アフリカのものを読めば、まともな形のスローガンや直接的なうたい文句がたくさんあるのがわかります。それらを読んだら、きっと、物語としてというより、政治のビラとしてならいいんだが、と言うに決まっています。ラ・グーマは、決してそうはしませんでした。あれはあの人の物語なのです・・・・・・非常に乾いた政治的な立場に立ち、その立場を生きたものにしているのはラ・グーマの芸術的な才能です。現に南アフリ力に住んでいなくても、例えば「レモン果樹園」とか「コーヒーと旅」とか『夜の彷徨』とか『まして束ねし縄なれば』のような作品を読めば、読み終えたときには、読者ははっきりと南アフリカの姿を目に浮かべることができるのです・・・・・・。

写真『まして束ねし縄なれば』

解放の日にそなえて

夜遅くなった。エイブラハムズ氏は、明日は休暇明けの月曜日をむかえるのに、遥か日本からの訪問者に、自身の長旅の疲れもほとんど見せずラ・グーマを熱っぽく語った。やがて、私は少し興奮気味の床に就いた。隣の部屋でアレックス君が泣いている・・・・・・夢の中でその泣き声を聞きながら、朝の光の中で目を醒ました。起きてみるとカナダの朝はもう秋だった。日本に居ればまだ泳いでいる頃なのに、と考えながらセーターを着けた。

エイブラハムズ氏は、6月までケベックのビショップ大学に居たが、この7月からセイント・キャサリンズにあるブロック大学に移っている。学部長として、学校管理の仕事をやり始めたという。「私の国が解放されたとき、私の今までやってきたことを役立てたいんですよ」と大学へ行く車の中で話してくれた。一万人の学生、三百人の教授陣を抱える人間学科の学部長としての毎日は、相当きついらしい。休暇明けの机の上には手紙の束がどっさり置かれてあった。「前のところは週2日でよかったから、研究の時間も充分にあったんですがね、でも、これは新しい挑戦なんです。国の外で闘っているANCの会員は、南アフリカが自由になったときのために、それぞれ頑張っているんですよ」とも言った。

かつて国民の熱狂的な支持を受けて独立を果たしたガーナの首相クワメ・エンクルマは、独立後10年もたたないうちに結局挫折してしまった。国を支えていく<ひと>が育っていなかったからである。独立を果たした他のアフリカ諸国も同じ課題を抱えて苦しんでいる。そんな同じ轍を踏まないように、この人たちは自分たちの手で国を動かす日にそなえてそれぞれの立場で<いま>を闘っているのだ。

エンクルマ写真

「私は南アフリカ作家の歴史を書いておかないと、と思っているんです。また、解放の日が来たときに、その人たちすべての資料を人々が利用し、若い人たちにその作家たちの作品が読めるように準備しておかなければ、とも考えているんです。国の外で闘い、たくさんのことを成し遂げてきた作家たちのものが、行きさえすれば必ず手に入るように。というのも、若い人たちはその作家たちを見たことも聞いたこともないからです。ある意味では、私たちは南アフリカのための、ひいては世界のための仕事をしようとしているのです」と言ったあと「現在、資料センターを作るためにカナダ政府に交渉中で、解放の日には南アフリカにそっくり移すつもりです」と付け加えた。

若い世代

昨夜はラ・グーマを偲んでのしんみりとした話になってしまったが、今日は「南アフリカのカレーをつくってあげますよ」と料理をつくりながらの、台所での話となった。私自身、料理をすることもあるから何ら違和感は感じなかったのだが、それでも「南アフリカでは男の人も料埋をやるんですか」ときいてみたくなった。答えは「いや、男は料理しませんよ。だいたい穢ない仕事はみんな女性がやってきました」だった。「では、若い世代はどうですか」ときいてみたら、次のような答えが返ってきた。

エイブラハムズ氏 若い世代は変わると思います。あの子たちはたいへん違っていますよ。男とか女とかではなく、人間としてお互いを尊敬し合っています。だから、あの子たちが完全な変革をもたらすんだと私は考えているんです。南アフリカで現在起こっている事態はきわめて実践的で、若い人たちは自分たちの両親のやってきたことをしようとはしません。あの子たちは姿勢が全く違いますよ。南アフリカにはとてもいいことだと思うんです。ですから、ANCには、政府を変える前に人間性をまず変えろ、といつも言ってるんですよ。言い換えれば、ANCのトップに女性の数が充分でないと感じているということなんです。ANCのために働いている女性がこんなにたくさんいるのに、女性は高い地位に就いていない。だから、女性をもっと正当に扱え、といつも言っているのです。ANCの大半は、もちろん黒人で、ズールーやコサなどいろんな共同体から来ています。私たちの伝統の中では、男は自己中心的に育てられてきました。今まで男が女性と権力を分かち合うことなど決してなかった。男が常に主人で、すべての穢ない仕事は女性がしなければならなかった。そんな風に、ANCの多くの男たち、特にオリバー・タンボやネルソン・マンデラのような古い世代の人たちは、専ら愛国主義中心の考え方の中で育てられた。あの人たちが、革命は単に政治ばかりではないということを理解するにはしばらく時間がかかると思います。それは人の生き方でもあり、あなたが日々行なうことでもあり、子供や妻を扱うやり方でもあるのです。つまり、人の生き方なのですよ・・・・・・私はANCの会員ですが、来るべき政府にだけ関心があるのではありません。それが一番重要だというのではないのです。大切なのは、私たちが新しい社会を、新しい生活のやり方をつくり上げることなのです。お互いが尊敬し合い、お互いがいたわり合い、感性を大切にする、そしておまえは男だ、あいつは女だ、などと言わずに,相手を理解する、そんな社会なのです。私にはそれが重要だと思えてならないのです。

ラ・グーマは若い人たちのために歴史を記録するのだと言って作品を書き、エイブラハムズ氏は若い人たちにそんな作家の資料を残す準備をしているという。

エイブラハムズ氏は、若い世代について更に続けて語る。

エイブラハムズ氏 今の若い人たちは酒を飲みません、人々が闘い方を知らないのは酒のせいだと言うんです。だから、あの子たちは酒を飲むのを嫌います。デモをやるときは、まずシビーン(もぐり居酒屋)に行って、酒を投げ棄て、そこに居る人たちを叩き出してしまいます。襲うのは政府ばかりではなく、自分たちの同胞もやるんです。あんなものは健康によくないんだ、とあの子たちは言います。人々は給料をもらったらまっすぐシビーンに行き、家には帰らない。帰る頃には妻や子供のための、ミルクやパンや着物や本の金がすっかりなくなってしまっている。亡命しているたくさんの南アフリカ人は、多くは政治的な理由でイギリスに行ってますが、あの人たちは集まっては酒を飲む。かつてイギリスに行ったとき、この人たちは何て飲むんだ、と驚いたのを覚えています・・・・・・。

1976年ソウェト

ソエト写真

-若い人たちには希望がありますね。

エイブラハムズ氏 そうですよ、そしてあの子たちは酒を飲みたがりません。

-1976年の世代ですか。

エイブラハムズ氏 ソウェト、ですよ。1976年以来、若い人たちは非常に戦闘的になっています。そして酒も煙草もやろうとしない。あの子たちは本当に真剣ですよ・・・・・・。

ソウェト、の世代である。映画「アモク!」にも登場したあの競技場の高校生たちである。かつて古い世代は話し合いを提唱し続けたが、若い人たちはそれを拒む。エイブラハムズ氏はそんな若い人たちを分析する。

アモク写真

エイブラハムズ氏 若い世代は「嫌だ、話し合いなんてもううんざりだ。もし国を変革できないなら、それと闘うまでだ」という。しかし不幸なことに、数が多くない。同じ考えを共有できる人々が充分にいないのです。古い世代はほとんど自分自身の生活に窮々していたから、すすんで死んだり、刑務所に行ったりはしなかった。1976年以降の若い世代は全く違う。あの子たちは銃弾を恐れない。話し合いに多くの時間を費やさない。心の中で何を望んでいるのかを知っている。即自由を! 即平等を!が望みなんです。もう次の世代を待てないのです。今、それを望んでいます。若い人たちは、私たちが望めもしなかったことをやろうとしている、と私が信じるのはこういうわけからなのです。ビュークス(『季節終わりの霧の中で』の主人公)のように、私たちは平和的なデモを信じ、いつもビラを手にして街頭に立った。撲られ、刑務所に入れられても何もしなかった。私たちはただビラを配ったんです。それだけじゃあない、警官に殴られ、拷問され続けた・・・・・・・・今日の世代は政府の変革など信じてはいない。あの子たちは生活の改革を信じているのです。南アフリカは、物質的なものごとばかりにこだわらないで、生き方についての思考形態を改めながら精神的な生活に重点を置くべきだと、若い人たちは信じているのです。

「ィアッフリカッ!」 「ァマンドゥラッ!」

セスル写真

南アフリカのカレーは、おいしかった。もうすぐ12歳になる長女レイチェル(Rachel)が焼いてくれたローティ(“roti”)に包んで手づかみで、食べた。おいしかった。

セスルカレー

タ食後、最近来日した南アフリカ人歌手アブドゥラ・イブラヒィムの「古井戸の水」(WATER FROM AN ANCIENT WELL)というポップス調のレコードをかけてくれた。

そのうち、エイブラハムズ氏はレイチェルを誘って踊り出した。堂に入っている。私は見る人、撮る人を決め込んでシャッターをきり続けた。解放のうた「コシ・シケレリ・アフリカ」が流れ出すと、拳を突き上げながら「ィアッフリカッ!ィアッフリカッ!」を連発した。踊りながらレイチェルが声をあげて喜んでいる。座っているローズマリーも笑っている。「ァマンドゥラッ!」「ィアッフリカッ!」「ァマンドゥラッ!」「ィアッフリカッ!」・・・・・・。

レイチェル写真

冷静で、普段あまり笑顔を見せないエイブラハムズ氏が高揚している・・・・・・。

3日間一緒に生活をして、いろいろなことを聞き、いろいろなものを見たが、何にもましてうれしかったのは、全く違った国の、全く違った文化背景の中で育った人間同士が、基本的なところで共有し合える、理解し合える、と感じられたことだ。しかも、南アフリカの人々を現に苦しめている国の一つ日本から来た人間にむかって、人間として尊重しあいましょう、とあの人は言った。

別れ際に「今度は、いつの日か、あなたの家族と私の家族が南アフリカで会いましょう」と語ったが、私の方は、喉をつまらせながら言葉にならぬ言葉を発するばかりであった。

ANCの国際連帯会議が12月3日タンザニアのアルーシャで開幕、と報じられた。ANCを支援する海外の政治団体や労組、宗教組織などとの連帯会議で、この種の会議では最大規模の国際会議であるという。

エイブラハムズ氏の語る若い世代の話や、ゴバン・ムベキ氏の釈放やこの国際会議の知らせなどは、南アフリカの事態が解放にむけて着実に動いていることを私たちに教えてくれる。

現実はなお厳しいものの、ANCやUDF、それに「ソウェト」を体験した若ものたちによって、ラ・グーマが終生願い続けた統合民主国家南アフリカが誕生する日もそう遠くない。そのときは、エイブラハムズ氏の家族と私たちの家族が南アフリカで、このカナダでのありし日を笑いながら語り合えるだろう。

いただいた数々の資料の中にエイブラハムズ氏自身の詩が2篇ある。2篇とも「ソウェト」の詩である。「本当は、自分でも詩や小説を書きたいのですが、当分はラ・グーマの資料の整理を、一段落したら今度はデニス・ブルータスの・・・・・・」と語っていたエイブラハムズ氏が、「ソウェト」の悲しい知らせを聞いて、祖国のいたいけな子供たちを悼んでよんだものである。その一篇を紹介して、私からのメッセージの終わりとしたい。

Poems for the Soweto Martyr

I saw that picture

in a newspaper 12,000 miles away

my people’s blood

flowing again at

the hands of hate

A courageous boy

he was

barely eight years old

defying the inevitable terrifying

bullets of death

He was first to go

though last to begin

His only crime was

to protest the crime of hate

Where does one

so far removed from

the heinous scene of crime

hide or defy or identify

How does one tell

one’s worldy neighbour

who has never felt

the heavy brutal hand

of the terror

the pain

the frustration

that lurks deep

down in the revolutionary heart?

Cecil Abrahams

ソウェト殉教者たちに寄せる詩

わたくしは一枚の写真を見た

一万二千マイル離れた国の、 ひとつの

新聞に

わたくしの同胞の血が

その憎しみの手に

ふたたび流れ落ちるのを

ひとりの勇敢な少年が

その少年は

わずか八歳でしかなかったが

避けようのない、見るからに恐ろしい

死の銃弾にむかった

少年はまっ先に死んでいった

一番あとから行動を始めたのに

少年の罪は

憎しみにただ抗議しただけであった

どこで確かめればよいのか

おぞましい地獄絵から

そんなにも遠く離れて

どのように語ればよいのか

恐怖の

重い残忍な手を

決して感じたことのない

隣人たちに

革命の心に深く沈む

この苦しみ

この憤りを

セスゥル・エイブラハムズ

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」10号 10-23ペイジ

ダウンロード

アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ
(英語版:未出版)