アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて

2019年10月24日1976~89年の執筆物アレックス・ラ・グーマ,南アフリカ

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1985)の伝記、作家論第3作で、家族でロンドンに亡命した1966年から、キューバのハバナで急死した1985年までを書いています。年譜と著・訳書一覧をつけました。

本文(写真作業中)

1966年9月に、永久追放ビザを取得したラ・グーマは、家族とともにロンドンに亡命した。祖国を離れるのは決して本意ではなかったが、厳しい自宅拘禁の続くなか、ANCの強い奨めもあってついに亡命を決意した。1978年3月にロンドンでセスゥル・エイブラハムズ氏に応じたインタビューの中で、当時の心境をラ・グーマは次のように語る。

 

そう、あれはその種の政治闘争の決意とか要求とかを混ぜ合わせた以上の複雑なものでした。自宅拘禁も4年を過ぎ、既に5年目に入っていましたが、その事態がおそらくあと5年は続くだろうと予測される中では、無期限に自宅に閉じこめられたままで居るのが何とも無益なものに思えてならなかったのです。国外でなら、もっと建設的に、もっとのびのびと活躍できるだろうと考えました。ですから、私は自分たちが今行なっていることを別の戦線でやり遂げようと思って家族といっしょにヨーロッパに来たのです。

 

作家が、想像力をかき立ててくれる自らの創作の場を離れることは決して小さな問題ではない。例えば、先述のリチャード・ライトもラ・グーマと同様に家族を連れて、パリに亡命したが、1958年にアメリカ南部を舞台にした長編小説『長い夢』をアメリカ国内で出版したとき、時代のずれを指摘する数々の痛烈な批判を浴びている。好意的な黒人批評家のソーンダーズ・レディングでさえ、「戻って来い、デイック・ライト、再び蘇るために!」という熱いメッセージでその評を締めくくっている。

ラ・グーマは、その辺りを充分承知しており、亡命のもたらす、自分にとってのよさ、悪さを次のように分析する。

 

私の創作にとって、亡命はよい面も悪い面も持ち合わせています。出来得るものなら、南アフリカにいて、そこで本が書ければ、とは思います。しかし、もちろん、南アフリカで本を書くことを政府が許してはくれません。ですから、作家としては、今までヨーロッパで作品を書き上げられたのは嬉しい限りです。その面から見れば、亡命していることがよい面に作用しています。しかし、自分の意思でというより、むしろ異常とも言える状況下で国を離れたあと、作家として一体何が書けるのかを考え続けているという面から見れば、そこにいる方が好ましいということになるでしょう。

 

当然のことながら、その点をきかれることも多かったようで、本誌7号で紹介した1976年のリチャード・サミン氏とのインタビューでは「あなたの場合、亡命したことが、書くことにどれほど影響を及ぼしていますか」との問いに対して「亡命したから変わったということは全くありません。見るものごとは変わるかもしれません、でも主だったところは当然付随的についてくるものです。南アフリカのほかでも、書こうと思えば何についてでも、私は書くことが出来ます」と答えている。

また1978年にロンドンでセスゥル・エイブラハムズ氏に応じたインタビューでは、更に詳しく述べている。

 

今までのところ生きたテーマを保ち続けるのに苦労したということはありません。将来についてはわかりませんが。作家というのは、現にその場にいなければその状況を描き出せないものだ、という人たちに、私は賛成しかねます。もし、ある作家がある状況について書けないとすれば、別の違う状況について書き続ければよいと信じています。その人は、まず作家であるからです。その人は、まわりの状況のせいで、南アフリカの作家なのです。しかし、もしその人が想像力を持ち合わせている作家なら、他の情景についても描けるし、違う局面で展開しようとする同じ考えを書くことが出来るはずです。ですから、もし南アフリカのことで書けるものがなくなってしまっているのに、それでも尚、書き続けたいと思うなら、その時は、イギリスについて、または、ほかのどこかのことについて私は書くつもりでいます。私はベトナムでの戦争について、短篇をひとつ書きました。その短篇はベトナムで出版され、他の作品集の中にも収録されました。つまり、作家は、もし才能があれば、他の状況の中でもやっていける、ということなのです。

 

「今行なっていることを別の戦線でやり遂げようと思って」ロンドンに亡命したラ・グーマは、当然のことながら、以前にもまして、精力的に活動を展開した。亡命した年と翌67年は、主にイギリス国内での反アパルトへイト集会で基調講演などを行ない、国際的反アパルトへイト運動の推進役を果たすのに多くの時間を費やした。もっとも、経済的には、相変わらず大層苦しく、妻ブランシがロンドンの病院などで長く辛い仕事をやりながら家計を支えるのを余儀なくされた。

その間、ラ・グーマは、デニス・デュアダン所有の私設ラジオ局に職を得て、68年まで、ラジオ番組の制作を助けたり、書評や放送用の短かいラジオドラマを書いたりしたが、68年には局が閉鎖されて職を失っている。

67年に口ンドンで第3作『石の国』が出版された。作家としての名声も次第に高まり、講演などの依頼も増え、いきおい活躍の場も広がっていった。『石の国』の出版直後、ラ・グーマは、ストックホルムで開かれたスカンジナビア-アフリカ作家会議に招待された。その会議で、はじめてラ・グーマは、すでに一線で活躍していたナイジェリアのショインカ、ケニアのグギ、南アフリカのムファーレレ、デニス・ブルータス、ルイス・ンコシなどのアフリカ人作家たちと接することになり、南アフリカのような抑圧下におかれた国での作家の果たすべき役割についての意見をたたかわせることが出来た。会議では、南アフリカでアパルトへイト体制が如何に文化荒廃をもたらしているかを語ったあと、作家としての決意を次のように述べている。

 

・・・・・・これが南アフリカの現実です。そして、工場で働く労働者であれ、田舎で働く人々であれ、これが一般の人々だけではなく作家や詩人たちも南アフリカで直面している現実なのです。だから、南アフリカの作家の立場について言えば、一般の人たちの立場と全く同じです。南アフリカの芸術家は、必然的に自分や一般の人々が巻きこまれている闘いに自らの身を捧げる以外に選択の余地がないのを悟るのです。ですから、私たちの社会では、もし必要であればいつでも、銃を持って立ち上がり、放送局を占拠する覚悟ができているのです。

 

ストックホルムの会議から戻ってすぐに、今度はモスクワで開かれた第4回ソビエト作家同盟会議にゲストとしてラ・グーマは招待された。父親と同様に、南アフリカ共産党の有力な党員であったことからソ連と深い繋がりがあったわけだが、こののちラ・グーマは何回もソ連を訪問し、更に深く係わっていく。(長男ユージーンはソ連の女性と結婚し、現在二児の父親としてモスクワに住んでいる)ソ連政府の出版努力のお蔭でラ・グーマの作品がソ連国内の多くの言葉に翻訳されるなど、人気作家としとの地位が築かれていった。

その年、ラ・グーマは更にベイルートでの第3回アジア・アフリカ作家会議にゲスト及び基調講演者として招かれた。この会議には、アジア、アフリカ43ヶ国の代表とヨーロッパ、ラテン・アメリカ各地から招待国13ヶ国、あわせて56ヶ国、150人が参加した。主なテーマは「アジア、アフリカ文学に反映した民族解放闘争の諸問題」であった。日本からも堀田善衛氏ら7名が参加、そのひとり針生一郎氏は対談の中でラ・グーマのことに触れて次のように語っている。

 

針生 たとえば南アフリカの代表はわれわれとホテルが同じなのでしばしば会う機会があったんです。ジャワ人と黒人の混血というアレックス・ル・グマという作家、これはあとでイギリスや東ドイツででている彼の小説を読んでみると、フォークナーばりの粘液的な文体で、抑圧された心理や行動を描いている・・・・・・(「新日本文学」1967年7月号に大会の模様、報告などが特集されている。原文のまま引用したが、「黒人」ではなく「白人」、ル・グマはラ・グーマが正しいと思う)

 

こののち、ラ・グーマは、アジア・アフリカ作家たちとも深い係わりを持つようになる。

こうしてラ・グーマは徐々に国際的名声を博するようになってはいったが、なお経済的には苦しい日々が続いた。68年には、不本意ながらアビィ保険会社で働くことになる。(ロンドンに亡命した南アフリカ人の多くがここで働いたという)ラジオ局の仕事は性分にも合っていたのでまだ楽しかったが、70年まで続いた保険の仕事はラ・グーマにとって相当辛く、退屈なものであったらしい。

それだけに、アジア・アフリカ作家会議の69年度ロータス賞受賞決定の知らせは、ラ・グーマにとってことのほかうれしいものであった。

ベイルート大会で創設が決められたロータス賞は、アジア・アフリカ作家会議運動の基本目標の一つである「われわれの時代の客観的真実を反映し、あらゆる種類の民族的、人種差別や社会的不平等に対して闘う態度を表明し、同時にさまざまな形の抑圧に抗してよりよい生活を求める人民の熱望を表現する」作品に与えられるもので、70年6月22日、23日の両日モスクワで開かれた第6回常設事務局会議(日本からも堀田善衛、中薗英助両氏が参加している)の審査委員会でラ・グーマは69年度の受賞者の一人に選ばれた。その年度が初回で、受賞者は他にベトナムのトウ・ホァイ、パレスチナのマームード・ダルウイッシュがいる。(「新日本文学」1973年3月号に紹介記事が載せられている)

70年、ニューデリーでのアジア・アフリカ作家会議に招かれたラ・グーマは、インディラ・ガンジー首相からその賞を授与された。受賞式でラ・グーマは次のようなあいさつをしている。

 

・・・・・・もしこの賞を誰かに与えるべきだとすれば、本当は南アフリカの人々に授与されるべきものです。なぜなら、本当に南アフリカの人々がいなければ、私は作家ではあり得ないからです。表紙に私の名が付されて出版されている本の何千語もの文字を書くように私にふきこんでくれたのは一体誰でしょうか。人々の生活、人々の愛情、人々の憎しみ、人々の悲しみと喜び、希望と努力など、それらすべてのものごとが、芸術や文化の価値のある作品の背後には必ず存在するのです。その人々の背景と努力がなければ、文学は単なる意味のない落書きと堕してしまうでしょう。[「ロータス賞受賞者のあいさつ-アレックス・ラ・グーマ 南アフリカ」「ロータス」10号(1971)]

 

会議のあとインドでしばらく妻と二人の休暇を楽しんでからロンドンに戻ったラ・グーマは第4作『季節終わりの霧の中で』の創作に精力を注いだ。同時に、70年から78年までANCロンドン地区議長としても、解放闘争の積極的な活動を展開している。政治的イベントの企画・実行、講演旅行などがその主な活動内容であった。

71年には『アパルトへイト』を編集し、東ベルリンのセブン・シィーズ社から出版された。「南アフリカ人による南アフリカ人種主義に関する作品集」の副題が付され、すべて亡命を強いられ当時国外で闘っていた南アフリカ人によって書かれた詩とか随想文、評論文などの選集である。最近も来日したオリバー・タンボ、『まして束ねし縄なれば』に序文を寄せたブライアン・バンティング、現在アメリカピッツバーグ大学にいる詩人デニス・ブルータス、小林信次郎氏の邦訳『アフリカ文学の世界』(南雲堂、1975)の編者のひとりコズモ・ピーターサなどの名前も見える。ラ・グーマは「この本がアパルトへイト下で生活するということが何を意味するかについて人々がより理解を深めるのに貢献し、解放のために再び武力闘争を始めた勇敢な南アフリカの人々に対する支援者を更に増やしてくれれば、と願っています」とその序の中で編者としての希望を綴っている。

72年に『季節終わりの霧の中で』が出版された。これまでの作品は南アフリカにいる時に書かれたものが多かったのだが、この作品はすべてロンドンに来てから書かれている。

75年には、タシュケントの第5回アジア・アフリカ作家会議に出席し、同作家会議議長代理に選出されている。すぐあとには、ソビエト作家同盟の招待により6週間にわたる国内旅行を果たしている。その旅行とそれまでの何度かのソ連訪問体験をもとに『ソビエト旅行』を執筆、78年に出版された。また、75年には、世界平和会議の代表としてチリとべトナムを訪れている。べトナムでは、ベトナムの戦争に関する短篇を書き、当地で出版されている。

76年1月には、タンザニアのダル・エス・サラーム大学に客員作家として招かれ、カナダに亡命中で、客員教授として同大学を訪れていた南アフリカ人セスゥル・A・エイブラハムズ氏と初めて出会った。2年後に、二人はロンドンで再会し、エイブラハムズ氏は、原稿の整理・管理と、伝記家としての仕事を引き受けることになり、85年にその成果『アレックス・ラ・グーマ』が世に送り出されることになる。心臓発作によりロンドンに帰ったため、ラ・グーマの滞在期間はわずか2ヶ月であったが、その間、文学部主催のアフリカ文学国際会議で「アフリカ文学と唯物論者の芸術の概念」と「文学と反帝国主義者の闘争」の講演を行なったり、コート・ジボワールのリチャード・サミン氏のインタビューに応じたりしている。(サミン氏は、のちにロンドンでも何度かインタビューを行なったとのことである)

77年には議長を務めていたエジプトのY・エル・セバイが暗殺されたことにより、アジア・アフリカ作家会議議長代行に指名された。(79年にルアンダで行なわれた第6回大会で議長に指名されている)

78年に、ラ・グーマはANCのカリブ主代表としてキューバのハバナに赴いた。キューバ政府から、住宅、食料などを支給され、トリニダード、ジャマイカなどをまわったり、解放にむけての活動に従事した。

79年には第5作目『百舌鳥のきたる時』がロンドンで出版された。

81年には、日本アジア・アフリカ作家会議主催の「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議」-川崎市)に出席するためにラ・グーマは日本を訪れた。(本誌8号にその時の写真とラ・グーマのことが少し紹介されている)ラ・グーマはアジア・アフリカ作家会議議長として、キューバから来日したが、朝日新聞11月16日タ刊には次のようなラ・グーマに関する記事が載せられている。

 

また南アの作家アレックス・ラ・グーマ氏(アジア・アフリカ作家会議議長)も「第三世界と先進国間の、文化交流と連帯の一歩を作った」と評していう。「“人はパンのために生きるにあらず”というが、果たしてそうか。バンなしには生きられない-これがわれわれの主張だ。だから人々は、飢えることのないように助け合わねばならない。そのうえで、表現行為が存在する。今回、この問題をめぐり広範囲に討議し、新しい考えをつかむことができた」

 

しかし、一方では、針生一郎氏はその報告の中で、日本批判がことのほか厳しかった実状を次のように記している。

 

川崎でのスケジュールのあと、わたしはラ・グーマ、リウス、グギらに同行して京都におもむき、そこで熱心な日本の人びとの主催による三つの集会に出た。彼らはいずれも日本の人びとの熱意に、ある手ごたえを感じたと思われるが、同時にその日本批判はますます辛辣になった。ラ・グーマは、「日本をどう変えるかはあなたがたの問題だが、原則的なことは、日本の物資的ゆたかさは第三世界の搾取の上に成り立っていることだ」と語った。リウスは「日本人のすべてが、消費社会の構造に完全にはめこまれた自動的な口ボットのようにみえる。もうほとんど手おくれかも知れないが、あなたがたはどうやってこの社会を変えるのか」と問いかけつづけた。(「世界」1982年1月号、「新日本文学」1981年11月号にアジア・アフリカ、ラテンアメリカ文化会議の特集が組まれている)

 

82年にラ・グーマは『闘いの王冠』の執筆にとりかかっているが、結局第3章までの未完の作品となった。

85年6月には、ソビエト作家同盟から60歳の誕生祝賀会に招待された。千人以上の人が会場に集まり、ラ・グーマの人気の程をうかがわせた。

10月には、当時エイブラハムズ氏のいたカナダのビショップ大学での会議に招待され出席する予定であったが、10月11日金曜日タ刻、心臓発作のため二度と還らぬ人となったために出席は果たせなかった。妻ブランシは「何もかも突然で、信号を無視して車を走らせ病院に運びましたが、病院に着いたとたんに死を宜告されました」と臨終の模様を語ったという。

当時、アメリカにあるアフリカ文学研究会の副会長を務めていたエイブラハムズ氏はその会報で、ラ・グーマの業績を簡単に紹介したあと次のように結んでいる。

 

解放闘争の代表者としての、そして誰もが信頼を寄せる印象深い創造的芸術家としての積極的なすべての経歴を通じて、絶えずラ・グーマは、すべての南アフリカの人々が協調して生きる人種差別のない新しい南アフリカのために働いてきました。それはまさにラ・グーマが生涯、心から願い続けたことでしたが、勝利の日が見えてきたと思える今、皮肉なことにあの人がこの世で自分の働いた成果を享受することは決してないのです。

 

南アフリカ人として、南アフリカの大地に生を受けながら、白人でないという理由だけで、人間としての扱いを受けなかったラ・グーマ。ラ・グーマの一生は、人間を取り戻すための闘いであった。

貧しく虐げられながらも、更に拘禁され、祖国を離れることを強いられても、すばらしい両親の深い愛に包まれ、よき伴侶に支えられつつ、ラ・グーマは断じてひるまなかった。

祖国を離れて、疲れ果て、解放の日を見ることなくこの世を去ってしまったが、その生き様は時の流れの中に葬り去られることはない。慈愛を言葉にくるんで残していった数々の作品の中に、ラ・グーマの魂は生きつづけるだろう。

 

これで伝記的な紹介は終わり、次回からは作品論に入ります。政治・経済・歴史的な部分については故野間寛二郎著『差別と叛逆の原点』(理論社、1969)に、伝記的な部分については、本誌で紹介したセスゥル・A・エイブラハムズ氏の『アレックス・ラ・グーマ』[Alex La Guma (Boston: Twayne Publishers, 1985)]に負うところが多く、記して謝意を述べたいと思います。尚、アレックス・ラ・グーマ年譜と著・訳書一覧を付けました。ラ・グーマのものを読む際の一助になれば幸いです。ひとりでも多くの方がこの偉大な作家アレックス・ラ・グーマの作品を読まれることを祈りながら・・・・・・。

 

 

アレックス・ラ・グーマ年譜

 

 

19世紀  母方祖母イリーナ・フルゼラ、インドネシアよりケープタウンに到着し、スコットランド移民祖父アレクサンダーと結婚、母ウィルへルミナ・アレクサンダー誕生。父方祖父ラ・グーマ、マダガスカルよりケープタウンに到着。

1894  父ジェイムズ・ラ・グーマ誕生。

1924  ジェイムズ・ラ・グーマとウィルヘルミナ・アレクサンダー結婚。

1925  アレックス・ラ・グーマ、ケープタウン第6区で誕生。(2月20日)

1932  アパー・アシュリ小学校に入学。

1933  妹ジョーン誕生。

1938  ケープタウン、トラファルガル・ハイスクールに入学。

1942  ハイスクール中退。ケープタウン、倉庫会社に就職。(~43)

1944  メタル・ボックス・カンパニーに就職。

1945  ケープ・テクニカル・カレッジ夜間コース入学試験に合格。

1946  メタル・ボックス・カンパニーの執行委員としてストライキを先導、同社を解雇される。

1947  ケープタウンの会社で会計係や店員。(~54)青年コミュニスト同盟に参加。

1948  国民党政権樹立。南アフリカ共産党第20区に加盟。

1950  共産党禁止される。

1954  ブランシ・ハーマンと結婚。南アフリカカラード人民機構[SACPO、のちのカラード人民機構(CPC)]の執行委員となる。

1955  SACPOの議長に選出される。クリップタウンでの人民会議のケープ代表団を組織するが、ケープ州ボウフォートウェストで足止めを食う。「ニュー・エイジ」にリポーターとして採用される。

1956  ケープタウン、バスボイコットを指揮。長男ユージーン誕生。他155名とともに反逆罪の嫌疑で逮捕される。反逆裁判開始(~61)

1957  「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」を担当。(~62)CPCの執行委員代表に選出される。最初の短編「練習曲」(のちに「夜想曲」と改題)を「ニュー・エイジ」に発表。

1958  暗殺されかかる。

1959  次男バーソロミュー誕生。

1960  シャープヴィルの虐殺。フルウールト首相暗殺、非常事態宣言発令により逮 捕され、7ヶ月間拘置される。

1961  ゼネラルストライキを組織した嫌疑により10日間拘留される。父ジェイムズ・ラ・グーマ、心臓病にて死去。

1962  『夜の彷徨』出版。共産主義弾圧法により、著述・著作物の引用を禁止される。「ニュー・エイジ」の仕事放棄を余儀なくされる。

1963  ANCの地下運動幇助の嫌疑により、5ヶ月間拘留される。妻ブランシも逮捕されるが、すぐに釈放される。5年間の自宅拘禁を命じられる。母ウィルヘルミナ死去。

1964  『まして束ねし縄なれば』出版。

1966  南アフリカ共産党に協力した嫌疑により4ヶ月間拘留される。家族とともにロンドンに亡命。イギリス国内での反アパルトへイト運動の推進に尽力。(~67)デニス・ジュアダンのラジオ局に就職。(~68)

1967  『石の国』出版。スカンジナビア-アフリカ作家会議(ストックホルム)、ソビエト作家同盟第4回会議(モスクワ)、及びアジア・アフリカ作家会議第3回大会(ベイルート)に招待される。

1968  ロンドンのアビィ保険会社に就職。(~70)

1970  アジア・アフリカ作家会議69年度ロータス賞の受賞決定。(モスクワの第6回常設事務局会議にて)アジア・アフリカ作家会議第4回大会(ニュー・デリー)に招待され、ロータス賞を授与される。ANCロンドン地区議長となる。(~78)

1971  『アパルトへイト』を編集、出版。

1972  『季節終わりの霧の中で』出版。

1975  アジア・アフリカ作家会議第5回大会(タシュケント)に参加。同作家会議議長代理に選出される。ソ連を6週間旅行。「世界平和会議」代表としてチリ、ベトナムを訪問。

1976  ダル・エス・サラーム大学(タンザニア)の客員作家。(1月から2月まで)

1977  アジア・アフリカ作家会議議長代行となる。

1978  『ソビエト旅行』出版。ANCカリブ代表に指名され、赴任。(キユーバのハバナに在住)

1979  『百舌鳥のきたる時』出版。アジア・アフリカ作家会議議長に選出される。

1981  アジア・アフリカ、ラテンアメリカ文化会議などに出席のため日本を訪問。

1982  遺稿『闘いの王冠』(未完)の執筆開始。

1985  ソビエト作家同盟より還暦祝賀会(モスクワ)に招待される。心臓発作によりハバナにて死去。(10月11日タ刻)

1987  キューバで3回忌法要、長男ユージーン参加予定。(10月)

 

 

 

≪編・著書≫

 

◎ 『夜の彷徨』(物語)(A Walk in the Night, 1962)

◎ 『まして束ねし縄なれば』(物語)(And a Threefold Cord, 1964)

◎ 『石の国』(物語)(The Stone Country, 1967)

◎ 『アパルトへイト』(編・著)(Apartheid, 1971)

◎ 『季節終わりの霧の中で』(物語)(In the Fog of the Season’s End, 1972)

◎ 『ソビエト旅行』(紀行文)(A Soviet Journey, 1978)

◎ 『百舌鳥のきたる時』(物語)(Time of the Butcherbird, 1979)

 

≪日本語訳≫

 

◎ 物語『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)、酒井格訳『全集現代世界 文学の発見9第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)に所収。

◎ 短編物語『コーヒーと旅』(“Coffee for the Road,” 1964)、土屋哲訳『現代アフリカ文学短編集Ⅱ』(鷹書房、1977年)に所収。

◎ 短編物語「タシュケントへもう一度」(“Come Back to Tachkent,” 1970)、荒木のり訳「新日本文学」1971年3月号に所収。

◎ 評論「アパルトへイト下の南アフリカ文学」、石井碩行訳(“South African Writing under Apartheid,” 1975)「新日本文学」1977年4月号に所収。

◎ インタビュー「アレックス・ラ・グーマへのインタビュー」(“Interviews de Alex La Guma,” 1975)、玉田吉行訳「ゴンドワナ」1987年4月号に所収。

◎ 物語『まして束ねし縄なれば』、玉田吉行訳(門土社、1992年)

 

≪教科書≫

 

A Walk in the Night、玉田吉行註(門土社、1989年)

And a Threefold Cord、玉田吉行註(門土社、1991年)

 

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」10号24-29ペイジ

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