つれづれに

つれづれに:トランプ2

 現アメリカ大統領のトランプ(↓)の話である。前回の→「トランプ1」の続編と言うよりは、その前の4回(→「ソウル」、→「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」)のアメリカ関連の続編である。

 トランプがなぜ大統領に選ばれたのかが長いあいだ釈然としなかった。どう考えてみても、あの人格で大統領はないだろうという思いが先に立ったからかも知れない。ところが、最近なんだかわかるような気がしてきたのである。目にとまった新聞記事がきっかけだが、そうか、選挙とは政治家と政党同士の駆け引きなんだから、どんな人物であれ、過半数を取れば選ばれるんだと改めて思い直した。制度的に日本とは違うので、州ごとの得票数で決まる。ヒラリー・クリントン(↓)のように全体の得票数が過半数を超えていても、負ける場合もある。政党の戦略と、何よりも金持ち層の動きを考えれば、元々理解できていたかも知れない。持たない者が絞り取られ、持つものが好き勝手する、その構図は永遠に変わらない。先ず、そのことを考えるべきだった。

 政治家と党の戦略を見極める目が必要となる。政治家も当選しなければただの人だから、議員になるにはどうすればいいかを最優先し、党はどの層を多く取り込めるかを考える。その流れからすると、取り込む層の経済面も大きな要素になる。

例えば、赤狩りに遭った民主党が巻き返すには、どの層を狙うかが最大の課題だった。南北戦争後に加速していた産業化と第2次大戦の好景気でより加速された産業社会が、どのように変化して具体的に人々の毎日の生活にどう反映されていたのか?

南北戦争が終わったあとしばらくして、産業社会化への動きは激しさを増したので、実際の生活で体感した人も多かっただろう。実際に生活がどう変わったかは想像の域を出ないが、産業革命で基本構図が大きく変わったのは確かである。今まで手でやってたものを機械でするのだから。出来る範囲も広がるし、ある意味便利になる。鍬で耕していところを耕運機が耕してくれる。手で洗っていた洗濯物を洗濯機が洗ってくれる。歩いて行っていたところに、自転車や車で早く行ける。薪で沸かしていた風呂も、電気やガスで沸かせる。少し考えただけでも想像は広がる。鉄鋼、造船、トラックやバスや列車など、あらゆる面で基本構図が変わったはずである。経済的に豊かになった人たち、特に都会の住人には恩恵が大きかったと思われる。

ドイツは1886年にガソリン・エンジンの車を実用化し、アメリカは1909年に大量生産を開始、1913年にはベルトコンベア方式を導入して低価格化に成功、自動車の大衆化を実現している。自動車の大衆化で、鉄工業や機械工業に石油産業、タイヤのゴムや窓ガラスなどの技術革新や生産の合理化が進んだ。自動車の普及は道路網の整備や物流や通信など、あらゆる分野に影響を及ぼし、現代社会の人間生活を一変させた。大量生産・大量消費時代に突入して行く。

20世紀の自動車ブームに加えて、18世紀後半のイギリスの運河開削ブームと、1830年代がピークの鉄道ブームも大きかった。アメリカで鉄道建設が始まったのは1827年で、1840年代後半に急速に発展した。カリフォルニアのゴールド=ラッシュで西部開拓が推進され、西に向かって人が押し寄せた。大量に、そして短時間に人と物資を運べる鉄道は脚光をあびた。1869年には大陸横断鉄道が開通し、広大な国土の東西をむすぶ大動脈となった。

赤狩りにあったあと民主党が巻き返すためには、産業化の恩恵を一番に受けている人たち、特に人口も多い都市部に住む層の票と、公民権運動の参加者、南部の黒人の票を取り込む工夫も必要だった。民主党が政権を奪い返せたのは、産業化の恩恵を受けている都会の人たちと、公民権運動で勢いに乗るアフリカ系アメリカ人たちの票を、共和党より多く獲得出来たということである。大統領候補のケネディ(↓)の若さも有利に働いて、南部の黒人票の取り込みに成功した。

 マルコム(↓)が回教団を離れる前に街頭演説で「大量の黒人票のおかげで大統領になったケネディは、黒人に対する警察の暴力を野放しにしている』と批判している。1963年にケネディが暗殺されたあと、副大統領のジョンソンが大統領になり、北部共和党議員の一部の協力を得た超党派で公民権法を成立させている。元々民主党は南部の寡頭勢力、奴隷主の代弁者としてワシントンに送り込まれたのに、その民主党が公民権の成立に尽力して元奴隷を解放する側に回ると誰が思ったか?政治家や党の戦略次第では、党も変質するわけである。

小島けい挿画(玉田吉行著英文『アフリカとその末裔たち』)

 その後も、2大政党の政権交代が続いき、民主党のビル・クリントンと黒人初のオバマに続いて、ヒラリー・クリントンが出馬した時、初の女性大統領誕生になりそうな勢いだった。しかし、共和党のトランプが勝った。得票数ではトランプよりヒラリーの方が多かったのだから、ある意味、民主党の戦略次第では結果も変わっていた可能性もある。では、トランプがどの層を取り込んだのか?続きは「トランプ3」である

つれづれに

つれづれに:トランプ1

遊ぶトランプの話である。リモートで毎月集まっている時のテーマがアフリカ系アメリカの歴史だし、その関連で前の4回は(→「ソウル」「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」)を書いた。その流れで大統領トランプについて書こうと思ったが、その前に、遊ぶトランプについて書いてみるかと考えただけである。ただ、小説の修作で「つれづれに」を書き始めてみると、どうしても過去の検証とやらも必要になって、同じようなことを何度も書いているので、二番煎じになるとは思うが。

前世紀の終わり頃に宮崎医科大学(↑)の職にありついて、医学生に英語の授業を始めた。自分自身は授業にも出ないで単位をもらった口なので、そのお返しにという気持ちもあって、落とさないことに決めていた。しかし、1年だけ落としたことがある。その時に女子学生が出した課題の一つのタイトルが「トランプの遊び方」だった。

最初に赴任した年は、同僚の次年度の在外研究の期間にその人の分の授業をする関連もあって、普段の1年生に加えて2年生の授業も担当した。留年する学生も多かったが、英語で落とす人はいなかったので、毎年新入生の100人を4つに割って1クラス25人で授業をやっていた。1コマが100分で、通年30回の授業だった。その時の2年生2人がよく研究室に来た。授業が終わってからも卒業まで、定期的に研究室に顔を出し、家にも来るようになっていた。その2人とは、その後も遣り取りが続いている。片方は家族の写真入りの年賀状や自筆の手紙をくれる。ものも送られてくる。もう片方は印刷した年賀状を送ってくるだけだったが、今年は珍しく、手紙が来た。その人は研究室に来ると必ず「たまさん、落とさないと駄目ですよ。奴ら、わかっててやってるんですから。舐められますよ」と言っていた。

所属は医学科一般教育英語科、担当は英語学科目で、それが正式名称だった。ずっと、中高での試験のための英語が嫌だったから、一般教養の英語は僕には都合がよかった。自分で何をするかを決められたからである。英語も言葉の一つで伝達の手段だから使えないと意味がない、中高でやったように「英語」をするのではなく、「英語」を使って何かをする、教員としては他の人の教科書を使い、一時間ほどで成績がつけられる筆記試験をするのが一番楽だが、自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引ける、新聞や雑誌も使い、可能な限り映像と英語を使う、折角大学に来たのだから中高では取り上げない題材を使って自分自身や世の中について考える機会を提供して、大学らしい授業だと思ってもらえるような授業がいい、医学のことはこの先医療系の研究者や医者が嫌というほどやってくれるのだから、一般教養の担当にしか出来ないことをしよう、自分の時間でもあるし、いっしょに楽しくやりたい、あちこち非常勤をしている間に、大体そんな方向性は決めていた。

 映像を使う人があまりいなかったからだろう。プロジェクターの画質が今ほどよくなかったので、分厚い暗幕が必要だった。きっちり黒いカーテンを引いて、真っ暗な中で映像を観てもらった。普段は長い映画などを見る時以外は、大きな画面のテレビを台車に載せて、毎回教室に運んだ。25人授業だったので、学生との距離も近くて学生の顔も見やすかった。テレビを録画したテープやビデオショップで借りて来たテープを編集した。当時は台数が多くなかったので、編集用のビデオデッキは20万円以上もした。まだベータ(↑)があった時代で、私はVHS(↓)と半々で使っていたので、どちらのビデオデッキも必要だった。大学の豊かな時間の中で教養科目の英語の時間が、自分について考え、今まで培ってきた物の見方や歴史観を再認識するための機会になればと願っていた。2年間非常勤で行った大阪の私大では授業そのものが成り立たなかったので「授業が出来る!」だけで十分あった。もちろん、授業を始めた時は、である。しかし、やり始めてみると実際は、1年目からいろいろあった。

 ある日、1年生の授業に行ってみると、やけに来ている人が少なかった。「どうしたんやろ?」と来ている人に聞いてみたが「どうなんでしょうね?」と言われた。そんなことが続いて「大丈夫やろか?」と思ったとき、何だか既卒組の2人に学年全体が顔色をうかがっている気配がした。2人は自己紹介に京大卒と東大院卒と書いてあった気がする。僕は短気なので、推論で京大院卒の人を部屋に呼んで「奨学金停めたろか?」と一言だけ言った。関西弁、特に播州弁は充分にきつい。そのあと落とせと説き続けてくれた人に事情を話したら「2人で仕切ってるみたいですね。既卒者が仕切りたがる学年はうまく行ってないです。東大院卒の方は学部からではないそうですから、劣等感の裏返しじゃないですか?」と涼しそうな顔をして言っていた。何年かして「医学生嫌やな」と感じ始めた思いは、この時の既卒組の幼稚さとは別物のようだった。

落とすように説いてくれたとき、僕は「まあな。授業に出ずに単位を取った方やし、自分が出来んかったことを学生に強要すんのも気が引けるし。それで出席も取らへんし、誰もよう落とせんのやけど。それに今の周りの教員も酷いのが多いやろ?何人かの箍の外れた馬鹿教師の噂もしょっちゅう聞かされるし。この前部屋で面接したら、10人が10人とも『入る前にこんな酷いと知ってたら受験しなかったのに‥‥』と言ってたで。異常やろ?そんな状況で、僕まで落とせるか?」と答えていた。

しかし、相手が落とさないと見ると、医学生は相手に容赦しなかった。「この頃、顔見ぃひんなあ」、「そんなに顔見せんで、大丈夫か?」とやんわり言っても、言うことそのものに意味がなかったらしい。提出物も出さないで単位が出るとわかると、出さないのである。「出さんでええんか?」と聞いても、大丈夫と踏むんだろう。何年かそんな状態が続いたが、落とせずに、最後の日に目をつぶって60を記入した。

1度落としたのは、「医学生、嫌やなあ」という思いがだんだん強くなったころである。

「これはなんぼなんでもあかんやろ」

そう感じて、基準を決めて落としたら、5人になった。そのうち4人は他の教科でも4つか5つ落としていたから、僕の教科が1つ加わっただけだったが、あと一人は僕の教科だけだった。しかし、3教科までは大丈夫だったので進級し、その次の年に何もなかったかのように平気な顔で課題を出した。僕も何も言わずに単位を出した。授業中ずっと、前の学生を壁にして隠れたつもりで毎時間漫画を読んでいたことを注意すべきだったのか?「トランプの遊び方」などの人を馬鹿にした内容の課題が「評価の対象外」だったことをその女子学生に言うべきだったのか?

しかし、現実にはその前の年まで歯止めのなかった勢いが急変した。課題は期日に全員が出すし、きっちりと計算して欠席はするし。しかし、互いの信頼は微塵もないので、1年でやめた。医師になるためには教養は要らない、英語は必要なら自分で出来ると考える水平方向と、素養を培う大切な空間で自分について考える機会に欲しいと願う鉛直方向が、永遠に交わることはなかったのである。

講義棟

つれづれに

つれづれに:ソウル

 前の3回(→「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」)で取り上げた→「ペンタゴン」(↑)の描く環太平洋構想のマニラ→オキナワの次のソウルである。

小島けい挿画(玉田吉行著『アフリカとその末裔たち』)

 韓国について調べたのは、ケニアの作家グギさん(↑)の評論(↓)の日本語訳を頼まれたとき以来である。日本語訳には丸2年ほどかかった。評論にはグギさんがギクユ語で書き始めた経緯や新植民地支配下にあるケニアの政治情勢に加えて、韓国軍事政権下の金芝河(→「金芝河さん1」、→「金芝河さん2」、→「金芝河さん3」、→「金芝河さん4」、→「金芝河さん5」)に、アフリカ系アメリカ文学と思想まで含まれていた。一つでも大変なのに、手に余る、そんな感じの2年間だった。日本人一般のアフリカへの関心度や常識を考えても、間違ってもアフリカの本が売れるわけがない。出版社の人に、普通は200万か、300万か要ると言われた。払って自費出版した人もいたようだが、結局、依頼されて日本語訳は仕上げたものの出せずに未出版のままである。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

 第2次大戦後、朝鮮半島は、日本の植民地支配のあとソ連とアメリカに分割占領されていたが、48年に北朝鮮と韓国が建国されて対立が深まっていた。50年に中国をバックに北朝鮮軍が韓国に侵攻してソウルを占領した。朝鮮戦争である。53年まで続いた。

北朝鮮軍を支援した毛沢東はソ連のスターリンに助けを求めたが、いい返事を貰えないまま戦争に入っている。中国もソ連も共産党が出来たのは20年代だが、力を持ってきたのは戦争後である。中国共産党はソ連の中国支所みたいな形で出発しているので、スターリンに助けを求めたわけである。

毛沢東は49年に蒋介石を共産党から追い出し、蒋介石は台湾に逃げた。朝鮮半島の揉め事で北朝鮮を支援し、スターリンに助けを求めたのは、毛沢東に実績づくりの必要があったからである。しかし、スターリンからはいい返事を貰えないまま戦争に入っている。スターリンが口を濁したのは、ソ連の核実験がまだうまく行っていない段階だったからである。ヒロシマ、ナガサキの原爆を目の当たりにしていたから、毛沢東の要請に応えられなかったというところだろう。その後、東西冷戦は激化していく。

東側の脅威に備えてアメリカでも赤狩りが行われた。赤狩りを指揮したのは共和党のマッカーシー上院議員である。マスコミや取り巻き議員や検察まで巻き込んで、政府や陸軍関係者や、映画監督や作家や外国人までを対象に、かなり強引な捜査を行っている。特に国務省の東アジア担当の外交官の大半が免職になり業務に支障が出て、ベトナム戦争の失敗も対中国専門家がいなくなったせいだという意見も出るほどだった。54年に批判的なCBSのドキュメンタリーも放映され、軍部や民主党の巻き返しもあった。中国の共産党政権成立や、朝鮮戦争やソ連の脅威で支持した世論にも逆風が吹き、マッカーシーは辞任に追いやられて、赤狩り騒動は終わった。

ペンタゴンがマニラ→オキナワの次にソウルを考えていたわりにはソウルはあっさりと占領されている。一因はすぐ近くの日本に駐留していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサー(↓)が事態を軽く見過ぎていたからである。ペンタゴンとはかなり温度差があった。それに、予想以上に中国が力を持ち始めていた、展開が早すぎたという面もあっただろう。

 その後、アメリカは連合軍にも要請して、何とか38度線まで押し返したが、ずいぶんと時間がかかっている。決着をつけずに、やっと休戦の形で収めた。ソ連と中国が力をつけ始めた時期だからこそ、それだけソウルが重要な拠点だったということだろう。それ以来、38度線はいつも緊張状態にある。

<中国との国交回復>

戦後、中国との国交が回復したのは1972年である。それまで戦争で国交がなくなっていたのも知らなかった。国交回復を実感したのは、→「第2外国語」で中国語を取った時である。僕の選択基準は受講者が多いか少ないかだけだった。昼間に学科のある中国語とスペイン語とロシア語と、学科のないフランス語の中から選べた。スペイン語とフランス語は教室に学生が溢れていたから、中国語かロシア語だった。入学した年は中国語を選択した。受講生が数名だったからである。他の教科もそうだったが、中国語の授業に出たのも5回目か6回目だった気がする。ただ、運よくか運悪くか、読みのテストだった。初修なので、全くのお手上げだった。今年はやめとこ、と黙って教室を出た。2年目にまた中国語を取った。辞書も買っていたから、今回は初回からでたのだが、教室は学生で溢れかえっていた。国交が回復した年だったらしい。拗ねて斜交いにものを眺めていたので、世の中についていきようがない。その後2年留年したので、初修を取ったのは5年目で→「ロシア語」だった。

つれづれに

つれづれに:南北戦争のあと:経済篇2

 →「南北戦争のあと:経済篇1」の後半である。

南北戦争で北部の産業資本家が勝ち、産業社会への動きが加速した。当然、安価な労働者と原材料が要る。手っ取り早く、が身上のアングロ・サクソン系の傾向は同じ、侵略して奪う、である。自国と南米では賄いきれない分を調達するために、手短なカリブ海とアジアから始めた。アフリカにも手を出したかったが、ヨーロッパ諸国のガードは固い。いつかの機会を待つしかない。当時、その地域にのさばっていたのはスペインである。そこと闘うしか活路はない。名目は、スペイン帝国に苦しめられているその地域の人たちのために、である。何とも滑稽だが、実際にやったのが1898年の米西戦争である。それほど産業化も進み、スペイン帝国に勝つための武器を賄う経済力をアメリカがつけていたということだろう。

 南北戦争が終わったあと、しばらくしてから産業社会への変化の激しさを実際の生活の中で体感した人も多かっただろう。実際に生活がどう変わったは具体的にはわからないが、産業革命で基本構図が大きく変わったのは確かだろう。今まで手でやってたものを機械でするのだから。出来る範囲も広がるし、ある意味便利になる。鍬で耕していところを耕運機が耕してくれる。手で洗っていた洗濯物を洗濯機が洗ってくれる。歩いて行っていたところに、自転車や車で早く行ける。薪で沸かしていた風呂も、電気やガスで沸かせる。少し考えただけでも想像は広がる。鉄鋼、造船、トラックやバスや列車など、あらゆる面で基本構図が変わったはずである。経済的に豊かになった人たち、特に都会の住人には恩恵が大きかったと思われる。

「シカゴ」ミシガン通り

 ドイツは1886年にガソリン・エンジンの車を実用化し、アメリカは1909年に大量生産を開始、1913年にはベルトコンベア方式を導入して低価格化に成功、自動車の大衆化を実現している。自動車の大衆化で、鉄工業や機械工業に石油産業、タイヤのゴムや窓ガラスなどの技術革新や生産の合理化が進んだ。自動車の普及は道路網の整備や物流や通信など、あらゆる分野に影響を及ぼし、現代社会の人間生活を一変させた。大量生産・大量消費時代に突入して行く。コンゴの→「レオポルド2世」が傭兵(↓)を使い、残虐な行為に及んでアフリカ人にゴムを集めさせた時期に符合する。

 20世紀の自動車ブームに加えて、18世紀後半のイギリスの運河開削ブームと、1830年代がピークの鉄道ブームも大きかった。アメリカで鉄道建設が始まったのは1827年で、1840年代後半に急速に発展した。カリフォルニアのゴールド=ラッシュで西部開拓が推進され、西に向かって人が押し寄せた。大量に、そして短時間に人と物資を運べる鉄道は脚光をあびた。1869年には大陸横断鉄道が開通し、広大な国土の東西をむすぶ大動脈となった。また、コロンビアからパナマを分離独立させて有利な条件で1914年にパナマ運河(↓)を開通させ、カリブと繋いだ。

 米西戦争でアメリカはカリブ海及び太平洋の旧スペイン植民地に対する管理権を獲得していた。1898年12月に講和が成立し、パリ条約でキューバの独立は承認され、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した。フィリピンのハノイはペンタゴンが描く環太平洋構想の出発点となり→オキナワ→ソウル→ハノイと領域を伸ばして行った。→「ペンタゴン」(↓)の世界戦略が進んで行く。