つれづれに:第2外国語(2022年4月4日)

つれづれに

第2外国語

六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)

大学と→「運動クラブ」(3月29日)の自由な雰囲気はよかったし、英作文の『坪田譲治童話集』も素敵だった。(→「英作文」、4月2日)学生運動まがいの入学式やクラス討議、学舎のバリケード封鎖と機動隊による強制撤去なども(→「授業も一巡、本格的に。」、2019年4月15日)、高校までの閉塞感に比べたら新鮮で、その時にしか味わえなかった出来事である。充分に満足だった。

英作文のテキストに使われた文庫本『坪田譲治童話集』の前身か

高校までなかったものの中に第2外国語があった。元々語学は演習科目で半期で1単位、講義科目の半分である。そういう扱いのせいか、医学部ではそれを担当する語学の講座の予算は他の講座の半分だった。医者から見れば、語学の教師?という扱いなんだろう。数の問題である。外国語が専門だけあって、その偏見はなかったように思う。逆に語学の教師だらけで、法経商コースで、例えば商法を専門にしていた人は肩身が狭かったかも知れない。

外国語大学だけのことはある。第2外国語は学科があるフランス語、スペイン語、中国語とロシア語から選択出来た。通年で週に2回、8単位が必修だった。いつか役にたつかも知れない、おもしろそうなど、少しでも興味の持てる言語を普通は優先するようだが、私の選択基準は人が多いかすくないか、たくさんの人は苦手だ。欧米志向が浸透していたからだろう。案の定、フランス語とスペイン語はやたら人が多かった。選択肢は二つ、中国語を取った。その方が少なそうだったからである。

事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)

出席は半分以上と聞けば、半分以上は休んではいけないと考えるようだが、私は半分以上は出てはいけないと思っていた節がある。週に30週と規定されているのは今と同じだが、実際には25~6週が多かった。従って、通年なので出席は多くて13回だった。最初から行くのも気が引けるので、最初に教室に顔を出すのが大抵は夏休み前の7~8回目くらいになっていたような気がする、中国語も他の科目と同じように考えていたが、初めての外国語というのを忘れていた。8回目くらいに出た最初の授業が読みの試験、さすがに、お手上げである。辞書や教科書も買っていたのに、最初の時間で、また来年やな、と思ってしまった。2年目にまた履修届を出して、今回は初回だけでもと顔を出したら、人で溢れ返っていた。とっさに事態が呑み込めなかったが、どうやら1972年は中国との国交回復の年だったようである。前年度が4人だったのに、まさか国交回復で教室が人で溢れ返るとは。世の中について行きようがない。結局この年もまた、また来年やな、で終わってしまった。買った辞書を使う機会もない。

国交回復の年に間違いなかったかが怪しくなって、「1972年中国」で検索してみたら、外務省が「日中国交正常化45周年・日中平和友好条約締結40周年を迎えて日本と中国は,2017年に日中国交正常化45周年,2018年に日中平和友好条約締結40周年という,節目の年を迎えました。」の情報を出していた。40年や45年が節目かどうかは知らないが、あれから、半世紀の歳月が流れたようである。

次はロシア語、か。

満開の桜の下は、お昼寝の場所のようである