2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の15回目で、エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(4) アパルトヘイト政権の崩壊とその後、です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

本文

エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(4) アパルトヘイト政権の崩壊とその後

 前回は「アパルトヘイト政権との戦い」を書きましたが、今回は「アパルトヘイト政権の崩壊とその後」について書きたいと思います。

1990年2月11日、マンデラが釈放され、4年後に大統領になりました。去年大学生になった人たちの多くが生まれた年にマンデラが牢獄から出たわけです。作家のアレックス・ラ・グーマ(1925―85)は、アパルトヘイトを知らない人たちの時代が来たときのために物語を書いて南アフリカの歴史を記録するのだと常々言っていたそうですが(→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」「ゴンドワナ」10号10-23頁、1987年)、今は「アパルトヘイトを知らない人たちの時代」です。ラ・グーマの生きた時代から月日が経ちました。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

アパルトヘイトがなくなってやっと自由になった(Free at last)、これで差別がなくなる、という人もいますが、本当のところはどうでしょうか。あれほど長く続いたアパルトヘイト体制がどうして崩壊したのでしょうか。

南アフリカだけに限ったことではなく日本のアジアの侵略についてもそうですが、考えれば無茶な話です。南アフリカの場合、ある日突然、今のケープタウン辺りにオランダから人が来て、そこに住んでいる人たちから武力で土地を奪い、その人たちを奴隷にして働かせました。そのうち英国人がやって来て、今度はフランスに取られないようにと大量の軍隊を送り、オランダ人を蹴散らして植民地をつくりました。オランダ人の富裕層は内陸部に逃げ、今度はそこの住む人たちから武力で土地を奪いその人たちを安価な労働力として扱き使いました。やがてオランダ人が制圧した土地に金とダイヤモンドが出て南アフリカは軍事戦略上の重要な土地になります。豊かな鉱物資源を巡って殺し合いをした末、アフリカ人を搾取するという一致点を見出して南アフリカ連邦を作ります。互いに銃を持っているわけですから、決着をつけるためには片方を殲滅させるしかありません。入植者はわずかに13パーセント程度、アフリカ人に取り囲まれていましたから戦争を続ければ共倒れで、自分たちの利益を優先したわけです。

キンバリーでのダイヤモンドの採掘(NHK「アフリカシリーズ」1983年)

前回書いたように、その後、多数派のアフリカ人の強力な抵抗に遭いますが、豊かな鉱物資源や大地の恵みと無尽蔵の安価な労働力を諦めませんでした。その富を、英国、ドイツ、フランス、戦後は米国に日本までを加えた国で今も貪り続け続けています。「白人」でない日本人は、「名誉白人」の扱いを受けて、「仲間」に入れてもらったわけです。

数百年も自分の利益のためなら何でもやって来た人たちが、アフリカ人のために譲る、そんなことはあり得ません。利益を守るために、形を変えただけです。その絡繰りを理解するためには、周りの状況や時代の流れや世界の全体像を見渡してみる必要があります。

入植者が利益を守るために一番必要だったものは何か。それは戦争の回避でした。もしその戦争が1980年代、1990年代に起きていたらどうなっていたか。オランダ人と英国人がかつて殺し合った戦争とは規模が違います。ミサイルや、場合によっては核を使う可能性もなかったわけではありません。米国や英国、ドイツ、フランス、日本と手を携えた総人口の15%足らずの入植者と、ソ連やキューバ、中国から武器を供与される多数派のアフリカ人が全面衝突、そうなれば南アフリカは、第二次世界大戦でパリやロンドンや東京がそうであったように、廃墟になっていたでしょう。そうなれば、アパルトヘイト政権だけではなく、そこに群がって暴利を貪っている米国、日本、英国、フランス、ドイツも痛手を受けたでしょう。何としても全面戦争は避けなければならない、それがアパルトヘイト政権と西側諸国と日本にとっての命題でした。あとは、手続きの問題です。

当時の英国の首相サッチャーと米国の大統領ブッシュの間で、このままでは危ないわ、アフリカ人に政権をやらせて何とか戦争を回避しないと元も子もなくなるわよ、マンデラでも釈放して大統領にするしかないわね、仕方ない、釈放するか、そんな会話が交わされ、マンデラが釈放されてアフリカ人政権が誕生しました。

ネルソン・マンデラ

もちろん、元々アパルトヘイト体制は経営者側から見れば、そう効率のいい制度でもありません。少数派の無能な白人にも高い給料を払わなければいけないし、有能なアフリカ人がいても法的には雇えない上、白人用とアフリカ人用に施設を二つも作る必要があったのですから。実際、1980年代になると英国系の経済人は国外のANC(アフリカ民族会議、現在の与党)の幹部と、アパルトヘイト後について話し合いを始めていたと言われます。

核開発に必要なウランの大部分がソ連と南アフリカ、ナミビアに埋蔵されているというのも大きな要素だったと思います。もし戦争が起きれば、アンゴラやモザンビークのように、共産国の支援の元にアフリカ人の社会主義政権が誕生して、東西のバランスが崩れていた可能性もあります。

考えれば、自分たちが作った法律で勝手にマンデラに終身刑を言い渡しておきながら、同じ法律で、無条件で釈放したわけですから、道義も何もありません。マンデラは、白人にもアフリカ人にもいい顔を見せて、アフリカ人初代の大統領になりました。厳しい見方をすれば、富の再配分の最後の機会が、アフリカ人政権の誕生で失なわれてしまったと言えるでしょう。仮に多少の富の再配分はあっても、わがもの顔にのし歩く侵略者たちを追い払うことは出来きませんでした。

南アフリカに生まれ、アパルトヘイト体制と闘うことを強いられたムベキにはその侵略者の悪意が骨身に染みており、2000年のダーバンの会議で、西洋の批判を承知の上で、「HIVだけがエイズを引き起こす原因ではない」というその主張を繰り返しました。(「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)でも述べましたし、「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」(「ESPの研究と実践」第9号30-39ペイジ)でもまとめています。)

ムベキの発言は二つの意味で歴史的にも非常に大きな意味を持っていたと思います。一つは、病気の原因であるウィルスに抗HIV製剤で対抗するという先進国で主流の生物医学的なアプローチだけによるのではなく、病気を包括的に捉える公衆衛生的なアプローチによってアフリカのエイズ問題を捉えない限り本当の意味での解決策はありえないというもっと広い観点からエイズを考える機会を提供したことです。莫大な利益を独占する欧米の製薬会社への抵抗の意味合いも含まれていたと思います。

タボ・ムベキ

もう一つは、1505年のキルワの虐殺以来、奴隷貿易、植民地支配、新植民地支配と形を変えながらアフリカを食いものにしてきた先進国の歴史を踏まえたうえで、南アフリカでは鉱山労働者やスラムを介して現実にエイズが広がり続けているのだから、その現状を生み出している経済的な基本構造を変えない限り根本的なエイズ問題の解決策はないと、改めて認識させたことです。

私はアフリカ系アメリカ人の文学がきっかけで、たまたまアフリカの歴史を追うようになったのですが、その結論から言えば、アフリカとアフリカのエイズ問題に根本的な改善策があるとは到底思えません。根本的な改善策には、英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが指摘するように、大幅な先進国の譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩のかけらも見えないからです。「国家的な危機や特に緊急な場合」でさえ、米国は製薬会社の利益を最優先させて、一国の元首に「合法的に」譲歩を迫ったのが現実なのですから。

「『ナイスピープル』理解7:アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)でも書きましたが、その意味でも、アフリカ人の声を聞くのは大事だと思います。

ラ・グーマについては「小島けい絵のブログ:Forget Me Not」中の「まして束ねし縄なれば」(門土社、1992年、1600円)に、翻訳本の表紙絵やラ・グーマに関する記事の紹介をしています。ご覧下さい。

「まして束ねし縄なれば」

次回は、アフリカ人の声を聞くために、雑誌「ニュー・アフリカン」を取り上げたいと思います。

執筆年

2011年4月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No.32

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『ナイスピープル』を理解するために―(15)エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(4) アパルトヘイト政権の崩壊とその後

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の14回目で、エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代(3) アパルトヘイト政権との戦い、です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代(3) アパルトヘイト政権との戦い

 昨年の4月以来休んでいましたが、連載を再開したいと思います。先ず『ナイスピープル』の翻訳と併行して書き始めた流れを少しまとめておきます。

最初に『ナイスピープル』の作品の背景や、病気の原因であるウィルスとエイズ患者が出始めた頃について書きました。「『ナイスピープル』理解1:『ナイスピープル』とケニア」」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)、「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)、「『ナイスピープル』理解3:1981年―エイズ患者が出始めた頃1」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)、「『ナイスピープル』理解4:1981年―エイズ患者が出始めた頃2 不安の矛先が向けられた先」「モンド通信 No. 12」、2009年7月10日)、それからアフリカとエイズの状況を書いたあと「『ナイスピープル』理解5:アフリカを起源に広がったエイズ」「モンド通信 No. 13」、2009年8月10日)、「『ナイスピープル』理解6:アフリカでのエイズの広がり」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)

それから、アフリカのエイズ問題を理解するためには、欧米で強調される生物学的、医学的な捉え方だけでなく、社会や文化を含む、公衆衛生的、総合的な見方が必要であると書きました。→「『ナイスピープル』理解7:アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)それは、ムベキが2000年のダーバン会議で述べた発言の真意でもあります。

それ以降は南アフリカとエイズについての問題を取り上げています。「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)、「『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)、「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)、「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)、「『ナイスピープル』理解12:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ1 育った時代と社会状況1」 「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)、「『ナイスピープル』理解13:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ2 育った時代と社会状況2 アパルトヘイト」「モンド通信 No. 21」、2010年4月10日)

前回はアパルトヘイトを取り上げましたが、今回はアフリカ人の闘いについてです。

前にも書きましたが第二次大戦が終わったあと、それまで押さえつけられていた人たちが立ち上がります。南アフリカでも1943年に結成されたANC青年同盟のタンボやマンデラが労働者を率いて大規模なデモやゼネストを繰り広げて政権を脅かしました。与党英国系の統一党は政権を投げ出し、オランダ系アフリカーナーの国民党が1948年に政権につき、アパルトヘイト政策を押し進めます。少数派の入植者と多数派のアフリカ人の間の緊迫感が強くなった1955年には、政権に反対する勢力がヨハネスブルグ郊外のクリップタウンで国民会議を開きました。アフリカ人だけでなく、白人やインド人やカラード(混血の人たち)も参加しました。政府は国民会議の指導者156名を逮捕して裁判(叛逆裁判)にかけるという強硬手段に打って出ます。それだけ政府に反対する勢力が強かったという事でしょう。政府は会議で採択された国民憲章を反逆罪の証拠にして全員の処分を企てますが、「私たち南アフリカ人民は、すべての国と世界に知ってもらえるように宣言します。南アフリカは黒人も白人も、そこに住む人々に属し、人々の意志に基づかない限り、どんな政府も公正に権利を主張できない、と・・・。」という文章で始まる国民憲章が反逆罪の証拠となるはずもなく、結果的には全員が無罪で釈放されました。

しかしこの時期、結果論ですが、歴史的に見てアフリカ人に取っては不幸な、ヨーロッパ人入植者に取っては幸運な事態が起こります。アフリカ人の組織ANC(アフリカ民族会議、現在の与党)が闘いの路線を巡って分裂したのです。アフリカ人だけで戦うという理想派(ソブクエが指導者)と、アパルトヘイトを廃止するためなら白人とも共産主義者とも共闘する現実派(タンボ、マンデラが指導者)が袂を分かちました。ソブクエが大した人物でなければ問題はなかったのですが、幸か不幸か、ソブクエはとても大きな人物だったようです。アフリカ人、特に若い人たちはついて行きました。白人政府にとっては願ってもない事態です。苦労して分断支配を画策しなくてもアフリカ人側が真っ二つに分かれてくれたのですから。当時の勢いからすれば、アフリカ人側は近い将来政権が崩壊すると楽観していたんでしょう。もしあの時、という言葉は禁句ですが、ソブクエとマンデラが一歩ずつでも譲り合っていれば、南アフリカの歴史も大きく変わっていたと思います。

ロバート・ソブクエ(小島けい画)

最初に動いたのはソブクエです。日常生活でアフリカ人を苦しめていたパスを活動目標に取り上げました。パスを家において警察署に出頭、敢えて法を犯し警察機能を麻痺させることによってパス法を廃止させる、そんな戦略です。1890年代にナタール州でガンジーが取ったのと同じ非暴力運動で、マンデラは時期尚早の名目で動きませんでした。

しかし、シャープヴィル、ランガなどで警官が無差別に発砲したために事態はアフリカ人側の意図をはるかに超えて動き出しました。政府の抑圧の動きはシャープヴィルの虐殺として全世界に報道され、国際社会も動かざるを得なくなります。マンデラは騒ぎに乗じて闘争を継続、それまでの非暴力の戦略を転換させて破壊活動を始めます。政府はANCなどの組織を非合法化し、法律を強化して弾圧を強める一方、世界各国に親書を送り協力を要請します。国連は経済制裁を掲げて白人政府を非難しますが、各国は貿易関係を強めました。それだけ南アフリカから得るものが大きかったからでしょう。特に第二次大戦で国交が中断されていた西ドイツと日本は長期の通商条約を再開させました。(その見返りに、日本は居住区に関する限り白人並みに扱うという名誉白人の称号を再度与えられます。)

シャープヴィルの虐殺

西側諸国や日本の協力を得て、白人政府はアフリカ人側の抵抗をおさえ切りました。体制をひっくり返す可能性の高かったソブクエ一人のために特別法を制定して55歳でなくなるまで拘禁を続けましたし、マンデラなどの指導者も1964年のリボニアの裁判で終身刑を言い渡して獄中に放り込みました。指導者は殺されるか、国外逃亡するか、獄中に入れられるかで、アフリカ人には指導者のいない暗黒時代が始まります。(日本は東京オリンピックを開催して、高度経済成長の時代に突入して行きました。)

ネルソン・マンデラ

その動乱の時代に、ムベキは14歳で青年同盟に参加し、タンボなどの指導を受けて青年時代を過ごしました。アパルトヘイト政権に封じ込められる人たちとともに闘ったわけです。その後、ANCの指示で国外逃亡して国外で活動を続け、マンデラ政権の誕生した時に大統領代行となり、1999年には大統領になりました。

タボ・ムベキ

次回はアパルトヘイト政権の崩壊とその後について書きたいと思います。

執筆年

2011年3月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 31

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『ナイスピープル』を理解するために―(14)エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代(3) アパルトヘイト政権との戦い

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の13回目で、エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(2)育った時代と社会状況2 アパルトヘイト、です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(2)育った時代と社会状況2 アパルトヘイト

 今回はムベキが闘ったアパルトヘイトについて書きたいと思います。
前々回の「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)では、内外の厳しい批判を受けながらもムベキがそれまでの主張を繰り返したダーバン会議について紹介し、前回の「『ナイスピープル』理解12:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ1 育った時代と社会状況1」 「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)では、ムベキが大半の人たちの期待に反して、どうして敢えてそれまでの主張を繰り返したのかを知るために、ムベキの生まれた1942年からアパルトヘイト政権の誕生した1948年までを取り上げました。今回はアパルトヘイトについてです。

すでに書きましたが、ムベキの生まれた頃の世界は大きく揺れており、南アフリカでも大きな転換期を迎えていました。連合国側にいた南アフリカでは英国や米国が消費物資を求めたために製造部門が飛躍的に伸び、アフリカ人労働者の需要が高まっていました。

ANC(アフリカ民族会議)では、1943年にネルソン・マンデラやオリバー・タンボなどが青年同盟(ユースリーグ)を結成し、労働者を組織して大規模なデモやストライキを積極的に展開しました。

オリバー・タンボ

1910年にヨーロッパ人入植者が一方的に創った南アフリカ連邦がイギリス系の統一党とオランダ系の国民党の連合政権だとすでに書きましが、与党の統一党は過激化するアフリカ人労働者を抑え切れなくなりました。より多くのアフリカ人労働者を必要としていた国内産業は、賃金の引き上げによってアフリカ人労働者を獲得しようとしましたが、安価なアフリカ人労働者に依存していた白人の農場経営者や鉱山所有者の反対に遭います。その人たちは逆に安定したアフリカ人の安価な労働力を保証してくれる労働力市場を国に要求しました。

そういった国内が揺れていた1948年に総選挙を迎えます。もちろん総選挙と言っても人口の僅か15%足らずの白人だけの選挙で、イギリス系40%、オランダ系60%の人口構成でした。それまでも製造部門で人種による優遇策を一部で実施し、第二次大戦ではナチスドイツに傾倒した国民党は、選挙のスローガンに人種差別を前面に掲げました。実はオランダ系の大半は貧しい農民(プアホワイト)で、その人たちにとっては組織化されて力を見せ始めたアフリカ人労働者との競争に勝つためには、国民党の掲げる人種差別主義が社会の低辺に沈まない唯一の道だったわけです。ボーア戦争でイギリス人と闘って味わった屈辱も後押しして、大半が国民党に投票し、国民党が過半数を得て第一党になりました。

人種差別するためにアパルトヘイト(人種隔離)政策が行なわれたと思われがちですが、そうではありません。人種差別はあくまで利用されただけです。実態は土地を奪って課税して作りだした大量のアフリカ人労働者の安い賃金を据え置いて、人口の少ないオランダ系のアフリカーナーの賃金を優遇して搾取構造を最大限に温存するために人種差別を利用した、白人とアフリカ人の間に人種の壁(カラーライン)を引いて利用したということです。アフリカ人は賃金の高い仕事(Civilized Labour)を法律で禁じられ、単純労働(Manual Labour)しか許されませんでした。

僕はアフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライト(1908-1960)を読んだ時に作品を理解したいと思ってアフリカ系アメリカ人の歴史について資料を探したり、アメリカの南部にも行ったのですが、アングロサクソン系の人たちは、アメリカでも南北戦争や奴隷解放をめぐって同じことをやっているのを知りました。中学や高校の歴史の教科書にはリンカーンが奴隷を解放したと書かれているようですが、そんなことはありません。理論上は解放されたことになってはいますが、実質的には何も解放されませんでした。南北戦争は奴隷貿易で資本を蓄積した北部の資本家が南部に保持されている奴隷を解放して自分たちが安い労働力を得るために起こした内戦で、北部に負けて奴隷解放を認める代わりに、多数いた貧しい農民(プアホワイト)を少し優遇し多数のアフリカ系アメリカ人の賃金を据え置くという実質をとって搾取構造を温存しました。白人と黒人の間に人種の壁(カラーライン)を引いて、人種差別を利用したわけです。解放された奴隷は実質的には当面は移動の自由もなく、奴隷から小作農(シェアクロッパー)に名前を変えて元の農園に留まらざるを得ませんでした。アメリカの場合、差別主義的な白人の組織KKKやリンチなどを利用し、暴力によってそのカラーラインを守りました。

シェアクロッパー

アパルトヘイト政権の場合は、アフリカーナーは与党として「合法的に」数々の法律を作り、国家予算の30%近くも警察力や軍事力に費やして反対勢力を押さえ込みました。もちろん僅か15%の白人政権だけで多数派を押さえ込めるはずもなく、豊かな鉱物資源や安価なアフリカ人労働力の恩恵を受けるために、貿易や資本投資や国際援助の名目で協力を惜しまない英国や米国、それに戦後国交を再開した西ドイツや日本がいての話です。その構図を考えると、南アフリカのアフリカ人が日本を敵視したのも無理ありません。

「Thabo Mvuyelwa Mbeki」(ANCの公式サイト)によれば、ムベキは1956年、14歳の時にユースリーグに参加して学生運動に関わり始めています。1959年には大規模なストライキで学校に通えなくなり自宅での学習を余儀なくされました。後にヨハネスバーグに移り、オリバー・タンボやデュマ・ノクウェなどの指導を受け、アフリカ学生会議の書記をしたあと、1962年にANCの指示でタンザニアからロンドンに渡り、1966年にサセックス大学で経済学の修士号を得ています。その間、亡命者による学生組織を作るのに尽力し、1970年に軍事訓練のためにソ連に派遣されています。その後、ボツワナ(1973-74年)、スワジランド(1975年)、ナイジェリア(1978年)を経て、ザンビアのANC本部に戻ってオリバー・タンボの政策秘書になりました。

1989年からはANCの国際関係部門の責任者となり、白人政府との折衝の重要な役割を果たしています。1994年のマンデラ政権では最初の大統領代行となり、1997年にANCの議長、そして1999年の6月にはマンデラのあとを受けて、第2代の大統領に就任しています。

タボ・ムベキ

このように見て来ますと、ムベキの人生の大半は命をかけたアパルトヘイトとの闘いの連続であったことがわかります。同じ世襲の世代でも、親から多額の選挙資金をもらっても知らなかったと言い続ける日本の首相とは、ずいぶんと違います。

少し長くなりますが、次回はムベキも関わらざるを得なかったアパルトヘイト政権との闘いについてです。

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com/0000274176/index.html
  

執筆年

2010年4月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No.21

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(13)エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(2)育った時代と社会状況2 アパルトヘイト」

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の12回目で、エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(1)育った時代と社会状況1です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(1)育った時代と社会状況1

今回から何回かは2000年のダーバン会議で大旋風を巻き起こした元南アフリカの大統領タボ・ムベキとムベキが提起した問題について書きたいと思います。今回は、ムベキの育った時代の南アフリカの社会状況についてです。
ムベキほど、一個人でアフリカのエイズ問題で論争を巻き起こした人物もいないでしょう。前回の「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)で一部を紹介しましたが、政府のエイズ対策に失望していた国内の医療従事者や活動家の願いや、抗HIV製剤を売り込もうとする欧米の製薬会社の圧力も充分に承知したうえで、「すべてを一つのウィルスのせいには出来ず、ありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要がある」というそれまでの主張を繰り返しました。「会場は水を打ったように静まりかえりました。」(20066年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)ムベキの演説を聞いて「数百人が会場から出て行きました。」(「ワシントンホスト」紙、2000年7月10日)つまり、大半の人たちが思い描いていた期待にムベキの演説が応えられなかったということでしょう。

ダーバン会議でのムベキの発言に、欧米のメディアは過剰に反応しました。ほとんどが極めて否定的な報道でしたが、アフリカ内の反応は決して否定的なものではありませんでした。極めて対照的な反応だったわけです。当時のメディアの反応については別の機会に詳しく触れたいと思いますが、今回は欧米のメディアに叩かれたムベキについてです。

ムベキが大半の人たちの期待に反して、敢えてなぜそれまでの主張を繰り返したのか。その真意を知るためには、ムベキがどのような人物なのか、ムベキの生きた南アフリカはどんな社会状況だったのかを知る必要があるでしょう。先ずは、ムベキの育った時代と社会状況を見てゆきたいと思います。

ムベキは1942年に東ケープ州で生まれています。父親はゴバン・ムベキ。1964年のリボニアの裁判ではネルソン・マンデラ他7名と共に終身刑を言い渡されたあのゴバン・ムベキで、1963年にフォートヘア大学で教員免許といっしょに政治と心理学の学位を取得したインテリです。

ゴバン・ムベキ(『差別と叛逆の原点』より)

フォートヘアは1916年創立の伝統校で、ソブクウェやマンデラをはじめ、詩人のデニス・ブルータスや、1980年の独立以来今だに大統領職にしがみついているジンバブエのロバート・ムガベなど、アフリカ人の超エリートを輩出したアフリカ人向けの大学です。南アフリカの歴史の本としては古典の部類に入る野間寬二郎さんの『差別と叛逆の原点』(理論社、1969年)には、リボニアの裁判での様子が、「被告のなかの最年長者で、もっとも学識があるといわれるゴバン・ムベキは、終始落着きを失わず、しずかに、ときには聖職者を思わせる口ぶりで、とくにリザーブでのアフリカ人の貧困と苦悩について陳述した。」と紹介されています。あとで紹介するアレックス・ラ・グーマなどと同じく、ムベキもそんな父親の影響を受けて早くから解放闘争にかかわるようになったわけです。

『差別と叛逆の原点』

白人が殺し合いをした二つの世界大戦によって世界の秩序が大きく変わりました。それまで絶対的だった白人の力が低下し、それまで押さえつけられていた人たちが権利を主張し始めました。欧米で教育を受けたアフリカ人が祖国に戻り、抵抗運動を先導しました。変革の嵐と言われた1950年代後半から1960年代にかけてのアフリカ諸国の独立も、1955年にインドネシアで開かれたバンドン会議も、米国の公民権運動もその延長線上にあります。南アフリカでも1955年に国民会議が開かれました。

南アフリカは元々ヨーロッパ入植者が侵略して創り上げた国です。最初にオランダ人が、次にイギリス人が来てアフリカ人から土地を奪い、アフリカ人を安価な労働者に仕立てあげました。当初国自体は、軍事的に見てさほど重要性を持ちませんでしたが、19世紀後半に金とダイヤモンドが発見されてから、事態が急変します。オランダ系の入植者とイギリス系の入植者は壮絶な覇権争いを繰り広げますが決着はつかず、結局1910年に南アフリカ連邦を創設し、アフリカ人を搾取する点に妥協点を見い出しました。イギリス系の統一党とオランダ系の国民党の連合政権でした。経済的に優位だった統一党が与党で、南アフリカ連邦の根幹は、アフリカ人から奪って法制化した土地と、土地を奪って無産者に仕立てたアフリカ人の安価な労働力でした。アフリカ人は短期契約の労働者(今でいう昇級のない一番安上がりなパート従業員です)として、鉱山で鉱夫として、大農場で小作農として、工場ではパート職員として、白人家庭ではメイドやボーイという召使いとしてこき使われます。

ヨーロッパ入植者の侵略にアフリカ人が抵抗しなかったわけではありません。槍と楯で果敢に立ち向かっていますが、ヨーロッパ人入植者の銃と金の力は圧倒的でした。1912年には今の与党アフリカ民族会議(ANC)の前身南アフリカ原住民民族会議を結成して土地政策の制定を阻止しようとしていますが、圧倒的な力の前になす術もありませんでした。

事態が動き出したのは第二次大戦後です。連合国側にいた南アフリカは、二つの大戦を経て、食料や工業製品を輸出する一大工業国になっていました。当然、アフリカ人労働者の需要も増していたわけです。ここで若いアフリカ人が動き出します。1943年、ネルソン・マンデラ、オリバー・タンボなどがANC青年同盟を結成しました。その中にムベキの父親もいたわけです。若い人たちはそれまでの世代のやり方に飽きたらず、充分に戦略を練り、労働者を組織して大規模なデモやストライキを精力的に展開しました。ゴバン・ムベキは、地元東ケープ州トランスカイの農民を組織し、アパルトヘイト政府がでっちあげたバンツースタン政策に強硬に反対しました。(トランスカイの反乱として知られています。)1956年から1960年の農村社会での政府との対決を主導し、のちに出版された『南アフリカ:農民の革命』(1964)に、農民やトランスカイの実態を書き残しています。

『南アフリカ:農民の革命』(South Africa: The Peasants’ Revolt

 

ストライキによって、食料や鉱物や工業製品などの生産に支障が出るようになり、社会は騒然としてきました。そんな社会情勢のなかで、1948年に総選挙が行なわれます。総選挙と言っても人口のわずか15%足らずの白人だけの選挙です。勢いに乗るアフリカ人労働者をもはや押さえきれなくなった与党統一党に変わって政権を取ったのは、オランダ系アフリカーナーの国民党です。人種差別をスローガンに掲げた国民党は、白人の六十%を占める貧しい農民の票を獲得して、過半数の議席を取りました。大半のアフリカ人の給料を据え置き、少数の貧しいオランダ系農民を優遇する戦略が見事に功を奏したわけです。

次回も続きを書きたいと思います。

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執筆年

2010年3月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 20

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『ナイスピープル』を理解するために―(12)エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(1)育った時代と社会状況1