2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の7回目で、アフリカのエイズ問題を捉えるにはです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

アフリカのエイズ問題を捉えるには

 アフリカ大陸がエイズの猛威に晒されて危機的な状況にあるのは間違いないのですが、私たちが目にする新聞やニュースなどの報道が必ずしも実相を伝えているとは限りません。エイズの報道に限らず、アフリカに関しての報道は西洋中心のものが多く、実際に苦しむアフリカ人の声も、アフリカ人がエイズをどう考え、エイズ問題にどう対処しようとしているのかは、あまり伝わって来ません。

その点で、レイモンド・ダウニングさんの著書『その人たちはどう見ているのか?―アフリカのエイズ問題がどう伝えられ、どう捉えられて来たか―』(2005年出版)の中の主張は示唆的です。ダウニングさんはアメリカ人の医師でアフリカでの生活の方が長く、日々エイズ患者と向き合っているそうです。欧米の抗HIV製剤一辺倒のエイズ対策には批判的で、病気を社会や歴史背景をも含む大きな枠組みの中でアフリカのエイズ問題を考えるべきで、そのためには大半のメディアを所有する欧米の報道を鵜呑みにせずに、南アフリカの前大統領ムベキが提起する問題や、アフリカ人が執筆する「ニュー・アフリカン」などの雑誌やアフリカ人が書く小説などを手がかりに、アフリカ人の声に耳を傾けるべきだと力説しています。本の中で、2003年に米国大統領ブッシュがアフリカなどのエイズ対策として抗HIV製剤に150億ドル(約1兆350億円)を拠出したあとで応じた前ザンビアの大統領カウンダのインタビューを紹介していますが、印象的です。エイズ問題の根本原因は貧困であると発言したムベキについて聞かれて、次のように答えています。

ダウニング著『その人たちはどう見ているのか?』

違った角度から見てみましょう。私たちはエイズのことがわかっていますか?いや、多分わかってないでしょう。どしてそう言うのかって?欧米西洋諸国では、生活水準の額は高く、HIV・エイズと効率的にうまく闘っていますよ。1200ドル(約10万8千円)、1200ドル(約108万円)で生活していますからね。数字は合ってますか。年額ですよ。アフリカ人は100ドル(約9千円)で暮らしてますから。もしうまく行って・・・将来もしアフリカの生活水準がよくなれば、生活も改善しますよ。たとえ病気になっても、もっと強くなれる・・・私は見たことがあるんです。世界銀行の男性です、HIV陽性ですが、その人は頑健そのものですよ!基本的に強いんです。それは、その男性がしっかり食べて、ちゃんと風呂にも入り、何もかも何不自由なく暮らしているからです。その男性にはそう出来る手段がある。だから、ムベキの主張は、わざと誤解されて来た、いや、わざと言う言葉は使うべきじゃないか、わざとは撤回しますが、ムベキの言ったことはずっと理解されないままで来たと思いますね。

カウンダ自身も子供をエイズでなくし、貧困の原因があからさまな植民地支配だけでなく、今も容赦なく続く、開発や援助の名の下の経済的な支配であることを、政権を担当した当事者として身に沁みていますので、巨額の援助金が、実際には抗HIV製剤を製造する巨大な製薬会社に戻っていくのが予測出来るから、そんな発言になったのでしょう。

ケネス・カウンダ

2000年のダーバンの国際エイズ会議は主に欧米の製薬会社の資金で開催されましたが、病気をもっと広い観点から捉えるように提言したムベキは欧米のメディアに散々に叩かれました。しかし、免疫不全の病気と戦うのに、免疫力を低下させる根本原因である貧困や栄養不良などの要因を考えずに、ウィルスを撃退する抗HIV製剤だけを強調する欧米や日本の対応の方が、むしろ不自然です。

タボ・ムベキ

西洋社会は1505年の東アフリカのキルワでの虐殺を皮切りに、西海岸での350年にわたる大規模な奴隷貿易によって莫大な富を集積し、その資本で産業革命を起こしました。大量の工業製品を生み出し、その製品を売るための市場の争奪戦でアフリカを植民地化し、やがて第一次、二次世界大戦を引き起こしました。大戦で総力が低下したために一時アフリカ諸国に独立を許しますが、やがては復活を果たし、今度は援助と開発の名の下に、新植民地体制を再構築して今日に至っています。侵略を始めたのは西洋人ですが、奴隷貿易や植民地支配では首長などの支配者層が西洋と取引をし、新植民地支配でも、少数のアフリカ人が欧米諸国や日本などと手を携えて大多数のアフリカ人を搾取して来ました。何よりの問題はその搾取構造が今も続いているということです。エイズ問題もそういった歴史の延長線上で考えなければ、実像を捉えることは出来ません。私はアフリカ系米国人の文学がきっかけでアフリカの歴史を追って30年近く、医科大学に職を得て医学に目を向けるようになって20年余りになりますが、その過程で得た結論から言えば、アフリカとエイズの問題を考えても、根本的な改善策があるとは思えません。根本的な改善策には先進国の大幅な譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩のかけらも見えないからです。

しかし、文学や学問に役割があるなら、大幅な先進国の譲歩を引き出せなくても、小幅でも先進国の人々に意識改革を促すような提言を模索し続けることでしょう。僅かな希望でも、ないよりはいいのかも知れない、そう自分に言い聞かせています。おそらく、『ナイスピープル』の翻訳も解説も、その延長線上にあると思います。

1992年に門土社が南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1960)の『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)を出版して下さいました。ラ・グーマは反アパルトヘイト運動の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者として働かされ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようとこの本も書きました。そこにはケープタウン郊外のスラムの厳しい状況の中で懸命に生きるカラード社会の人々の姿が生き生きと描かれています。観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府が強調するきれいな海岸や豪華なゴルフ場とは違った、南アフリカの人々の姿が浮かび上がります。

『まして束ねし縄なれば』

1930年代から、貿易や投資を通して南アフリカから莫大な利益を得ながらほとんど関心を払わない日本人が、その国の実情を知るのは難しいと思いますが、ラ・グーマを読めば、少なくともメディアで伝えられている映像とは違った人々の様子が垣間見られます。おそらく、文学にはそういった人々の姿や心の襞を伝える働きがあるのだと思います。(作品論「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、「ゴンドワナ」16号14-20頁)と「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、「ゴンドワナ」17号6-19頁)はこのブログに載せてあります。)

アレックス・ラ・グーマ

次回は、南アフリカと抗HIV製剤について書きたいと思います。

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執筆年

  2009年10月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No.15

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(7)アフリカのエイズ問題を捉えるには

2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の6回目で、アフリカでのエイズの広がりです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

アフリカでのエイズの広がり

 前号で紹介したアラバマ大学のハーン博士が「・・・ウィルスに感染した人が都会へ出て、大勢の客を相手にする女性と関係を持てば、そこから更に多くの人が感染し、病気はどんどん広がっていきます。感染経路さえあれば、感染の拡大は時間の問題でした。」と推論した通り、瞬く間にアフリカ大陸でHIVウィルスの感染は拡大しました。

『ナイスピープル』の26章で初めてのエイズ患者が主人公のムングチ医師のリバーロード診療所を訪ねて来るのが1984年の12月、著者が『ナイスピープル』の覚え書きに使ったオーストラリアの新聞が発行されたのが1987年6月の設定です。その覚え書きには次のように惨状が記されています。

(ナイロビ発)中央アフリカと東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、かつてない大惨事だと思われています。

この命を脅かす病気は世界で最も貧しい大アフリカ陸には、特に厳しい脅威となっています。専門知識や技術を要する、数少ない専門性の高い職業人の間でもその病気が広がっているからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でもある意味、エイズの流行でアフリカの何カ国かは「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。(「モンド通信」No. 3、2008年12月10日)

著者紹介の載っている『ナイスピープル』の背表紙

『ナイスピープル』が出版されたのが1990年です。CDCの調査班がコンゴでエイズ患者を確認した1980年代初頭から僅か十年余りで、東アフリカでも既にエイズが社会に深刻な影響を及ぼしていたことがわかります。南部アフリカの事態は更に深刻で、感染率が30%を超えたと報じられる国も出てきていました。感染率が1%に満たない先進国もありましたから、南部アフリカの感染率の高さは際立っていたことになります。もちろん、瞬く間に感染が拡大したのにはわけがあります。長年の西洋諸国の搾取によって食うや食わずで体力のない多くのアフリカ人を免疫機構を破壊するウィルスが襲い、侵略者が収奪品を運ぶために建設したまっすぐな道路を伝ってウィルスの感染は爆発的に広がっていったのです。天然痘撲滅のために1980年代初頭に一斉に行なわれた同じ針を使ってのワクチンの接種も感染拡大の一因となりました。都会を走るトラックの運転手は先々で売春婦と接触し、ウィルスを運びました。短期契約の男性労働者ばかりが住むコンパウンド(ホステルとも呼ばれます)周辺が感染の温床となりました。セックスワーカーから感染した男たちが村に戻って配偶者に感染させていたのです。免疫不全症・性感染症であるエイズは、貧困であえぐアフリカ人の住む町や村を容赦なく襲ったわけです。

そんな南部アフリカジンバブエの状況を、インディペンダント紙の記事「エイズ流行病、南部アフリカの息の根を止める」(1995年7月30日)は次のように報じています。

この病気による死者が、サハラ以南のアフリカでは年間に30万人を数えており、世界保健機構(WHO)によれば、5年以内には死者が90万人に達すると予想される割合です。ジンバブエでは、総死者数が2000年までに100万人(現人口の約10分の1)を超えると予想されています。5年後には、死者の数が200万人に達する可能性もあります。性的に一番活動的な人口の25~40%が感染していると思われます。あと10年以内にジンバブエの平均寿命は55歳から35歳に下がるという予測もあります。

しかし、ジンバブエの厚生相スタンプスさんが言うところの「流行病の最盛期」についての厳しい統計は、話の一部に過ぎません。若い女性の数が急激に減ることによって、ブヘラのような農村地域は未曾有の経済的、社会的危機に陥る可能性があります。若い女性が農業の生産と、子供や病人や年配者の世話の責任を負っているからです。・・・
しかし、売春婦や、男性が複数の相手を持つことが広く受け容れられている文化では、女性に焦点を当てる「同僚教育」は的外れだと、批評家は指摘しています。WHOは、感染している女性の感染していない男性への感染率が1000分の1であるのに対して、コンドームをつけないセックスで感染している男性が感染していない女性に感染させる可能性は100分の1であると推計しています。既婚女性は、特に影響を受けやすいのです。アフリカでは、HIV陽性の女性の80%が一夫一妻制であるのに対して、HIV陽性の男性の80%に複数の相手がいると考えられています。国連開発計画は、「大抵の女性のHIV感染の主な危険因子は結婚していることである。」と最近の報告で述べています。
ムランビンダの売春婦は、顧客と寝るとき平均10ジンバブエドル(当時約250円)、約80ペンス、1晩約2ポンドの料金を取ります。エイズ防止キャンペーンによって売春婦たちが顧客の多くにコンドームを使うのを納得させたという人もいます。しかし男性の間では、特に5万人強の国軍の間ではコンドーム装着への抵抗感は依然として強く、医療関係者は、国軍のHIV感染率は少なくとも50%と推計しています。・・・

ジンバブエの地図

20年前にエイズは、ザイールやウガンダのような中央アフリカの国々からケニア、ルワンダ、タンザニア、マラウィ、ジンバブエを通る輸送経路を下り始めたと医療関係者はみています。優れた輸送路、出稼ぎ労働者の歴史、それに男性が複数の性交渉の相手を持つ文化があるために、ジンバブエは特にその影響を受け易いのです。次の標的は南アフリカで、推計では一日当たり550人もの人が感染していると言われています。

1986年までムランビンダ教会病院の年間報告には、エイズの名前も出て来ませんでした。現在、ブヘラ地区の医療役員代行として働いているグレンショウさんは、病院のスタッフの25%がHIV陽性者だとみています。「私が特に感じるのは、田舎の方ではどの家の周りでも墓の数が増えているということです。何よりも悲しいのは、エイズという病気が日常の生活の一部になってしまっている、つまりマラリアのように、もう一つ別の死因として受け容れられてしまっているということです」、とグレンショウ医師は悲しそうに言いました。・・・

1992年に私はジンバブエに行って2ヶ月半の間、首都のハラレで家族と暮らしました。このあと、『ナイスピープル』の翻訳を一時中断して、その時に感じた私の「ジンバブエ滞在記」を連載したいと考えていますが、その前に、アフリカのエイズ問題をどう捉えるかという基本姿勢と、南アフリカについて少し書いておきたいと思います。

ジャカランダの咲くハラレ街

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執筆年

  2009年9月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 14
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『ナイスピープル』を理解するために―(6)アフリカでのエイズの広がり

2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の5回目で、アフリカを起源に広がったエイズです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

アフリカを起源に広がったエイズ

 エイズ患者が出始めた1981年の夏、私はサンフランシスコに行き、坂道を走るケーブルカーを眺めていました。それが初めてのアメリカ行きだったのですが、まさかその街がエイズ騒動の渦中にあったとは夢にも思いませんでした。

サンフランシスコのゴールデンゲイトブリッジ

患者が出始めた当初、その病気は男性同性愛者の病気だと騒がれていましたが、事態はその域を遙かに超えて、エイズは静かに深く、世界じゅうに広がり始めていました。

当初CDC(米国疾病予防センター)も男性同性愛者に焦点を合わせていましたが、既に異性間の性交渉による感染は報告されていました。病気のルーツを探るためにジョセフ・B・マコーミック博士は調査団を組み、コンゴからベルギーに行っていた研究者の情報を元にコンゴの首都キンシャサに飛び、キンシャサ総合病院(通称ママイェモ病院)で同じ症状の患者を発見しました。調査に同行したシーラ・ミッシェル医師は当時の模様を次のように話しています。

CDC

「患者たちの苦しみようは見るのも辛いほどでした。私たちが知っているエイズの症状と一致する患者があっという間に10人、20人と見つかりました。当時はまだ男性同性愛者の病気という考えがアメリカでは優勢でした。ところが、現地の患者を調べてみると、半数は女性だったのです。これを見て、一般の人にも感染する病気かも知れないと私たちは考え始めました。」(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代<4回シリーズ>(1)未知のウィルスとの闘い」)

調査から戻ったマコーミック博士は政府に調査結果を報告しますが、すぐには信じようとはしませんでした。結局、政府がエイズの原因解明やワクチンについての会見をしたのは、パスツール研究所がHIVを発見してから1年以上も後の1984年4月のことでした。

パスツール研究所

研究者は誰もがウィルスが見つかりさえすればそれを叩くことは容易で、科学の力で薬を開発し、ワクチンも出来ると考えていましたが、実際には事態はもっと深刻でした。ウィルスに感染してもすぐには発症せずに、知らずに他人に感染させる長い潜伏期間があったからです。当時の人たちは、巨大な氷山の一角しかみていなかったわけです。その間にも、エイズウィルスは静かに社会に広がってゆきます。アメリカで最初のエイズ患者が見つかった時には、既に25万人の感染者がいましたし、血友病患者が初めてエイズの診断を受けた時、既に半数がHIVに感染していました。1980年代半ばまで、死者の数は毎年倍増していきますが、打つ手は殆んどありませんでした。

マコーミックの調査班は病気のルーツの追跡を更に続け、その病気がかなり以前から流行していたことや、遺伝子を解析してアフリカ中部に生息する霊長類のウィルスが関係していることを突き止めました。マコーミック博士は次のように語ります。

「アフリカの中央部には狩猟採集民族の子孫が今も暮らしています。そしてその多くが今も森の中で狩りをして生活しています。そうした人々が霊長類特にチンパンジーと接触したのです。そしてその中にウィルスに感染していたものがいたのでしょう。獲物を解体する過程で血液と接触しウィルスが人間に感染したのです。このような感染はアフリカ中部の様々な場所で起きていた筈です。しかし爆発的な流行には至りませんでした。」(「未知のウィルスとの闘い」)

コンゴ

最初人間の免疫機構はチンパンジーのウィルスに打ち勝ちましたが、ウィルスは感染の度に適応しながら変異して、人間の免疫機構に入り込むことに成功したのです。アラバマ大学ジョージ・ショー博士は「HIVがチパンジーのウィルスに由来することは間違いありません。チンパンジーの病気が人間に感染した例はいくつか報告されていますが、エイズほど大々的に流行した病気は他にはないと思います。人間、猿、そしてチンパンジーに感染するレトロ・ウィルスを私たちはヒト免疫不全ウィルス、或いはサル免疫不全ウィルスと呼んでいます。そしてそれを同じ一つのグループに分類しています。恐らく1930年代その前後10年の間に起きたと考えられています。」と推測しています。
ウィルスの遺伝子からその起源を辿り、特定の種類のチンパンジーを突き止めたアラバマ大学のベアトリス・ハーン博士は「チンパンジーのウィルスが人間に感染したあと、どのようにして爆発的に流行するウィルスに変わったのかはまだ解っていません。しかし、生物学的な見方をすれば、一つの推測が成り立ちます。ウィルスが短期間に多くの相手に感染したということです。たとえば、チンパンジーのウィルスに感染した男性がたくさんの相手と性交渉を持てば、次々と感染が起こりウィルスは複製されていきます。」との推論を立てています。

第二次大戦後、アフリカでは急激な都市化現象が起こり、森の中で暮らしていた人が都会に移り住むようになりました。ウィルスに感染した人が都会へ出て、大勢の客を相手にする女性と関係を持てば、そこから更に多くの人が感染し、病気はどんどん広がっていきます。感染経路さえあれば、感染の拡大は時間の問題でした。

1959年にコンゴでエイズによる最初の犠牲者が出ました。60年代に入ると、アフリカの中部で亡くなる人が増えて来ました。コンゴが独立したとき、ベルギー政府はベルギー人官吏8000人を総引き上げして独立過程を混乱させ、傀儡の軍事政権を作ることを目論みました。政府はその穴埋めに、ハイチからフランス語が話せる人たちを招きます。60年代、70年代のモブツ独裁政権の圧政に耐えかねたその人たちは、HIVに感染しているとは知らないまま国から出てヨーロッパや北アメリカに渡るか、ハイチに帰国しました。

ハイチ

ショー博士はエイズの流行について、次のように総括しています。

「過去百年間で人類に最も深刻な影響を与えた出来事、それはエイズの流行であろうと私たちは考えています。この恐ろしい病気の蔓延は、アフリカでたった1匹のチンパンジーがたった1人の人間に感染させた、そのほんの1回の出来事からすべてが始まっているのです。」(「未知のウィルスとの闘い」)

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執筆年

  2009年8月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 13

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(5)アフリカを起源に広がったエイズ

2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の4回目で、1981年―エイズ患者が出始めた頃(2)不安の矛先が向けられた先です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

本文

1981年―エイズ患者が出始めた頃(2)不安の矛先が向けられた先

 前回はエイズ患者が出始めた1980年初頭の状況を紹介しましたが、今回は政治や行政の対応の遅れや混乱によって被害を受けた人たちについて書きたいと思います。

男性同性愛者と麻薬常用者

未知の病に対して政治や行政が充分な対応を出来なかったこともあって事態は混乱の度を増して行きますが、その混乱によって助長された不安の矛先は社会的弱者に向けられました。サンフランシスコでエイズ患者の治療に当たっていたポール・ボイルバーディング医師と、政治家の偏見と闘った米保健福祉省エドワード・ブラント次官補は当時の政治状況について次のように述懐しています。

医師:「エイズは患者に激しい苦痛を与えます。それだけでなく特定の人たちがこの病気に罹りやすかったため、社会的な差別もつきまといました。当時この病気の患者はほとんどが男性の同性愛者と麻薬常用者でした。政治家にとって喜んで援助を与えたいと思う人たちではなかったのです。特に当時は保守政権だったので尚更でした。」

次官補:「・・・対策について議論を始めると大きな論争になりました。性に関する論争は往々にしてこうなるのですが、つまり男性同性愛者が自分で蒔いた種なのに何故国民の税金で助けなければならないのかというわけです。当時はまだ大部分の人たちが男性同性愛者と麻薬常用者の病気であると信じていました。」(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代<4回シリーズ>(2)広がる差別」)

最初に標的にされたのは男性同性愛者でした。患者が大都市に集中し、その大半が活動的な男性同性愛者だったからです。米国疾病予防センター(CDC)も男性同性愛者の生活様式に原因があると考えていました。寛容が美徳と言われるほど自由な雰囲気で知られるサンフランシスコ市当局でさえ、男性同性愛者の溜まり場である娯楽施設バスハウスを一方的に閉鎖しました。強硬な抵抗にあって、二ヶ月後には営業が再開されていますが、マスコミはエイズを同性愛者免疫不全症と呼び、エイズが男性同性愛者の病気だという誤解が更に広がりました。

男性同性愛者の中には、麻薬常用者もいました。ヘロインやコカインを常用する人は特定の場所で注射器と針を借り、日に何回か注射をして打ち終わったら返却、注射器と針はそのまま次の人に貸し出されていました。ニューヨークブロンクス地区で治療に当たっていたジェラルド・フリーランド医師が指摘するように「血液感染の病気を拡大させるのにこれほどうってつけのシステムはなかった」(「エイズの時代―(1)未知のウィルスとの闘い」)わけです。注射器と針の回し打ちも、ニューヨークなど大都市の麻薬常用者の間でエイズが爆発的に広まる原因の一つになりました。注射器と針の貸し出しが危険であるという噂が流れると、麻薬依存症患者の通う病院には怯えた人たちが殺到しました。感染によってたくさんの人が行き場を失ない、社会の不安はますます拡大して行きます。

麻薬常用者

血友病患者 血友病患者にも被害が及びました。

1981年の暮れに診察を受けた赤ん坊の患者は大量の輸血を受けており、輸血を受ける人は誰でもHIVに感染する可能性が出てきました。その感染因子が輸血用の血液に入り込めば大きなパニックが起こることが予測されました。血友病の患者が治療に使用する血液製剤は、何千人もの提供者からの献血や売血で集めた血漿を材料に作られていたからです。しかも、血液を提供しているのは生活のために500ccの血を10ドルで売る貧しい人たちで、その中には注射で麻薬を打っているエイズ感染の危険性の高い人たちもいました。男性同性愛者も献血の対象から外されませんでした。予測された危惧は現実となり、血友病治療に用いられる血液製剤のほとんどすべてが汚染されてしまい、多くの血友病患者がHIVに感染してしまったのです。

事態を重くみたCDCは血液銀行の経営陣、同性愛者の代表、公衆衛生関係の役人を集めて迅速な対応を求めましたが、予測に反して、時期尚早であると反対に遭いました。血液銀行がウィルス検査に膨大な費用がかかることを懸念したうえ、献血者の選別に反対していた人たちを敵に回したくないと判断したからです。適切な対策が取られるまでに、それから二年の歳月が必要でした。3万5000人を超すアメリカ人が汚染された血液や血液製剤でHIVに感染しました。テネシー州ではHIVに感染した血友病患者の少年が子供たちの保護者によって学校から追い出されたり、フロリダ州ではHIVに感染した血友病患者の兄弟が住む家が焼かれるなど、各地で多くの排斥事件が起きました。

ハイチ人社会 フロリダからCDCに症例報告のあったハイチ人も被害を受けました。ハイチでは1970年代後半から1980年代にかけて、若者の間で原因不明の病気が急増していました。コンゴからHIVに感染したことを知らずに帰国した人たちが感染を広げていたようで、フロリダで最初のエイズ患者の治療に当たったマーガレット・フィッシュル医師は感染経路の調査結果を「ハイチに休暇を過ごしに来る男性同性愛者がいました。アフリカに行くハイチ人もいました。麻薬も使用されていました。ウィルス感染経路について言えば、ハイチ人もアメリカ人もまったくと同じであるということが確認出来ました。」と述べています。

ハイチ

1960年にコンゴが独立した時、独立過程を混乱させて政治介入を狙うベルギー政府は高級官吏8000千人を引き上げました。そのとき招かれたフランス語を話せるハイチ人が、アメリカの傀儡として独裁政権の座に居座っていたモブツの圧政に耐えかねて1970年代の半ばに大量に国外に去っていますが、その時期にハイチに戻った人たちが感染の原因になっていたのです。ハイチでは三年余りの間に、あらゆる層に病気が蔓延しました。その頃、貧困を逃れるためにたくさんのハイチ人が国を離れていますが、フィッシュル医師が診断したのはその頃ボートピープルとしてフロリダに流れ着いた患者だったというわけです。

CDCは医療機関に対してハイチからの移住者に注意せよという警告を出し、マスコミもCDCの警告を報道して影響は拡大しました。ハイチ人社会全体が非常に憤慨しましたが、ハイチの観光産業は打撃を受けました。アメリカではハイチの製品が売れなくなり、アメリカに住むハイチ人にも被害が及びました。

しかし、その間に、エイズは既に世界的な流行の域に達してしまっていたのです。

次回は、すでに広がりを見せていたアフリカの状況を紹介したいと思います。

執筆年

  2009年7月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No.12

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(4)1981年―エイズ患者が出始めた頃(2) 不安の矛先が向けられた先