2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の30回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(30)

  最終章 

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳

    (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

最終章

私がエイズ検査を受けるつもりだと言うと、アイリーンは私が一度も検査を受けたことがないのを知って驚きました。私が感染する理由がないと言うと、自分は敢えて治そうとはしない医者ですね、とアイリーンは笑って言いました。ナイロビ病院では医者は検査が必要だそうですよとも言いました。最初は簡単な血液検査をするだけと言われて、後でイライザ法の検査結果を知らされるのだそうです。アイリーンのは陰性でした。

エドワード・キマニ医師が私の左腕から血液を200ミリリットル採りましたが、結果は私以外には言わない神に誓って約束してくれるようにとエドワード・キマニ医師に頼みました。この呪わしいウィルスに苦しむ患者を何人も見て来た後では、検査結果はどうでもいいとその時は思っていました。しかし、実際に結果の知らせが電話で来たとき、私は興奮のあまり飛び上がってしまいました。

「ムングチ先生、大丈夫でしたよ。」と、キマニ医師が言いました。
「今のところ大丈夫という意味ですか?」
「そうですよ。」
「コンドームを発明した人に感謝です。」

HIV検査イライザ法器具

ナイロビ研究所のマックスウェル・ハングという人が署名した通知書を渡されるまで、私は信じられませんでした。新しい人生を与えられたようで、ただ一人の人とこの気分を分かち合いたいという気分でした。

私は車でムンビの葬式に行きました。すっかり葬式が終わった後、崩れ落ちそうになる私を暖かい手が支えてくれているのに私は気付きました。泣く人たちの姿でそれまで見えなかったのですが、背の高いその人の姿が見えました。

「アイリーン、ジュネーブで仕事をしないかと誘われていてね。」
「まあ!それは良かったですね。」
「でも、引き受けないつもりだけど。」と、私は付け加えました。
「どうして?ほんとに頑固な人ですね。」
「君のそばを離れたくないんだよ。」
「離れる必要はありませんよ。」
「君もジュネーブに来てくれるの?」
「ご一緒しますよ。」と、アイリーンは短かく言いました。ケニア中央病院とリバーロード診療所、そしてカナーンホスピスとタラでアイリーンと共に過ごした時間は、すべてアイリーンに繋がっていたのだと思いました。1987年の4月22日に、私たちはジュネーヴに出発しました。
私がエイズ検査を受けるつもりだと言うと、アイリーンは私が1度も検査を受けたことがないのを知って驚きました。私が感染する理由がないと言うと、
「自分自身は敢えて治そうとはしない医者ですね」とアイリーンは笑って言いました。ナイロビでは、医者には検査が必要だそうですよ、とも言いました。最初は簡単な血液検査をするだけと言われて、後でイライザ法の検査結果を知らされるのだそうです。アイリーンは陰性でした。
エドワード・キマニ医師が私の左腕から血液を200ミリリットル採りましたが、結果は私以外には言わないと神に誓って約束してくれるようにと頼みました。この呪わしいウィルスに苦しむ患者を何人も見て来た後では、検査結果はどうでもいいとその時は思っていました。しかし、実際に検査の結果を電話で知ったとき、私は興奮のあまり飛び上がってしまいました。

「ムングチ先生、大丈夫でしたよ。」と、キマニ医師が言いました。
「今のところ大丈夫という意味ですか?」
「そうですよ。」
「コンドームを発明した人に感謝です。」

ナイロビ研究所のマックスウェル・ハングという人が署名した通知書を渡されるまで、私には信じられませんでしたが、新しい人生を与えられたようで、ただ1人の人とこの気持ちを分かち合いたいという気分でした。

私は車でムンビの葬式に行きました。すっかり葬式が終わった後、崩れ落ちそうになる私を温かい手が支えてくれているのに気が付きました。泣く人たちの姿でそれまで見えなかったのですが、背の高いその人の姿が見えました。

「アイリーン、ジュネーブで仕事をしないかと誘われていてね。」
「まあ!それは良かったですね。」
「でも、引き受けないつもりだけど。」と、私は付け加えました。
「どうして?ほんとに頑固な人ですね。」
「君のそばを離れたくないんだよ。」
「離れる必要はありませんよ。」
「君もジュネーブに来てくれるの?」
「ご一緒しますよ。」と、アイリーンは短かく言いました。ケニア中央病院とリバーロード診療所、そしてカナーンホスピスとタラでアイリーンと共に過ごした時間は、すべてアイリーンに繋がっていたのだと思いました。1987年の4月22日に、私たちはジュネーブに向けて出発しました。

ナイロビ市街地

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「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―」の連載はこれで終わりです。
次回からは、1992年に家族で行ったアフリカ南部ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の「ジンバブエ滞在記」を連載(→「ジンバブエ滞在記一覧」(「モンド通信」No. 35、2011年7月10日~No. 59、 2013年7月10日)する予定です。
作品の解説(玉田吉行)(「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)→)と翻訳こぼれ話(南部みゆき)は、もう少し続けます。

ジンバブエの首都ハラレで暮らした白人街の500坪の借家

執筆年

2011年6月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No.35

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『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(30)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の29回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(29)

   第30章 タラで過ごした1週間

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳

    (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第30章 タラで過ごした1週間

金曜日の夕方6時に車でタラに着き、私はまっすぐに家に向かいました。ちょうど農場から戻ってきた母親は、マツダ625に乗った私を見てとても喜びましたが、父親の調子が悪くタラ総合病院に入院していると言いました。病院とはまだ関わりたくなかったので、その晩父親に会いに行くのはやめました。しかし、私が帰って来たときに焼いて食べようと父親が育てていた山羊を絞めると言って弟が譲りませんでした。家族が皮を剥ぐのをながめながら、放蕩息子が父親に大事に育てられた子山羊を締めてもらっているような気分でした。今でも3人の弟は家の敷地内に住み、4人の妹は家に関わりがあり、2人はまだ母親と暮らし、あとの2人も結婚して家から1キロも離れていない所に住んでいました。家族も一緒に来て山羊を食べるようにと誰かが電話をしてくれたのでしょう、9時に食事を始め、夜中過ぎまで食べていました。昔ながらの習慣で、先ずは肝と腸から食べ始め、そのあと前脚を食べました。肝と腸は家族全員に行き渡るようにしないといけませんでした。その後、肋のおいしい肉と後ろ脚、最後は4つの胃袋で終わりでした。

後ろ脚の1本は後でスープになる頭と蹄といっしょに母親に渡されました。1時頃に1人、2人と帰り始め、最後には私1人になって、あとは何年も使っていないベッドで寝るだけでした。

ぐっすりと寝て次の日の土曜日に目が覚めたとき、太陽が昇っていて、いつも通りに農場での畑仕事に出かけて誰もいませんでした。台所に行くと、母親が洗面用に湯を温めていてくれ、火には、紅茶の入った薬罐がかけてありました。顔を洗い、紅茶を飲んでから、新聞を買って地元の噂話を聞こうと車でタラの街に行きました。タラでは原則として新聞が午前中に届きませんから、正午まで1時間もありました。歩いて市場に行って、食料の供給が不足するこの時期にどんなものを売っているかを確めることにしました。大抵の店には、高値で売られる少量の粉を計るカップが置いてありました。タラでは、市場の値段は変わっていないようでした。11月と12月が食べものの値段が高い時期だと子供ながらに知りましたが、何も変わっていないようでした。玉蜀黍の粉が2キログラムで10シリング、もろこし粉が15シリング、稗の粉が20シリングだと言われました。何キロも離れたカカメガから来たものか、タラ辺りの農家から来たものでした。

「キロンゾの子供、医者のジョゼフを覚えてる?」と、1人の女性が言いました。
「覚えてるよ、タラ高校に行った人でしょ?」と、別の女性が言いました。
「今、街にいるよ、大きな車でね。」
「まあ、まだ結婚してないわよ。」
「そう、奥さんはまだもらってないわ。」
「あの子、どうしたのかしらね。」
「あんたの娘をやって探ってみたら?」
「娘だって?私、あの子とだいたい同じ年よ。」
「きっと主婦には手を出さないわね。」

主婦には手を出さないと言うのを聞いて、私は笑いそうになりましたが、もうそれ以上は聞いていられませんでした。ばつの悪い思いをするか、結婚しないでいる理由を2人にあれこれ言われる前に逃げ帰りました。その日の日刊紙ヤードスティックとシティタイムズとシチズンのすべてを買って車で家に戻ると、母親が昼食にムソコイを作っていました。カナーンのニュースがトップ記事で、ジョン・キマルが私についての好意的な記事を書いて、カナーンでの残酷な行為に私が関わっていなかったと弁護してくれていました。ジョン・キマルが記事の中で書いていましたが、「カナーンの背後に潜む悪魔ディンシン医師」は、すでに国外に逃亡していました。しかし、今回の事件では予想外の出来事もありました。恐らく、近くの国に逃げようとしていたときに、ブシアの近くで乗っていたフォルクスワーゲンが正面衝突をして、ギチンガ医師が死んでいました。

みんなでお昼に、昨晩絞めた山羊の後の太股と頭と4本の脚を食べました。スープもついていて、弟2人はとても美味しそうに食べていました。食べ終わったあと、私は母と弟2人と1番下の妹を車に乗せて病院の父親の所に見舞いに行きました。父親は相当に弱っているようでしたが、診断ではマラリアの発病で、治療の効果は出ているとのことでした。タラで受けられる最高の治療を受けているのが分かっていましたから、同じ医者として、その人たちがやっていることに敢えて口を挟みませんでした。今の私には後ろ盾となる病院もありませんし、もっといい治療法を申し出る訳にもいきませんでした。カナーンは肥りすぎて崩れ落ちていましたから。

人生で最高の1週間でした。母親が子供の時のように細々と気を遣ってくれ、弟や妹たちが交代でいっしょに親戚の家に行って慰めてくれて、カナーンでずっと感じていた不安な気持ちがすっかり和らぎました。その時私は、医者をやるのは心も体もすり減るものだとつくづく思いました。タラに帰って来た日、手も足も首も背中もずきずきしていましたから。1日に20キロ歩く日もありましたが、痛みは和らいでいました。

どうしてみんなが平和で治安の心配もない田舎を離れて、騒音、忙しさ、小競り合い、犯罪、孤独、無関心、詐欺、物価高、喫煙、治安の悪さ、全般的な秩序の乱れなどで混乱を極めるナイロビに出かけてゆくのだろうと私は疑問に思い始めました。取り上げたくて仕方がないのに、明らかに誰もが話すのを嫌がっていた話題が死の病でした。しっかりとキャンペーンが行なわれていたようでしたが、私の家族や親戚は、自分たちには影響はないと考えているようでした。

「それはナイロビやモンバサやキスムでの話で、タラじゃ関係ないよ。」と、弟が激しい口調で言いました。

私は敢えて弟に反対はしませんでしたが、弟はカナーンでの仕事の新聞記事を読んでいたようでした。
「ところで、兄さんはその人たちと働いていたと聞いたけど。」と、弟は言いました。
「そうだよ。その人たちが入院している病院にいたね。」
「どうだった?」と、弟が尋ねました。
「そうだな、治療法がないと考えてすごく落ち込む人がいる以外は他の患者と同じだよ。」と、私は出来るだけ丁寧に答えました。そのあと、私たちが見た自殺についての話はしましたが、ディンシン医師が高い治療費を取って病院が患者から搾り取っていた話題は避けました。しかし、弟はそのことについてもすでに聞いていたようでした。

「兄さんが患者を殺していたってみんなが言っているよ。」と、弟はずばっと聞いてきました。
「それはない、誰も殺してはいないよ。ただ、手の施しようがない患者がいて、医者がその苦しみを終わらせた場合が何回かはあったけど。」安楽死の概念は説明するには難し過ぎて、私は話を切り出せませんでした。
「あの女の人たちについてはどうなの?各紙が大々的に報じて、記事でも書いていた『最後の一口』を求めるおかしな年寄り用に金で連れて来られた売春婦についてだよ。」と、弟が続けました。責任逃れをしていると思われないで、どうすればこの問題をうまく説明出来るのか、私には確信が持てませんでした。

「そうだな、売春婦は、値段が合えば色んな相手に自分の体を売って来ているね。ディンシン医師はそこに目をつけて売春婦を釣る餌に使ったんだと思う。自分が死にかけていて、奥さんや恋人や売春婦とも交わりを禁じられているのを自覚しているから、患者の中には、セックスにいくらでも金を払う人もいたんだな。」
売春とは縁がなく、セックスに金を払う必要のないタラで育った弟がこの話を理解するのは難しいだろうと思いました。しかし弟は、田舎には合わない大都会に特有な経済の秩序があると納得したようでした。

ポール・ウェケサは水曜日の午後に私を訪ねてきました。地元の警察で私の居場所を確めてきたに違いありません。いつも夕方の五時半になったら急いで出かけるタラの居酒屋で飲んでいるところに警部が顔を出したからです。正直で親しみやすい人柄のせいだけでなく、カナーンの最新情報を知っているのが分かっていましたから、警部を見て私は嬉しく思いました。私が警部の好きなタスカーエキスポートを注文すると、警部は渋い表情を見せました。それで警部がまだ仕事中だとわかりました。タラはナイロビとは違うので、町から離れて酒を飲みながら話をしましょうと誘いました。ビールを飲みローストビーフを食べながら、ほぼ一週間前に中央警察署で別れてから互いの身辺に起こったことを報告し合いました。私はナイロビにはしばらくは戻らないと警部に伝えました。私は特に何もしないで、母親の料理を食べて満足していました。唯一の心配は使用人で、私がたらふく食べているあいだ、その使用人が飢えていたかも知れなということでした。

ウェケサ警部はナイロビに戻ったらすぐに使用人の様子を見て来ると約束してくれました。カナーンの捜査は完全に終わり、ヒュー・マクドナルド医師は釈放されました。カナーン事件の本当の容疑者はディンシン医師とギチンガ医師でした。カナーンで働いていた看護師11名を取り調べて、ウェケサ警部が立証しました。政府はディンシン医師が逃亡したと言われている英国での捜索の継続を検討していました。私については、ケニア中央病院に戻って欲しいと言う要望が出ていると警部は言いました。現在ケニア中央病院では、すべての医者に、たとえ非常勤でも、医療活動を行なうように求めていました。

「政府のために僕を探しに来たということですか?」と、私は尋ねました。
「いや、そうじゃないですよ。私はナイロビで起こっていることを知らせているだけです。あなたが逮捕を望むなら、地方の警察が逮捕しますよ。」と、ウェケサが言いました。

エイズがもたらした脅威のために、国立病院で医療従事者が不足していましたが、エイズ患者を治療しても危なくはないと政府が認めたので、政府は医者に仕事に戻るように求めていると聞きました。今は1ヶ月の休暇をもらっていますが、休暇が終わったらすぐに戻って国のために働くつもりですと、ウェケサに説明しました。使用人に会って私の無事を知らせると約束して、夜十時ごろに警部はタラを後にしました。

***********************

タラに来てから1週間後の金曜日に、ドクターGGとアイリーンが訪ねて来てくれました。ドクターGGは前に会った時よりも老けたようで、皺も増え、弱々しく見えました。アイリーンはクリーム色のワンピースに青のスカーフと、スカーフにぴったりの踵の低い青い靴を身につけてきれいに見えました。私は母親に長年一緒に働いて来た人だとドクターGGを紹介し、リバーロード診療所とケニア中央病院、最近ではカナーンでも一緒に働いた非常に特別な友人だとアイリーンを紹介しました。母親は2人と握手をしました。母親がアイリーンと握手したとき、目が特別に輝いているのが分かりましたが、それは母親が賛成するか、認めるかした人や出来事やニュースにだけ見せる目の輝きでした。

「こんなきれいな娘さんをどうして今までタラに連れて来なかったんだい?」と、母親は言いました。
「最後までこの娘をとっておいたんだよ。」と、私は冗談を言い、以前ユーニス・マインバを家に連れて来た時、二人はうまくやっているように見えても、母親は決して認めていなかったのを思い出しました。

「タラの血が流れているんだね、きっと。」と、母親が続けました。私に結婚して欲しいと望むタラの娘として、母親がアイリーンを認めていると私にはわかっていました。その話題はそこで打ち切って、ドクターGGを私の小屋に連れて行きました。何か言いたいこと、それも私にだけ聞いてもらいたいことがあると私は感じていました。

長年様々な知らせを聞いて来ましたが、ドクターGGが持って来た知らせはどの知らせよりもこたえました。私の小屋の茅葺きの屋根を見上げ、涙が零れ落ちないように下を向きませんでした。ムンビは兄の1人に手紙を書いて、フィンランドでの事情を説明し、戻りたいと言って来ていました。家族はムンビから、私に伝えて欲しいと頼まれていたようですが、カナーンの危機が山場をむかえていましたので、重荷に思わないようにと私には連絡しないと決めたそうです。しかし、カナーンが壊された日に、ムンビの夫ブラックマン船長から、ムンビが謎の病で死んだので父親が望むなら、親族2人が遺体を引き取りにヘルシンキまで来てもらってもいいという電報が届きました。飛行機の切符を同封し、すべての費用は船長の家族が出すと書いてありました。ドクターGGは途方に暮れましたが、臨床検査の標本を届けたナイロビ病院でアイリーンと出会い、私が休暇を取ってタラに帰ったと聞きました。アイリーンがナイロビ病院のエイズ患者から逃れたいと言ったので、ドクターGGはシゴナ診療所にアイリーンを誘いましが、その前に2人には私を探し出す必要がありました。

私は友人といっしょにナイロビに戻らないといけなくなったと母親に伝えました。近いうちに私がまたアイリーンを連れて来るという約束で、母親は行くのを認めてくれました。昼食のあとタラを発って、車で1週間留守にしたアパートに戻りました。ソファの上でムヤが昼寝をしていましたが、ムヤを起こし、ンデル行きの暖かい格好に着替える間、紅茶を用意してくれるように頼みました。ムヤは外国の切手の貼られた航空便を差し出しました。ジュネーブに知り合いは居ませんでしたが、切手にジュネーブの名前が見えました。しかし、ムンビが書いたかも知れないと思って、手紙を開けました。ムンビからではありませんでした。差出人は、ジュネーブの世界保健機構本部となっていました。

親愛なるムングチ先生

世界保健機構は、貴国であなたが性感染症の分野でやって来られた仕事を興味深く拝見してきました。WHOはエイズの脅威と国際的に戦っていますが、あなたに興味を持っていただきたく、ジュネーブの本部にお招きしてお話をお伺いしたいと思います。

今や世界で15万人近くになると推定されるエイズ患者は、富裕層は殆んど危険性がないという既に広がっている危険な思い込みの影響もあって、今年は二倍に増えるでしょう。往き帰りのすべての費用はWHOでお支払いします。ご承諾のご返事を頂けましたら、早速航空券をお送り致します。   敬具

医師 ジョナサン・マン
世界保健機構 事務局長

ジョナサン・マン

私はアイリーンをアパートで降ろした後、ドクターGGをンデルの自宅に送り届けました。ムンビが死んだという知らせは私にはあまりにも重く、その夜、WHOの申し出を素直には喜べませんでした。しかし、リバーロード診療所で患者を診て来た私の仕事がやっと認められようとしているのは嬉しい限りでした。

執筆年

  2011年5月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 34

ダウンロード・閲覧

  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(29)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の28回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(28)

  第29章 カナーン証明書

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳

 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第29章 カナーン証明書

1986年頃には、ミドリザル病が広がるのは血液や精液などの体液を通してだとかなりよく知られるようになっていました。同性間でも異性の間でも、感染した人との性交渉によってアフリカでその病気が流行っているのが分かりました。結果的に、売春がケニアでの流行の主な原因であると考えられました。それがケニアの観光産業の脅威となり、その頃には後天性免疫不全症候群(エイズ)と呼ばれるようになっていた病気についての情報を開示するの、に政府は極めて慎重になっていました。そのウィルスはヒト免疫不全ウィルス(HIV)と新たに名付けられました。プムワニ地区の売春婦の間で行なわれた調査では、エイズの症状は見られないが、売春婦の殆んどがそのウィルスに感染していたそうです。その結果、プムワニの売春婦は接触を持つと感染の危険性が極めて高いグループであると見なされました。この年の初めには、恒例のケニアでの軍事訓練を受けていた英国兵に、ケニアの売春婦には近寄らないようにと命令が出て、その命令にケニア政府は激怒しました。そのうち、中国とインドは外国人入植者、特にアフリカ人入植者に対してエイズ検査を求め始めました。そのためにこの病気が人種差別的な意味合いを持つようになりました。外国、特にインドと中国に行く学生たちが次々にエイズ検査を希望するようになり、ケニア中央病院に送るHIV検査用の血液標本を作るために私は診療時間の半分を使うようになりました。

HIV

ディンシン医師はその病気にどう対処しているかを見るために、ロンドンとニューヨークに行きました。ディンシン医師は、患者すべてに、特にエイズを発症していない売春婦にカナーン証明書を出して、カナーンがエイズとの闘いを支援するという案を持ち帰りました。また、血液検査用の機器一式を持ち込みました。ネイビン・ペイタルという検査技師を連れて来て、その機器を私の部屋の隣に設置しました「ジョゼフ・ムングチ医師 医学士、化学士、医学修士」と書かれた証明書が、この国の売春宿のための極めて重要な文書だという言葉がどのように広まるかはわかりません。売春に関係する男女が大勢、カナーン証明書を求めて、毎日カナーンにやって来ました。最初、検査の料金は500シリングでした。ディンシン医師はその額を2月に1000シリングに、3月には2000シリングに上げました。しかし4月にディンシン医師が証明書の料金を強引に1万シリングにすると提案したとき、普通の人から法外な料金を取る医者への嫌悪感が蘇りました。

「ディンシン先生、それをしてはいけませんよ!」と、私は強く反対しました。
「ムングチ先生、君は実業家としては見込みがないな。価格をつり上げているのはディンシン医師ではなくて、アダム・スミスの言う「見えない手」という奴なんだよ。このディンシンにヒルトンの売春婦の強い願いに反した行動が取れると思うかね?」
「ヒルトンで売春をやってるとは知りませんでした。」と、私は反論しました。
「ナイロビの売春婦はどこでも仕事をするよ。ヒルトンヘルスクラブ、インターコンチネンタルのビッグファイヴ、セレナ、インターナショナルカジノ、パナフリック、シックスエイティ、フロリダ2000、ソンブレロ、カウボーイアームズ、この町全体が売春婦で溢れていて、みんな商売にカナーン証明書を必要としている!」と言い、私を見て声を荒げました。ディンシン医師は酔っているようでした。「実はその証明書を宣伝するつもりだが、一つ問題があって、ケニア医師会の健康証明書の規制をどうすり抜けるかがわからないんだ。なに、きっと方法はある。」と、ディンシン医師は言いました。

ケニア周辺地図

ディンシン医師が私を巻き込んでいるのに恐れを感じて自分の体が震えているのを感じました。医療の規則を完全に破って、売春婦と患者が必要としている健康証明書を利用してディンシン医師が商売するのを私はこの目で見て来ました。「ああ、神様どうしてこんなことになってしまったのでしょう?」と、私は天に向かって叫びました。

規則上、本人から直接依頼されて検査をすることはありませんでした。代理人か医者かクラブを通して行なわれました。結果を言い渡すときは「血清反応は陰性です。」か「精密検査が必要です。」と伝えるだけでした。そのおかげで、「HIVの血清反応が陽性でした。」と言われるときに患者が味わう精神的な苦痛を見なくて済みました。しかし、5月のある日、サリーを身につけお腹が大きくて美しいインド人の女性が診療所にやって来ました。その女性はネイビン・ペイタルに会いたいと言い、二人はヒンディー語で長い間話をしていました。ばーんと机を叩く音が聞こえましたが、ネイビン・ペイタルとそのインド人女性が興奮気味に何を言い合っているのかは分かりませんでした。

検査室は私の部屋の隣で、何を言い争っているのだろうと思って、私は検査室に入って行きました。ネイビンよりも背の高いその女性は検査技師に一枚の紙切れを突きつけて、その検査結果が何を示しているのかを知りたいと詰め寄っていました。ネイビンは、臨床検査を受けた本人と話をしてはいけないという厳しい指示を受けていましたので、質問には答えられないと言いました。私は自分が性病の専門医であると女性に告げ、血液検査でエイズを引き起こすHIVウィルスを確認したと伝えました。また、ウィルスを保ったまま発症を遅らせてウィルスに負けないことも可能なので、これが必ずしもエイズを発症するという意味ではないとも説明しました。しかし、女性はそれ以上は説明を受けようとしませんでした。女性は叫びながら戸をばーんと閉めて、カナーンから飛び出して行きました。2分後に、門の外で激しい爆発音が聞こえ、女性の青いベンツが炎に包まれているのが見えました。死の病の情報を公開して、カナーンは刑の執行を開始していました。そして、私もその刑の執行に携わっていたのです。こうしてホスピスと関わる自分の将来を考えると、私はたまらなく不安になりました。

********************

ある朝、起きてみると唾液腺が腫れていました。また髭剃りの後に出来た吹き出物が腫れたのだろうと思いました。しかし、首の辺りが異常に張っていて何だか嫌な感じがしました。両手で耳の下を触ると両方の耳下腺が腫れているのが分かり、更に手を舌下腺の所まで動かしてそこもやられているのが分かりました。

私は恐る恐る下顎を軽く叩いて唾液を飲み込みながら、どこかかがおかしいと感じた心配が現実のものになったと思いました。料理人が持って来てくれた朝食も食べられず、この10年の間、ずっと私に付きまとっていたあの恐ろしい病気に、とうとう私もやられてしまったのだろうかと考え始めました。イアン・ブラウンを介してメアリ・ンデュクから感染したのか?それとも、ゴッドフリィ・マインバを通してユーニス・マインバからうつったのか?私は自問しました。天に祈りを捧げてから、私はドクターGGの娘ムンビが原因だった可能性はあるだろうかと考え続けました。ムンビは無事に元気な子供を産んではいましたが、そのことでムンビの血清反応が陽性ではないとは必ずしも言えないでしょう、いや、ひょっとしたらそう言えるのでしょうか?私は考え続けました。

ブラックマン船長はフィンランド人の船乗りで、モンバサの売春宿にはよく行っていましたし、オルオッチ少佐もムンビの他の友人も同じでした。あれこれと考えて、私はこの10年間、強力なウィルスの感染経路に取り囲まれていて、逃げ道はないという事実に辿り着きました。私は3人の女性とそれぞれ関係を持っていて、その3人も同じように3人かそれ以上の男性と関係があり、その相手も他の女性とそれぞれ関係を持っていました。飛んで来た蠅が引っかかる蜘蛛の巣(に似た映像が、頭をよぎりました。今、)が目に浮かび、私たちは皆(同じ)蜘蛛の巣に引っかかっていると思いました。自分の最愛の息子が死にかけているだけでなくその原因まで知らされたときの母の姿を想像すると、私は突然怖くなりました。性病についてはすべてを知っている自分の主治医が、自分の性病は治せなかったという新聞記事を読む私の患者の姿が目に浮かびました。磔にされたキリストを見て、
「人は救えても、自分自身は救えない。」と嘲った人たちと同じように、患者も私を嘲笑ったでしょう。私の聞いていた神は愛の神だったのかと疑問に思いました。最下層の人たちの医療にすべてを捧げて性病を治療してきた私が、どうして死ぬのかもわからないまま、間もなく悪臭を放つ屍になろうとしていました。
「神様、それはないでしょう!」と、私は思わず叫び声を上げてしましました。私はソファから飛び上がると、歩けるか、電話をかけられるか、声が出るかを確かめました。すべてが出来ましたので、私はまだ生きていると実感しました。私はカナーンに電話をして胃の調子が悪いのでアパートから出られないとギチンガ医師に伝えました。私が仕事をさぼる人間ではないとギチンガ医師は知っていましたので、その頃にはすでに病院のすべての職員が携わるようになっていた証明書を私の代わりに発行しておくと言いました。

ケニア地図

「キスムやニエリ、エンブ、ナクル、エルドレット、カカメガ、ヴォイ、それにウンダニィからも人が来ている。ウガンダやタンザニアからの国際注文も受けている。」と、ギチンガ医師は言いましたが、私はくだらない証明書の話については聞きたくありませんでした。私はタラでいっしょに勉強をしたエドワード・キマニ医師に電話をしました。特に秘密を守ってもらう必要があるところでは、ヒポクラテスの誓いをまだ覚えている人物が必要でした。その誓いに忠実で、正直なままであり得る人間がいるとすれば、キマニ医師でした。私は自分の人生も誇りもその人の手に委ねるつもりでした。
「やあ、ジョゼフ、久しぶりだな。」と、キマニ医師は例の人を惹き付けるような声で言いました。「元気だったかい?」と、キマニ医師は続けました。
「今すぐにでも、お会いできませんか?」と、私は言って、無理に平静を装って元気でしたと応えるのを避けました。
「もちろんだよ。場所は分かるかい?」
「ええ、十分でそちらに伺います。」と、私は答えて電話を切りました。

ケニア地図

私は最近カナーンが私のために用意してくれたマツダ625の新車に乗り込みました。まだ気持ち良く運転できるのに我ながら驚きました。私の問題はどうやら首だけのようでした。交通巡視員に見つかっても構わないと思いながら、黄色の線の上に車を止め、歩いて三つの階段を昇ってキマニ医師のいる外科に行きました。上流階級の診療所に相応しく家具もカーペットもきれに整っているなと思いました。秘書と受付を兼ねている人がタイプライターの前に座っている様子は、医療センターというよりむしろ会社のオフィスのようだと思えて、医療行為に反して十字架を背負いながらこれからどれくらい進むのだろうかと思い始めました。
「今すぐキマニ先生にお会いししないといけないんですが。医者のジョゼフ・ムングチです。」
「どうぞお掛け下さい。先生はあなたをお待ちになっていますよ。」
と、美人の受付が答えて、哀れむように私の腫れ上がった首を見つめました。患者が一人、診察室から出て来ましたので、私は部屋に入りました。キマニ医師は私を優しく迎えて抱き締めてくれました。
「先生、あまり近くに寄らず、手術用の手袋とマスクをして下さい……。」
と、私は言いました。
「どうして?」
「どうもあれにやられたようです。」
と言って、私は首を指差しました。
「(ああ)そうか、お多福風邪か。」
「いえ、例の強烈な病気ですよ。」と私が言うと、キマニ医師は突然笑い出しました
「一体どうしてそう思ったの?」と、キマニ医師は私に尋ね、私が着けて下さいと頼んだ手術用の手袋などもせずに私を座らせ、診察を始めました。キマニ医師は私にコートとシャツを脱いで診療台の上に横になるように言い、私たち医者がするいつもの検査を始めました。聴診器で心音を聴いて体温を測り、私の上半身を起こして、血圧を測るためのバンドを腕に巻きました。両脚の膝蓋腱反射も確認しました。私に口を開けるように言ってから、ペンライトで私の口の内をじっくりと調べました。
「唾も飲み込めないんです。」と、私は言いました。
「すぐに良くなるよ。」と、キマニ医師は簡単に言って処方箋を書き始めました。処方箋を受け取ったあと、信じられない気持ちで、本当に私が良くなるのかどうかを聞きました。キマニ医師は笑って、単に唾液腺が腫れているだけでそれ以上は何もないと念を押しました。私はキマニ医師にお礼を言うと部屋を出て、一階の薬局で薬を貰いそのあと車で自宅のアパートに戻りました。

料理人のムヤが玉蜀黍の粥と、野菜と牛肉の煮込みを用意してくれていましたが、私は食べられませんでした。スーパーには色んな種類のインスタントスープがあるのを思い出し、よくなるまでの間、(キマニ医師の診断をまだ疑っていましたので、私がよくなればの話ですが。)それなら何とか食べる問題は解決出来そうでした。4日間はそのスープで栄養を取りましたが、驚いたことに、毎朝起きるたびに出されたカプセルが効いていくのが分かりました。4日目には、首の痛みは消えていました。私は神に感謝し、天国でも地獄でも、どうかまだ私をお召しになりませんようにと祈りました。

***********************

5日間休んで、火曜日にカナーンに戻り、診療を再開しましたギチンガ医師と共同経営者のディンシン医師はカナーンの悪事にすっかりのめり込んでいるようでした。

カナーン証明書のために1万シリングの必要な額を払えば、待つ必要もなく、ある場合には臨床検査も受けませんでした。ディンシン医師は、報告ではHIV二型のウィルスは潜伏期間は5年か10年、長ければ20年にもなると言い、ウィルスは患者の体内で成長し続けられるのだから、ウィルスが存在しないと指摘しても全く意味がないと主張しました。すべて、感染していないことを示す役には立たない証明書を人々が躍起になって欲しがる間は、この死の病に付け込んで利用するためでした。この病気の心配がないのは、母親から感染していない処女と童貞(ケニアには殆んどいませんが)だけだとも言いました。
「この施設の隣に、エイズを発症して私たちの看護が必要な人のための家を購入したよ。」と、ディンシン医師が付け加えました。
「ここにエイズ患者を収容するつもりなんですか?」と、私は信じられない思いで聞きました。
「そうさ、輸血や体液が交わる時以外は、エイズ患者と接しても安全だと証明されているから、私たちも安心して看護にあたれる。」とディンシン医師が言うのを聞いて、この人も結局、少しは人間味を持っていたのかなと感じました。
「それでも、まだ治療法がありませんよ。」と、私はしつこく言いました。
「治療法はないよ。しかし、末期の患者のための老人施設や病院のことは聞いているだろう。」
「それは、聞いていますよ。ケニアにも、そういう施設が出来てもいい頃ですね。」と、私は頷きながら答え、ディンシン医師が病人への義務よりも金の算段を優先すると思い違いをしていたのは悪かったかなと感じました。
「最後の日々を王様や王女様のように過ごすために喜んで大金を払う人たちもいる。もちろん25万シリングも貰えれば、その思いをきっちりと感じせてやるよ)。」と聞かされて、私は驚きのあまりかっとなってしまいました。
「患者と女に特別のコンドームを用意すれば、男は短時間のセックスに1万シリング払うね。カナーンの女たちにも、既にコンドームは買ってあるがね。」と、ディンシン医師は付け加えました。私は聞いたことが信じられませんでした。私の雇い主ディンシン医師は間違いなく狂っていました。
「お金を取って末期の患者にセックスさせるんですか?」と、私は驚いて尋ねました。
「そう、そのとおり、銀行に大金を銀行に残しても役には立たないからね。どちらにしても、今患者が医者からとめられているものを提供するんだ、つまりセックスだよ。」
行き過ぎてしまう前に、何とかとめなければなりませんでした。
「カナーンは売春宿ではなく、立派なホスピスだと思っていました。」と、私はうんざりした声で言いました。
「ここは末期の患者に最高のもてなしをする非常に特別な病院だよ。」
「そして、患者から金を巻き上げる。」
「そうさ、エイズを利用して金を巻き上げない人間がいるかね?米国のゴムの製造業者はコンドームを作って大儲けしているし、血液銀行も今は非常に景気がいい。作家や映画会社も、エイズの脅威がまたとない好機だと考えて余念がない。ムングチ先生、私たちも急がないとね。何万百も稼げるし、治療法が発見される頃には、それぞれ気持ちよく引退してるよ。」と、ディンシン医師は言いました。これ以上この人と話をしても無駄だと思いました。

私は産科病棟に行ってアイリーンを探しました。カナーンに来てからアイリーンとは殆んど会っていませんでしたが、今まで以上にアイリーンが必要だと感じました。
「仕事のあとで会えるかな?」
私はすべてをキャンセルして欲しいとアイリーンに頼みました。
「ムングチ先生、いつでも大丈夫ですよ。お分かりでしょ?」と、アイリーンはいつものように約束してくれました。

アイリーンを連れてケニア銀行クラブに行き、私はいつものホワイトキャップを、アイリーンもいつも飲んでいるピルスナーを飲みました。狂った医者がエイズの脅威につけ込んで金持ちから金を巻き上げる場所にカナーンが成なってしまったので辞めようかと思っているとアイリーンに説明しました。
「ムングチ先生、やめてどこへ行くの?」
「わからないよ。」
「決めてからやめないとね。」と、アイリーンは私に言いました。医者に2万シリングを出して車も与え、末期患者の世話をさせるだけという所は殆んどないので、アイリーンの言うことに賛成せざるを得ませんでした。
「ナイロビは、金儲けが絡んでおかしな所になってしまってるね。」と、私は言いました。
「健全にお金を儲ける所ってあるの?」
「少しはね。中国とかロシアとか……。」
「それ本当?でもどちらにしても、ケニアにはまずないわね。」と、アイリーンは言いました。どこにも逃げ場が無いというのは残念ながら同感で、とにかく、今のところどこにも逃げ場はありませんでした。
10時ごろに酒を飲むのをやめて、アイリーンを家まで送っていく時間になり、アパートに一緒に来るように誘うかどうか迷いましたが、結局は誘わないことにしました。唾液腺の炎症は治っていましたが、アイリーンと寝てウィルスをうつす危険を冒す訳にはいきませんでした。コンドームが予防になると言われていましたし、ディンシン医師も売春婦にコンドームを販売するつもりでした。しかし、コンドームは破れる可能性もありましたし、第一、アイリーンにコンドームは使えませんでした。
「安全なセックスにはコンドームをと言い出したね。」と、私はコンドームの話を始めました。
「今日カナーンにコンドームが運び込まれたんです。」と、アイリーンが言いました。
「なんだって?」
「ディンシン先生はお金儲けのためなら 何でもするようですね。先生も私も、カナーンの患者さんにコンドームをどう使うかを指導することになりますね。」
「何てことだよ。」と、私は やけになって叫びました。
「神は何もお聞きにならないみたいですね。」と、アイリーンは神を冒涜するように言いました。そのあと私は、パークランズショッピングセンターにある快適そうなアパートにアイリーンを送っていきました。

HIV

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日刊紙がどのようにしてカナーンで起きていることを知るようになったかは分かりません。カナーンエイズケアセンターが出来、カナーンコンドームが出回り始まって1週間もしないうちに、各紙が一斉にカナーンの痛烈な批判記事を載せました。

ヤードスティックは「カナーンは約束の地か、売春宿か」と一面に大見出しを付けました。

シチズンは「葬式に25万」を斜体で一面に載せました。

シティタイムズは「カナーンは天国か地獄か?」と問いかけました。
話の内容も記事の取り上げ方も同じでした。

a)ヤードスティック 記者の記事
ウェストランズのカナーンとして知られる高級ホスピスは、末期患者に売春の斡旋をするなどのかつてないスキャンダルにまみれていると伝えられています。カナーンは元々、本人や親戚や友人のために死者への特別な注意が必要な金持ち向けの葬儀会社として出発しましたが、民間の病院ではエイズウィルスの検査用機械をケニアで初めて導入したナイロビのエイズセンターになりました。それがやがてただ一つのエイズの検査用の施設になり、カナーン証明書として知られる健康証明書を出すことになりました。ナイロビの男女、特に大きなホテルで商売をする売春婦に出される証明書は、売春の許可証として非常に有名です。許可証は1万シリングもして、近くの国に輸出もされています。初めはエイズの証明書を出していただけでしたが、現在ではエイズ患者の管理までするようになり、患者(男女)に性生活を楽しんでもらうためにカナーンコンドームを用意して売春まで斡旋しています。マジェンゴプムワニ、マサレバリーやカワングワレからも少年や少女に大人の男女も集められ、カナーンコンドームが死の病から守ってくれると言われてエイズ患者に「売られて」います。一晩5千から1万シリングで、喜んで応募するマジェンゴの売春婦がたくさんいます。カナーンホスピスはディンシン医師とワウェル・ギチンガ医師の所有で、両氏はケニア中央病院の不正行為に関係する元囚人です。二人は有名なケニア人の医者二人、有名な産科医のヒュー・マクドナルド医師とジョゼフ・ムングチ医師を雇っています。その人が率先して何年も、医者が利益を最優先させる医療のあり方に反対してきた医者であるだけに、カナーンホスピスにジョゼフ・ムングチ医師がいるのは少々不可解です。

その記事を読んで、私はひどく沈んだ気持ちになりました。その朝、私はカナーンに連絡出来ませんでしたが、逃げ道を探す必要がありました。そうする前に、シティタイムズを開けました。私たち3人の写真がそこにありました。どこから写真を手に入れていたのかと思いました。記事には次のように書いてありました。

b)シティタイムズ記者が書いた記事
厚生省は、そのような重大な問題を民間の団体に任せてきたという批判に責任を負うべきです。死の病の存在を認めようとせず、患者のために妥当な措置も取らないで、厚生省は、無節操な男女が人の命を弄ぶのを許してきました。その人たちが売ってきたカナーン証明書は、狂犬病にかかった犬に、うろつきながら人間を噛む許可を与えるようなものです。これまでに50以上の男女が、死の病にかかっていると不用意に告知されて自殺に追い込まれたか、カナーンの常軌を逸した看護を受けることに同意したと言われています。このホスピスは、肛門性交や麻薬の密売や最もグロテスクな形の売春も含むありとあらゆる違法行為に関わってきました。こういった行動に関わってかなりの額を手にした男女は、カナーンホスピスを出るときには自分自身も感染している可能性が高く、ハンセン病などの性感染症にエイズまでを加えて、国中に広めることになります。カナーンチームの一人ムングチ医師は、有名なリバーロード診療所の医師で、長い間率先して、社会の底辺にいる人たちに安い医療を提供してきました。その人がカナーンの詐欺行為に協力しているのは私たちを困惑させる事件で、医療界でも「狼が羊の皮を着て歩ける」と思われても仕方ありません。それらすべてをやり始めたディンシン医師は、性や麻薬や売春用のコンドームまでを売るよく知られた国際犯罪人です。相棒のワウェル・ギチンガ医師も、ケニア中央病院での不正行為でカミティ刑務所に数年もいた詐欺師です。厚生省は自らの責任に気付き、国を救う義務があります。

私はわざわざディンシン医師の過去を調べようとは思いませんでしたが、世界的に有名な犯罪者だとは知りませんでした。しかし、2つの国内紙はディンシン医師に前科があると書いていました。私はそれを敢えて疑問に思いませんでした。それから、最後の新聞を読み始めました。

c)シチズン記者ジョン・キマルが書いた記事
法律の施行緩和につけ入り、ウガンダ産の珈琲をケニア産として売ったために起きた珈琲景気がケニア経済を駄目にしてから10年になります。売春婦が死の病とは関わりがないことを証明すると称するカナーン証明書の販売で、似たような騒動が起きています。エイズ治療と称し、処罰も受けず宣伝されているカナーンコンドームは、死の病の世界を襲う極めて悪質ないかさまです。私たちみんながそういった行為を通してその疫病に感染してしまう前に、カナーンの虚偽わりに関わる犯罪者たちの責任を問うべきです。

逃げてしまおうと考えていましたが、そのような人たちにやってもいない悪事と私を結び付けさせてはいけないと思いました。私はカナーンホスピスの一職員で、記事がカナーンのせいだとしていることとは無関係でした。少なくともいわゆる葬式やコンドームの販売や性産業に関しては、医療倫理や治療についての議論を何度もやったディンシン医師と二人だけで話をして、私の名前を外してもらう必要がありました。タラに逃げ帰ろうという先程までの考えを捨てて、私は車で診療所に行きました。

新聞報道が街に出始めたあとすぐに、政府軍が動き出したに違いありません。私が11時にカナーンに着いたとき、ナイロビ市議会の指示でエイズ患者の家だった建物が取り壊されていました。ケニア中央病院のバスが一台とケニア警察署のブラックマリアを含む警察車数台が来ていました。他に救急車が二台と警察の機動隊も来ていました。引き返してタラに逃げ帰った方がいいという気もしましたが、膨れ上がって1000人以上になった野次馬に加わりたいという気もしました。カナーンの入院患者と外来患者、噂の病院がどうなるのかを見に来た大勢の人々、カナーンがなくなるのを見届けるように要請されていた政府や市議会の役人が来ていました。私は何も間違ったことはして来なかったと自分に言い聞かせました。性病学に関する最善の専門的な助言を与えて来ました。エイズの脅威については殆んど知りませんでした。私としては、専門家として出来る限りの努力をして、イライザ法の検査を行なってきました。もし誰かがその検査を病院外で行なってたくさんの人から金を巻き上げていたなら、それは私ではありませんでした。私の話を採用してくれる新聞を探す必要がありました。

イライザ法の検査器具

アイリーンが市議会の救急車に乗り込んで叫んでいるのが見えました。
「アイリーン、頼む、待ってくれ。」
「ムングチ先生、早く。」と、アイリーンは甲高い声で叫びました。私は車を停め、ロックするのも忘れて急いでその場から離れ、救急車に乗り込みました。
カナーンの患者が10人ほど救急車の中にいるのがわかって、「どこに行ってるの?」と、私は尋ねました。見ると、カナーンの患者が十人ほど救急車に乗っていました。
「朝の六時からみんな先生たちを捜しています。ディンシン先生もギチンガ先生もずっといないんです。9時頃に警察はヒュー・マクドナルド先生だけを連れて行って、それから先生のことをずーっと尋ねていますよ。」
「僕に何の用なのかな?」
「ポール・ウェケサ警部によれば、先生たちはみんなカナーンをやって新聞で報道された犯罪を犯した悪党だそうです。」
「今この人たちをどうしようとしてるの?」
「市議会がカナーンを取り壊するつもりなので、患者をすべてケニア中央病院に避難させているんです。カナーンが使っていた建物には何年も前に裁判所から出て行くようにと命令が出ていたたらしいんです。」
「それで、家具や設備や病院の記録は?」と、私は信じられない思いで聞きました。
「死体安置所だけは許可を取っていましたが、他はみんな違法で、没収でしょうね。」
「今朝の新聞見たの?」
「ええ、読みました。」
「記者の一人はジョン・キマルだよ。」
「ええ、そうですね、私も忘れてました。あの人は破産して6年前にキタレを出て行きました。珈琲の貿易で稼いだ財産をすっかり失ない、噂では、カルラの蔵で無認可の酒を作っていたそうです。その人かも知れませんね。」
「シチズン紙の本社に行ってその男を探し出して、手助けしてもらえるかも知れないので、今すぐ僕が会いたがっていると伝えてくれないか。その間に、僕はポール・ウェサカの所に行くよ。何も間違ったことはして来なかったと信じているから。」
「分かっていますよ。先生はとてもいい人ですから。」
と、アイリーンは言って、長年2人が共有してきた私の心を和ませてくれる合図を送ってくれました。
「君もだよ。でも、もうお互いにいい人同士でいるのをそろそろやめる潮時だね。」と、私は半ば本気で言いました。何か私がいいことをすると、決まって誰かがあら捜しをするかのようでした。私がディンシン医師とギチンガ医師に反対し続けてきたこと、つまり患者を食いものにすること(たとえその人たちが金持ちであっても)と私を、世間の人は結びつけようとしていました。

私はまっすぐ自分の部屋に行きました。部屋では、市議会の監察官が指示を出して備品を運び出していました。
「どうも。医師のジョゼフ・ムングチです。」と、私は挨拶しました。まるで私が恐ろしい殺人犯ですと名乗ったかのようでした。戸棚を抱えていた2人の男性は戸棚を落としてしまい、口をと開けたまま、マネキン人形のように私を見たまま立っていました。
「何だって?」と、監視員は驚いて言葉を絞り出し、目を白黒させながら、ジョゼフ・ムングチという名を聞いて受けた衝撃を耳から振り払うかのように首を動かしました。
「中央警察のポール・ウェケサ警部はどこですか?」と、私は尋ねました。
「警部が私を逮捕したいのは分かります。」
私の部屋にいた人たちは私の言葉にますます混乱して、返事もしないで次々と部屋を出て行きました。
「どうか行かないで下さい。私はあなた方が話している気の狂った医者ではありませんよ。」と、私は必死に訴えました。私を信じていなかったようで、その人たちが部屋を出て行ったあと、ジョゼフ・ムングチ医師が現われたという噂があっという間にカナーン中に広がりました。たくさんの人が私の部屋に押し寄せ、興奮して話をしているのが窓から見えました。エイズ患者の家を取り壊していた人の中にも、新たに私の部屋の周りの人垣に加わった人もいました。その人たちは手に鉈や斧を握り締めていて、3人はバールを持っていました。
「あいつといっしょにビルを叩き潰せ。」と、一人の男が言いました。
「いや、石油を持ってこよう。」と、別の男が提案しました。
「警察に引き渡そう。」と、3人目の男が反対して言いました。
「警察は生死を問わないと言ったじゃないか。」と、また別の男が叫んだとき、私はもうこれ以上は憎まれるのは嫌だと思いました。
「みなさん、お願いです、どうか落ちついて下さい。私を火あぶりにしたければそうして下さい。しかし、せめて私の話を聞くまでは待って下さい。」
「あんな奴、殺ししてしまえよ。」と、人相の悪い大柄な男が叫びました。
「だめよ、あの人の言うことも聞きましょう。」と、1人の女性が金切り声で言いました。その時、たくさんの人の中にポール・ウェケサの見慣れた顔が見えました。カナーンの長い話では、感情より正義が優先されると信じていましたから、私は天に感謝の祈りを捧げました。

*********************

ウェケサ警部は私を中央警察署に連れて行き、そこで今は犯罪捜査係には属していないと私に説明しました。カナーン病院問題の真相を探り、大勢の人たちを陥れたすべての人の責任を問うが、決して無実の人を苦しめないようにと警視総監自身が指揮を執りました。私は長い時間をかけて、カナーンについて知っていることはすべて警部に話をしました。ある治療については時間をかけて議論をしたり反対したこと、私の知っている患者の自殺と死亡、葬式については殆んど知らないこと、カナーンコンドームや証明書のこと、私たちそれぞれに責任があることなど、覚えていることはすべて話をしました。ウェケサ警部は非常に聡明で、かなり融和的な角度から、その人の言葉によれば、善意で始められたが賄賂によって公正なままではいられなかった場所とカナーンを見なしていました。

「ムングチ先生、今までよく清廉潔白のままで来られたと驚いています。」と、警部は言って私の手を握り、可能な限り力になると約束してくれました。

カナーンを解体して警察署の倉庫に備品や家具や記録を保管するのに一週間かかり、ケニア中央病院に連れて行かれるのを拒んだ35人の患者はナイロビの三つの民間病院に振り分けられました。特別病棟や生活条件を整える必要があるために、三つの病院はエイズ患者の受け容れになお消極的でした。

アイリーンと他の看護師は「群れを集めるために」(病院長の1人がそう言ったように)、三つ病院の間で振り分けられました。私について言えば、疲れ過ぎて何も出来ず、荷物をまとめて、タラ警察署を通して連絡を取るようにアイリーンとウェケサ警部に頼んだだけでした。

金曜日の夕方の五時頃に、ディンシン医師から貰い受けたマツダでタラに向かいましたが、家に帰る放蕩息子のような感じでした。

ナイロビ市街

執筆年

  2011年4月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 33

ダウンロード・閲覧

  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(28)第29章 カナーン証明書

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の27回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(27)

 第28章 カナーンホスピス

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第28章 カナーンホスピス

普通の病院というよりも、末期患者の介護施設でした。とは言え、大抵の病院にある設備は整っていました。救急病棟から、手術室、X線、実験室、産科、育児室、死体安置所まで、最新の医療施設にあるものは何でも揃っていました。4つに分けられた病棟には、全部で28床のベッドがあり、産科に7床、一般女性患者棟には8床、50歳以上の男性患者と特別に認められた16歳以上50歳未満の男性患者に6床でした。ホスピスは整形外科、小児科、精神科、眼科の患者以外はすべての患者を受け入れました。しかし、産科、婦人科、呼吸器科、皮膚科の病気は特別で、入院許可が出る前に5万シリングの前金を払うことに同意すれば、患者は最高の待遇が受けられるとホスピス側は主張しました。

食事や、宿泊設備、棺桶、芳香剤、寝台用のシーツ、食器はどれも、ケニア山サファリクラブのものに負けないほど上品で、超現代的なものばかりでした。施設にはディンシン、ギチンガ、ヒュー・マクドナルドと、同性愛者だと判って解雇されたフィリピン人のト・クツーンの四人の医者がいました。施設長が熱心に代わりの医者を探していて、そんな時にアイリーンが事情を説明して、真剣に考えるように言ってくれました。ホスピスには医療上の色んな事態に対処出来るだけの人と設備があるので、薬局や診療所や一般の介護施設に比べて、感染の心配は少ないとアイリーンは言いました。

ホスピスは前の大学教育クラブを利用して作られたユニークな場所で、元雇用主からもっとしっかり話を聞くようにアイリーンに言われました。

誰もがミドリザル病を恐れて不安になっていましたので、このホスピスではどのように対処しているのだろうかと思いました。

「ここは費用が高くつくから、患者には私たちが最後の砦だ。普通はどこか他で治療を受けたことがある患者を受け入れるので、患者の状態は事前に充分にわかっている。末期の患者なら、まあそのケースが多いんだが、必要な処置はやっている。」と、ギチンガはあっさりと言いました。
「例の新型の病気にはどんな必要な処置をしているんですか?」と、私は聞きました。
「見てのとおりみんなが着けているマスクに、柵を付けた特別な部屋に、特別な葬式に、死を迎えている人間に必要な特別なすべての処置だよ。」と言いましたが、ギチンガ医師にはきっと何か公にはしたくないことがあると私は感じました。

カナーンホスピスは経済にも強い開業医のディンシンが考え出したものでした。ディンシン医師はケニアの貧乏人と金持ちの大きな格差を実感して、ヒルトンやセレナやビーチのような高級ホテルで宿泊客の動向を観察し続けてきました。リバーロードの薄汚い酒場で安い酒を飲む人もいましたが、いくら高くても「人生最後の豪華な旅路のお手伝い」と呼ぶ特別安置所付きの商品が必ず売れると考えました。街には、棺に10万シリングも払う人間がいるのが分かりました。ケニアでは安楽死は違法でしたが、最後の豪華な死出の旅路のお手伝いとして提供出来る特別な場合もありました。その他に、養子縁組や特別に引き受ける中絶の処置もありました。ディンシン医師はプリンスクワン病院で医療相談も行なっており、そこで、自分のやっている特別サービスの顧客を確保しました。ある日の午後に、ディンシン医師は医者の会食会場でギチンガ医師に会い、安楽死や中絶や医療倫理などの最近の医療問題について話をしました。

「例えば今回の新型の病気ですが、治療法がないですね。」と、ギチン医師が言いました。
「本当ですな、感染した患者は気の毒です。病気にかかったと診断された人は監禁されていますよ。」と、ディンシン医師は付け加えて言いました。
「ええ、気休めに薬を出すよりも、薬を出さないというわけですね。」
「しかし、患者の痛みを和らげるのは可能ですよ。」と、ディンシン医師は言って、カナーンホスピスを創立する計画にギチンガ医師を誘いました。ギチンガ医師は、金持ちが個人の病院で大金を出して内密に治療を受けることは何も目新しいことではないと知りました。ディンシン医師の話を聞いてギチンガ医師は、ヘンリー6世が梅毒になったとき、豚をまるごと食べてしまったと言われていたのを思い出しました。

病院を見てまわったあと、ギチンガ医師がカナーンのチームで一緒にやらないかと私に聞いてきました。月給は車と住宅付きで二万シリングでした。私は信じられない思いでギチンガ医師を見ました。しかし後でギチンガ医師の共同経営者のディンシン医師に会ったとき、非常に正直そうな人に見えましたので、私はその人を信じて申し出を受けました。

次の朝、私はリバーロード診療所を閉めてカナーンホスピスに報告し、自分の息子を病院で産むという条件だけをつけました。

「どの息子だって?」と、ギチンガ医師が尋ねました。
「私の血の流れた息子ですよ。」と答えながら、あと1ヶ月で父親になってドクターGGの娘と結婚すると改めて思いました。しかし、その日の午後にアイリーンと会って私は複雑な思いになりました。私は他の女性に会うためにアイリーンを何度も置き去りにしてきましたが、認めているのかいないのかを全く私に感じさせないで、いつもアイリーンは平然と見ていました。アイリーンが私を本当は心の中でどう思っているかを知りたいと思っていました。

ホスピスで働き始めてから2日後、私は乗組員が諦める前に沈みかけた船から逃げ出した船長のような気分になり始めました。ミドリザル病の患者への体制が整い、医薬品が準備出来るようになったらすぐにまた、性病患者の低価格の治療を再開しようと心に誓いました。暫くは、リバーロード診療所は閉めたままで、診療所についても、治療費をいくらでも払えるコンボ元少佐のような患者に最上級のケアが提供出来ればいいと考えるこのホスピスの危ういやり方についてもあまり考えないでおこうと思いました。診療所の常連とホスピスの患者は見ていても驚くほど対照的で、ホスピスの患者の場合、特に全般的に物腰も違いますし、自分の症状についても自由に話をし、治療費の心配もしていませんでした。一般にカナーンの患者は金で病気が治ると信じ、健康には人一倍気を遣っていました。私は専門の性感染症科の担当になり、すぐにこのホスピスに金を出しているような上流階級の間でも性感染症が広がっているのを知って驚きました。それまで私は、衛生状態がよければそれだけ事態もよくなるだろうと信じていましたが、実際には富裕層も、リバーロード診療所の患者が感染していたように、高い頻度でクラミジアやトリコモナス症、ヘルペスや淋病に感染していました。私の仕事は、性病の最新の治療法を研究し、ここの患者に可能な限り最良の治療を施すことでした。迅速さより金が優先され、薬が国内で手に入るかどうかは問題ではありませんでした。

イライザ法検査器具

重要なのは症状にあった薬を見極めて手許の問題とうまく組み合わせることでした。正しくても間違っていても、カナーンホスピスは何年間か発展を続け、常連の患者が、金さえ出せばどんな病気でも治してくれると信じる場所になりました。しかし受付の係員は、前金を受け取りながら、眼科と精神科と整形外科に関しては
「他の病院をご照会します。」と念を押していました。どうしてその3つの科だけが例外なのかと聞いたとき、ディンシン医師は肩をすくめて「医者なら誰でも好き嫌いがあるもので、その3つの分野はずっと好きになれなくてね。」と答えました。

「ムングチ先生も、腰より下の病気を専門に選んだ。同じように、カナーンも眼と脳と骨を仕事から外して選んだだけだよ。君は集中して感染症に関してすべてを学んだ方がいい。特に、ミドリザル病の難問を解決してくれると期待しているよ。」と、ディンシン医師は私に言ってから、好きな「医療倫理」の話を始めました。ディンシン医師はその分野については非常によく知っていました。今世間で話題になっている安楽死や試験官ベイビー、中絶や養子縁組や幼児殺害、輸血、心臓と腎臓の移植、脳死や自死や、世界中の医療に関わる人たちが抱えるたくさんの問題について話をしました。ディンシン医師は広く世界を旅行していて、医療問題と特に米国と西欧の訴訟報告の新聞記事の切り抜きを集めていました。その切り抜きを綴じた大きなファイルを読むようにと私にくれました。記事の中に、両親を含む周りの人たちの願いに反して、ある兄妹が裁判所に申請して結婚を許された有名な裁判の記事がありました。2年間取り付けられた生命維持装置を大切な子供から外してやりたいと両親が願った「死ぬ権利」を求めた米国の少女の闘いの記事もありました。専門が性感染症学だからだと思いますが、非常に興味を惹かれたのは、貞節な白人の妻が黒人の子供を産んだという記事でした。遺伝学の理論がたくさん述べられていましたが、どれも納得のいく説明にはなっていませんでした。しかし、近所の売春婦が見つかってやっとその謎が解けました。夫のペニスの包皮に売春婦の体に残っていた黒人男性の精液がついていたからです。医療行為に関するケニアの法律の議論になりましたがディンシン医師は極めて柔軟な感じでした。

「充分に国が発展をして、すべての問題で英国議員の真似をやめる時が来れば、ケニアでも、安楽死や中絶や自殺を受け容れるようになるだろう。国内の呪術師や薬草師や偽医者やいかさま師が、こう言った問題で自由な選択肢を与えられると想像出来るかね?」
「かなり混乱しそうですね。」と、私はディンシン医師に賛成して言いました。
「10代の堕胎を手伝ったり、末期患者の苦しみを和らげるというような害のない問題には、裁判所は一切触れないというのは覚えておくといいね。つまり私たちは、多くのダウン症や体に障害のある赤ん坊をこの世の悲惨な毒牙から救ってきたということだね。」と、ディンシン医師は話をまとめ、ミドリザル病の今後の問題点をたくさん指摘して話を終わりました。
「君の専門には、陰嚢の象皮症にかかるよりもずっと恥ずかしいと世間がみなす末期の病気も含まれるからね。最近読んだのだが、母子感染の例もあるそうだよ。ジョゼフ・ムングチ先生、どうか準備を怠りなく。カナーンは君に大いに期待してるから。」と、ディンシン医師は私に言いました。

1日おきに、国内の日刊紙シチズンとヤードスティックとシティタイムズがミドリザル病の記事を載せていました。私は記事をとても興味深く読みました。特に問題になっていたのはその病気の起源でした。西洋のメディアは、中央アフリカのミドリザルサバンナモンキーが起源であると報じました。アフリカ諸国は憤慨してすぐにその説に反対して立ち上がり、アフリカ人の間には殆んど同性愛は存在しないことを論拠に反論しました。ロシア人は、生物兵器にこの病気を利用しようと考えた米国人の遺伝子工学が病気の原因だという説を持ち出しました。

私は特に米国国立癌研究所の報告書を何時間も読みました。ヒトT細胞白血球ウィルス3型(HTLV3型)に関する総合的な報告が載せられていました。パリにあるパスツール研究所では、リンパ節が肥大した患者からミドリザルウィルスを単離して、リンパ節症関連ウィルス(LAV)と名づけていました。カナーンに来てから三ヶ月ほど経った頃には、患者がホスピスの入所許可をもらう前にミドリザル病の検査のために送られる監視役に私はなっていました。私は出発点に戻ったわけです。私にHTLV3型の治療が出来ると考えて患者が押し寄せて来たリバーロード診療所のときと同じマスクと手袋をつけました。

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ムンビは1985年3月15日にカナーンに着きました。恋人ではなく患者として来たとムンビは言いました。診療室にムンビを連れて来て、まず、HTLV3型の検査をしたあと、カナーンで働く条件として話をした私の子供の出産の為に母親が来たとギチンガ医師に伝えました。その母親がドクターGGの娘であることも言いました。ムンビが治療費は自分で払うので、料金に関しては特別扱いはしないで欲しいと言い張りましので、2人とも驚いてしまいました。しかし、ギチンガ医師は、自分や他の大勢の医者が如何に病人を診るかを教わったあなたのお父様ドクターGGのためにカナーンの好意を受けて欲しいとムンビを説得しました。ムンビにはミドリザル病で見受けられる下痢や帯状疱疹、皮膚の異常や高熱はなく、ムングチ医師の息子を宿しているのですから、入院費も要りませんでした。

ムンビがカナーンに到着した次の日、私の診療室に白人の患者が運びこまれました。背の高い男でしたが、ひどい腹痛のために体を半分に折り曲げていました。ディンシン医師は当局が空港でこの患者を引き止めたと説明しました。その白人が例の死の病にかかっていると疑って、どこの航空会社も搭乗を嫌がりました。その見方に反論して、この患者の病気が死の病ではないと記した証明書を私が発行するようにディンシン医師に頼まれました。そうすればその患者は母国の英国に戻って治療が受けられるでしょう。ディンシン医師が一個人の都合で偽の情報を出すように私に求めたのが信じられませんでしたので、そんな取引の当事者になるのを私はきっぱりと断りました。

「ムングチ先生、ミドリザル病については今のところ誰も事実を把握していないんだよ。今日の報告だと、この病気は同性愛者の間だけの問題ではなくて、異性間でも病気が広がっているらしい。真実が明らかになっていないのに、偽証もなにもない。」
私はボブ・スミスと呼ばれている患者を診察しました。その男には確かに見覚えがありました。頬骨が突き出て、体重が三割も減っていました。肋骨と恥骨と大腿骨までが、まるで体から離れたように浮き出ていました。ナイロビ病院で咳の治療は受けていましたがうまく行かず、下痢の症状がひどくてすっかりお腹をやられていました。その白人を悩ませている病気は疑う余地もなく、患者にミドリザル病にかかっていると言いました。そうではないかと思っていたが、多額の治療費が払える英国に戻る必要があると患者は言いました。通常の旅客機が搭乗を許してくれないのなら、ジェット機を貸し切りにすればどうかと薦めましたが、一緒の飛行機に乗ろうという乗客がいるとも思えませんでした。

なぜ私が検査結果を偽証すべきなのかはわかりませんでした。カナーンは一万シリングを稼げたのでしょうが、ミドリザル病の感染拡大を容易に早める取引の当事者にはならないと私は心に誓いました。ずっと以前に『カサンドラクロス』という映画を見て、閉ざされた公共交通機関内での伝染病の恐ろしさを知りました。そういった危険性を私が心配していることをギチンガ医師と、私を馘にすると脅すディンシン医師に説明しました。次の日、すべての新聞が、ミドリザル病の患者がカナーンホスピスでの治療を拒んでベンツの中で銃を撃って自殺したという話を載せました。警察はイングランドのシェフィールド出身のイアン・ブラウンだと名前を公表しました。

イアン・ブラウンの死を悲しいとは思いましたが、自責の念は起きませんでした。カナーンで2万シリングの仕事を手に入れたときに考えていたよりもたくさんの問題が起きました。マクドナルド医師が取り上げた赤ん坊がミドリザル病にかかっているとわかりました。もし状況を教えられていれば、母親はその赤ん坊を殺そうとしたでしょうが、感染を恐れて、病院は他の赤ん坊と一緒の育児室には置きませんでした。そういった患者の責任者として、私は最良の選択肢を助言しなくてはいけませんでした。ディンシン医師は安楽死を考えていましたが、私はヒポクラテスの誓いに反するからと言って反対しました。雨が降れば土砂降りという予言めいた言葉どおり、私に健康な男の子が産まれましたが子供は白人だったという知らせをギチンガ医師が運んで来ました。ああ、なんということでしょう。恥ずかしさのあまり、ここから逃げ出して隠れたい気分でした。ドクターGGの娘ムンビとの間に子供を作る競争では、私よりもあのフィンランド野郎が一歩先を行っていたわけです。私はまともにムンビも子供も見られないまま、ムンビが出産後の2日間をカナーンで過ごしたあと、退院してそのまま空港に行き、欧州行きの英国航空に乗ったと、部屋に来てくれたアイリーンから聞かされました。目から涙が溢れましたが、こぼれ落ちないようにじっと我慢しました。アイリーンには私の苦悩がわかっていて、私は「これが人生だね。」と応え、アイリーンをドアの向こうに見送って部屋に鍵をかけました。

次の日、ヤードスティック紙は銀行から20万シリングを引き出し、その一部を使ってニエリの町で売春婦と過ごした大金持ちゴッドフリィ・マインバがミドリザル病で苦しんでいたという話を詳しく載せました。マインバは逮捕されましたが、自分の金で楽しんではいけないという法律はありませんから、結局は釈放されました。1週間後、ユーニス・マインバがカナーンに来て、夫が釈放されてミドリザルのウィルスを死ぬ前に自分にうつすので、国を出なければいけないと言いました。マインバにはもう逃げ道が無いと私は感じました。その病気は国じゅうで人々の大きな脅威となっているようでした。メルでは、町で評判の天使のようにかわいい女の子が、その病気に感染した後も町の役人連中と寝るのをやめなかったと報じられました。役人たちは一斉に女の子を責めましたが、何も規制は出来ませんでした。現段階では法律上、ミドリザル病にはまだ報告義務はなく、もし仮に報告があっても、治療のための薬が存在しないので、医者が治療義務を怠ったとして起訴することも出来ませんでした。ケニアでは同性愛や静脈注射による麻薬常用者の患者が少なくても、私たちが非常に大きな危険にさらされているという証拠が、じわじわと明らかになっているにも関わらず、当時の政府は病気の存在も認めませんでした。

ナイロビ市街

執筆年

  2011年3月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 32

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(27)