概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の28回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。
日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)
解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)
本文
『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(28)
第29章 カナーン証明書
ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)
第29章 カナーン証明書
1986年頃には、ミドリザル病が広がるのは血液や精液などの体液を通してだとかなりよく知られるようになっていました。同性間でも異性の間でも、感染した人との性交渉によってアフリカでその病気が流行っているのが分かりました。結果的に、売春がケニアでの流行の主な原因であると考えられました。それがケニアの観光産業の脅威となり、その頃には後天性免疫不全症候群(エイズ)と呼ばれるようになっていた病気についての情報を開示するの、に政府は極めて慎重になっていました。そのウィルスはヒト免疫不全ウィルス(HIV)と新たに名付けられました。プムワニ地区の売春婦の間で行なわれた調査では、エイズの症状は見られないが、売春婦の殆んどがそのウィルスに感染していたそうです。その結果、プムワニの売春婦は接触を持つと感染の危険性が極めて高いグループであると見なされました。この年の初めには、恒例のケニアでの軍事訓練を受けていた英国兵に、ケニアの売春婦には近寄らないようにと命令が出て、その命令にケニア政府は激怒しました。そのうち、中国とインドは外国人入植者、特にアフリカ人入植者に対してエイズ検査を求め始めました。そのためにこの病気が人種差別的な意味合いを持つようになりました。外国、特にインドと中国に行く学生たちが次々にエイズ検査を希望するようになり、ケニア中央病院に送るHIV検査用の血液標本を作るために私は診療時間の半分を使うようになりました。
HIV
ディンシン医師はその病気にどう対処しているかを見るために、ロンドンとニューヨークに行きました。ディンシン医師は、患者すべてに、特にエイズを発症していない売春婦にカナーン証明書を出して、カナーンがエイズとの闘いを支援するという案を持ち帰りました。また、血液検査用の機器一式を持ち込みました。ネイビン・ペイタルという検査技師を連れて来て、その機器を私の部屋の隣に設置しました「ジョゼフ・ムングチ医師 医学士、化学士、医学修士」と書かれた証明書が、この国の売春宿のための極めて重要な文書だという言葉がどのように広まるかはわかりません。売春に関係する男女が大勢、カナーン証明書を求めて、毎日カナーンにやって来ました。最初、検査の料金は500シリングでした。ディンシン医師はその額を2月に1000シリングに、3月には2000シリングに上げました。しかし4月にディンシン医師が証明書の料金を強引に1万シリングにすると提案したとき、普通の人から法外な料金を取る医者への嫌悪感が蘇りました。
「ディンシン先生、それをしてはいけませんよ!」と、私は強く反対しました。
「ムングチ先生、君は実業家としては見込みがないな。価格をつり上げているのはディンシン医師ではなくて、アダム・スミスの言う「見えない手」という奴なんだよ。このディンシンにヒルトンの売春婦の強い願いに反した行動が取れると思うかね?」
「ヒルトンで売春をやってるとは知りませんでした。」と、私は反論しました。
「ナイロビの売春婦はどこでも仕事をするよ。ヒルトンヘルスクラブ、インターコンチネンタルのビッグファイヴ、セレナ、インターナショナルカジノ、パナフリック、シックスエイティ、フロリダ2000、ソンブレロ、カウボーイアームズ、この町全体が売春婦で溢れていて、みんな商売にカナーン証明書を必要としている!」と言い、私を見て声を荒げました。ディンシン医師は酔っているようでした。「実はその証明書を宣伝するつもりだが、一つ問題があって、ケニア医師会の健康証明書の規制をどうすり抜けるかがわからないんだ。なに、きっと方法はある。」と、ディンシン医師は言いました。
ケニア周辺地図
ディンシン医師が私を巻き込んでいるのに恐れを感じて自分の体が震えているのを感じました。医療の規則を完全に破って、売春婦と患者が必要としている健康証明書を利用してディンシン医師が商売するのを私はこの目で見て来ました。「ああ、神様どうしてこんなことになってしまったのでしょう?」と、私は天に向かって叫びました。
規則上、本人から直接依頼されて検査をすることはありませんでした。代理人か医者かクラブを通して行なわれました。結果を言い渡すときは「血清反応は陰性です。」か「精密検査が必要です。」と伝えるだけでした。そのおかげで、「HIVの血清反応が陽性でした。」と言われるときに患者が味わう精神的な苦痛を見なくて済みました。しかし、5月のある日、サリーを身につけお腹が大きくて美しいインド人の女性が診療所にやって来ました。その女性はネイビン・ペイタルに会いたいと言い、二人はヒンディー語で長い間話をしていました。ばーんと机を叩く音が聞こえましたが、ネイビン・ペイタルとそのインド人女性が興奮気味に何を言い合っているのかは分かりませんでした。
検査室は私の部屋の隣で、何を言い争っているのだろうと思って、私は検査室に入って行きました。ネイビンよりも背の高いその女性は検査技師に一枚の紙切れを突きつけて、その検査結果が何を示しているのかを知りたいと詰め寄っていました。ネイビンは、臨床検査を受けた本人と話をしてはいけないという厳しい指示を受けていましたので、質問には答えられないと言いました。私は自分が性病の専門医であると女性に告げ、血液検査でエイズを引き起こすHIVウィルスを確認したと伝えました。また、ウィルスを保ったまま発症を遅らせてウィルスに負けないことも可能なので、これが必ずしもエイズを発症するという意味ではないとも説明しました。しかし、女性はそれ以上は説明を受けようとしませんでした。女性は叫びながら戸をばーんと閉めて、カナーンから飛び出して行きました。2分後に、門の外で激しい爆発音が聞こえ、女性の青いベンツが炎に包まれているのが見えました。死の病の情報を公開して、カナーンは刑の執行を開始していました。そして、私もその刑の執行に携わっていたのです。こうしてホスピスと関わる自分の将来を考えると、私はたまらなく不安になりました。
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ある朝、起きてみると唾液腺が腫れていました。また髭剃りの後に出来た吹き出物が腫れたのだろうと思いました。しかし、首の辺りが異常に張っていて何だか嫌な感じがしました。両手で耳の下を触ると両方の耳下腺が腫れているのが分かり、更に手を舌下腺の所まで動かしてそこもやられているのが分かりました。
私は恐る恐る下顎を軽く叩いて唾液を飲み込みながら、どこかかがおかしいと感じた心配が現実のものになったと思いました。料理人が持って来てくれた朝食も食べられず、この10年の間、ずっと私に付きまとっていたあの恐ろしい病気に、とうとう私もやられてしまったのだろうかと考え始めました。イアン・ブラウンを介してメアリ・ンデュクから感染したのか?それとも、ゴッドフリィ・マインバを通してユーニス・マインバからうつったのか?私は自問しました。天に祈りを捧げてから、私はドクターGGの娘ムンビが原因だった可能性はあるだろうかと考え続けました。ムンビは無事に元気な子供を産んではいましたが、そのことでムンビの血清反応が陽性ではないとは必ずしも言えないでしょう、いや、ひょっとしたらそう言えるのでしょうか?私は考え続けました。
ブラックマン船長はフィンランド人の船乗りで、モンバサの売春宿にはよく行っていましたし、オルオッチ少佐もムンビの他の友人も同じでした。あれこれと考えて、私はこの10年間、強力なウィルスの感染経路に取り囲まれていて、逃げ道はないという事実に辿り着きました。私は3人の女性とそれぞれ関係を持っていて、その3人も同じように3人かそれ以上の男性と関係があり、その相手も他の女性とそれぞれ関係を持っていました。飛んで来た蠅が引っかかる蜘蛛の巣(に似た映像が、頭をよぎりました。今、)が目に浮かび、私たちは皆(同じ)蜘蛛の巣に引っかかっていると思いました。自分の最愛の息子が死にかけているだけでなくその原因まで知らされたときの母の姿を想像すると、私は突然怖くなりました。性病についてはすべてを知っている自分の主治医が、自分の性病は治せなかったという新聞記事を読む私の患者の姿が目に浮かびました。磔にされたキリストを見て、
「人は救えても、自分自身は救えない。」と嘲った人たちと同じように、患者も私を嘲笑ったでしょう。私の聞いていた神は愛の神だったのかと疑問に思いました。最下層の人たちの医療にすべてを捧げて性病を治療してきた私が、どうして死ぬのかもわからないまま、間もなく悪臭を放つ屍になろうとしていました。
「神様、それはないでしょう!」と、私は思わず叫び声を上げてしましました。私はソファから飛び上がると、歩けるか、電話をかけられるか、声が出るかを確かめました。すべてが出来ましたので、私はまだ生きていると実感しました。私はカナーンに電話をして胃の調子が悪いのでアパートから出られないとギチンガ医師に伝えました。私が仕事をさぼる人間ではないとギチンガ医師は知っていましたので、その頃にはすでに病院のすべての職員が携わるようになっていた証明書を私の代わりに発行しておくと言いました。
ケニア地図
「キスムやニエリ、エンブ、ナクル、エルドレット、カカメガ、ヴォイ、それにウンダニィからも人が来ている。ウガンダやタンザニアからの国際注文も受けている。」と、ギチンガ医師は言いましたが、私はくだらない証明書の話については聞きたくありませんでした。私はタラでいっしょに勉強をしたエドワード・キマニ医師に電話をしました。特に秘密を守ってもらう必要があるところでは、ヒポクラテスの誓いをまだ覚えている人物が必要でした。その誓いに忠実で、正直なままであり得る人間がいるとすれば、キマニ医師でした。私は自分の人生も誇りもその人の手に委ねるつもりでした。
「やあ、ジョゼフ、久しぶりだな。」と、キマニ医師は例の人を惹き付けるような声で言いました。「元気だったかい?」と、キマニ医師は続けました。
「今すぐにでも、お会いできませんか?」と、私は言って、無理に平静を装って元気でしたと応えるのを避けました。
「もちろんだよ。場所は分かるかい?」
「ええ、十分でそちらに伺います。」と、私は答えて電話を切りました。
ケニア地図
私は最近カナーンが私のために用意してくれたマツダ625の新車に乗り込みました。まだ気持ち良く運転できるのに我ながら驚きました。私の問題はどうやら首だけのようでした。交通巡視員に見つかっても構わないと思いながら、黄色の線の上に車を止め、歩いて三つの階段を昇ってキマニ医師のいる外科に行きました。上流階級の診療所に相応しく家具もカーペットもきれに整っているなと思いました。秘書と受付を兼ねている人がタイプライターの前に座っている様子は、医療センターというよりむしろ会社のオフィスのようだと思えて、医療行為に反して十字架を背負いながらこれからどれくらい進むのだろうかと思い始めました。
「今すぐキマニ先生にお会いししないといけないんですが。医者のジョゼフ・ムングチです。」
「どうぞお掛け下さい。先生はあなたをお待ちになっていますよ。」
と、美人の受付が答えて、哀れむように私の腫れ上がった首を見つめました。患者が一人、診察室から出て来ましたので、私は部屋に入りました。キマニ医師は私を優しく迎えて抱き締めてくれました。
「先生、あまり近くに寄らず、手術用の手袋とマスクをして下さい……。」
と、私は言いました。
「どうして?」
「どうもあれにやられたようです。」
と言って、私は首を指差しました。
「(ああ)そうか、お多福風邪か。」
「いえ、例の強烈な病気ですよ。」と私が言うと、キマニ医師は突然笑い出しました
「一体どうしてそう思ったの?」と、キマニ医師は私に尋ね、私が着けて下さいと頼んだ手術用の手袋などもせずに私を座らせ、診察を始めました。キマニ医師は私にコートとシャツを脱いで診療台の上に横になるように言い、私たち医者がするいつもの検査を始めました。聴診器で心音を聴いて体温を測り、私の上半身を起こして、血圧を測るためのバンドを腕に巻きました。両脚の膝蓋腱反射も確認しました。私に口を開けるように言ってから、ペンライトで私の口の内をじっくりと調べました。
「唾も飲み込めないんです。」と、私は言いました。
「すぐに良くなるよ。」と、キマニ医師は簡単に言って処方箋を書き始めました。処方箋を受け取ったあと、信じられない気持ちで、本当に私が良くなるのかどうかを聞きました。キマニ医師は笑って、単に唾液腺が腫れているだけでそれ以上は何もないと念を押しました。私はキマニ医師にお礼を言うと部屋を出て、一階の薬局で薬を貰いそのあと車で自宅のアパートに戻りました。
料理人のムヤが玉蜀黍の粥と、野菜と牛肉の煮込みを用意してくれていましたが、私は食べられませんでした。スーパーには色んな種類のインスタントスープがあるのを思い出し、よくなるまでの間、(キマニ医師の診断をまだ疑っていましたので、私がよくなればの話ですが。)それなら何とか食べる問題は解決出来そうでした。4日間はそのスープで栄養を取りましたが、驚いたことに、毎朝起きるたびに出されたカプセルが効いていくのが分かりました。4日目には、首の痛みは消えていました。私は神に感謝し、天国でも地獄でも、どうかまだ私をお召しになりませんようにと祈りました。
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5日間休んで、火曜日にカナーンに戻り、診療を再開しましたギチンガ医師と共同経営者のディンシン医師はカナーンの悪事にすっかりのめり込んでいるようでした。
カナーン証明書のために1万シリングの必要な額を払えば、待つ必要もなく、ある場合には臨床検査も受けませんでした。ディンシン医師は、報告ではHIV二型のウィルスは潜伏期間は5年か10年、長ければ20年にもなると言い、ウィルスは患者の体内で成長し続けられるのだから、ウィルスが存在しないと指摘しても全く意味がないと主張しました。すべて、感染していないことを示す役には立たない証明書を人々が躍起になって欲しがる間は、この死の病に付け込んで利用するためでした。この病気の心配がないのは、母親から感染していない処女と童貞(ケニアには殆んどいませんが)だけだとも言いました。
「この施設の隣に、エイズを発症して私たちの看護が必要な人のための家を購入したよ。」と、ディンシン医師が付け加えました。
「ここにエイズ患者を収容するつもりなんですか?」と、私は信じられない思いで聞きました。
「そうさ、輸血や体液が交わる時以外は、エイズ患者と接しても安全だと証明されているから、私たちも安心して看護にあたれる。」とディンシン医師が言うのを聞いて、この人も結局、少しは人間味を持っていたのかなと感じました。
「それでも、まだ治療法がありませんよ。」と、私はしつこく言いました。
「治療法はないよ。しかし、末期の患者のための老人施設や病院のことは聞いているだろう。」
「それは、聞いていますよ。ケニアにも、そういう施設が出来てもいい頃ですね。」と、私は頷きながら答え、ディンシン医師が病人への義務よりも金の算段を優先すると思い違いをしていたのは悪かったかなと感じました。
「最後の日々を王様や王女様のように過ごすために喜んで大金を払う人たちもいる。もちろん25万シリングも貰えれば、その思いをきっちりと感じせてやるよ)。」と聞かされて、私は驚きのあまりかっとなってしまいました。
「患者と女に特別のコンドームを用意すれば、男は短時間のセックスに1万シリング払うね。カナーンの女たちにも、既にコンドームは買ってあるがね。」と、ディンシン医師は付け加えました。私は聞いたことが信じられませんでした。私の雇い主ディンシン医師は間違いなく狂っていました。
「お金を取って末期の患者にセックスさせるんですか?」と、私は驚いて尋ねました。
「そう、そのとおり、銀行に大金を銀行に残しても役には立たないからね。どちらにしても、今患者が医者からとめられているものを提供するんだ、つまりセックスだよ。」
行き過ぎてしまう前に、何とかとめなければなりませんでした。
「カナーンは売春宿ではなく、立派なホスピスだと思っていました。」と、私はうんざりした声で言いました。
「ここは末期の患者に最高のもてなしをする非常に特別な病院だよ。」
「そして、患者から金を巻き上げる。」
「そうさ、エイズを利用して金を巻き上げない人間がいるかね?米国のゴムの製造業者はコンドームを作って大儲けしているし、血液銀行も今は非常に景気がいい。作家や映画会社も、エイズの脅威がまたとない好機だと考えて余念がない。ムングチ先生、私たちも急がないとね。何万百も稼げるし、治療法が発見される頃には、それぞれ気持ちよく引退してるよ。」と、ディンシン医師は言いました。これ以上この人と話をしても無駄だと思いました。
私は産科病棟に行ってアイリーンを探しました。カナーンに来てからアイリーンとは殆んど会っていませんでしたが、今まで以上にアイリーンが必要だと感じました。
「仕事のあとで会えるかな?」
私はすべてをキャンセルして欲しいとアイリーンに頼みました。
「ムングチ先生、いつでも大丈夫ですよ。お分かりでしょ?」と、アイリーンはいつものように約束してくれました。
アイリーンを連れてケニア銀行クラブに行き、私はいつものホワイトキャップを、アイリーンもいつも飲んでいるピルスナーを飲みました。狂った医者がエイズの脅威につけ込んで金持ちから金を巻き上げる場所にカナーンが成なってしまったので辞めようかと思っているとアイリーンに説明しました。
「ムングチ先生、やめてどこへ行くの?」
「わからないよ。」
「決めてからやめないとね。」と、アイリーンは私に言いました。医者に2万シリングを出して車も与え、末期患者の世話をさせるだけという所は殆んどないので、アイリーンの言うことに賛成せざるを得ませんでした。
「ナイロビは、金儲けが絡んでおかしな所になってしまってるね。」と、私は言いました。
「健全にお金を儲ける所ってあるの?」
「少しはね。中国とかロシアとか……。」
「それ本当?でもどちらにしても、ケニアにはまずないわね。」と、アイリーンは言いました。どこにも逃げ場が無いというのは残念ながら同感で、とにかく、今のところどこにも逃げ場はありませんでした。
10時ごろに酒を飲むのをやめて、アイリーンを家まで送っていく時間になり、アパートに一緒に来るように誘うかどうか迷いましたが、結局は誘わないことにしました。唾液腺の炎症は治っていましたが、アイリーンと寝てウィルスをうつす危険を冒す訳にはいきませんでした。コンドームが予防になると言われていましたし、ディンシン医師も売春婦にコンドームを販売するつもりでした。しかし、コンドームは破れる可能性もありましたし、第一、アイリーンにコンドームは使えませんでした。
「安全なセックスにはコンドームをと言い出したね。」と、私はコンドームの話を始めました。
「今日カナーンにコンドームが運び込まれたんです。」と、アイリーンが言いました。
「なんだって?」
「ディンシン先生はお金儲けのためなら 何でもするようですね。先生も私も、カナーンの患者さんにコンドームをどう使うかを指導することになりますね。」
「何てことだよ。」と、私は やけになって叫びました。
「神は何もお聞きにならないみたいですね。」と、アイリーンは神を冒涜するように言いました。そのあと私は、パークランズショッピングセンターにある快適そうなアパートにアイリーンを送っていきました。
HIV
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日刊紙がどのようにしてカナーンで起きていることを知るようになったかは分かりません。カナーンエイズケアセンターが出来、カナーンコンドームが出回り始まって1週間もしないうちに、各紙が一斉にカナーンの痛烈な批判記事を載せました。
ヤードスティックは「カナーンは約束の地か、売春宿か」と一面に大見出しを付けました。
シチズンは「葬式に25万」を斜体で一面に載せました。
シティタイムズは「カナーンは天国か地獄か?」と問いかけました。
話の内容も記事の取り上げ方も同じでした。
a)ヤードスティック 記者の記事
ウェストランズのカナーンとして知られる高級ホスピスは、末期患者に売春の斡旋をするなどのかつてないスキャンダルにまみれていると伝えられています。カナーンは元々、本人や親戚や友人のために死者への特別な注意が必要な金持ち向けの葬儀会社として出発しましたが、民間の病院ではエイズウィルスの検査用機械をケニアで初めて導入したナイロビのエイズセンターになりました。それがやがてただ一つのエイズの検査用の施設になり、カナーン証明書として知られる健康証明書を出すことになりました。ナイロビの男女、特に大きなホテルで商売をする売春婦に出される証明書は、売春の許可証として非常に有名です。許可証は1万シリングもして、近くの国に輸出もされています。初めはエイズの証明書を出していただけでしたが、現在ではエイズ患者の管理までするようになり、患者(男女)に性生活を楽しんでもらうためにカナーンコンドームを用意して売春まで斡旋しています。マジェンゴプムワニ、マサレバリーやカワングワレからも少年や少女に大人の男女も集められ、カナーンコンドームが死の病から守ってくれると言われてエイズ患者に「売られて」います。一晩5千から1万シリングで、喜んで応募するマジェンゴの売春婦がたくさんいます。カナーンホスピスはディンシン医師とワウェル・ギチンガ医師の所有で、両氏はケニア中央病院の不正行為に関係する元囚人です。二人は有名なケニア人の医者二人、有名な産科医のヒュー・マクドナルド医師とジョゼフ・ムングチ医師を雇っています。その人が率先して何年も、医者が利益を最優先させる医療のあり方に反対してきた医者であるだけに、カナーンホスピスにジョゼフ・ムングチ医師がいるのは少々不可解です。
その記事を読んで、私はひどく沈んだ気持ちになりました。その朝、私はカナーンに連絡出来ませんでしたが、逃げ道を探す必要がありました。そうする前に、シティタイムズを開けました。私たち3人の写真がそこにありました。どこから写真を手に入れていたのかと思いました。記事には次のように書いてありました。
b)シティタイムズ記者が書いた記事
厚生省は、そのような重大な問題を民間の団体に任せてきたという批判に責任を負うべきです。死の病の存在を認めようとせず、患者のために妥当な措置も取らないで、厚生省は、無節操な男女が人の命を弄ぶのを許してきました。その人たちが売ってきたカナーン証明書は、狂犬病にかかった犬に、うろつきながら人間を噛む許可を与えるようなものです。これまでに50以上の男女が、死の病にかかっていると不用意に告知されて自殺に追い込まれたか、カナーンの常軌を逸した看護を受けることに同意したと言われています。このホスピスは、肛門性交や麻薬の密売や最もグロテスクな形の売春も含むありとあらゆる違法行為に関わってきました。こういった行動に関わってかなりの額を手にした男女は、カナーンホスピスを出るときには自分自身も感染している可能性が高く、ハンセン病などの性感染症にエイズまでを加えて、国中に広めることになります。カナーンチームの一人ムングチ医師は、有名なリバーロード診療所の医師で、長い間率先して、社会の底辺にいる人たちに安い医療を提供してきました。その人がカナーンの詐欺行為に協力しているのは私たちを困惑させる事件で、医療界でも「狼が羊の皮を着て歩ける」と思われても仕方ありません。それらすべてをやり始めたディンシン医師は、性や麻薬や売春用のコンドームまでを売るよく知られた国際犯罪人です。相棒のワウェル・ギチンガ医師も、ケニア中央病院での不正行為でカミティ刑務所に数年もいた詐欺師です。厚生省は自らの責任に気付き、国を救う義務があります。
私はわざわざディンシン医師の過去を調べようとは思いませんでしたが、世界的に有名な犯罪者だとは知りませんでした。しかし、2つの国内紙はディンシン医師に前科があると書いていました。私はそれを敢えて疑問に思いませんでした。それから、最後の新聞を読み始めました。
c)シチズン記者ジョン・キマルが書いた記事
法律の施行緩和につけ入り、ウガンダ産の珈琲をケニア産として売ったために起きた珈琲景気がケニア経済を駄目にしてから10年になります。売春婦が死の病とは関わりがないことを証明すると称するカナーン証明書の販売で、似たような騒動が起きています。エイズ治療と称し、処罰も受けず宣伝されているカナーンコンドームは、死の病の世界を襲う極めて悪質ないかさまです。私たちみんながそういった行為を通してその疫病に感染してしまう前に、カナーンの虚偽わりに関わる犯罪者たちの責任を問うべきです。
逃げてしまおうと考えていましたが、そのような人たちにやってもいない悪事と私を結び付けさせてはいけないと思いました。私はカナーンホスピスの一職員で、記事がカナーンのせいだとしていることとは無関係でした。少なくともいわゆる葬式やコンドームの販売や性産業に関しては、医療倫理や治療についての議論を何度もやったディンシン医師と二人だけで話をして、私の名前を外してもらう必要がありました。タラに逃げ帰ろうという先程までの考えを捨てて、私は車で診療所に行きました。
新聞報道が街に出始めたあとすぐに、政府軍が動き出したに違いありません。私が11時にカナーンに着いたとき、ナイロビ市議会の指示でエイズ患者の家だった建物が取り壊されていました。ケニア中央病院のバスが一台とケニア警察署のブラックマリアを含む警察車数台が来ていました。他に救急車が二台と警察の機動隊も来ていました。引き返してタラに逃げ帰った方がいいという気もしましたが、膨れ上がって1000人以上になった野次馬に加わりたいという気もしました。カナーンの入院患者と外来患者、噂の病院がどうなるのかを見に来た大勢の人々、カナーンがなくなるのを見届けるように要請されていた政府や市議会の役人が来ていました。私は何も間違ったことはして来なかったと自分に言い聞かせました。性病学に関する最善の専門的な助言を与えて来ました。エイズの脅威については殆んど知りませんでした。私としては、専門家として出来る限りの努力をして、イライザ法の検査を行なってきました。もし誰かがその検査を病院外で行なってたくさんの人から金を巻き上げていたなら、それは私ではありませんでした。私の話を採用してくれる新聞を探す必要がありました。
イライザ法の検査器具
アイリーンが市議会の救急車に乗り込んで叫んでいるのが見えました。
「アイリーン、頼む、待ってくれ。」
「ムングチ先生、早く。」と、アイリーンは甲高い声で叫びました。私は車を停め、ロックするのも忘れて急いでその場から離れ、救急車に乗り込みました。
カナーンの患者が10人ほど救急車の中にいるのがわかって、「どこに行ってるの?」と、私は尋ねました。見ると、カナーンの患者が十人ほど救急車に乗っていました。
「朝の六時からみんな先生たちを捜しています。ディンシン先生もギチンガ先生もずっといないんです。9時頃に警察はヒュー・マクドナルド先生だけを連れて行って、それから先生のことをずーっと尋ねていますよ。」
「僕に何の用なのかな?」
「ポール・ウェケサ警部によれば、先生たちはみんなカナーンをやって新聞で報道された犯罪を犯した悪党だそうです。」
「今この人たちをどうしようとしてるの?」
「市議会がカナーンを取り壊するつもりなので、患者をすべてケニア中央病院に避難させているんです。カナーンが使っていた建物には何年も前に裁判所から出て行くようにと命令が出ていたたらしいんです。」
「それで、家具や設備や病院の記録は?」と、私は信じられない思いで聞きました。
「死体安置所だけは許可を取っていましたが、他はみんな違法で、没収でしょうね。」
「今朝の新聞見たの?」
「ええ、読みました。」
「記者の一人はジョン・キマルだよ。」
「ええ、そうですね、私も忘れてました。あの人は破産して6年前にキタレを出て行きました。珈琲の貿易で稼いだ財産をすっかり失ない、噂では、カルラの蔵で無認可の酒を作っていたそうです。その人かも知れませんね。」
「シチズン紙の本社に行ってその男を探し出して、手助けしてもらえるかも知れないので、今すぐ僕が会いたがっていると伝えてくれないか。その間に、僕はポール・ウェサカの所に行くよ。何も間違ったことはして来なかったと信じているから。」
「分かっていますよ。先生はとてもいい人ですから。」
と、アイリーンは言って、長年2人が共有してきた私の心を和ませてくれる合図を送ってくれました。
「君もだよ。でも、もうお互いにいい人同士でいるのをそろそろやめる潮時だね。」と、私は半ば本気で言いました。何か私がいいことをすると、決まって誰かがあら捜しをするかのようでした。私がディンシン医師とギチンガ医師に反対し続けてきたこと、つまり患者を食いものにすること(たとえその人たちが金持ちであっても)と私を、世間の人は結びつけようとしていました。
私はまっすぐ自分の部屋に行きました。部屋では、市議会の監察官が指示を出して備品を運び出していました。
「どうも。医師のジョゼフ・ムングチです。」と、私は挨拶しました。まるで私が恐ろしい殺人犯ですと名乗ったかのようでした。戸棚を抱えていた2人の男性は戸棚を落としてしまい、口をと開けたまま、マネキン人形のように私を見たまま立っていました。
「何だって?」と、監視員は驚いて言葉を絞り出し、目を白黒させながら、ジョゼフ・ムングチという名を聞いて受けた衝撃を耳から振り払うかのように首を動かしました。
「中央警察のポール・ウェケサ警部はどこですか?」と、私は尋ねました。
「警部が私を逮捕したいのは分かります。」
私の部屋にいた人たちは私の言葉にますます混乱して、返事もしないで次々と部屋を出て行きました。
「どうか行かないで下さい。私はあなた方が話している気の狂った医者ではありませんよ。」と、私は必死に訴えました。私を信じていなかったようで、その人たちが部屋を出て行ったあと、ジョゼフ・ムングチ医師が現われたという噂があっという間にカナーン中に広がりました。たくさんの人が私の部屋に押し寄せ、興奮して話をしているのが窓から見えました。エイズ患者の家を取り壊していた人の中にも、新たに私の部屋の周りの人垣に加わった人もいました。その人たちは手に鉈や斧を握り締めていて、3人はバールを持っていました。
「あいつといっしょにビルを叩き潰せ。」と、一人の男が言いました。
「いや、石油を持ってこよう。」と、別の男が提案しました。
「警察に引き渡そう。」と、3人目の男が反対して言いました。
「警察は生死を問わないと言ったじゃないか。」と、また別の男が叫んだとき、私はもうこれ以上は憎まれるのは嫌だと思いました。
「みなさん、お願いです、どうか落ちついて下さい。私を火あぶりにしたければそうして下さい。しかし、せめて私の話を聞くまでは待って下さい。」
「あんな奴、殺ししてしまえよ。」と、人相の悪い大柄な男が叫びました。
「だめよ、あの人の言うことも聞きましょう。」と、1人の女性が金切り声で言いました。その時、たくさんの人の中にポール・ウェケサの見慣れた顔が見えました。カナーンの長い話では、感情より正義が優先されると信じていましたから、私は天に感謝の祈りを捧げました。
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ウェケサ警部は私を中央警察署に連れて行き、そこで今は犯罪捜査係には属していないと私に説明しました。カナーン病院問題の真相を探り、大勢の人たちを陥れたすべての人の責任を問うが、決して無実の人を苦しめないようにと警視総監自身が指揮を執りました。私は長い時間をかけて、カナーンについて知っていることはすべて警部に話をしました。ある治療については時間をかけて議論をしたり反対したこと、私の知っている患者の自殺と死亡、葬式については殆んど知らないこと、カナーンコンドームや証明書のこと、私たちそれぞれに責任があることなど、覚えていることはすべて話をしました。ウェケサ警部は非常に聡明で、かなり融和的な角度から、その人の言葉によれば、善意で始められたが賄賂によって公正なままではいられなかった場所とカナーンを見なしていました。
「ムングチ先生、今までよく清廉潔白のままで来られたと驚いています。」と、警部は言って私の手を握り、可能な限り力になると約束してくれました。
カナーンを解体して警察署の倉庫に備品や家具や記録を保管するのに一週間かかり、ケニア中央病院に連れて行かれるのを拒んだ35人の患者はナイロビの三つの民間病院に振り分けられました。特別病棟や生活条件を整える必要があるために、三つの病院はエイズ患者の受け容れになお消極的でした。
アイリーンと他の看護師は「群れを集めるために」(病院長の1人がそう言ったように)、三つ病院の間で振り分けられました。私について言えば、疲れ過ぎて何も出来ず、荷物をまとめて、タラ警察署を通して連絡を取るようにアイリーンとウェケサ警部に頼んだだけでした。
金曜日の夕方の五時頃に、ディンシン医師から貰い受けたマツダでタラに向かいましたが、家に帰る放蕩息子のような感じでした。
ナイロビ市街
執筆年
2011年4月10日
収録・公開
→モンド通信(MomMonde) No. 33
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→『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(28)第29章 カナーン証明書