『ナイスピープル』―エイズ患者が出始た頃のケめニアの物語(29)第30章 タラで過ごした1週間

2020年3月6日2010年~の執筆物ケニア,医療

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の29回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(29)

   第30章 タラで過ごした1週間

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳

    (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第30章 タラで過ごした1週間

金曜日の夕方6時に車でタラに着き、私はまっすぐに家に向かいました。ちょうど農場から戻ってきた母親は、マツダ625に乗った私を見てとても喜びましたが、父親の調子が悪くタラ総合病院に入院していると言いました。病院とはまだ関わりたくなかったので、その晩父親に会いに行くのはやめました。しかし、私が帰って来たときに焼いて食べようと父親が育てていた山羊を絞めると言って弟が譲りませんでした。家族が皮を剥ぐのをながめながら、放蕩息子が父親に大事に育てられた子山羊を締めてもらっているような気分でした。今でも3人の弟は家の敷地内に住み、4人の妹は家に関わりがあり、2人はまだ母親と暮らし、あとの2人も結婚して家から1キロも離れていない所に住んでいました。家族も一緒に来て山羊を食べるようにと誰かが電話をしてくれたのでしょう、9時に食事を始め、夜中過ぎまで食べていました。昔ながらの習慣で、先ずは肝と腸から食べ始め、そのあと前脚を食べました。肝と腸は家族全員に行き渡るようにしないといけませんでした。その後、肋のおいしい肉と後ろ脚、最後は4つの胃袋で終わりでした。

後ろ脚の1本は後でスープになる頭と蹄といっしょに母親に渡されました。1時頃に1人、2人と帰り始め、最後には私1人になって、あとは何年も使っていないベッドで寝るだけでした。

ぐっすりと寝て次の日の土曜日に目が覚めたとき、太陽が昇っていて、いつも通りに農場での畑仕事に出かけて誰もいませんでした。台所に行くと、母親が洗面用に湯を温めていてくれ、火には、紅茶の入った薬罐がかけてありました。顔を洗い、紅茶を飲んでから、新聞を買って地元の噂話を聞こうと車でタラの街に行きました。タラでは原則として新聞が午前中に届きませんから、正午まで1時間もありました。歩いて市場に行って、食料の供給が不足するこの時期にどんなものを売っているかを確めることにしました。大抵の店には、高値で売られる少量の粉を計るカップが置いてありました。タラでは、市場の値段は変わっていないようでした。11月と12月が食べものの値段が高い時期だと子供ながらに知りましたが、何も変わっていないようでした。玉蜀黍の粉が2キログラムで10シリング、もろこし粉が15シリング、稗の粉が20シリングだと言われました。何キロも離れたカカメガから来たものか、タラ辺りの農家から来たものでした。

「キロンゾの子供、医者のジョゼフを覚えてる?」と、1人の女性が言いました。
「覚えてるよ、タラ高校に行った人でしょ?」と、別の女性が言いました。
「今、街にいるよ、大きな車でね。」
「まあ、まだ結婚してないわよ。」
「そう、奥さんはまだもらってないわ。」
「あの子、どうしたのかしらね。」
「あんたの娘をやって探ってみたら?」
「娘だって?私、あの子とだいたい同じ年よ。」
「きっと主婦には手を出さないわね。」

主婦には手を出さないと言うのを聞いて、私は笑いそうになりましたが、もうそれ以上は聞いていられませんでした。ばつの悪い思いをするか、結婚しないでいる理由を2人にあれこれ言われる前に逃げ帰りました。その日の日刊紙ヤードスティックとシティタイムズとシチズンのすべてを買って車で家に戻ると、母親が昼食にムソコイを作っていました。カナーンのニュースがトップ記事で、ジョン・キマルが私についての好意的な記事を書いて、カナーンでの残酷な行為に私が関わっていなかったと弁護してくれていました。ジョン・キマルが記事の中で書いていましたが、「カナーンの背後に潜む悪魔ディンシン医師」は、すでに国外に逃亡していました。しかし、今回の事件では予想外の出来事もありました。恐らく、近くの国に逃げようとしていたときに、ブシアの近くで乗っていたフォルクスワーゲンが正面衝突をして、ギチンガ医師が死んでいました。

みんなでお昼に、昨晩絞めた山羊の後の太股と頭と4本の脚を食べました。スープもついていて、弟2人はとても美味しそうに食べていました。食べ終わったあと、私は母と弟2人と1番下の妹を車に乗せて病院の父親の所に見舞いに行きました。父親は相当に弱っているようでしたが、診断ではマラリアの発病で、治療の効果は出ているとのことでした。タラで受けられる最高の治療を受けているのが分かっていましたから、同じ医者として、その人たちがやっていることに敢えて口を挟みませんでした。今の私には後ろ盾となる病院もありませんし、もっといい治療法を申し出る訳にもいきませんでした。カナーンは肥りすぎて崩れ落ちていましたから。

人生で最高の1週間でした。母親が子供の時のように細々と気を遣ってくれ、弟や妹たちが交代でいっしょに親戚の家に行って慰めてくれて、カナーンでずっと感じていた不安な気持ちがすっかり和らぎました。その時私は、医者をやるのは心も体もすり減るものだとつくづく思いました。タラに帰って来た日、手も足も首も背中もずきずきしていましたから。1日に20キロ歩く日もありましたが、痛みは和らいでいました。

どうしてみんなが平和で治安の心配もない田舎を離れて、騒音、忙しさ、小競り合い、犯罪、孤独、無関心、詐欺、物価高、喫煙、治安の悪さ、全般的な秩序の乱れなどで混乱を極めるナイロビに出かけてゆくのだろうと私は疑問に思い始めました。取り上げたくて仕方がないのに、明らかに誰もが話すのを嫌がっていた話題が死の病でした。しっかりとキャンペーンが行なわれていたようでしたが、私の家族や親戚は、自分たちには影響はないと考えているようでした。

「それはナイロビやモンバサやキスムでの話で、タラじゃ関係ないよ。」と、弟が激しい口調で言いました。

私は敢えて弟に反対はしませんでしたが、弟はカナーンでの仕事の新聞記事を読んでいたようでした。
「ところで、兄さんはその人たちと働いていたと聞いたけど。」と、弟は言いました。
「そうだよ。その人たちが入院している病院にいたね。」
「どうだった?」と、弟が尋ねました。
「そうだな、治療法がないと考えてすごく落ち込む人がいる以外は他の患者と同じだよ。」と、私は出来るだけ丁寧に答えました。そのあと、私たちが見た自殺についての話はしましたが、ディンシン医師が高い治療費を取って病院が患者から搾り取っていた話題は避けました。しかし、弟はそのことについてもすでに聞いていたようでした。

「兄さんが患者を殺していたってみんなが言っているよ。」と、弟はずばっと聞いてきました。
「それはない、誰も殺してはいないよ。ただ、手の施しようがない患者がいて、医者がその苦しみを終わらせた場合が何回かはあったけど。」安楽死の概念は説明するには難し過ぎて、私は話を切り出せませんでした。
「あの女の人たちについてはどうなの?各紙が大々的に報じて、記事でも書いていた『最後の一口』を求めるおかしな年寄り用に金で連れて来られた売春婦についてだよ。」と、弟が続けました。責任逃れをしていると思われないで、どうすればこの問題をうまく説明出来るのか、私には確信が持てませんでした。

「そうだな、売春婦は、値段が合えば色んな相手に自分の体を売って来ているね。ディンシン医師はそこに目をつけて売春婦を釣る餌に使ったんだと思う。自分が死にかけていて、奥さんや恋人や売春婦とも交わりを禁じられているのを自覚しているから、患者の中には、セックスにいくらでも金を払う人もいたんだな。」
売春とは縁がなく、セックスに金を払う必要のないタラで育った弟がこの話を理解するのは難しいだろうと思いました。しかし弟は、田舎には合わない大都会に特有な経済の秩序があると納得したようでした。

ポール・ウェケサは水曜日の午後に私を訪ねてきました。地元の警察で私の居場所を確めてきたに違いありません。いつも夕方の五時半になったら急いで出かけるタラの居酒屋で飲んでいるところに警部が顔を出したからです。正直で親しみやすい人柄のせいだけでなく、カナーンの最新情報を知っているのが分かっていましたから、警部を見て私は嬉しく思いました。私が警部の好きなタスカーエキスポートを注文すると、警部は渋い表情を見せました。それで警部がまだ仕事中だとわかりました。タラはナイロビとは違うので、町から離れて酒を飲みながら話をしましょうと誘いました。ビールを飲みローストビーフを食べながら、ほぼ一週間前に中央警察署で別れてから互いの身辺に起こったことを報告し合いました。私はナイロビにはしばらくは戻らないと警部に伝えました。私は特に何もしないで、母親の料理を食べて満足していました。唯一の心配は使用人で、私がたらふく食べているあいだ、その使用人が飢えていたかも知れなということでした。

ウェケサ警部はナイロビに戻ったらすぐに使用人の様子を見て来ると約束してくれました。カナーンの捜査は完全に終わり、ヒュー・マクドナルド医師は釈放されました。カナーン事件の本当の容疑者はディンシン医師とギチンガ医師でした。カナーンで働いていた看護師11名を取り調べて、ウェケサ警部が立証しました。政府はディンシン医師が逃亡したと言われている英国での捜索の継続を検討していました。私については、ケニア中央病院に戻って欲しいと言う要望が出ていると警部は言いました。現在ケニア中央病院では、すべての医者に、たとえ非常勤でも、医療活動を行なうように求めていました。

「政府のために僕を探しに来たということですか?」と、私は尋ねました。
「いや、そうじゃないですよ。私はナイロビで起こっていることを知らせているだけです。あなたが逮捕を望むなら、地方の警察が逮捕しますよ。」と、ウェケサが言いました。

エイズがもたらした脅威のために、国立病院で医療従事者が不足していましたが、エイズ患者を治療しても危なくはないと政府が認めたので、政府は医者に仕事に戻るように求めていると聞きました。今は1ヶ月の休暇をもらっていますが、休暇が終わったらすぐに戻って国のために働くつもりですと、ウェケサに説明しました。使用人に会って私の無事を知らせると約束して、夜十時ごろに警部はタラを後にしました。

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タラに来てから1週間後の金曜日に、ドクターGGとアイリーンが訪ねて来てくれました。ドクターGGは前に会った時よりも老けたようで、皺も増え、弱々しく見えました。アイリーンはクリーム色のワンピースに青のスカーフと、スカーフにぴったりの踵の低い青い靴を身につけてきれいに見えました。私は母親に長年一緒に働いて来た人だとドクターGGを紹介し、リバーロード診療所とケニア中央病院、最近ではカナーンでも一緒に働いた非常に特別な友人だとアイリーンを紹介しました。母親は2人と握手をしました。母親がアイリーンと握手したとき、目が特別に輝いているのが分かりましたが、それは母親が賛成するか、認めるかした人や出来事やニュースにだけ見せる目の輝きでした。

「こんなきれいな娘さんをどうして今までタラに連れて来なかったんだい?」と、母親は言いました。
「最後までこの娘をとっておいたんだよ。」と、私は冗談を言い、以前ユーニス・マインバを家に連れて来た時、二人はうまくやっているように見えても、母親は決して認めていなかったのを思い出しました。

「タラの血が流れているんだね、きっと。」と、母親が続けました。私に結婚して欲しいと望むタラの娘として、母親がアイリーンを認めていると私にはわかっていました。その話題はそこで打ち切って、ドクターGGを私の小屋に連れて行きました。何か言いたいこと、それも私にだけ聞いてもらいたいことがあると私は感じていました。

長年様々な知らせを聞いて来ましたが、ドクターGGが持って来た知らせはどの知らせよりもこたえました。私の小屋の茅葺きの屋根を見上げ、涙が零れ落ちないように下を向きませんでした。ムンビは兄の1人に手紙を書いて、フィンランドでの事情を説明し、戻りたいと言って来ていました。家族はムンビから、私に伝えて欲しいと頼まれていたようですが、カナーンの危機が山場をむかえていましたので、重荷に思わないようにと私には連絡しないと決めたそうです。しかし、カナーンが壊された日に、ムンビの夫ブラックマン船長から、ムンビが謎の病で死んだので父親が望むなら、親族2人が遺体を引き取りにヘルシンキまで来てもらってもいいという電報が届きました。飛行機の切符を同封し、すべての費用は船長の家族が出すと書いてありました。ドクターGGは途方に暮れましたが、臨床検査の標本を届けたナイロビ病院でアイリーンと出会い、私が休暇を取ってタラに帰ったと聞きました。アイリーンがナイロビ病院のエイズ患者から逃れたいと言ったので、ドクターGGはシゴナ診療所にアイリーンを誘いましが、その前に2人には私を探し出す必要がありました。

私は友人といっしょにナイロビに戻らないといけなくなったと母親に伝えました。近いうちに私がまたアイリーンを連れて来るという約束で、母親は行くのを認めてくれました。昼食のあとタラを発って、車で1週間留守にしたアパートに戻りました。ソファの上でムヤが昼寝をしていましたが、ムヤを起こし、ンデル行きの暖かい格好に着替える間、紅茶を用意してくれるように頼みました。ムヤは外国の切手の貼られた航空便を差し出しました。ジュネーブに知り合いは居ませんでしたが、切手にジュネーブの名前が見えました。しかし、ムンビが書いたかも知れないと思って、手紙を開けました。ムンビからではありませんでした。差出人は、ジュネーブの世界保健機構本部となっていました。

親愛なるムングチ先生

世界保健機構は、貴国であなたが性感染症の分野でやって来られた仕事を興味深く拝見してきました。WHOはエイズの脅威と国際的に戦っていますが、あなたに興味を持っていただきたく、ジュネーブの本部にお招きしてお話をお伺いしたいと思います。

今や世界で15万人近くになると推定されるエイズ患者は、富裕層は殆んど危険性がないという既に広がっている危険な思い込みの影響もあって、今年は二倍に増えるでしょう。往き帰りのすべての費用はWHOでお支払いします。ご承諾のご返事を頂けましたら、早速航空券をお送り致します。   敬具

医師 ジョナサン・マン
世界保健機構 事務局長

ジョナサン・マン

私はアイリーンをアパートで降ろした後、ドクターGGをンデルの自宅に送り届けました。ムンビが死んだという知らせは私にはあまりにも重く、その夜、WHOの申し出を素直には喜べませんでした。しかし、リバーロード診療所で患者を診て来た私の仕事がやっと認められようとしているのは嬉しい限りでした。

執筆年

  2011年5月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 34

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(29)