英語 Ra1(2)

<授業評価アンケートよろしく>

少し言いましたが、携帯かパソコンかで各自やっておいて下さい。よろしく頼みます。

<授業一覧に、今回の分も含めてぜんぶの授業を貼り付けました。一覧出来ます>→「2019年前期 R1a (2) 授業一覧」

15回目、最後の授業でした。

みんなの授業についてのコメントを聞き、単一作物を作らされる現状(ガーナのカカオとタンザニアのサイザル麻)を訴える二人の映像と、バズル・デヴィドスンの「アフリカ・シリーズ」の締めくくりの映像を観てもらい、最後に1985年にロンドン郊外のウェンブリースタジアムで7万人の観衆を集めて行われたライブエイドのポールマッカートニー(ビートルズの一人)のLet It BeとフィナーレのDo They Know its Christmas?を観て聴いてもらいました。

新植民地政策の絡繰りを見てもらって初めて、医者のーターがコンゴに行ったERの世界に繋がったわけです。アフリカ人同士が殺し合いをして、武器を送りアフリカの資源を食い物にするヨーロッパやアメリカや日本が潤うという構図です。あのERの続きでは、ルーカが殺されたという知らせを受けたカーターが、死体を引き取りにもう一度コンゴに出向いた時の話が描かれています。

最後に来てくれたのは20人。ちょっと寂しかったねえ。来てもらえないくらいの授業しか出来んかったんかもなあ。

また、後期に。

<後期は>

大半の人と顔を合せられるので、前期の延長でやろうと思っています。

教養的なものについてはアフリカ系アメリカ人の話(所謂ブラック・ミュージックを中心に)、トーイックに関してはTest 1の続きと『金のフレーズ』のグループワークをと考えてるけど、始まってからみんなの意見も聞いて修正するかも知れんなあ。

トーイックに限らず、進路などに関しても、僕に出来ることはするつもりです。いつでもメールで連絡をもらえれば、研究室に行くんで、遠慮なくどうぞ。そのために、退職後もいるんやし。

また、後期に。

成績に関しては、課題、提出物3つ=5割、トーイック試験=5割、シラバスに書き、授業でも言ったように成績をつけて、再来週29日の週に登録しておきます。(たぶん、その頃には学生支援課の準備も出来てるやろから。)

 

英語 Ra1(2)

2回目の黒木くんのアンケート、協力をありがと。教室をL111やと思ってたそうで、一つ一つ教室を確かめて来たようです。基礎教育支援室には教室の変更を届けて、そこの時間割表の教室名は書きかえてくれてはるけどね。

卒論、黒木くんの思っているように書けるとええね。

<今回>は14回目、今回はトーイックのリスニングの過去問Part 2の16から10題だけ。

原田くんはすでにやってたようで。一人でも自分でやってくれてる人がいると大変やったけど、準備した甲斐があるなあと嬉しくなるね。やってた人には申し訳なかったなあ。

派生して、答えの理由や、他の表現や発音の解説など、いろいろやったつもり。結構喉が痛くなってたもんね。

あのあと2年生のビジネス英語があったんやけど、トーイックを継続してやってる人は一握り、去年の今頃は平均400点くらいあったのが、今日計算してみると360点、すっかりやめてしまってる人が大半、みたいやね。

学部としてはトーイックを必須にして評価も半分と、大学設置審には出したみたいやけど、実際は学生はそんなにやらないし、一期生の内定を見ても、あんまりトーイックが影響してないみたいで、考える時期かも。

もちろん、授業でも何回も言ったように、英語が使えて実際に悪いことはないし、英語が使えればトーイックのスコアものびるから、トーイックを続けてもそれなりに利点もあるとは思うけどね。

7月29日が最後の授業です。未提出の人は来週には提出を、課題の再提出などがあれば、それまでに。

<次回は>

一人一人の授業の感想を聞くつもりです。後期もあるんで、僕もみんなも楽しくやれるにこしたことはないんで、参考にさせてもらって、出来ることはやろうと思っています。

何とか梅雨も終わりやろか。今年は雨も多かったし、酷かったね。ダウンが黴だらけになってる、と奥さんがこぼしてたな。30年以上いるけど、部屋や衣類が黴びたのは2回目。それくらいの雨量やったんやろな。もっと早うにエアコンを入れてたら、湿気対策にもなってたのにね。暑さ寒さに敏感な猫3匹といっしょやから、エアコンを入れるのも気を遣いすぎて。

危うく大災害が起こるとこやったけど、あれくらいで終わってよかったなあ。これから台風が来て、思わぬ被害が出る可能性もあるけど。何とか被害が出ないように祈ります。

課題や提出物のチェックとトーイックの点数の転記と換算の割合(そのままつけると、たぶん再試や不可の人がだいぶでそうやから)も決めたんで、週末に読んで一気に成績をつけようと思っています。

その前にまた、水曜日から土曜日まで吉祥寺。行けばそれなりにすることもあって。

また、来週に。

英語 Ra1(2)

水曜日でしたが、月曜日の振替授業で12回目、残り2回です。↓

14回目→7月22日(月):黒木くんの2回目のアンケート

15回目→7月29日:それまでに成績をつけて、授業が終わったあと登録するつもりです。課題の再提出などがあれば、それまでに。

<今回は>

最初の頃に配ったザイールを含むアフリカ大陸を横断する道路を中心にした熱帯地域の地図と伊藤さんが読んでくれた新聞記事を見ながら、プリントの中の英文の紹介などをして1995年のエボラ出血熱騒動のあとの流れ(ザイール崩壊、カビラ政権誕生)をみてから、独立・コンゴ危機の映像を見てもらいました。

 

1995年の2回目のアウトブレイクの翌年にカビラが蜂起してキンシャサに入り、モブツはモロッコに逃げてザイールは崩壊、カビラの暫定政権が誕生しました。そのとき、新聞記事の最後↓にあるように、案の定、アメリカはアメリカ式の民主主義を押しつけて、早く選挙しろとカビラをせき立てましたが、その時、真っ向からその意見に異を唱えた人が二人いました。↓

「The United States, which propped up Mobutu during the Cold War as a bulwark against communism in Africa, has been at the forefront of pressure for democracy in Zaire.

アメリカは、冷戦の間アフリカで共産主義に抗する防波堤としてモブツを支援してきましたが、今は最前線に立って、ザイールでの民主主義を求めて圧力をかけています。」

一人は、元タンザニア大統領ニエレレで「道徳的にそんなことが言える資格があるんか、西洋諸国は少しは恥を知る方がいい」とロサンジェルス・タイムズに書きました。そして、道路を整備し8つ隣接する国との行き来をスムーズにして、南アフリカとも繋いでコンゴを中心にした一大ネットワークを作れば、充分にアフリカを再生出来ると言っています。

もう一人は、元タイムズ記者で後に歴史家になってたくさんの本を書いたバズル・デヴィドスンで、ザイールの荒廃の今こそが西洋諸国に介入されずに自分たち自身で国のことをやれる初めてで、最大のチャンスだと言い切りました。ちょっと難しいけど、是非読んでもらいたいなあ。

英文はどっちもイギリス風な英語で難しいけど、折角の機会、読んでみてや。

そのあと、レオポルド2世のコンゴ自由国:植民地時代→植民地争奪戦・ベルリン会議と植民地分割あたりまでをバズル・デヴィドスン↑が作った映像「アフリカシリーズ」で観てもらいました。なかなか貴重な映像やと思います。

最初からずっと言ってるように、今まであまり触れなかった題材を使って、自分について考える機会になったやろかな。

他の学年の時もそうやったと思うけど、折角自分の史観や意識を確かめるいい機会やのに、反応がいま一つやった気がするなあ。来てない人も多かったし。自分が授業料払って授業を受けてるんやから、もったいない気もするなあ。

30分ほど、トーイックの過去問。一つ一つ解説してると時間かかるねえ。でも授業で力がつくと思うのは錯覚、最後は自分でやるしかないもんなあ。

<次回は>

トーイックの過去問の続き、Part 2(リスニング)の残りとPart 6(リーディング)。

また、来週に。

英語 Ra1(2)

2019年前期の地域誓願創成学部1年生の英語Ra1 (2)  のぜんぶの授業をこのページにまとめます。

<1回目> 4月日

<連絡事項>

次回からは301教室で。カードリーダーの協力もよろしく。詳しくは次回説明するね。本当はL111の広い階段教室が使えるとええんやけど、工学部が使ってるみたいで、セカンドベストで301です。

<今回は>

1回目でした。楽しくやれそうか?

ごちゃごちゃしゃべったけど、3つほど伝えたかんたんやと思います。

①入学は最終目標やないんで、モードを変えんとあかん、そのための機会になれば嬉しいです。金持ちの都合のいいように作られた社会、その中で、自分について、将来について考える時間もそう多くなかった人も多いやろから、出来るだけ、意識下に働きかけて、今までの価値観や史観を見直すきっかけになればと思います。なんで英語の時間にアフリカやねん、という反応が多いけど、英語は教養の枠組みやし、意図的に避けられて来た分野の話は、値観や史観を見直すきっかけにはいい材料なんで。

②英語も言葉の一つで、言葉が使わんと、使えんと意味がないんで、英語をする、やなくて、英語で何かをする、に切り替えんとあかんと思う。出来るだけ、実際に使われているものを使い、インプットしたものを実際にアウトプットしながら、道具として使えるようにする、それが大事やと思います。

③原爆を使われて無条件降伏してアメリカを押しつけられた一環で英語も押しつけられ、否応なしに中高で英語はかなりの時間を費やす必須、工学部でもトーイックが要ると言う人も多くいます。就職にもトーイックのスコアが高い方が有利であれば、やっておくに越したことはないと思います。
授業でも言ったし、トーイックについてのプリントにも書いたけど、英語が使えるようになればスコアも取れる、でも時間の制約もあるからスコアだけ上げるなら、ある程度の時間で可能やと思う。授業でやったから出来るようになるということはないけど、やり方を参考にしたり、やってみようという気になったりする手助けにはなると思う。要は自分がするかどうか。
スコアに関しては、過去問を繰り返しやる、それで800までは行けるから。授業でも少しやってこ。

Soweto Gospel ChoirのAmazing Graceはどうやった?プリントでも紹介したように、服部くんが「とりあえず見てくれ、聞いてくれ」というだけはあるやろ。南アフリカのプリントの一枚目の「南アフリカの最近の音楽とDVD、CDについてのコメント」は服部くんに書いてもらった分です。

伝統的なAmazing Grace、ニュー人ランドの歌姫と言われるヘイリーの音声ファイルを参考ファイル(ファイル置き場)に置いときます。14歳かで「白い巨塔」のテーマソングを歌って日本でも有名になったそうです。

必要になると思うのでこのクラスの連絡網を作って連絡してもらいたいと思ってるんやけど、誰かやってくれへんやろか。次回聞くんでやってくれる人は言ってや。

英語での発表も毎回5~6人やってもらうつもりやけど、再来週やれそうな人は、次回聞くんで、よろしくね。

配ったプリント:

*僕の自己紹介

*(みんなの)自己紹介の用紙

*2019年度前期~(授業、課題と評価、課題、エセイ、課題図書、トーイックについて)

*申し込み用紙

*The Struggle for South Africa

*南アフリカの最近の音楽と~(DVDとCD、闘いが生んだ美しい歌、コシシケレリアフリカ楽譜、遠い夜明け、ユッスー・ウッヅ・ワシントン、遠い夜明け続き、映画優待券、A chronology of South Africa、南アフリカについての用語解説)

*TOEICテストについて

*『~金のフレーズ~』①~⑤

取り敢えず①の音声ファイルなどを入れたフォールダーを参考ファイルに置いておきますので、ダウンロードして使ってや。仕方などの解説は次回詳しくやるけど、試してみてや。

<次回は>

何人かのコメント、課題の説明、次々回に発表する人を決める、南アフリカの歴史背景を英語で少々(今日配った南アフリカに関するプリントの最後の一枚にある A Chronology of South Africaと南アフリカについての用語解説をみておく方がわかりやすいと思います)、それから「遠い夜明け」を時間の許す限り観る、やろかな。

では、来週また。

今はきんぽうげがあちらこちらに。そろそろ薊もあざやかになる頃やねえ。見上げると山藤。都会から来た人には、色あざやかやに映るやろなあ。木花キャンパスから望める加江田渓谷の借景も、すてきやもんなあ。木花の研究室からも見えるで。下に学生が通ってて、木花渓谷が見渡せる、窓から見える景色も、ええなあ。

 

<2回目> 4月22日

<連絡事項>

次回は連休明けの5月7日(火)。月曜日の振替授業日です。

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授業、2回目でした。

<今回>は

教育学部の黒木くんのアンケートをしてもらいながら自己紹介の用紙を集め、課題について解説し、それから「グレースランド」の冒頭のTownship Jiveの紹介の前に、ポール・サイモンが好きだったエルビス・プレスリーの紹介の映像を紹介。最後にコメント(青木くん、足達くん、荒田さん、安藤くん、家城くん、伊藤さん)で時間切れ。

配ったプリント:「グレースランド」の解説。

『~金のフレーズ~』①~⑤についての解説と、連絡網については次回に。課題図書やプリントの必要な人はいつでもどうぞ。メールでも構へんで。家が近くなんで、時間を合わせればいつでも届けられるで。連休中でも大丈夫。

<次回は>

「遠い夜明け」、コシシケレリの紹介、何人かのコメント、次回の発表者を決める、で時間切れかな。

連休明けに、また。

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エルビス・プレスリーの生家グレースランドのあるテネシー州のメンフィスの街で大柄なアフリカ系アメリカ人から話しかけられて、Give me a favorがわからなくて、ペーパー?と聞き返した話をしたけど、ちょうどその話を書いたとこなんで、リンクしときます。→「アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ」(2019年4月20日)

1986年夏の夕方のメンフィスの通り

<3回目> 5月7日

<連絡事項>

課題図書やプリント、本の注文などはメールでも気軽に。家も近いし、資料も添えていつでも渡せると思うよ。課題提出の締め切りは先とは言え、すぐに時間も過ぎるしねえ。

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3回目の授業でした。

<今回>は

「遠い夜明け」をみてもらったあとテキストの発表を決めました。本文に目を通しておくとわかりやすいと思います。今回の発表は課題の一つ「英語で発表」に代えてもらっていいです。

テキストの内容が理解出来たら、それをわかりやすく要約して、少し自分でも調べて画像や地図などをはったファイルを作って発表するといいやろな。自分でパソコンを持って来てやるか、参考ファイルに作ったファイルをアップロードして授業前にダウンロード、それを僕のパソコンを使って、かどっちかで。USBは、非常勤で行ってた公立大と、看護学科でウィルスをばらまいたことがあったんでそれ以来使わないようにしてるんで。自分のパソコンか僕のパソコンで頼みます。

テキストのThe struggle for Africaの

THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERSとThe UNION OF SOUTH AFRICA ANS RESERVESを河野舞香さん。

THE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEIDを荒田芽依さん。

Mass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLEを河野多恵さん。

二人の河野さん、荒田さん、よろしくね。半分をトーイックに使うので全部やれないかも知れないけど、準備はしといてや。

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「遠い夜明け」(Cry Freedom)はどうやった?解説しときます。感想文は次回出してや。

「遠い夜明け」に関して配ってるプリントは「遠い夜明け」の1988年の新聞広告(表裏)と、主演のデンデル・ワシントンと原作者のドナルド・ウッズと、「ネルソン・マンデラ」を歌ったユッスー・ンドゥール(表)と試写会の割引券。主演のデンデル・ワシントン↓

この映画を作ったのは監督のリチャード・アッテンボロー。「ガンジー」や「コーラスライン」で超有名な監督です。冒頭に典型的な場面を持って来るのが好きなようで「ガンジー」では暗殺の場面、今回の場合は、スラムの強制立ち退きの話を南アフリカの典型的な場面として衝撃的に持って来ていました。すごかったやろ。英文テキストの中にも以下の文を紹介しています。日本語訳も貼っておきます。

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The bantustan policy meant that Africans were to be prevented from living permanently in the white areas. Ruthless, forced evictions took place to force ‘surplus labour’ to move from the towns to the bantustans. Crossroads outside Cape Town is only one example of this policy.

バンツースタン政策は、アフリカ人を白人地区で永住させないという意味のものでした。冷酷で、強制的な立ち退きが、「余剰労働力」を町からバンツースタンに強制的に移動させるために強行されました。ケープタウン郊外のクロスローヅはこの政策の一例です。

REFERENCE 3 参照3

We can hear the news of Radio South Africa about the 1978 Crossroads eviction in the following scene of Cry Freedom.
Newscaster: “This is the English language service of Radio South Africa. Here is the news read by Magness Rendle. Police raided Crossroads, an illegal township near Cape Town early this morning after warning this quarter to evacuate this area in the interests of public health. A number of people were found without work permits and many are being sent back to their respective homelands. There was no resistance to the raid and many of the illegals voluntarily presented themselves to the police. The Springbok ended . . .”

米国映画「遠い夜明け」の以下の場面で、1978年のクロスローヅの立ち退きについての南アフリカのラジオニュースが出てきます。
ニュースキャスター:「こちらは南アフリカラジオの英語放送です。
マグネス・レンドルがニュースをお伝えします。公衆衛生の見地から、その地域を空け渡すように勧告を出したあと、今朝早く警察は、ケープタウン郊外の不法居住地区クロスローヅの手入れを敢行しました。多くの人が労働許可証を持たず、それぞれのリザーブに送り返されています。手入れに対して全く抵抗の気配もなく、不法滞在者は自発的に警察署に出頭していました。放送を終わります・・・。」

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人種隔離政策の下で情報操作を強いられている白人にはそういうニュースしか流れないわけです。小さい頃から白人社会で育ったら、それが当たり前、というわけです。

ウッズとビコの出会いのシーンは、いつも美しいなあと思います。あの通りはハラレに行った時に、たぶん近くを通ったような気がします。transcribeしたのを貼っておきます。

Cry Freedom_The first meeting

Woods: Steve Biko? Are you Steve Biko?
Biko: l am. l would have met you in the church, but, as you know, l can only be with one person at a time. lf a (third) person comes into the room, even to bring coffee, that (breaks) the (ban)… And the (system) – the police – are just across the road. But, of course, you would (approve) of my (banning).
Woods: No. l think your (ideas) are (dangerous), but, no, l don’t (approve) of (banning).
Biko: A true (liberal).
Woods: lt’s not a title l’m (ashamed) of, though l know you (regard) it with some (contempt).
Biko: l just think that a white (liberal) who (clings) to all the (advantages) of his white world – jobs, housing, education, (Mercedes) – is perhaps not the person best (qualified) to tell blacks how they should (react) to (apartheid).
Woods: l wonder what sort of (liberal) you would make, Mr. Biko, if you were the one who had the job, the house, and the (Mercedes), and the whites lived in (townships).
Biko: lt’s a (charming) idea. lt was good of you to come, Mr. Woods. l wanted to meet you for a long time.

Mercedesはマーサディーズと発音、意味はメルセデス・ベンツ。ドイツ車で金持ちのシンボル。医者ややくざがよう乗ってる車で、医学科の駐車場ではよう見かけるねえ。

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ビコの言ってた自己意識の話も補足しときます。

今日も映画を観たあと話をしたように、ビコは合法的に殺されましたが、それだけ体制に脅威だったということでしょう。
裁判の中でビコがEven in this environment we must find a way to develop hope for themselves, to develop for this countryと言ってたけど、ほんとすごいよね。前の方Even in this environment we must find a way to develop hope for themselvesは僕でも言えるので、ま、授業でずっと言い続けて来たつもりやけど、あとの方to develop for this countryは、言えないもんね。この国のやってきたことを考えると、恥ずかしすぎて、国に希望を紡ごうと言う気にならんもんなあ。今日も何度も言ったけど、こう言わないといけないのは悔しいね。
自己意識については、ビコとマルコム・リトルに焦点を当てて書いたことがあります。ビコを引用して書いた部分です。

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白人優位・黒人蔑視

奴隷貿易に始まる西洋諸国の侵略によって、支配する側とされる側の経済的な不均衡が生じましたが、同時に、白人優位・黒人蔑視という副産物が生まれました。支配する側が自らの侵略を正当化するために、懸命の努力をしたからです。支配力が強化され、その格差が大きくなるにつれて、白人優位・黒人蔑視の風潮は強まっていきました。したがって黒人社会は、支配権を白人から奪い返す闘いだけでなく、黒人自身の心の中に巣食った白人優位の考え方を払しょくするという二重の闘いを強いられました。アメリカ映画「遠い夜明け」で広く知られるようになったスティーヴ・ビコは、ある裁判で黒人意識運動の概念について質問されたとき、その「二重の闘い」に言い及んで、次のように述べています。

基本的に「黒人意識」が言っているのは黒人とその社会についてであり、黒人が国内で二つの力に屈していると、私は考えています。まず何よりも黒人は、制度化された政治機構や、何かをしようとすることを制限する様々な法律や、苛酷な労働条件、安い賃金、非常に厳しい生活条件、貧しい教育などの外的な世界に苦しめられています。すべて、黒人には外因的なものです。二番目に、これが最も重要であると考えますが、黒人は心のなかに、自分自身である状態の疎外感を抱いてしまって、自らを否定しています。明らかに、ホワイトという意味をすべて善と結びつける、言い換えれば、黒人は善をホワイトと関連させ、善をホワイトと同一視するからです。すべて生活から生まれたもので、子供の頃から育ったものです。[I Write What I Like (New York: Harper & Row, 1986), p. 100.神野明他訳の日本語訳『俺は書きたいことを書く』(現代企画室、 一九八八年)が出ています]

南アフリカを本当の意味で変革していくためには、先ず何よりも黒人ひとりひとりが、厳しい現状に諦観を抱くことなく、自らの挫折感とたたかい、自分自身の人間性を取り戻すべきだと、ビコは説きました。自己を同定するために自分たちの歴史や文化に誇りを持ち、次の世代に語り伝えようと呼びかけました。そして、経済的な自立のための計画を立てて、実行に移しました。

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ブログに載せています→「自己意識と侵略の歴史」

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課題図書でも紹介している『まして束ねし縄なれば』を書いたラ・グーマはケープのカラード(200万人)の指導者でもありました。

1992年にジンバブエに行く前に、亡命中だったララ・グーマの奥さんブランシさんの家に家族4人でお邪魔した時にもらった写真で、ソ連で撮った写真だと説明して下さいました。長男のユージーンさんと。

1987年にラ・グーマについてサンフランシスコの会議で発表することになった時、ラ・グーマのことを知りたいと思いました。日本では断片的な情報しかなく、ラ・グーマが生きていれば会いにも行けたんやけど(ラ・グーマは亡命先のハバナで心臓発作のために85年に急死してました)
・・・そうこうしている時にミシシッピの本屋の人からセスゥルのAlex La Gumaという本が届いて。読んでみると一番信憑性がある気がして、早速手紙で会いに行ってもいいですかと書くと北アメリカに来たら電話して下さいと返事があったね。1987年の夏のことです。当時大学を探そうと高校をやめて無職やった身には千ドル(多分当時十数万円)は大きかったけど、ANC(当時は非合法とされたアフリカ民族会議、今は与党)への寄付にと渡したお金は、見も知らぬ「敵国」にっぽんからやって来た胡散臭い日本人を丸々三日間泊めて下さった南アフリカの友人への僕の気持ち、やったんかな。

出来たら、その話も出来るとええね。



ラ・グーマのことも、南アフリカの歴史についてもそう知らないで、英語もまだ充分に話せる状態でもなかったのに、一杯マイクロカセットテープを持って行って録音し、帰って来てから、非常勤で知り合ったイギリス人のジョンにお金を出して正確な聞き取りをやってもらって、原稿を作ったんですが、今から思うと、よくもまあ、と思います。いつも言うように、若さは馬鹿さの象徴みたいなもので、よくやるよなあというところです。ただ、今日もそんなことを言ったと思うけど、もう一度同じ局面があったら、やっぱり同じことをするような気がするけどね。知的な好奇心と言えるほどのものでもないけど、外国に行くのが億劫な今に比べると、行くと考えるだけでもしんどいのに、とため息が出るねえ。
『まして束ねし縄なれば』(And A Threefold Cord)は、顔の見えぬ相手に、それでもアパルトヘイトのことを知ってもらいたいと、或いは後の世の若い人たちーアパルトヘイトが廃止されればアパルトヘイトがあったことも知らない人たちが生まれるだろうからーその人たちのためにとラ・グーマが命をかけて書き残した作品。その思いを受けとるためには、意外と難しい、どっちかというとイギリス英語を読む力も要るし、歴史を見渡す目と本質を理解する洞察力も要るもんねえ。

表紙絵の元の絵です。

この本の前に 『夜の彷徨』A Walk in the Night (横浜:門土社、1988年4月12日)を出してもらいました。宮崎医科大学に来てすぐに出したようで(随分と前で日時の後先の感覚があやふややねえ)、当時の1・2年生に使ったと思います。(非常勤として行ってた旧宮崎大学でも使ったかも知れません。)アフリカ系アメリカ人の歴史や文学作品を主に取り上げていましたから、本格的にアフリカことを取り上げるようになった最初のテキストです。南アフリカ第二の都市ケープタウンを舞台にした作品で、オランダ系と英国系の入植者に侵略され、厳しい状況の中で生きることを強いられている「カラー」ド社会の一面が生き生きと描かれています。
「カラード」(Coloured)は、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人の混血の人たちで、人種によって賃金格差がつけられたアパルトヘイト体制の下では「カラード」と分類され、人口の10%ほどを占めていました。ケープタウンに多く、その人たちは特に「ケープカラード」と呼ばれていました。
ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘った解放闘争の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者としてこき使われ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようと物語も書きました。きれいな海岸や豪華なゴルフ場のイメージで宣伝活動をして観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府にはラ・グーマは脅威でした。他の指導者と同じように何度も逮捕拘禁され、1966年に英国亡命の道を選びます。その後、キューバに外交官として受け入れられますが、1985年に解放を見ることなく還らぬ人となりました。

A Walk in the Nightの表紙は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」の映画評「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年)を掲載しています。) の一場面をモデルに奥さんに水彩で描いてもらいました。

「遠い夜明け」、全部を見たい人はコピーしてますので、いつでもどうぞ。

南アフリカの歴史背景についてまとめときます。仮説を立てたり、課題図書を探すのに参考になれば嬉しいです。

今日も話したと思うけど、大きな山は3つ、

①ヨーロッパ移住者がアフリカ人から土地を奪って課税して安価なアフリカ人労働者の一大搾取機構を打ち立てた

②アパルトヘイト政権とアフリカ人の抵抗運動

③白人政権と日本の関係

です。

次回読むのは①と②で、①の部分を年代順に箇条書きにしてまとめておきます。すでに配ってあるChronology of South Africaを参考に。

*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)

配ったプリントは:サンプル問題Part 1とその解説、それと「遠い夜明け」の感想文の用紙です。次回提出してや。

<次回は>

The Struggle for Africaの3人の発表、コシシケレリアフリカなどの歌の紹介と、映像を交えながら南アフリカ史のまとめ。そこまで時間取れるかな。たぶん時間切れになりそう。

トーイックに関してはサンプル問題Part 1と「金のフレーズ⑤」と過去問Part 1の10問。(たぶん全部はする時間はないので残ればその次に)

<今後>

南アフリカについては、次回大まかな歴史背景をみたあと、もう一本映画「アフリカの蹄」(エセイの例で紹介している映像です)の編集した映像を見てもらおうと思っています。

そのあとは、アメリカのテレビドラマERの医師がコンゴにボランティアに行く物語をみてもらったあと、エボラ出血熱とコンゴをめぐっての話、独立時とコンゴ危機→コンゴ自由国の植民地時代→植民地争奪戦・植民地分割と歴史を遡ろうと思っています。印刷の準備中です。

アフリカ系アメリカの歴史については、後期にと思っています。そこでも映画を一本みてもらうつもりです。

来週、また。

たま

 

<4回目> 5月13日

4回目の授業でした。

さっきから雨が降り出しました。しばらく鬱陶しい天気が続くようで、自転車なんで行き帰りに少し難儀しそう。

<今回>は

コメントのあと、先にトーイック過去問Test1のサンプル、テキストに行く前に用語の解説をして時間切れ。トーイックの問題をやると、時間がかかるねえ。

コメントは、入江くん、小幡くん、甲斐さん、香川さん、河口くん、河野多恵さん、河野舞香さん。和歌山、岐阜からは初めてかな。僕が一方的にしゃべることが多いんで、自己紹介、授業の感想や要望、映画や歌の感想、質問などいろいろ話をしてくれると、僕も顔を覚えやすいなあ。

トーイックは過去問のサンプル問題、絵を見ての4択です。サンプルは2問。絵を見ての4択は4種類あるリスニング問題の一つ。

何回か説明したように、今トーイック協会から出ている唯一の本には過去の2種類のテスト(Test 1とTest 2)が入っていて、今日やったのはその前にあるサンプル問題2題。やれなかったTest 1は10題。次回は時間を区切ってやろうと思います。その形式の例題を集めたのが、『金のフレーズ」⑤、今日は最初の10題だけ、何回かスピードを変えながら聞いてもらいました。

『金のフレーズ』の演習のやり方については次回覚えてたら話をするするね。

速度を早くして聞くのは、なかなかええやろ。ニュースや映画の音声を速度を速めて聞くのもなかなかええで。

配ったプリント:

* サンプルPart 1(2問)

* サンプルPart 1(2問)の解説

* トーイックの申し込み書

* トーイックの奨学金について

参考ファイルにサンプルPart 1の音声を置いてるんで、前回置いた『~金のフレーズ~』①~⑤と併せてダウンロードして使ってや。何回も何回もやってみるとええと思うよ。

南アフリカのテキストについてはビルの紹介と朗読してくれたファイルを少しだけ聞きました。参考ファイルに全文の朗読の音声ファイルの圧縮フォールダー(zip)を置いてるんで、ダウンロードして聞くとええね。

なかなかええ声やで。読むかわりに聞いてみるんもええかもね。ナチュラルなスピードでと頼んだので、聞きやすいねえ。ええ声しとるなあ。モデルやテレビ俳優してるだけあってかっこよかったし。

常識人やったから、深い話は出来んかった記憶があるけど、学生にも評判よかったし。日本に来てる欧米人は、得てして横柄な人が多いように思うけど、普通に接しられた一人やろな。

最後まで日本語はほとんどやらなかったけど。どうして日本語せえへんのと聞いたら、大学ではみんな英語をしゃべりたがるし、普段の生活でも必要性を感じないから、みたいなこと言うてたな。

今どうしてるかな。僕より7つほど下やったみたいやから、63か4くらいやろか。

少し用語の解説をしたけど、最後から2ページ目に入れてある年表と本文に目を通しておくとわかりやすいと思います。

<次回>は

コメントを何人か聞いてから、今日出来なかったテキストを読むんで、二人の河野さんと荒田さん、よろしくね。

時間を区切って、Test 1 Part 1を何題かでもやれれば。

テキストのThe struggle for Africaの

THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERSとThe UNION OF SOUTH AFRICA ANS RESERVES(河野舞香さん)

THE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEID(荒田芽依さん)

Mass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLE(河野多恵さん)

は最低限読んで来てや。

次回読むところの前辺りまでの流れをもう一度貼っておきます。

*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)

「遠い夜明け」の感想文を集めました。

コシシケレリアフリカなどの歌の紹介と、映像を交えながら南アフリカ史のまとめもやれるとええけどね。

来週に、また。

 

<5回目> 5月20日

5回目の授業でした。これから最後まで毎週授業があります。三分の一が済みました。本格的にやれそうやね。

<今回>は

過去問Test 1 Part 1を3題だけ(次回は10問まで)。Test 1 Part 1の音声を参考ファイルに置いとくんで、何回も聞いてやりや。

そのあとのコメントは、小松くん、迫田くん、里中くん、副島くん、天神原くん、長友映利香さん、長友萌花さん、中原さん。自己紹介だけが多かったけど、いろいろ話をしてくれると、僕も顔を覚えやすいんやけどなあ。

そのあと黒板も使って用語の解説、今日読む前辺りまでの話を英語でしました。もう一回そこらまでの流れを貼っときます。

*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)

それから河野舞香さんがTHE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERSとThe UNION OF SOUTH AFRICA ANS RESERVESをファイルを使って日本語でやってくれました。きちんと調べて丁寧に発表してたと思います。

最後にざっと英語を見ようと始めて時間切れ。来週はその続きもさっとやるかな。

話の中で出たアフリカ分割については、今回とは直接にという話ではないし、今話をするとちょっと時間を食いそうなんで、コンゴの話をする時に詳しく話をするね。

今回の過去問は、絵を見ての4択で、4種類あるリスニング問題の一つです。

前回やったサンプル問題2題と今回と次回でやるTest 1は10題。その形式の例題を集めたのが、『金のフレーズ」⑤、繰り返してやりや。

リスニングは速度を早くして聞くのはかなり有効的やと思うで。

配ったプリント:

* Test 1 Part  1 問題(終わったら解説も配ります)

<次回>は

コメントを何人か聞いてから、Test 1 Part  1の続き、THE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEID(荒田芽依さん)、Mass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLE(河野多恵さん)。

あと日本との関係を少しやって、大体南アフリカについては終わりで、最後に「アフリカの蹄」をみてもらう予定。

歌の紹介と、映像を交えながら南アフリカ史のまとめ、する時間があるやろか。

来週に、また。

解説したところと河野舞香さんがやってくれたところの日本語訳を貼っときます。細かいところは見比べてや。

THE COLONIZATION OF SOUTH AFRICA 南アフリカの植民地化

 When Europeans arrived in the southern part of Africa, different peoples had been living there for some centuries. Groups of San people lived in the mountains and on the edges of the deserts in the southeast. They hunted rock rabbits, lizards, locusts and so forth. Near them lived the Khoikhoi who herded cattle and had more permanent camps than the San. They sometimes intermarried.

南部アフリカにヨーロッパ人が到着した時、そこにはすでに何世紀にも渡って様々な民族が住んでいました。サンの人々はいくつも集落を造って南東部の山や砂漠の端に住んでいました。その人たちは岩兎や蜥蜴や蝗などの狩りをして暮らしていました。サン人の近くには、家畜を飼うコイコイ人が住んでいて、狩りをして移動するサン人よりは定住型の生活を営んでいました。時にはサン人とコイコイ人は結婚することもありました。

The Europeans began to settle down in the latter half of the 17th Century on the initiative of the Dutch East India Company. The Dutch traders had out-rivalled the Portuguese and taken over the spice trade with Asia. Because the voyage to Asia was long, the Company built a depot of provisions at the Cape of Good Hope in 1652. A small white settlement was to grow vegetables and supply other services for the Company. The colony was completely dependent on the Company, among other things for the supply of arms. The Dutch colonialists called themselves Boers. It means farmers in Afrikaans, their Dutch dialect.

オランダ東インド会社に率いられて、17世紀の後半にヨーロッパ人は定住を始めました。オランダの貿易商はポルトガル人との競争に勝ち、アジアの香辛料貿易を引き継ぎました。アジアへの航海は長いものでしたので、会社は1652年に喜望峰に食料を補給するための基地を築きました。その小さな白人入植者の居留地は野菜を育て、会社のために色々なものを提供しました。居留地はすべてを会社に依存していましたが、なかでも武器の供与は全て基地任せでした。オランダの植民地主義者たちは自らをボーアと呼びました。それはオランダ語由来の言葉であるアフリカーンス語で、農民という意味です。

Disputes between the Boers and the Company made them move further inland. The first people they met were the Khoikhoi, whose pasture they conquered. Worse still for the Khoikhoi, the settlers forced them to hand over their cattle. It so was the very basis of their social system. The Khoikhoi were forced to work for the European settlers. The whites’ intrusion meant catastrophe for the San. Only a few San escaped and fled into the Kalahari desert. Their descendants live to this day under much more primitive conditions than did their forefathers in their rich soil.

会社との間で諍いを起こしてボーア人は、内陸の方に移動しました。ボーア人が最初に遭遇した人たちはコイコイ人で、その人たちの放牧地をボーア人が征服しました。コイコイ人にとって更に悪いことには、入植者達は牛を引き渡すように強要しました。それはコイコイ人の社会システムの基盤そのものでした。コイコイ人はヨーロッパ人入植者に、労働を強制されました。白人の侵入者は、サン人には悲劇的な結末を意味しました。ごく僅かのサン人は逃亡)、カラハリ砂漠に逃げこみました。その人たちの子孫は、今日でも、肥沃な土地に住んでいた祖先たちよりも原始的な状態で暮らしています。

The Xhosa and the Zulu peoples were most numerous in South Africa. Land was owned collectively, but cultivated individually. This might be called a moderate kind of socialism. When these highly developed cultures with their strong military organization clashed with the Boers, they could not be defeated as easily as the Khoikhoi and the San. The Wars of Dispossession started in 1871. The battles were many and fierce during the nine wars. The whites could only consolidate their control over what was formerly African land by crushing these African military kingdoms with superior arms. This process was almost completed in 1881. But the Boers never conquered South Africa completely. Conquest was completed only when the British forces took over the process.

南アフリカでもっとも人口の多かったのは、コサ人とズール人でした。土地は個人ではなく全体で共同所有されていましたが、個人個人が耕やしていました。一種の穏やかな社会主義と呼び得るものかも知れません。強大な軍を持つ高度に発達した文化がボーア人とぶつかった時、コイコイ人やサン人が簡単にやられたように、コサやズールーの人々がやられることはありませんでした。1871年に、略奪戦争が始まりました。9つの略奪戦争では、戦闘も数多く、激しいものでした。白人たちは優れた武器を使って、軍を持つアフリカの王国を破壊することによって、元はアフリカ人所有の土地に対する支配権を確立したのです。この過程は1881年には、ほぼ完成していました。しかし、ボーア人は完璧に南アフリカを征服しわけではありません。イギリス軍がその過程を引き継いで初めて、征服が完了したのです。

Britain feared that French control of the Cape could jeopardize British interests in India and trade with the East, and in 1795 sent a large British force to the Cape and forced the Dutch governor to capitulate. The Boers at once came into conflict with Britain. Britain was looking for raw materials and new markets for industrial goods. Slave trade and slave labour were no longer necessary. But for the Boers slavery was the foundation of their economy, so they resisted all attempts to abolish it. This contradiction resulted in bitter conflicts between them and the British colonialists. In 1833 the British managed to abolish slavery in the Cape. Many Boers, particularly the wealthy ones, left the Cape and moved inland in big ox caravans. This was called the Great Boer Trek. The Boers who stayed in the Cape needed workers for their farms, so they imported workers from Indonesia and Malaysia, Dutch colonies in Asia.

イギリスはインドおよび東洋との貿易で、ケープをフランスが支配することになればイギリスの利益が危険にさらされるかもしれないのではないかと心配しました。そして、1795年にはケープへ大規模なイギリスの軍隊を送り、オランダの植民地相に降伏することを強制しました。ボーア人は、直ちにイギリスと衝突しました。イギリスは、原料および工業製品の新しい市場を探していました。奴隷貿易と奴隷の労働は、もはや必要ありませんでした。しかしボーア人には奴隷制度が経済の基礎でしたから、ボーア人は奴隷制度を廃止する試みすべてに反抗しました。この矛盾は、ボーア人とイギリスの入植者の苦しい対立を生む結果に終わりました。1833年には、イギリス人がどうにかケープの奴隷制度を廃止しました。多くのボーア人、特に豊富なものがケープを去り、大きな雄牛の隊列を組んで内陸に移動しました。これはボーア人の大移動と呼ばれました。ケープにとどまったボーア人は、自分たちの農場のための労働者を必要としましたので、アジアのオランダ植民地インドネシアとマレーシアから労働者を輸入しました。

By 1854 South Africa was divided into four provinces. The British claimed the Cape and Natal, the coastal provinces rich in soil. The Boers had established two inland republics: the Orange Free State and Transvaal, which Britain had to recognize as autonomous.

1854年までに、南アフリカは4つの州に分割されました。イギリス人はケープおよびナタールの土壌の豊かな沿岸地方を要求しました。ボーア人は内陸の2つの共和国オレンジ自由国とトランスヴァールを設立し、イギリスはその2州を自治領として認めざるを得ませんでした。

The number of colonizers of British origin gradually grew. In Natal province sugar cultivation was started on a large scale at the end of the 19th century, and Indians were imported as indentured labour (See Appendix South Africa 1).

イギリスから来た入植者の数は徐々に増えていきました。ナタール州では、19世紀の後半に大規模な砂糖栽培が始められ、インド人が契約労働者として輸入されました。(附録<南アフリカの1>を参照)

The British and British capital became really interested in South Africa only when diamonds were found in 1867 and gold in 1886. This also caused a growing conflict with the Boers, since the rich deposits were found in their republics.

イギリス人とイギリス資本は、1867年にダイヤモンド、1886年に金が見つかったに初めて、南アフリカに本当に興味を持つようになりました。豊富な鉱物がボーア人の共和国で見つかったので、そのことでさらにボーア人との衝突が激しくなりました。

THE GROWTH OF MINING CAPITAL 鉱山資本の成長

The first diamonds were discovered in the area which later was to become the Kimberley diamond fields.

まず初めのダイヤモンドは、その後キンバリー・ダイヤモンドの産地になる地域で発見されました。

The diamonds on the surface were soon depleted. A more costly technique was then required to exploit diamonds under the surface. This furthered capital concentration, i.e. the concentration of ownership in fewer hands. In 1888 all diamond mines were controlled by a company called de Beers Consolidated, which before the turn of the century controlled 90% of world production. The company was in the hands of the British imperialist Cecil Rhodes, who also was Prime Minister in the Cape colony.

地表のダイヤモンドはすぐに堀り尽されました。その後、よりお金のかかる技術が地下のダイヤモンドを開発するために必要とされました。これは更に資本の集中を促しました、つまりより少数の手の中に所有権が集中したわけです。1888年には、ダイヤ鉱山が全てデ・ビアスと呼ばれる会社によって支配され、20世紀になる前には世界生産の90%をその会社が支配していました。その会社は、イギリスの帝国主義者であり、ケープ植民地の首相でもあったセシル・ローズの手中にありました。

THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERS 英国人とボーア人の対立

The Boers had every reason to be suspicious of British capital. They viewed the railway with apprehension; it wound northwards from the Cape, and charged heavy freight fees and duties in the harbour. The Boers wanted to keep the gold-rich areas for themselves, and they looked for allies. The rivalry between the European imperialist powers in `the scramble for Africa’ gave the Boers a new chance to get rid of their dependence on the British harbours. With German and Dutch capital a railway line was built from Transvaal to the Mozambican coast.

ボーア人がイギリス資本を信用しないのには充分な理由がありました。ボーア人は、不安な思いで鉄道を見ていました。それはケープから北の方へ延び、通行料金と港での税金を課しました。ボーア人は自分のために金の埋蔵量が豊かな地域を維持したかったので、同盟国を探しました。アフリカ争奪戦でのヨーロッパの帝国主義列強間の競争は、ボーア人にイギリスの港の依存を取り除く新しい機会を与えました。ドイツとオランダの資本で鉄道がトランスヴァールからモザンピークの海岸間に建設されました。

The ruling Boers in Transvaal tried to channel income from the British-owned mines there to themselves. The tense situation between the Boers and the British led to the second Anglo-Boer War in 1899. It ended in 1902 with victory for British imperialism. Cruelties were committed on both sides, but the concentration camps set up by the British for Boer women and children left especially bitter scars.

トランスヴァールを支配するボーア人は自分たちの方に、イギリスに所有された鉱山からの収入を向けようと努力しました。ボーア人とイギリス人との間の緊張した状況は1899年の第二次アングローボーア戦争を生みました。1902年にイギリスの帝国主義者の勝利で戦争は終了しました。双方で残虐行為が行われましたが、イギリス人がボーア人女性と子供用に建設した強制収容所は、ボーア人に特に酷い傷跡を残しました。

The Boers traditionally had two enemies: the indigenous Africans, whose cattle and land they coveted and whom they tried to make into slaves, and British imperialism, which was out to exploit the riches of South Africa. But when it came to exploiting the Africans, the Boers made common cause with the economically superior British.

昔からボーア人には二つの敵がありました、欲しがっていた家畜を奪い、奴隷に仕立て上げたその土地に住んでいたアフリカ人と、躍起になって南アフリカの冨を搾り取ろうとするイギリス帝国主義でした。しかし、アフリカ人を搾取するという点では、ボーア人は経済的に優位だったイギリス人と共通の大義がありました。

THE UNION OF SOUTH AFRICA AND RESERVES 南アフリカ連邦とリザーブ

During the Boer War the British government had claimed that its objective was to protect the Africans. But in the peace treaty the whole question of the political future of the Africans in South Africa was left in the hands of the Boers and the British colonialists. In May 1910 the Union of South Africa was created, which meant that the British government handed over all political power to the whites in South Africa. It was only the negotiated product of the Boers and the British colonialists with their common cause of exploiting the Africans.

ボーア戦争の間じゅう、英国政府は戦いの目的はアフリカ人を保護することだと言っていました。しかし、平和協定を結ぶときには、南アフリカのアフリカ人のこれからの政治に関してはすべての問題をボーアじんとイギリス人植民地主義者の手に収めたままにしてしまったのです。1910年の5月に南アフリカ連合を創設しましたが、それは英国政府が政治的な権利をすべて南アフリカの白人に引き継いだということだったのです。アフリカ人を搾取するという共通の目的のためにボーア人とイギリス人植民地主義者が作り出した妥協の産物に過ぎなかったのです。

The first Union parliament created the African reserves through the Native Land Act in 1913, which made previous practices the law. Whites were forbidden to buy or rent land in the reserves, and Africans could neither buy nor rent outside the reserves. The only exception was the Cape province where, for some time, Africans were still allowed to purchase land. The law meant that 78% of the population was supposed to live in reserves comprising only 7.3% of the area of the country.

最初の連邦議会は1013年の原住民土地法でアフリカ人リザーブを創設しました。それは今までの慣習を法制化したものでした。白人にはリザーブ内の土地を買うこと、借りることが禁止されました。アフリカ人はリザーブ外では土地を買うことも借りることも出来ませんでした。唯一の例外はケープ州で、暫くの間はアフリカ人が土地を購入することが許されました。法律が意味するところは、人口の78パーセントが国土の僅か7.3%からなるリザーブに住むことになるということでした。

For a farming people to be deprived of their land was a hard and bitter blow, which at once strengthened opposition. The South African Native National Congress, which changed its name to the African National Congress (ANC) in 1925, was formed in 1912 to unite the Africans in defence of their right to land and to demand political rights. When the Land Act was still in preparation, a delegation of leading Africans was sent to London. Their mission was fruitless and the African leaders were beginning to realize that no solution to their plight could be found in London.

農民が土地を奪われれば大打撃で、すぐに反対運動が起きました。1912年、土地の権利を守り、政治的な権利を求めるために、そののち1925年にアフリカ民族会議(ANC)と改名する南アフリカ原住民民族会議が創設されて、アフリカの結束をはかりました。土地法がまだ準備段階のうちに、アフリカ人指導者の代表がロンドンに派遣されました。派遣の成果もなく、アフリカ人指導者はロンドンにでは自分たちの窮状の解決策は見出せないと悟り始めていました。

The 1913 Native Land Act was in force until 1936. That year a new law, the Native Trust and Land Act, extended the area of the reserves to 13.7%. This law was in force till all the apartheid laws were abolished in 1991. This law was the foundation of the apartheid regime’s land consolidation for the `homelands,’ the so-called Bantustans.

1913年の原住民土地法は1936年まで効力がありました。その年に新法原住民信託土地法が制定されて、リザーブの範囲が13.7パーセントにまで拡大されました。この法律はすべてのアパルトヘイト法が廃止される1991年まで有効で、アパルトヘイト政権が力を入れたホームランド、いわゆるバンツースタン政策の根幹でした。

<6回目> 5月27日

6回目の授業でした。

<今回>は

Test 1 Part 1の残りを最後まで。Test 1 Part 1の音声を参考ファイルに置いあるんで、何回も聞いてやりや。解説を配り忘れたんで、次回に。忘れてたら、誰か言ってや。

コメントは、聞けなくてテキストの発表、荒田さんがTHE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEID、河野多恵さんがMass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLE、この前の河野舞香さんと同様、二人ともしっかりと準備して来てたし、発表もなかなか堂々としてよかったです。感心しました。

二人のやってくれたところも含めて日本語訳をまた貼っときますので、自分が読んだのと比べてみてや。

配ったプリント:

* ラ・グーマ

* ラ・グーマとマセケラ

* 5文型と品詞・用言と体言・句と節・副詞

* 分詞

次回今日読んだ箇所の映像をみながら使いますので、目を通しておくとわかりやすいです。文法についてはリーデーング4種類のうちの一つPart 5をする時に説明に使います。穴埋め4択問題、ほとんど文法問題、センター試験とよう似た問題です。

<次回>は

歌の紹介と、映像を交えながら南アフリカ史のまとめ、Reading Part 5を少し、かな。

今日二人がやってくれた背景や補足も出来るといいと思います。一国の歴史の全体像を短期間に把握するのは難しいと思います。僕も、宮崎に来た1980年代後半、反アパルトヘイト運動の一環として行われていたアパルトヘイト否(ノン)という美術展、講演会などで話するのを頼まれて、急遽南アフリカの歴史をやり始めたけど、全体像を見渡すのに大体10年くらいかかったように思います。その間、在外研究でジンバブエにも行ったけど、本を読んで実際に自分の目で確かめて来ても、やっぱり全体像が見えて心のなかでしっくりくるようになるまでには、時間がかかるみたいです。

1988年に松山市で行った講演です→(「アパルトヘイトの歴史と現状」)「ゴンドワナ」14号 10-33ペイジ(横浜:門土社、1988年)

来週に、また。

荒田さんと河野多恵さんがやってくれたところの日本語訳を貼っときます。

THE 1948 APARTHEID REGIME 1948年のアパルトヘイト政権

African resistance put a strain on the white alliance of the Afrikaners and the British, and created a crisis in the South African system. Social changes lay behind the increased African militancy, and the ruling party, close to mining capital, was unable to handle the situation.

アフリカ人が抵抗したので、アフリカーナーと英国人による連合政権は緊迫し、南アフリカの制度は危機的な状況に陥りました。アフリカ人がますます激しく抵抗する背景には様々な社会変化があり、鉱山資本に近い与党は、その状況にうまく対処出来なくなりました。

The manufacturing sector in South Africa grew rapidly during the War when the hold of imperialism loosened, and Britain and the United States needed consumer goods from abroad because their own production was focused on manufacturing armaments. This industrialization in South Africa meant a demand for more African workers. During 1939-49 the number of Africans in the private manufacturing industry grew from 126,000 to 292,000.

南アフリカの製造部門は帝国主義の支配力が緩んだ第二次大戦の間に急速に成長し、英国と米国が主に武器の製造に力を入れざるを得なくなったので、消費物資を外国から調達する必要に迫られました。こうして南アメリカの工業化は進みますが、その結果、もっとたくさんのアフリカ人労働者が必要になりました。1939年から49年の間に、私有の製造産業でのアフリカ人の数は126,000人から292,000に増加しました。

The new industries tried to attract labour by offering the African workers higher wages than they got in the mines and or the farms. But the white-owned agriculture had also expanded enormously during the War. And neither the farmers nor the mine owners were prepared to raise the African wages to compete with those in the manufacturing industry. Instead, they demanded a state regulated labour market, which would guarantee them a steady flow of cheap African labour.

新たな産業は、アフリカ人労働者が鉱山や農場でもらうよりも高い賃金を出して労働者を引きつけようとしました。しかし、白人所有の農業も大戦中に著しく拡大していました。そして、農場や鉱山を所有する人たちは製造産業の賃金と張り合ってアフリカ人の賃金を上げるつもりはありませんでした。代わりに、国が規制する労働市場、つまり自分たちに常に一定の安価なアフリカ人労働者を保証するように国に要求しました。

The whites in the new industries felt that their position was threatened by the African workers. They had learnt to put their trust in the Afrikaner nationalists, because they had given them job security and privileges when they started a state-controlled industrialization process before the War, with state-owned steel production, among other things. Within the state sector the white employees, unlike the African workers, were guaranteed security and benefits by clauses on positions reserved for whites. For those Afrikaners who had become impoverished when mining capital expanded and bought land, racial discrimination became their only barrier against falling to the very bottom of society.

新しい産業で働く白人は、自分たちの地位がアフリカ人労働者によって脅かされていると感じました。白人労働者は民族主義的なアフリカーナーを信用していました。というのも、第二次大戦前に国が主導して産業化の政策を進めたとき、中でも特に国有の製鉄の政策を始めたとき、自分たちに仕事を保証し、特権を与えてくれていたからです。国有部門で白人の雇用者は、アフリカ人労働者と違って、白人専用に確保された法律上の身分条項によって、安全と利益が保証されていました。貧しくなっていたそういったアフリカーナーにとって、鉱山資本が手を広げて土地を購入したとき、人種差別が社会の最底辺に落ちないための唯一の防壁となりました。

THE POLICIES OF APARTHEID アパルトヘイト政策

The Afrikaans word apartheid means separation in English. It was the slogan in the National Party campaign. They saw a future where whites and Africans would live completely separate, and 'develop their distinct character.’ But in reality no real separation would or could be sought, because African labour power was needed as the basis for the prosperity of the whites. (See Appendix South Africa 2)

アフリカーンス語のアパルトヘイトは、英語では隔離を意味します。アパルトヘイトは国民党の選挙活動のスローガンでした。国民党は白人とアフリカ人が完全に別々に暮らし、「それぞれの特性をのばす」という将来を夢見ていました。しかし、現実には、アフリカ人の労働力が白人が繁栄するための基礎として必要でしたから、本当の意味での隔離は考えられませんし、実際には不可能です。

More than three million African workers and 2.5 million African domestic servants live in the 'white’ areas. Three-quarters of the wage employees in South Africa are Africans. The National Party soon admitted that the separation was to be separate sets of political and civil rights for blacks and whites. Every African had citizen rights only in the bantustan area of his own 'tribe’ whether or not he had set foot there. The nine African reserves or bantustans in reality consisted of a large number of scattered land areas, mostly barren areas suffering from land erosion and poverty. These bantustans functioned as large labour reserves for the 'white’ areas.

「白人」地域には300万人以上のアフリカ人労働者と250万人のアフリカ人のボーイやメイドが暮らしています。南アフリカの賃金雇用者の4分の3がアフリカ人です。国民党はすぐに、隔離は黒人と白人それぞれ別々の政治的な権利や市民権であるということを認めました。今まで足を踏み入れたことがあってもなくても、すべてのアフリカ人は、自分たち自身の「部族」のバンツースタン地域でのみ、市民権がありました。現に、9つのアフリカ保留地、すなわちバンツースタンは多くの飛び地から成り、そのほとんどが土地が浸食されたり、貧困に喘ぐ不毛の土地です。それらのバンツースタンは「白人」地域のために無尽蔵の労働力を確保する土地として機能しています。

The bantustan policy meant that Africans were to be prevented from living permanently in the white areas. Ruthless, forced evictions took place to force 'surplus labour’ to move from the towns to the bantustans. Crossroads outside Cape Town is only one example of this policy.

バンツースタン政策は、アフリカ人を白人地区で永住させないという意味のものでした。冷酷で、強制的な立ち退きが、「余剰労働力」を町からバンツースタンに強制的に移動させるために強行されました。ケープタウン郊外のクロスローヅはこの政策の一例です。

REFERENCE 3 参照3

We can hear the news of Radio South Africa about the 1978 Crossroads eviction in the following scene of Cry Freedom.

Newscaster: “This is the English language service of Radio South Africa. Here is the news read by Magness Rendle. Police raided Crossroads, an illegal township near Cape Town early this morning after warning this quarter to evacuate this area in the interests of public health. A number of people were found without work permits and many are being sent back to their respective homelands. There was no resistance to the raid and many of the illegals voluntarily presented themselves to the police. The Springbok ended . . ."

米国映画「遠い夜明け」の以下の場面で、1978年のクロスローヅの立ち退きについての南アフリカのラジオニュースが出てきます。

ニュースキャスター:「こちらは南アフリカラジオの英語放送です。

マグネス・レンドルがニュースをお伝えします。公衆衛生の見地から、その地域を空け渡すように勧告を出したあと、今朝早く警察は、ケープタウン郊外の不法居住地区クロスローヅの手入れを敢行しました。多くの人が労働許可証を持たず、それぞれのリザーブに送り返されています。手入れに対して全く抵抗の気配もなく、不法滞在者は自発的に警察署に出頭していました。放送を終わります・・・。」

The hated section 10 in the Native Laws Amendment Act from 1952 rule that no African could visit a place outside his reserve for more than 72 hours, unless he could prove that he had lived there since birth, or had worked in the same area for the same employer for at least ten years, or had legally resided in the same area for 15 years, or was the wife or child under 16 of a person with these qualifications. Residence permits could also be given by labour bureaus. But even those who fulfilled these requirements could be deported at any time as 'superfluous.’

1952年に制定された一般法修正令の忌まわしい第10(節)条には、生まれてからずっとそこに住んでいたか、あるいは、少なくとも10年間同じ雇用者の同じ場所で働いていたか、あるいは、合法的に15年間同じ土地に住んでいたか、あるいは、それらの資格がある人の妻か16歳以下の子供であるかが証明出来ない限り、アフリカ人は72時間以上は自分のリザーブ外の土地を訪れることができないと規定されています。労働局が居住許可証を発行出来ました。しかし、それらの資格を満たしている者でも、いつでも「余剰者」として追放されました。

MASS MOBILIZATION AND OPPRESSION 大衆動員と抑圧

Despite severe oppression the ANC continued to work openly. But it soon abandoned its former policy of deputations and petitions, and launched a new phase of mass actions. The adoption of the Programme of Action in 1949 signalled this new stage in the struggle, and the next years showed a capacity for militancy among the black population.

厳しい抑圧にもかかわらず、アフリカ民族会議は公然と活動を続けました。しかし、アフリカ民族会議すぐにそれまでのように代表者を派遣したり懇願するのはやめて、大衆行動という新しい段階に突入しました。1949年の行動綱領の採択は解放闘争の新しい段階の前触れで、その後の何年かで、アフリカ人が積極的に闘う能力があることが証明されました。

In 1953 the ANC started to prepare a large national conference with representatives from all racial groups and from various organizations. In contrast to the all-whie parliament in Cape Town this conference was to express the will of the whole South African people. A large number of meetings were held in towns, factories, and on farms to formulate proposals for delegates and for the conference declarations. On 25 and 26 June 1955 more than 2,850 delegates from all over South Africa gathered in Kliptown outside Johannesburg and, after discussions, adopted the Freedom Charter.

1953年に、アフリカ民族会議はすべての人種グループと色々な組織の代表者による大規模な国民会議の準備を始めました。ケープタウンでの白人だけによる議会とは対照的に、この議会は、すべての南アフリカの人々の意思を表わしたものでした。たくさんの会議が町や工場や農場で行なわれ、代表と会議の宣言のための草案が作られました。1955年6月25日と26日に、南アフリカじゅうの2850人以上の代表者がジョハネスバーグ郊外のクリップタウンに集まり、議論の末に、自由の憲章が採択されました。

This document opens with the words, 'We, the people of South Africa, declare for all our country and the world to know: that South Africa belongs to all who live in it, black and white, and that no government can justly claim authority unless it is based on the will of the people . . .’ It also says that land shall ` be shared among those who work it, that the doors of learning and culture shall be open to all, and that the mineral wealth, the banks and monopoly industry shall be transferred to the people as a whole. The organizations which had arranged the Kliptown conference joined to form the Congress Alliance. It consisted of the ANC, the South African Indian Congress, the South African Coloured People’s Congress, the Congress of Democrarts (a white organization), and the trade union central body SACTU (the South African Congress of Trade Unions). The SACP worked under- ground ever since it was banned in the early 1950s.

この憲章は以下の言葉で始まります。「私たち南アフリカ人民は、すべての国と世界に知ってもらえるように宣言します。南アフリカは黒人も白人も、そこに住む人々に属し、人々の意志に基づかないない限り、どんな政府も公正に権利を主張できない、と・・・。」また、土地はそこで働いている人たちの間で分配され、学問や文化の門戸はすべての人に開かれ、豊かな鉱産資源や銀行や独占企業はひとまとめで人々の手に引き渡すと宣言しました。クリップタウン会議に参加した組織は会議運動を形成しました。それはANC、南アフリカインド人会議、南アフリカカラード人民機構、民主主義者会議(白人の組織)、そして労働組合の本体SACTU(南アフリカ労働組合会議)で構成されていました。SACP(南アフリカ共産党)は1950年代初期に活動禁止処分を受けて以来、地下活動を行ないました。

REFERENCE4 参照4

 Benjamin Pogrund, a South African journalist, introduced the PAC major aims listed by Sobukwe and five aims adopted by the Congress in his book Sobukwe and Apartheid:

南アフリカの新聞記者ベンジャミン・ポグルンドは、ソブクウェが挙げたPACの主な目的と、国民会議で採択された5つの目標を著書『ソブクウェとアパルトヘイト』の中で紹介しています。

“Sobukwe listed three major aims: firstly, politically, `the government of the Africans, by the Africans, for the Africans, with everybody who owes his only loyalty to Africa and who is prepared to accept the democratic rule of an African majority being regarded as an African. We guarantee no minority rights because we think in terms of individuals not groups.’ Secondly, `economically we aim at the rapid extension of industrial development in order to alleviate pressure on the land which is what progress means in terms of modern society. We stand committed to a policy guaranteeing the most equitable distribution of wealth.’ Thirdly, `socially we aim at the full development of the human personality and the ruthless outlawing of all forms of manifestations of the racial myth.’ "

「ソブクウェは主な三つの目標をあげました。第一に、政治的にはアフリカに忠誠心を置き、誰もがアフリカ人として大多数のアフリカ人の民主主義的な支配を快く受け入れる、アフリカのための、アフリカ人による、アフリカ人の政府。集団として見なすのではなく、個人として考えるので、少数派の権利は保証しません。」第二に、「経済的には、土地への抑圧を減らすために、産業の発展を急速に拡大させるつもりです。現代社会ではそれが進歩を意味しますので。富の最も公平な分配を保証する政策も推進する方針です。」第三に、「社会的には、各個人の人間性の十分な発達と、あらゆる種類の明らかな人種差別を法律的に徹底的に排除したいと考えます。」

“Five aims were adopted: `(a) to unite and rally the African people into one national front on the basis of African Nationalism; (b) to fight for the overthrow of white domination, and for the implementation and maintenance of the right of selfdetermination for the African people; (c) to work and strive for the establishment and maintenance of an Africanist Socialist democracy recognising the primacy of the material and spiritual interests of the human personality; (d) to promote the educational, cultural and economic advancement of the African people; (e) to propagate and promote the concept of the Federation of Southern Africa, and Pan Africanism by promoting unity among peoples of Africa.’ "

「五つの目標が採択されました。「(a) アフリカナショナリズムを基に、アフリカ人民をある国民前線に団結させ、集めること。(b) 白人支配打倒と、アフリカ人の自己決定権の実現と維持のために闘うこと。(c) それぞれの物質的、精神的利益が最も大切あると認め、アフリカの社会民主主義の確立と維持のために働き、闘うこと。(d) アフリカ人の教育、文化、経済の向上を奨進すること。(e) アフリカの民族間の統合を推進して、南部アフリカ連合とパンアフリカニズムの概念を普及し、奨励すること。」

In 1959 the ANC decided to organize a mass protest against the pass laws. The protest was going to begin on 31 March 1960. In the same year the PAC drew up a plan to campaign for freedom for South Africa by 1963. The PAC campaign began on 21 March 1960. On the day thousands of people gathered at the police station in Sharpeville Township. The police opened fire, and 69 people were shot dead. This became known as the `Sharpeville massacre.’ On the day, Sobukwe and other leaders were arrested.

1959年に、ANCはパス法に反対して大規模な抗議運動を計画することを決めました。抗議運動は1960年の3月31日に始まる予定でした。同じ年に、PACは1963年までに南アフリカの独立を求める運動を展開する計画を立てました。PACの抗議運動は、1960年の3月21日に始まりました。その日、数千人の人がシャープヴィルの警察署に集まりました。警察は発砲し、69人を射殺しました。これは「シャーペビルの大虐殺」として知られるようになりました。その日に、ソブクウェと他の指導者たちは逮捕されました。

THE ARMED STRUGGLE 武力闘争

The Sharpeville massacre became the turning point. The ANC and the PAC were banned and forced to start an armed struggle. In 1961 the ANC formed an army called `Umkhonto we Sizwe’ (`the Spear of the Nation’) and the PAC formed a secret army called `Po(g)qo’ (`Alone’). The Umkhonto began to blow up pass offices and electricity power-lines, while the Poqo began to attack chiefs and policemen. But in 1963 the police arrested their leaders. By 1964 all of them, including Nelson Mandela, were imprisoned. A period of decline followed. Many leading activists had to flee the country to escape arrest. The work underground proceeded but with great difficulties. Open actions could not be carried out. By 1965 the armed struggle had been crushed. The PAC and the ANC were forced to continue their armed struggle from outside South Africa. The parties’ leadership and liberation armies moved to Zambia and Tanzania and their military training took place in Africa and overseas. They sometimes linked up with the liberation armies in Southern Rhodesia (Zimbabwe).

シャープビルの大虐殺は転機点になりました。ANCとPACは非合法化され、武力闘争を開始せざるを得ませんでした。1961年にANCは「ウンコントウェシズウェ」(民族の槍)と呼ばれる武力闘争部門を創設し、PACは「ポコ」(単独で)と呼ばれる秘密の武力組織を作りました。ウムコントはパス(通行証)管理局や送電線を破壊し、ポコは首長(チーフ)や警察官の襲撃を始めました。しかし1963年に、警察は両組織の指導者を逮捕しました。1964年までに、ネルソン・マンデラを含むすべての指導者が投獄されました。衰退の時期が続きました。多くの指導的立場にいた活動家が、逮捕を逃れれて国外に逃亡しました。地下活動は続きますが、非常に困難を極めました。公の活動は実行出来ませんでした。1965年までに、武力闘争は抑えこまれました。PACとANCは南アフリカの外から武力闘争を続けざるを得ませんでした。党の指揮権や解放軍はザンビアやタンザニアに移り、軍隊訓練はアフリカや海外で行なわれました。両者は時々、南ローデシアの解放軍と連携しました。

<7回目> 6月3日

7回目の授業、来週から後半です。

<今回>は

コメント(西くん、西田くん、波田野さん、濱崎さん、原田くん、藤野さん、松原くん、宮田くん)を言ってもらってから(もう少しいろいろしゃべってくれると名前も定着しやすいんやけどなあ)

バンツースタン→(安価な労働力の例として)ダーバン郊外の砂糖黍畑で働く12歳のアフリカ人少年(農場で)→ヨハネスブルグの金鉱山(1972年頃と1987年ころ)→労働組合委員長のインタビュー→たこ部屋(Compounds, Hostels)から鉱山近くの粗末な売店に行く茂みで待ち受ける売春婦の映像を観て聴いてもらい、最後に「グレースランド」のスティメラを観て、聞いてもらいました。前々回、前回で読んでもらった内容の映像を少し見てもらえたと思います。

スティメラを歌い、トランペットを吹いていたヒュー・マセケラ

<次回は>

南アフリカの話は中断して、再来週と2回、トーイックの過去問を集中してやろ。リーディングPart5→リスニングPart2→リーディングPart6くらいまではやれるやろか。(それでTest1の半分)

リスニングPart2~Part4、リーディングPart6~7のサンプル問題をやったあと。(サンプル問題は全部やるんで、それで大体の傾向がわかると思うよ。)

まだ全部は印刷してないけど、再来週(試験の週)にはTest1を全部配れるように印刷しときます。印刷も大変やけどねえ。

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あしたの2コマ目の工学部の授業が終わってから金曜日まで吉祥寺。去年は吉祥寺に3回と名古屋に1回行きました。科学研究費を旅費ででも使わんと使い切れへんからね。医学科では個人の研究費も結構あったし、他にも科研費や外部資金もあったんで、毎年何回か吉祥寺と神戸を拠点にうろうろしてました。宮崎医大に来てから、30年以上、毎年何回か行っています。

神戸三宮のセンター街、週日の昼間に

ハラレに行ってからは外国に行くのが億劫になり、1988年にカナダ、2010年ころにタイのプリンスオブソンクラ大学に行った切りです。カナダには北アメリカに亡命中の南アフリカの人が50人ほど集まった会議に呼ばれて話をするために行きました。

会議でのアレックス・ラ・グーマ夫人ブランシさん

タイは、医学科生の実習用の英語を担当してるのに、実際の病院での実習を見ないとちょっと後めたいなあという気持ちもあって、同僚の横山さんが行ってる途中に二日ほどこっそりと行きました。大学の学生寮に泊まったけど、今から思うと、ホテルの方がよかったのになあと思います。バーツに対して円は強いから、結構いいホテルに泊まれたやろにねえ。

今日からソンクラの3年生が3人、研究室配属で4週間、基礎医学講座に来ています。医学科の人で将来東南アジアで働きたいからと研究室に英語を話しに来ている学生がいるんで、その人たちと繋がなくっちゃと考えているところです。

ソンクラの学生と医学部の6年生、ソンクラ大で

タイの人たちのもてなし方は尋常ではなく(いい意味で。行った学生は、こんなに世話尾してもらうんやったら、日本にタイの学生が来た時にもっともてなしとけばよかったなあ、と必ず言うくらい)、いろいろ招待されるのがわかってたから、こっそり行くことにしました。酒の席がどうも苦手やし、知らない人の多いところでいろいろ聞かれてしゃべるのもあんまり好きではないんで。それでも小児科医の人に学生といっしょに夕食に誘われました。御殿のようなところに住んではって、食事もメイドさんが作ってくれはったようです。タイの料理は辛いそうやけど、洗練された上品な味で、すんなりおいしく食べたような気がします。

今も科研費があるからアメリカでもアフリカでも行こうと思えば行けるんやけど、どうもその気にならないまま。教授はビジネスクラスを使ってもええ規定らしいけどね。もちろん、使ったことないけど。

<8回目> 6月10日

8回目の授業、後半に入りました。

<今回>は

2巡目のコメント(青木くん、足達くん、荒田さん、安藤くん、伊藤さん、入江くん、小幡くん、甲斐さん)のあとトーイックの過去問、サンプルのリスニングPart2~Part4、だけで時間切れ。時間かかるもんやなあ。

<次回>もトーイックだけ(22日に1回目の試験までの特別編)

サンプル問題リーディングPart5~8→Test 1 Listening 2~4も行けるかなあ。

印刷した分は配ります。

やっててわかった人もいるかも知れないけど、最後は語彙も要るし、この名詞を使う時にはこの動詞かあの動詞、みたいに、実際に使う中で覚えたものを増やして慣れる、それが一番やと思うね。だから、『金のフレーズ』のように、実際にトーイックのテストで出た文章を分析してよく使われる句を取り上げて例文や派生語や慣用句を並べたものがよう売れてるんやろな。最初に配った①~⑤のプリントは、過去問をさっとやった上で、あらためてやってみると役にたつと思うで。

日本語の文章を見てさっと英文が浮かんでくるくらい繰り返してやったら、知らずに語彙も増えるし、ビジネス用語にも慣れるんで、過去問を少しやったと、そっちを何かの形でやってみてもええな。そのつもりで最初に配ったから。

一期生の4年生には一冊買ってもらったけど、句だけより文章がある方がええと思って補足してプリントをこしらえ、二年目からは大層な思いをしながら印刷したのを配ってるな。役に立ててもらえると嬉しいけど。

<9回目> 6月17日

9回目の授業でした。

<今回>は

2巡目のコメントの続き(香川さん、河口くん、河野多恵さん、河野舞香さん、小金丸くん、小松くん)のあとトーイックの過去問、サンプルのリーディングPart5と6、だけでした。やっぱり時間かかるね。

あと配ったサンプルの7と、test 1のPart 2とPart 6は、解説も配ったので、やってみぃや。1回試験を受けてみると大体感じがわかると思うけど、折角の機会なんである程度やれるところまでやってみるのもええと思うな。結果をみて、もっとやりたいと感じた人は、その時はいつでも協力するで。

トーイックの過去問と『金のフレーズ』は継続的にやるつもり、もちろん後期も含めて。

でも最後は自分がやるかどうか、何でもそうかも知れへんな。

<次回>は

①南アフリカの残り(日本と南アフリカの関係)をやったあと、エボラ出血熱騒動とコンゴ→コンゴの独立・コンゴ危機→植民地時代→アフリカ争奪戦・アフリカ分割と歴史を辿る中で、所謂日本も含めた先進国と第三世界について、いろいろ考える機会にしてもらえればと思っています。

南アフリカの週刊新聞の第2回のエボラ騒動の特集記事

実際には1995年の第2回のエボラ騒動をめぐって実際に報道されたニュースや映画、ドキュメンタリーに、新聞記事などを使って、いろんな面から見ていくつもりです。

ニュースでListening Comprehension Practices(聞き取り理解の演習)をやったあと時間に余裕があれば、旅番組やNBAでも少しListening Comprehension Practicesをやれたらと思ってるけど、どこまでやれるやろかな。

サンフランシスコの漁夫の波止場

来週は課題の提出、この機会を利用して、たくさん読んでたくさん考えて、仮説を設定して論理的に述べるという練習もやりや。大学でする大事なことの一つやからね。

行った夜間では一年しかゼミがなかったし、卒業論文も必修ではなかったんで、いわゆる卒論を書かなかったけど、その分、5年ほど教師をしたあと行った修士課程では、本気で修士論文を書いたね。もちろん大学の職を探す最低限の条件やったというのもあるけど、ほとんど誰の助けも借りずに自分で好きなテーマをみつけて仮説を立てて論証するというのは、僕の性にあってたみたい。英語で書いたのを最近ブログに掲載し直しました。(ホームページではPDFで見られるようにはしてたけど)

ゼミの担当者貫名さん

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」

“Richard Wright and His World”
「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」続モンド通信6、2019年5月20日)

<10回目> 6月24日

10回目の授業でした。

<今回>は

先に、1995年のエボラ出血熱騒動のCNNの映像を見てのListening Comprehension Practiceをやったけど、僕の解説の英語やニュースの内容は大体わかったかいな。

次回CNNの聞き取り(河野多恵さん)、新聞記事(伊藤さん)をやると、意味内容や歴史背景も少しはわかるやろかなあ。

コンゴとエボラ出血熱については書いて雑誌に発表したことがあります。読むとわかりやすいんやないやろか。このブログにも載せてあるんで。↓

「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」

CNNのmp3を参考ファイルに置いておきます。聞き取りの用紙を使ってやってみてや。

配ったエボラ出血熱騒動・コンゴ(当時はザイール)のプリントの解説も少々。

少し解説したのをまとめると

1960年 ベルギーから独立(初代首相ルムンバ)

1963年 コンゴ危機(ルムンバが惨殺され、モブツが担ぎ出される

1976年 第一回のエボラ出血熱騒動

1995年 二回目のエボラ出血熱騒動

1996年 モブツがモロッコに逃げ、カビラがキンシャサに(ザイールが崩壊、カビラが新しいリーダーに担がれる)

そのあたりの情勢については、今日配ったなかにテキスト("Zaire’s turmoil")を入れてあります。2冊目の英文の3章今日的問題の一つとして取り上げました。一つはエイズ、もう一つは今日配ったプリントの中の英文"My stay in Harare, 1992″です。

モブツ政権を倒して大統領に推されたローラン・カビラ

<次回>は

今日やれなかった南アフリカの残りと、1992年にジンバブエに行ったときの話、それからCNNの聞き取り(河野多恵さん)、新聞記事(伊藤さん)、どっちも発表してもらえる時間が取れるとええけどね。

ジンバブエの首都ハラレで借りて暮らした家

ジンバブエ大学で仲良くなったアレックス・ムチャデイ・ニョタくん

配ったプリント

* 名誉白人についての記事

* ジンバブエに関して("My stay in Harare, 1992″ B4表裏、「ジンバブエの旅」「アフリカは遠かった」B4表裏 )

* CNNニュース(聞き取り)B4表

* 新聞記事B5表("Ebola virus returns Zaire into world’s spotlight")

*  歌の解説(服部くんの “Music in KENYA & TANAZANIA"

* エボラとコンゴ(地図が表紙のB4表裏6枚、貴重な英文も入れてあるんで、読んでや。)

初代首相のパトリス・ルムンバ

*********

課題も集めました。量が少ないのや時間切れでしっかり出来てないと思ってる人は、少し時間をかけて再提出してもええで。最終期限は最終授業の時。

今日も繰り返し言ったけど、仮説を立ててインプットした情報を使って論理的にものを述べるという作業は、大学ですべきことの一つ。

出した課題の評価を知りたい人はメールをしてくれたら、時間を打ち合わせて、実際の課題を前にしていろいろ話を出来ると思うよ。いつでも連絡してや。

来週に、また。

<11回目> 7月1日

11回目でした。残りの日程確認です。

12回目→7月8日(月)

13回目→7月17日(水)月曜日振替授業

14回目→7月22日(月):黒木くんの2回目のアンケート

15回目最終授業→7月28日(月)

<今回は>

CNNの聞き取りを河野多恵さんがファイルを使って、新聞記事は伊藤さんが途中まで要約をやってくれました。わりと詳細にやれたのは二人がきっちりとやって来てくれてたからやと思います。ニュースの発音(flare, fertile, forested, lying dormantなど)や、英語独特の表現(from nowhere, A mission will have to be financed by other countries, not hisなど)を、結構詳しく。特に日本語と英語の基本的な発音や構造の違う言葉をめぐって。

transcriptionとやったところまでの日本語訳を最後に貼っときます。細かいところは見比べてや。

<次回は>

日本語訳の続きと、キンシャサ経由で今回のニュースの最初に出て来た北東部の村に近いキサンガニ(一枚目が地図のプリントで確認してや)にアメリカの医者がボランティアで行くアメリカのテレビドラマERを観てもらおうと思っています。そのあとコンゴの曲を一曲聴いてもらって、時間があれば、2回目のエボラ騒動があったあとの国の行方や政治の流れを配ったプリントを解説しながらさっと辿ったあと、1976年の一回目のエボラ騒動→一回目に世界のスポットライトを浴びたコンゴの独立とコンゴ危機→レオポルド2世の植民地「コンゴ自由国」→アフリカ争奪戦とアフリカ分割と遡ろうと思っています。次の時間では終わらないと思うけど。

その辺りの流れを理解してもらえるように、その辺りの年表をもう一回貼り、書いたものにももう一回リンクも→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」

1960年 ベルギーから独立(初代首相ルムンバ)

1963年 コンゴ危機(ルムンバが惨殺され、モブツが担ぎ出される

1976年 第一回のエボラ出血熱騒動

1995年 二回目のエボラ出血熱騒動

1996年 モブツがモロッコに逃げ、カビラがキンシャサに(ザイールが崩壊、カビラが新しいリーダーに担がれる)

プリントのなかの"Zaire’s turmoil"も読んでや。

テレビ映画ERの解説を少々。ER緊急救命室は、アメリカ合衆国のNBCで放送されたテレビドラマシリーズ。1994年9月9日から2009年4月2日にかけて311エピソードを放映。日本ではNHKがBS2で第13シーズンまで放送済み。

今回観てもらうのは、「緊急救命室ERIX6『悪夢』46分。

続編はERX1『失われた友を求めて』46分。観たい人はいつでもDVDをコピーするよ。

* IX6『悪夢』(授業で観た分)・・・国際医療同盟の活動に参加していたコバッチュに助けを求められ、アフリカ・コンゴ共和国の難民キャンプでの医療支援活動に参加する。

* X1『失われた友を求めて』・・・強い意思でコンゴの激戦区に残ったコバッチュが死亡したとの連絡を受け、彼を残してきてしまった罪悪感から再びコンゴに飛び、コバッチュの生存を確認し彼をアメリカへ送った後も、自分の居場所と使命を見出しコンゴに留まる。

コンゴに関しては他にも次回紹介するつもりの「アウトブレイク」と、アイゼンハワーがCIAに命じて暗殺させたルムンバの映画「ルムンバの叫び」という映画もあります↓

「ルムンバの叫び」115分→goo 映画

志半ばで命を奪われたコンゴの初代首相、パトリス・ルムンバの生涯を描いた作品。2000年仏・ベルギー・独・ハイチ。

「アウトブレイク」127分

アウトブレイク (Outbreak) は1995年制作のアメリカ映画。アフリカからアメリカに持ち込まれた非常に致死性の高いウィルスに立ち向かう人々を描いたサスペンス。1967年、アフリカで内戦に参加していたアメリカ軍の部隊が原因不明のウイルス感染で全滅状態となった。軍は隠蔽のため部隊のキャンプを気化爆弾で消滅させた。そして現在、アフリカの小さな村が原因不明のウイルス感染で全滅状態となった。CDCのダニエルズ大佐の調査で、正体が判明した。そんな折、アフリカから一匹のサルがアメリカに密輸入された。密売人のジンボは、町のペットショップに売りつける事に失敗し、やむなくサルを森に放した。その後、そのサルに関わった、ジンボや周辺の人々が原因不明のウイルス感染で次々と死亡。感染が広まったシーダークリークという町は大混乱に陥った。ダニエルズは調査を進めていく中、原因不明のウイルスの謎に迫っていく事となる。

観たい人は、いつでもどうぞ。

来週に、また。

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きのうの朝、電話がかかってきました。信州で小児科医をしている蓮見くんからです。プリントで配っているアフリカの音楽について書いてくれた服部くんや工業高校を出たあと看護士になってボリビアに海外青年協力隊で行ったあと二年宅浪をしたあと医科大に入って来た夏目くんなんかと部屋でよういっしょになってた卒業生で、信州の佐久総合病院で研修を受けて、そのまま気に入って、今は家を建てて住んでいます。永住するようで。
佐久総合病院は地域医療の発祥の地みたいで、研修制度もいいからとそこで初期研修を受けて小児科医になったみたい。作家の南木佳士さん(『医学生』で直木賞をもらったかな)も精神科医として今もいるようです。僕は小説を書く時間がほしいと大学の教員になったけど、南木さんは医者をしながら書いてるみたいです。そろそろ書いて新人賞向けに投稿しようと思って「文学界」の募集要項をコピーするついでにぱらっとめくったら、南木さんも原稿を書いてはったな。
蓮見くんは東京の私学を出たあと、海外青年協力隊員としてジンバブエで体育の教師をしてから医科大学に。今回は剣道部の集まりに久しぶりに出るために来るようで、日曜日は日南で用事を済ませてから、お茶でも、ということになってます。

ときどき、そんな電話がかかって来るね。退職前には秋田から子供三人を連れて、岡山からは長男といっしょに、岸和田からはご主人と子供さんを連れて。

今回は、医学科の5年生と奥さん、地域資源の4年生も誘おうかと思っているけど、どうなるやろなあ。

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transcriptionと日本語訳

In Zaire the deadly Ebola virus has claimed more than one hundred lives. At least thirty six more are infected with the disease. And Gary Striker reports the source of Ebola still eludes scientists:

ザイールでは致死的なエボラウィルスによって百名以上の死者が出ました。少なくとも更に36以上がその病気に感染しています。ゲイリー・ストライカーは、科学者にもいまだに原因が解っていないと、次のように報告しています。

“A thousand kilometers north of the Ebola outbreak, Zaire’s President Mobutu visits the town of Gimena. He arrived here from the capital where the population faces the threat of an epidemic, now less than two hundred kilometers from Kinshasa. For the people here Ebola seems very far away, too far they would say to affect their lives. But until last month world’s only Ebola victims were found in this remote region. For nearly twenty years the only known outbreaks of Ebola have been reported here in northern and neiboring Sudan. But the latest epidemic in the southwest has convinced many scientists that Ebola virus is probably lying dormant over wide area of tropical Africa. What scientists do not know is where to find the virus between human epidemics. When it flares up apparently from nowhere, spreads and kills its victims quickly, then disappears just as fast."

エボラ騒動のあった場所より千キロ北部にあるギメナの町をザイールのモブツ大統領が訪れています。キンシャサから二百キロも離れておらず、今現在疫病の危機に直面している首都からこの町に到着しました。ここの住民にはエボラはまったく遠くの出来事のようで、余りにも遠く離れているのでまったく生活に影響はないと言えそうです。しかし先月までは、エボラの犠牲者が出たのはこの遠く離れた地域だけでした。ほぼ二十年間でエボラウィルスの発生が報告されたのは隣国スーダンとの境の北部のこの辺りだけです。しかし、南西部で発生した最近の疫病で多くの科学者はエボラウィルスはあそらく熱帯アフリカの広い範囲で至る所に潜んでいると確信を持ちました。科学者に解らないのは疫病が流行るたびにどこでウィルスを見つければいいのかということです。どこかはっきりしない場所からわーっと広がって蔓延して犠牲者を出しては素早く、できるだけ早く消えてしまいます。

“People speculate whether plants, animals, insects or whatever we don’t know. That’s what we really would like to know."

「人々は植物か動物か昆虫か私たちの知らないものが原因だと思っているようですが、それは私たちが本当に知りたいと思っているものです。」

Somewhere in this fertile and forested region the Ebola virus is carried by an animal or insect or maybe even a plant. A vector organism carries the virus without harm to itself eventually passing it to a human victim. Finding the vector for Ebola will be a major step in understanding the virus and eventually finding a way to save the lives of its victims. The first priority now for the international medical team in Kikwit is to contain the Ebola outbreak. Beyond that a long process of investigation and analysis lies ahead. Months and probably years of field work to track down the virus on its homeground. A mission, President Mobutu says will have to be financed by other countries, not his. But this is an era of budgets cutbacks for science. And even if money is available for research on Ebola, finding out where it hides and how to kill it could still be at the far end of a very long road. Gary Striker, CNN, Gimena, Zaire."

この豊かな森林地帯のどこかに、エボラウィルスは動物か昆虫か、あるいは植物によって運びこまれて来ています。病気の媒介生物が自分自身は被害を受けないでそのウィルスを運び、実際に人間の犠牲者にそれを伝染させます。エボラの媒体生物を発見することが、ウィルスを理解し、実際に犠牲者の命を救うための大きな歩みになるでしょう。キクウィットの国際医療チームが今一番しなければいけないのは、エボラの発生を抑えることです。そのあと、調査や分析の長い過程が先に待ち受けています。何ヶ月も、おそらく何年もかけて現地調査を行ない、ウィルスが発生した土地でウィルスを追跡しなければなりません。特別任務を請け負う人たちは自分ではなく、他の国から財政支援を受けることになるだろうとモブツ大統領は語っています。しかい今は科学予算の削減の時代です。たとえエボラの研究に予算がついたとしても、ウィルスがどこに潜んでいるのか、ウィルスを如何に撃退するのかの解決策を見いだすのは、道の遙かにかなたの話になりそうです。ケーブルネットワークニュースのゲイリー・ストライカーが、ザイールのギメナからお伝えしました。

新聞記事日本語訳(伊藤さんがやってくれたところまで。)

The Ebola virus outbreak in Zaire has refocused attention on the vast nation of 40 million people in the heart of Africa that has lurched from one crisis to another since independence from Belgium in 1963 (sic).

ザイールでエボラウィルスが発生して、1963年(原文のまま)のベルギーからの独立以来、数々の危機に揺れ動いて来た中部にあるアフリカ4000万人の広大な国に再び注目が集まりました。

The virus, for which there is no known cure or vaccine, has killed at least 64 people.

治療薬もワクチンも知られていないウィルスは少なくとも64人の死者を出しました。

Many Zaireans are openly angry at the government of President Mobutu Sese Seko, who has ruled unchallenged for most of the past 30 years and, according to critics, salted a way (sic) a personal fortune estimated in billions of dollars.

批評家によれば、多くのザイール人が過去30年間無投票で当選し、不正にためこんだ個人の資産が数十億ドルにのぼるといわれるモブツ・セセ・セコ大統領の政府に公然と腹を立てています。

Opposition commentators and independent journalists blame the frequency of epidemics and lack of resources to deal with them on corruption and mismanagement of the wealth of a country blessed with just about every strategic mineral known to man.

反対派の批評家やフリーのジャーナリストは、流行病が頻繁に起こるのも、取り扱う資源が不足するのも、既知のあらゆる戦略的に重要な鉱物資源に恵まれている国の富の管理ミスと賄賂のせいだと指摘しています。

“Mismanagement of public resources that leads to poor management of the environment create opportunistic factors for the birth and spread of epidemics," lamented an editorial in the opposition newspaper Le Palmares.

「環境の管理不備に繋がる、公共資源の管理ミスが日和見的な要因を作り出して、流行病を発生させたり、広げたりしている。」と反対派の新聞ル・パルメール(Le Palmares)の社説は嘆いています。

“Health facilities are in a deplorable state. We have been heading for disaster for a long time," Lambaert Mende, spokesman for Zaire’s chief opposition leader Etienue Tshisekedi said.

「医療関係施設は悲惨な状況です。私たちは長い間、大災害が起きてもおかしくない方向に向かって進んできました。」とザイールの野党指導者エティニュエ・ツィセケディ(Etinue Tshisekedi)のスポークスマン、ランバエルト・メンデ(Lambaert Mende)は言いました。

Corruption has eaten deep into the fabric of Zairean society and government and even quarantine measures announced to keep the Ebola virus from the capital of five million people are being undermined by bribery, Kinshasa city officials say.

賄賂はザイールの社会と政府に深く染み込んでおり、500万人が住む首都をエボラウィルスから守るために発令された隔離手段でさえも賄賂がきく有様です、とキンシャサ市職員が言います。

Public workers are owed several months salary and bribery has become a way of life.

公務員は何ヶ月分もの給料を払ってもらえず、賄賂は生活の一手段となってしまっています。

<12回目> 7月8日

12回目、残りも3回になりました。日程確認です↓

13回目→7月17日(水)月曜日振替授業

14回目→7月22日(月):黒木くんの2回目のアンケート

15回目→7月18日:それまでに成績をつけて、授業が終わったあと登録すうるつもりです。課題の再提出などがあれば、それまでに。

<今回は>

新聞記事の伊藤さんが最初来てなかったんで、先にERを観てもらってからPapa Wembaの曲を聴いてもらいました。そのあと新聞記事の続き、今回もしっかりとやってくれたと思います。日本語訳をまた後に貼っときますので、参照してや。

<次回は>

①2回目のエボラ騒動のあとの流れ(ザイール崩壊、カビラ政権誕生)

②「アウトブレイク」と1976年の一回目のエボラ騒動

③独立とコンゴ危機

④レオポルド2世の植民地「コンゴ自由国」

⑤アフリカ争奪戦とアフリカ分割

と遡りたいけど、時間あるやろかなあ。

来週に、また。

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transcriptionと日本語訳(続き)

The virus is stretching Zaire’s decrepit medical services, already hard pressed, to cope with the scourge of AIDS, which has hit Zaire harder than most countries.

ウィルスはザイールの老朽化した医療機関に広がっており、医療機関はたいていの国よりも激しくザイールを襲っているエイズ禍の対応追われています。

Zaire’s political problems began early: Katanga, which today is the mineral-rich province of Shaba, made a disastrous attempt at secession, 11 days after independence from Belgium. It was forced back after three years of bloody conflict.

ザイールの政治の問題は早くに始まりました。鉱物の豊かな現シャバ州であるカタンガ州はベルギーから独立した11日後に、不幸な結果に終わった分離工作が謀られました。その分離工作は血まみれの闘争の3年後に強行されました。

The second largest country in sub-Saharan Africa. Zaire has rich farm and watered by the Zaire river, formerly River Congo.

サハラ以南のアフリカで2番目に大きい国ザイールには豊かな農場があり、旧コンゴ川のザイールの川から水の恵みを得ています。

The country is blessed with some of the best copper deposits in the world but the engine of its economy, the state mining collosus Gecamines, has virtually ground to a halt."

その国は世界でも有数の銅の埋蔵量を誇っていますが、経済のエンジンである国営巨大鉱山会社ゲカマイン(Gecamines)は、事実上操業を停止しています。

Copper production dropped from a peak of 500,000 tons to under 50,000 tons in 1994. Cobalt production slumped too.

1994年には、銅の製造量は最盛期の50万トンから5万トン以下にまで落ち込みました。コバルトの製造量も同じようにひどく落ちみました。

The government has dissolved three core companies in the Gecamines group and not said what will become of the state company, which generates over 70 percent of its hard currency.

政府はゲカマイン(Gecamines)グループの中の3つの中心会社を解散させ、硬貨の70パーセント以上を製造する国営会社の先行きについては言及していません。

The World Bank, International Monetary Fund and creditors led by former colonial power Belgium abandoned Zaire long ago.

世界銀行も国際通貨基金も旧宗主国ベルギーが仲立ちをする債権者たちも、ザイールをずっと以)前に見捨てています。

With inflation running close to five digits, the government has periodically reverted to printing mountains of worthless money.

インフレ率が5桁近くなりつつあるインフレで、政府は定期的に価値のない紙幣を山のように印刷するようになっています。

The capital Kinshasa is still recovering from waves of looting by unpaid soldiers in 1991 that forced France and Belgium to send troops to evacuate Europeans.

首都キンシャサは、ヨーロッパ人を退去させるための軍隊派遣をフランスとベルギーに強いた、給料を払ってもらえない兵士たちによる1991年の数々の略奪行為から何とか立ち直ろうとしているところです。

The United States, which propped up Mobutu during the Cold War as a bulwark against communism in Africa, has been at the forefront of pressure for democracy in Zaire.

アメリカは、冷戦の間アフリカで共産主義に抗する防波堤としてモブツを支援してきましたが、今は最前線に立って、ザイールでの民主主義を求めて圧力をかけています。

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トーイックの1~3年生の分のスコアを送ってもらいました。どの学年も平均は大差ないようです。

3年生は800点台2人、600点台が1人、500点台後半が7人。

2年生は留学生がほぼ満点、700点台が2人、600点台が2人、500点台後半が4人。

1年生は700点台が1人、600点台が1人、500点台後半が4人。

ただ、リスニングと同じくらいリーディングが取れれば、700点台になりそうな人が1年生で数人。リスニング、がんばってやったんやろなあ。

スコア必要な人は、引き続き、手伝うんで、いつでもどうぞ。メールで連絡をもらえれば部屋で話しをするよ。夏休みに集中してと思ってる人も、もちろんつき合えると思うよ。

次回聞いてみるけど、希望があれば、最後の授業ですでにプリントを配ってあるTest 1 Part2(リスニング4つのうちの一つ、疑問文に対する答え方)とPart 6(リーディング3つのうちの一つ、文法問題関連。)をやってもええけどね。

後期はTest 1のPart3, 4, 7をやって、まだやれそうならTest 2も、と考えています。(トーイックのスコアが500点台の後半以上の人は、たぶん授業で会えないと思うけど。)

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今期、大きなクラスを持たない分、余裕を持って成績も出せると思うし、八月九月はフルに使えたらと思っています。

大学には小説を書く空間が欲しくて来たんで、そろそろ書いて稼がんとなあ、と原稿用紙を印刷して書き始めました。衆目にたえるものが書けるかどうか、書いてみんとわからんけど。70のデビュー、かあ。

<13回目> 7月17日(水、月曜日振替)

水曜日でしたが、月曜日の振替授業で12回目、残り2回です。↓

14回目→7月22日(月):黒木くんの2回目のアンケート

15回目→7月29日:それまでに成績をつけて、授業が終わったあと登録するつもりです。課題の再提出などがあれば、それまでに。

<今回は>

最初の頃に配ったザイールを含むアフリカ大陸を横断する道路を中心にした熱帯地域の地図と伊藤さんが読んでくれた新聞記事を見ながら、プリントの中の英文の紹介などをして1995年のエボラ出血熱騒動のあとの流れ(ザイール崩壊、カビラ政権誕生)をみてから、独立・コンゴ危機の映像を見てもらいました。

 

1995年の2回目のアウトブレイクの翌年にカビラが蜂起してキンシャサに入り、モブツはモロッコに逃げてザイールは崩壊、カビラの暫定政権が誕生しました。そのとき、新聞記事の最後↓にあるように、案の定、アメリカはアメリカ式の民主主義を押しつけて、早く選挙しろとカビラをせき立てましたが、その時、真っ向からその意見に異を唱えた人が二人いました。↓

「The United States, which propped up Mobutu during the Cold War as a bulwark against communism in Africa, has been at the forefront of pressure for democracy in Zaire.

アメリカは、冷戦の間アフリカで共産主義に抗する防波堤としてモブツを支援してきましたが、今は最前線に立って、ザイールでの民主主義を求めて圧力をかけています。」

一人は、元タンザニア大統領ニエレレで「道徳的にそんなことが言える資格があるんか、西洋諸国は少しは恥を知る方がいい」とロサンジェルス・タイムズに書きました。そして、道路を整備し8つ隣接する国との行き来をスムーズにして、南アフリカとも繋いでコンゴを中心にした一大ネットワークを作れば、充分にアフリカを再生出来ると言っています。

もう一人は、元タイムズ記者で後に歴史家になってたくさんの本を書いたバズル・デヴィドスンで、ザイールの荒廃の今こそが西洋諸国に介入されずに自分たち自身で国のことをやれる初めてで、最大のチャンスだと言い切りました。ちょっと難しいけど、是非読んでもらいたいなあ。

英文はどっちもイギリス風な英語で難しいけど、折角の機会、読んでみてや。

そのあと、レオポルド2世のコンゴ自由国:植民地時代→植民地争奪戦・ベルリン会議と植民地分割あたりまでをバズル・デヴィドスン↑が作った映像「アフリカシリーズ」で観てもらいました。なかなか貴重な映像やと思います。

最初からずっと言ってるように、今まであまり触れなかった題材を使って、自分について考える機会になったやろかな。

他の学年の時もそうやったと思うけど、折角自分の史観や意識を確かめるいい機会やのに、反応がいま一つやった気がするなあ。来てない人も多かったし。自分が授業料払って授業を受けてるんやから、もったいない気もするなあ。

30分ほど、トーイックの過去問。一つ一つ解説してると時間かかるねえ。でも授業で力がつくと思うのは錯覚、最後は自分でやるしかないもんなあ。

<次回は>

トーイックの過去問の続き、Part 2(リスニング)の残りとPart 6(リーディング)。

また、来週に。

<14回目> 7月22日

2回目の黒木くんのアンケート、協力をありがと。教室をL111やと思ってたそうで、一つ一つ教室を確かめて来たようです。基礎教育支援室には教室の変更を届けて、そこの時間割表の教室名は書きかえてくれてはるけどね。

卒論、黒木くんの思っているように書けるとええね。

<今回>は14回目、今回はトーイックのリスニングの過去問Part 2の16から10題だけ。

原田くんはすでにやってたようで。一人でも自分でやってくれてる人がいると大変やったけど、準備した甲斐があるなあと嬉しくなるね。やってた人には申し訳なかったなあ。

派生して、答えの理由や、他の表現や発音の解説など、いろいろやったつもり。結構喉が痛くなってたもんね。

あのあと2年生のビジネス英語があったんやけど、トーイックを継続してやってる人は一握り、去年の今頃は平均400点くらいあったのが、今日計算してみると360点、すっかりやめてしまってる人が大半、みたいやね。

学部としてはトーイックを必須にして評価も半分と、大学設置審には出したみたいやけど、実際は学生はそんなにやらないし、一期生の内定を見ても、あんまりトーイックが影響してないみたいで、考える時期かも。

もちろん、授業でも何回も言ったように、英語が使えて実際に悪いことはないし、英語が使えればトーイックのスコアものびるから、トーイックを続けてもそれなりに利点もあるとは思うけどね。

7月29日が最後の授業です。未提出の人は来週には提出を、課題の再提出などがあれば、それまでに。

<次回は>

一人一人の授業の感想を聞くつもりです。後期もあるんで、僕もみんなも楽しくやれるにこしたことはないんで、参考にさせてもらって、出来ることはやろうと思っています。

何とか梅雨も終わりやろか。今年は雨も多かったし、酷かったね。ダウンが黴だらけになってる、と奥さんがこぼしてたな。30年以上いるけど、部屋や衣類が黴びたのは2回目。それくらいの雨量やったんやろな。もっと早うにエアコンを入れてたら、湿気対策にもなってたのにね。暑さ寒さに敏感な猫3匹といっしょやから、エアコンを入れるのも気を遣いすぎて。

危うく大災害が起こるとこやったけど、あれくらいで終わってよかったなあ。これから台風が来て、思わぬ被害が出る可能性もあるけど。何とか被害が出ないように祈ります。

課題や提出物のチェックとトーイックの点数の転記と換算の割合(そのままつけると、たぶん再試や不可の人がだいぶでそうやから)も決めたんで、週末に読んで一気に成績をつけようと思っています。

その前にまた、水曜日から土曜日まで吉祥寺。行けばそれなりにすることもあって。

また、来週に。

<15回目> 7月29日

<授業評価アンケートよろしく>

少し言いましたが、携帯かパソコンかで各自やっておいて下さい。よろしく頼みます。

<授業一覧に、今回の分も含めてぜんぶの授業を貼り付けました。一覧出来ます>→「2019年前期 R1a (2) 授業一覧」

15回目、最後の授業でした。

みんなの授業についてのコメントを聞き、単一作物を作らされる現状(ガーナのカカオとタンザニアのサイザル麻)を訴える二人の映像と、バズル・デヴィドスンの「アフリカ・シリーズ」の締めくくりの映像を観てもらい、最後に1985年にロンドン郊外のウェンブリースタジアムで7万人の観衆を集めて行われたライブエイドのポールマッカートニー(ビートルズの一人)のLet It BeとフィナーレのDo They Know its Christmas?を観て聴いてもらいました。

新植民地政策の絡繰りを見てもらって初めて、医者のーターがコンゴに行ったERの世界に繋がったわけです。アフリカ人同士が殺し合いをして、武器を送りアフリカの資源を食い物にするヨーロッパやアメリカや日本が潤うという構図です。あのERの続きでは、ルーカが殺されたという知らせを受けたカーターが、死体を引き取りにもう一度コンゴに出向いた時の話が描かれています。

最後に来てくれたのは20人。ちょっと寂しかったねえ。来てもらえないくらいの授業しか出来んかったんかもなあ。

また、後期に。

<後期は>

大半の人と顔を合せられるので、前期の延長でやろうと思っています。

教養的なものについてはアフリカ系アメリカ人の話(所謂ブラック・ミュージックを中心に)、トーイックに関してはTest 1の続きと『金のフレーズ』のグループワークをと考えてるけど、始まってからみんなの意見も聞いて修正するかも知れんなあ。

トーイックに限らず、進路などに関しても、僕に出来ることはするつもりです。いつでもメールで連絡をもらえれば、研究室に行くんで、遠慮なくどうぞ。そのために、退職後もいるんやし。

また、後期に。

成績に関しては、課題、提出物3つ=5割、トーイック試験=5割、シラバスに書き、授業でも言ったように成績をつけて、再来週29日の週に登録しておきます。(たぶん、その頃には学生支援課の準備も出来てるやろから。)