英語 Ra1(2)

8回目の授業、後半に入りました。

<今回>は

2巡目のコメント(青木くん、足達くん、荒田さん、安藤くん、伊藤さん、入江くん、小幡くん、甲斐さん)のあとトーイックの過去問、サンプルのリスニングPart2~Part4、だけで時間切れ。時間かかるもんやなあ。

<次回>もトーイックだけ(22日に1回目の試験までの特別編)

サンプル問題リーディングPart5~8→Test 1 Listening 2~4も行けるかなあ。

印刷した分は配ります。

やっててわかった人もいるかも知れないけど、最後は語彙も要るし、この名詞を使う時にはこの動詞かあの動詞、みたいに、実際に使う中で覚えたものを増やして慣れる、それが一番やと思うね。だから、『金のフレーズ』のように、実際にトーイックのテストで出た文章を分析してよく使われる句を取り上げて例文や派生語や慣用句を並べたものがよう売れてるんやろな。最初に配った①~⑤のプリントは、過去問をさっとやった上で、あらためてやってみると役にたつと思うで。

日本語の文章を見てさっと英文が浮かんでくるくらい繰り返してやったら、知らずに語彙も増えるし、ビジネス用語にも慣れるんで、過去問を少しやったと、そっちを何かの形でやってみてもええな。そのつもりで最初に配ったから。

一期生の4年生には一冊買ってもらったけど、句だけより文章がある方がええと思って補足してプリントをこしらえ、二年目からは大層な思いをしながら印刷したのを配ってるな。役に立ててもらえると嬉しいけど。

英語 Ra1(2)

7回目の授業、来週から後半です。

<今回>は

コメント(西くん、西田くん、波田野さん、濱崎さん、原田くん、藤野さん、松原くん、宮田くん)を言ってもらってから(もう少しいろいろしゃべってくれると名前も定着しやすいんやけどなあ)

バンツースタン→(安価な労働力の例として)ダーバン郊外の砂糖黍畑で働く12歳のアフリカ人少年(農場で)→ヨハネスブルグの金鉱山(1972年頃と1987年ころ)→労働組合委員長のインタビュー→たこ部屋(Compounds, Hostels)から鉱山近くの粗末な売店に行く茂みで待ち受ける売春婦の映像を観て聴いてもらい、最後に「グレースランド」のスティメラを観て、聞いてもらいました。前々回、前回で読んでもらった内容の映像を少し見てもらえたと思います。

スティメラを歌い、トランペットを吹いていたヒュー・マセケラ

<次回は>

南アフリカの話は中断して、再来週と2回、トーイックの過去問を集中してやろ。リーディングPart5→リスニングPart2→リーディングPart6くらいまではやれるやろか。(それでTest1の半分)

リスニングPart2~Part4、リーディングPart6~7のサンプル問題をやったあと。(サンプル問題は全部やるんで、それで大体の傾向がわかると思うよ。)

まだ全部は印刷してないけど、再来週(試験の週)にはTest1を全部配れるように印刷しときます。印刷も大変やけどねえ。

**************

あしたの2コマ目の工学部の授業が終わってから金曜日まで吉祥寺。去年は吉祥寺に3回と名古屋に1回行きました。科学研究費を旅費ででも使わんと使い切れへんからね。医学科では個人の研究費も結構あったし、他にも科研費や外部資金もあったんで、毎年何回か吉祥寺と神戸を拠点にうろうろしてました。宮崎医大に来てから、30年以上、毎年何回か行っています。

神戸三宮のセンター街、週日の昼間に

ハラレに行ってからは外国に行くのが億劫になり、1988年にカナダ、2010年ころにタイのプリンスオブソンクラ大学に行った切りです。カナダには北アメリカに亡命中の南アフリカの人が50人ほど集まった会議に呼ばれて話をするために行きました。

会議でのアレックス・ラ・グーマ夫人ブランシさん

タイは、医学科生の実習用の英語を担当してるのに、実際の病院での実習を見ないとちょっと後めたいなあという気持ちもあって、同僚の横山さんが行ってる途中に二日ほどこっそりと行きました。大学の学生寮に泊まったけど、今から思うと、ホテルの方がよかったのになあと思います。バーツに対して円は強いから、結構いいホテルに泊まれたやろにねえ。

今日からソンクラの3年生が3人、研究室配属で4週間、基礎医学講座に来ています。医学科の人で将来東南アジアで働きたいからと研究室に英語を話しに来ている学生がいるんで、その人たちと繋がなくっちゃと考えているところです。

ソンクラの学生と医学部の6年生、ソンクラ大で

タイの人たちのもてなし方は尋常ではなく(いい意味で。行った学生は、こんなに世話尾してもらうんやったら、日本にタイの学生が来た時にもっともてなしとけばよかったなあ、と必ず言うくらい)、いろいろ招待されるのがわかってたから、こっそり行くことにしました。酒の席がどうも苦手やし、知らない人の多いところでいろいろ聞かれてしゃべるのもあんまり好きではないんで。それでも小児科医の人に学生といっしょに夕食に誘われました。御殿のようなところに住んではって、食事もメイドさんが作ってくれはったようです。タイの料理は辛いそうやけど、洗練された上品な味で、すんなりおいしく食べたような気がします。

今も科研費があるからアメリカでもアフリカでも行こうと思えば行けるんやけど、どうもその気にならないまま。教授はビジネスクラスを使ってもええ規定らしいけどね。もちろん、使ったことないけど。

英語 Ra1(2)

6回目の授業でした。

<今回>は

Test 1 Part 1の残りを最後まで。Test 1 Part 1の音声を参考ファイルに置いあるんで、何回も聞いてやりや。解説を配り忘れたんで、次回に。忘れてたら、誰か言ってや。

コメントは、聞けなくてテキストの発表、荒田さんがTHE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEID、河野多恵さんがMass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLE、この前の河野舞香さんと同様、二人ともしっかりと準備して来てたし、発表もなかなか堂々としてよかったです。感心しました。

二人のやってくれたところも含めて日本語訳をまた貼っときますので、自分が読んだのと比べてみてや。

配ったプリント:

* ラ・グーマ

* ラ・グーマとマセケラ

* 5文型と品詞・用言と体言・句と節・副詞

* 分詞

次回今日読んだ箇所の映像をみながら使いますので、目を通しておくとわかりやすいです。文法についてはリーデーング4種類のうちの一つPart 5をする時に説明に使います。穴埋め4択問題、ほとんど文法問題、センター試験とよう似た問題です。

<次回>は

歌の紹介と、映像を交えながら南アフリカ史のまとめ、Reading Part 5を少し、かな。

今日二人がやってくれた背景や補足も出来るといいと思います。一国の歴史の全体像を短期間に把握するのは難しいと思います。僕も、宮崎に来た1980年代後半、反アパルトヘイト運動の一環として行われていたアパルトヘイト否(ノン)という美術展、講演会などで話するのを頼まれて、急遽南アフリカの歴史をやり始めたけど、全体像を見渡すのに大体10年くらいかかったように思います。その間、在外研究でジンバブエにも行ったけど、本を読んで実際に自分の目で確かめて来ても、やっぱり全体像が見えて心のなかでしっくりくるようになるまでには、時間がかかるみたいです。

1988年に松山市で行った講演です→(「アパルトヘイトの歴史と現状」)「ゴンドワナ」14号 10-33ペイジ(横浜:門土社、1988年)

来週に、また。

荒田さんと河野多恵さんがやってくれたところの日本語訳を貼っときます。

THE 1948 APARTHEID REGIME 1948年のアパルトヘイト政権

African resistance put a strain on the white alliance of the Afrikaners and the British, and created a crisis in the South African system. Social changes lay behind the increased African militancy, and the ruling party, close to mining capital, was unable to handle the situation.

アフリカ人が抵抗したので、アフリカーナーと英国人による連合政権は緊迫し、南アフリカの制度は危機的な状況に陥りました。アフリカ人がますます激しく抵抗する背景には様々な社会変化があり、鉱山資本に近い与党は、その状況にうまく対処出来なくなりました。

The manufacturing sector in South Africa grew rapidly during the War when the hold of imperialism loosened, and Britain and the United States needed consumer goods from abroad because their own production was focused on manufacturing armaments. This industrialization in South Africa meant a demand for more African workers. During 1939-49 the number of Africans in the private manufacturing industry grew from 126,000 to 292,000.

南アフリカの製造部門は帝国主義の支配力が緩んだ第二次大戦の間に急速に成長し、英国と米国が主に武器の製造に力を入れざるを得なくなったので、消費物資を外国から調達する必要に迫られました。こうして南アメリカの工業化は進みますが、その結果、もっとたくさんのアフリカ人労働者が必要になりました。1939年から49年の間に、私有の製造産業でのアフリカ人の数は126,000人から292,000に増加しました。

The new industries tried to attract labour by offering the African workers higher wages than they got in the mines and or the farms. But the white-owned agriculture had also expanded enormously during the War. And neither the farmers nor the mine owners were prepared to raise the African wages to compete with those in the manufacturing industry. Instead, they demanded a state regulated labour market, which would guarantee them a steady flow of cheap African labour.

新たな産業は、アフリカ人労働者が鉱山や農場でもらうよりも高い賃金を出して労働者を引きつけようとしました。しかし、白人所有の農業も大戦中に著しく拡大していました。そして、農場や鉱山を所有する人たちは製造産業の賃金と張り合ってアフリカ人の賃金を上げるつもりはありませんでした。代わりに、国が規制する労働市場、つまり自分たちに常に一定の安価なアフリカ人労働者を保証するように国に要求しました。

The whites in the new industries felt that their position was threatened by the African workers. They had learnt to put their trust in the Afrikaner nationalists, because they had given them job security and privileges when they started a state-controlled industrialization process before the War, with state-owned steel production, among other things. Within the state sector the white employees, unlike the African workers, were guaranteed security and benefits by clauses on positions reserved for whites. For those Afrikaners who had become impoverished when mining capital expanded and bought land, racial discrimination became their only barrier against falling to the very bottom of society.

新しい産業で働く白人は、自分たちの地位がアフリカ人労働者によって脅かされていると感じました。白人労働者は民族主義的なアフリカーナーを信用していました。というのも、第二次大戦前に国が主導して産業化の政策を進めたとき、中でも特に国有の製鉄の政策を始めたとき、自分たちに仕事を保証し、特権を与えてくれていたからです。国有部門で白人の雇用者は、アフリカ人労働者と違って、白人専用に確保された法律上の身分条項によって、安全と利益が保証されていました。貧しくなっていたそういったアフリカーナーにとって、鉱山資本が手を広げて土地を購入したとき、人種差別が社会の最底辺に落ちないための唯一の防壁となりました。

THE POLICIES OF APARTHEID アパルトヘイト政策

The Afrikaans word apartheid means separation in English. It was the slogan in the National Party campaign. They saw a future where whites and Africans would live completely separate, and 'develop their distinct character.’ But in reality no real separation would or could be sought, because African labour power was needed as the basis for the prosperity of the whites. (See Appendix South Africa 2)

アフリカーンス語のアパルトヘイトは、英語では隔離を意味します。アパルトヘイトは国民党の選挙活動のスローガンでした。国民党は白人とアフリカ人が完全に別々に暮らし、「それぞれの特性をのばす」という将来を夢見ていました。しかし、現実には、アフリカ人の労働力が白人が繁栄するための基礎として必要でしたから、本当の意味での隔離は考えられませんし、実際には不可能です。

More than three million African workers and 2.5 million African domestic servants live in the 'white’ areas. Three-quarters of the wage employees in South Africa are Africans. The National Party soon admitted that the separation was to be separate sets of political and civil rights for blacks and whites. Every African had citizen rights only in the bantustan area of his own 'tribe’ whether or not he had set foot there. The nine African reserves or bantustans in reality consisted of a large number of scattered land areas, mostly barren areas suffering from land erosion and poverty. These bantustans functioned as large labour reserves for the 'white’ areas.

「白人」地域には300万人以上のアフリカ人労働者と250万人のアフリカ人のボーイやメイドが暮らしています。南アフリカの賃金雇用者の4分の3がアフリカ人です。国民党はすぐに、隔離は黒人と白人それぞれ別々の政治的な権利や市民権であるということを認めました。今まで足を踏み入れたことがあってもなくても、すべてのアフリカ人は、自分たち自身の「部族」のバンツースタン地域でのみ、市民権がありました。現に、9つのアフリカ保留地、すなわちバンツースタンは多くの飛び地から成り、そのほとんどが土地が浸食されたり、貧困に喘ぐ不毛の土地です。それらのバンツースタンは「白人」地域のために無尽蔵の労働力を確保する土地として機能しています。

The bantustan policy meant that Africans were to be prevented from living permanently in the white areas. Ruthless, forced evictions took place to force 'surplus labour’ to move from the towns to the bantustans. Crossroads outside Cape Town is only one example of this policy.

バンツースタン政策は、アフリカ人を白人地区で永住させないという意味のものでした。冷酷で、強制的な立ち退きが、「余剰労働力」を町からバンツースタンに強制的に移動させるために強行されました。ケープタウン郊外のクロスローヅはこの政策の一例です。

REFERENCE 3 参照3

We can hear the news of Radio South Africa about the 1978 Crossroads eviction in the following scene of Cry Freedom.

Newscaster: “This is the English language service of Radio South Africa. Here is the news read by Magness Rendle. Police raided Crossroads, an illegal township near Cape Town early this morning after warning this quarter to evacuate this area in the interests of public health. A number of people were found without work permits and many are being sent back to their respective homelands. There was no resistance to the raid and many of the illegals voluntarily presented themselves to the police. The Springbok ended . . ."

米国映画「遠い夜明け」の以下の場面で、1978年のクロスローヅの立ち退きについての南アフリカのラジオニュースが出てきます。

ニュースキャスター:「こちらは南アフリカラジオの英語放送です。

マグネス・レンドルがニュースをお伝えします。公衆衛生の見地から、その地域を空け渡すように勧告を出したあと、今朝早く警察は、ケープタウン郊外の不法居住地区クロスローヅの手入れを敢行しました。多くの人が労働許可証を持たず、それぞれのリザーブに送り返されています。手入れに対して全く抵抗の気配もなく、不法滞在者は自発的に警察署に出頭していました。放送を終わります・・・。」

The hated section 10 in the Native Laws Amendment Act from 1952 rule that no African could visit a place outside his reserve for more than 72 hours, unless he could prove that he had lived there since birth, or had worked in the same area for the same employer for at least ten years, or had legally resided in the same area for 15 years, or was the wife or child under 16 of a person with these qualifications. Residence permits could also be given by labour bureaus. But even those who fulfilled these requirements could be deported at any time as 'superfluous.’

1952年に制定された一般法修正令の忌まわしい第10(節)条には、生まれてからずっとそこに住んでいたか、あるいは、少なくとも10年間同じ雇用者の同じ場所で働いていたか、あるいは、合法的に15年間同じ土地に住んでいたか、あるいは、それらの資格がある人の妻か16歳以下の子供であるかが証明出来ない限り、アフリカ人は72時間以上は自分のリザーブ外の土地を訪れることができないと規定されています。労働局が居住許可証を発行出来ました。しかし、それらの資格を満たしている者でも、いつでも「余剰者」として追放されました。

MASS MOBILIZATION AND OPPRESSION 大衆動員と抑圧

Despite severe oppression the ANC continued to work openly. But it soon abandoned its former policy of deputations and petitions, and launched a new phase of mass actions. The adoption of the Programme of Action in 1949 signalled this new stage in the struggle, and the next years showed a capacity for militancy among the black population.

厳しい抑圧にもかかわらず、アフリカ民族会議は公然と活動を続けました。しかし、アフリカ民族会議すぐにそれまでのように代表者を派遣したり懇願するのはやめて、大衆行動という新しい段階に突入しました。1949年の行動綱領の採択は解放闘争の新しい段階の前触れで、その後の何年かで、アフリカ人が積極的に闘う能力があることが証明されました。

In 1953 the ANC started to prepare a large national conference with representatives from all racial groups and from various organizations. In contrast to the all-whie parliament in Cape Town this conference was to express the will of the whole South African people. A large number of meetings were held in towns, factories, and on farms to formulate proposals for delegates and for the conference declarations. On 25 and 26 June 1955 more than 2,850 delegates from all over South Africa gathered in Kliptown outside Johannesburg and, after discussions, adopted the Freedom Charter.

1953年に、アフリカ民族会議はすべての人種グループと色々な組織の代表者による大規模な国民会議の準備を始めました。ケープタウンでの白人だけによる議会とは対照的に、この議会は、すべての南アフリカの人々の意思を表わしたものでした。たくさんの会議が町や工場や農場で行なわれ、代表と会議の宣言のための草案が作られました。1955年6月25日と26日に、南アフリカじゅうの2850人以上の代表者がジョハネスバーグ郊外のクリップタウンに集まり、議論の末に、自由の憲章が採択されました。

This document opens with the words, 'We, the people of South Africa, declare for all our country and the world to know: that South Africa belongs to all who live in it, black and white, and that no government can justly claim authority unless it is based on the will of the people . . .’ It also says that land shall ` be shared among those who work it, that the doors of learning and culture shall be open to all, and that the mineral wealth, the banks and monopoly industry shall be transferred to the people as a whole. The organizations which had arranged the Kliptown conference joined to form the Congress Alliance. It consisted of the ANC, the South African Indian Congress, the South African Coloured People’s Congress, the Congress of Democrarts (a white organization), and the trade union central body SACTU (the South African Congress of Trade Unions). The SACP worked under- ground ever since it was banned in the early 1950s.

この憲章は以下の言葉で始まります。「私たち南アフリカ人民は、すべての国と世界に知ってもらえるように宣言します。南アフリカは黒人も白人も、そこに住む人々に属し、人々の意志に基づかないない限り、どんな政府も公正に権利を主張できない、と・・・。」また、土地はそこで働いている人たちの間で分配され、学問や文化の門戸はすべての人に開かれ、豊かな鉱産資源や銀行や独占企業はひとまとめで人々の手に引き渡すと宣言しました。クリップタウン会議に参加した組織は会議運動を形成しました。それはANC、南アフリカインド人会議、南アフリカカラード人民機構、民主主義者会議(白人の組織)、そして労働組合の本体SACTU(南アフリカ労働組合会議)で構成されていました。SACP(南アフリカ共産党)は1950年代初期に活動禁止処分を受けて以来、地下活動を行ないました。

REFERENCE4 参照4

 Benjamin Pogrund, a South African journalist, introduced the PAC major aims listed by Sobukwe and five aims adopted by the Congress in his book Sobukwe and Apartheid:

南アフリカの新聞記者ベンジャミン・ポグルンドは、ソブクウェが挙げたPACの主な目的と、国民会議で採択された5つの目標を著書『ソブクウェとアパルトヘイト』の中で紹介しています。

“Sobukwe listed three major aims: firstly, politically, `the government of the Africans, by the Africans, for the Africans, with everybody who owes his only loyalty to Africa and who is prepared to accept the democratic rule of an African majority being regarded as an African. We guarantee no minority rights because we think in terms of individuals not groups.’ Secondly, `economically we aim at the rapid extension of industrial development in order to alleviate pressure on the land which is what progress means in terms of modern society. We stand committed to a policy guaranteeing the most equitable distribution of wealth.’ Thirdly, `socially we aim at the full development of the human personality and the ruthless outlawing of all forms of manifestations of the racial myth.’ "

「ソブクウェは主な三つの目標をあげました。第一に、政治的にはアフリカに忠誠心を置き、誰もがアフリカ人として大多数のアフリカ人の民主主義的な支配を快く受け入れる、アフリカのための、アフリカ人による、アフリカ人の政府。集団として見なすのではなく、個人として考えるので、少数派の権利は保証しません。」第二に、「経済的には、土地への抑圧を減らすために、産業の発展を急速に拡大させるつもりです。現代社会ではそれが進歩を意味しますので。富の最も公平な分配を保証する政策も推進する方針です。」第三に、「社会的には、各個人の人間性の十分な発達と、あらゆる種類の明らかな人種差別を法律的に徹底的に排除したいと考えます。」

“Five aims were adopted: `(a) to unite and rally the African people into one national front on the basis of African Nationalism; (b) to fight for the overthrow of white domination, and for the implementation and maintenance of the right of selfdetermination for the African people; (c) to work and strive for the establishment and maintenance of an Africanist Socialist democracy recognising the primacy of the material and spiritual interests of the human personality; (d) to promote the educational, cultural and economic advancement of the African people; (e) to propagate and promote the concept of the Federation of Southern Africa, and Pan Africanism by promoting unity among peoples of Africa.’ "

「五つの目標が採択されました。「(a) アフリカナショナリズムを基に、アフリカ人民をある国民前線に団結させ、集めること。(b) 白人支配打倒と、アフリカ人の自己決定権の実現と維持のために闘うこと。(c) それぞれの物質的、精神的利益が最も大切あると認め、アフリカの社会民主主義の確立と維持のために働き、闘うこと。(d) アフリカ人の教育、文化、経済の向上を奨進すること。(e) アフリカの民族間の統合を推進して、南部アフリカ連合とパンアフリカニズムの概念を普及し、奨励すること。」

In 1959 the ANC decided to organize a mass protest against the pass laws. The protest was going to begin on 31 March 1960. In the same year the PAC drew up a plan to campaign for freedom for South Africa by 1963. The PAC campaign began on 21 March 1960. On the day thousands of people gathered at the police station in Sharpeville Township. The police opened fire, and 69 people were shot dead. This became known as the `Sharpeville massacre.’ On the day, Sobukwe and other leaders were arrested.

1959年に、ANCはパス法に反対して大規模な抗議運動を計画することを決めました。抗議運動は1960年の3月31日に始まる予定でした。同じ年に、PACは1963年までに南アフリカの独立を求める運動を展開する計画を立てました。PACの抗議運動は、1960年の3月21日に始まりました。その日、数千人の人がシャープヴィルの警察署に集まりました。警察は発砲し、69人を射殺しました。これは「シャーペビルの大虐殺」として知られるようになりました。その日に、ソブクウェと他の指導者たちは逮捕されました。

THE ARMED STRUGGLE 武力闘争

The Sharpeville massacre became the turning point. The ANC and the PAC were banned and forced to start an armed struggle. In 1961 the ANC formed an army called `Umkhonto we Sizwe’ (`the Spear of the Nation’) and the PAC formed a secret army called `Po(g)qo’ (`Alone’). The Umkhonto began to blow up pass offices and electricity power-lines, while the Poqo began to attack chiefs and policemen. But in 1963 the police arrested their leaders. By 1964 all of them, including Nelson Mandela, were imprisoned. A period of decline followed. Many leading activists had to flee the country to escape arrest. The work underground proceeded but with great difficulties. Open actions could not be carried out. By 1965 the armed struggle had been crushed. The PAC and the ANC were forced to continue their armed struggle from outside South Africa. The parties’ leadership and liberation armies moved to Zambia and Tanzania and their military training took place in Africa and overseas. They sometimes linked up with the liberation armies in Southern Rhodesia (Zimbabwe).

シャープビルの大虐殺は転機点になりました。ANCとPACは非合法化され、武力闘争を開始せざるを得ませんでした。1961年にANCは「ウンコントウェシズウェ」(民族の槍)と呼ばれる武力闘争部門を創設し、PACは「ポコ」(単独で)と呼ばれる秘密の武力組織を作りました。ウムコントはパス(通行証)管理局や送電線を破壊し、ポコは首長(チーフ)や警察官の襲撃を始めました。しかし1963年に、警察は両組織の指導者を逮捕しました。1964年までに、ネルソン・マンデラを含むすべての指導者が投獄されました。衰退の時期が続きました。多くの指導的立場にいた活動家が、逮捕を逃れれて国外に逃亡しました。地下活動は続きますが、非常に困難を極めました。公の活動は実行出来ませんでした。1965年までに、武力闘争は抑えこまれました。PACとANCは南アフリカの外から武力闘争を続けざるを得ませんでした。党の指揮権や解放軍はザンビアやタンザニアに移り、軍隊訓練はアフリカや海外で行なわれました。両者は時々、南ローデシアの解放軍と連携しました。

英語 Ra1(2)

5回目の授業でした。これから最後まで毎週授業があります。三分の一が済みました。本格的にやれそうやね。

<今回>は

過去問Test 1 Part 1を3題だけ(次回は10問まで)。Test 1 Part 1の音声を参考ファイルに置いとくんで、何回も聞いてやりや。

そのあとのコメントは、小松くん、迫田くん、里中くん、副島くん、天神原くん、長友映利香さん、長友萌花さん、中原さん。自己紹介だけが多かったけど、いろいろ話をしてくれると、僕も顔を覚えやすいんやけどなあ。

そのあと黒板も使って用語の解説、今日読む前辺りまでの話を英語でしました。もう一回そこらまでの流れを貼っときます。

*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)

それから河野舞香さんがTHE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERSとThe UNION OF SOUTH AFRICA ANS RESERVESをファイルを使って日本語でやってくれました。きちんと調べて丁寧に発表してたと思います。

最後にざっと英語を見ようと始めて時間切れ。来週はその続きもさっとやるかな。

話の中で出たアフリカ分割については、今回とは直接にという話ではないし、今話をするとちょっと時間を食いそうなんで、コンゴの話をする時に詳しく話をするね。

今回の過去問は、絵を見ての4択で、4種類あるリスニング問題の一つです。

前回やったサンプル問題2題と今回と次回でやるTest 1は10題。その形式の例題を集めたのが、『金のフレーズ」⑤、繰り返してやりや。

リスニングは速度を早くして聞くのはかなり有効的やと思うで。

配ったプリント:

* Test 1 Part  1 問題(終わったら解説も配ります)

<次回>は

コメントを何人か聞いてから、Test 1 Part  1の続き、THE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEID(荒田芽依さん)、Mass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLE(河野多恵さん)。

あと日本との関係を少しやって、大体南アフリカについては終わりで、最後に「アフリカの蹄」をみてもらう予定。

歌の紹介と、映像を交えながら南アフリカ史のまとめ、する時間があるやろか。

来週に、また。

解説したところと河野舞香さんがやってくれたところの日本語訳を貼っときます。細かいところは見比べてや。

THE COLONIZATION OF SOUTH AFRICA 南アフリカの植民地化

 When Europeans arrived in the southern part of Africa, different peoples had been living there for some centuries. Groups of San people lived in the mountains and on the edges of the deserts in the southeast. They hunted rock rabbits, lizards, locusts and so forth. Near them lived the Khoikhoi who herded cattle and had more permanent camps than the San. They sometimes intermarried.

南部アフリカにヨーロッパ人が到着した時、そこにはすでに何世紀にも渡って様々な民族が住んでいました。サンの人々はいくつも集落を造って南東部の山や砂漠の端に住んでいました。その人たちは岩兎や蜥蜴や蝗などの狩りをして暮らしていました。サン人の近くには、家畜を飼うコイコイ人が住んでいて、狩りをして移動するサン人よりは定住型の生活を営んでいました。時にはサン人とコイコイ人は結婚することもありました。

The Europeans began to settle down in the latter half of the 17th Century on the initiative of the Dutch East India Company. The Dutch traders had out-rivalled the Portuguese and taken over the spice trade with Asia. Because the voyage to Asia was long, the Company built a depot of provisions at the Cape of Good Hope in 1652. A small white settlement was to grow vegetables and supply other services for the Company. The colony was completely dependent on the Company, among other things for the supply of arms. The Dutch colonialists called themselves Boers. It means farmers in Afrikaans, their Dutch dialect.

オランダ東インド会社に率いられて、17世紀の後半にヨーロッパ人は定住を始めました。オランダの貿易商はポルトガル人との競争に勝ち、アジアの香辛料貿易を引き継ぎました。アジアへの航海は長いものでしたので、会社は1652年に喜望峰に食料を補給するための基地を築きました。その小さな白人入植者の居留地は野菜を育て、会社のために色々なものを提供しました。居留地はすべてを会社に依存していましたが、なかでも武器の供与は全て基地任せでした。オランダの植民地主義者たちは自らをボーアと呼びました。それはオランダ語由来の言葉であるアフリカーンス語で、農民という意味です。

Disputes between the Boers and the Company made them move further inland. The first people they met were the Khoikhoi, whose pasture they conquered. Worse still for the Khoikhoi, the settlers forced them to hand over their cattle. It so was the very basis of their social system. The Khoikhoi were forced to work for the European settlers. The whites’ intrusion meant catastrophe for the San. Only a few San escaped and fled into the Kalahari desert. Their descendants live to this day under much more primitive conditions than did their forefathers in their rich soil.

会社との間で諍いを起こしてボーア人は、内陸の方に移動しました。ボーア人が最初に遭遇した人たちはコイコイ人で、その人たちの放牧地をボーア人が征服しました。コイコイ人にとって更に悪いことには、入植者達は牛を引き渡すように強要しました。それはコイコイ人の社会システムの基盤そのものでした。コイコイ人はヨーロッパ人入植者に、労働を強制されました。白人の侵入者は、サン人には悲劇的な結末を意味しました。ごく僅かのサン人は逃亡)、カラハリ砂漠に逃げこみました。その人たちの子孫は、今日でも、肥沃な土地に住んでいた祖先たちよりも原始的な状態で暮らしています。

The Xhosa and the Zulu peoples were most numerous in South Africa. Land was owned collectively, but cultivated individually. This might be called a moderate kind of socialism. When these highly developed cultures with their strong military organization clashed with the Boers, they could not be defeated as easily as the Khoikhoi and the San. The Wars of Dispossession started in 1871. The battles were many and fierce during the nine wars. The whites could only consolidate their control over what was formerly African land by crushing these African military kingdoms with superior arms. This process was almost completed in 1881. But the Boers never conquered South Africa completely. Conquest was completed only when the British forces took over the process.

南アフリカでもっとも人口の多かったのは、コサ人とズール人でした。土地は個人ではなく全体で共同所有されていましたが、個人個人が耕やしていました。一種の穏やかな社会主義と呼び得るものかも知れません。強大な軍を持つ高度に発達した文化がボーア人とぶつかった時、コイコイ人やサン人が簡単にやられたように、コサやズールーの人々がやられることはありませんでした。1871年に、略奪戦争が始まりました。9つの略奪戦争では、戦闘も数多く、激しいものでした。白人たちは優れた武器を使って、軍を持つアフリカの王国を破壊することによって、元はアフリカ人所有の土地に対する支配権を確立したのです。この過程は1881年には、ほぼ完成していました。しかし、ボーア人は完璧に南アフリカを征服しわけではありません。イギリス軍がその過程を引き継いで初めて、征服が完了したのです。

Britain feared that French control of the Cape could jeopardize British interests in India and trade with the East, and in 1795 sent a large British force to the Cape and forced the Dutch governor to capitulate. The Boers at once came into conflict with Britain. Britain was looking for raw materials and new markets for industrial goods. Slave trade and slave labour were no longer necessary. But for the Boers slavery was the foundation of their economy, so they resisted all attempts to abolish it. This contradiction resulted in bitter conflicts between them and the British colonialists. In 1833 the British managed to abolish slavery in the Cape. Many Boers, particularly the wealthy ones, left the Cape and moved inland in big ox caravans. This was called the Great Boer Trek. The Boers who stayed in the Cape needed workers for their farms, so they imported workers from Indonesia and Malaysia, Dutch colonies in Asia.

イギリスはインドおよび東洋との貿易で、ケープをフランスが支配することになればイギリスの利益が危険にさらされるかもしれないのではないかと心配しました。そして、1795年にはケープへ大規模なイギリスの軍隊を送り、オランダの植民地相に降伏することを強制しました。ボーア人は、直ちにイギリスと衝突しました。イギリスは、原料および工業製品の新しい市場を探していました。奴隷貿易と奴隷の労働は、もはや必要ありませんでした。しかしボーア人には奴隷制度が経済の基礎でしたから、ボーア人は奴隷制度を廃止する試みすべてに反抗しました。この矛盾は、ボーア人とイギリスの入植者の苦しい対立を生む結果に終わりました。1833年には、イギリス人がどうにかケープの奴隷制度を廃止しました。多くのボーア人、特に豊富なものがケープを去り、大きな雄牛の隊列を組んで内陸に移動しました。これはボーア人の大移動と呼ばれました。ケープにとどまったボーア人は、自分たちの農場のための労働者を必要としましたので、アジアのオランダ植民地インドネシアとマレーシアから労働者を輸入しました。

By 1854 South Africa was divided into four provinces. The British claimed the Cape and Natal, the coastal provinces rich in soil. The Boers had established two inland republics: the Orange Free State and Transvaal, which Britain had to recognize as autonomous.

1854年までに、南アフリカは4つの州に分割されました。イギリス人はケープおよびナタールの土壌の豊かな沿岸地方を要求しました。ボーア人は内陸の2つの共和国オレンジ自由国とトランスヴァールを設立し、イギリスはその2州を自治領として認めざるを得ませんでした。

The number of colonizers of British origin gradually grew. In Natal province sugar cultivation was started on a large scale at the end of the 19th century, and Indians were imported as indentured labour (See Appendix South Africa 1).

イギリスから来た入植者の数は徐々に増えていきました。ナタール州では、19世紀の後半に大規模な砂糖栽培が始められ、インド人が契約労働者として輸入されました。(附録<南アフリカの1>を参照)

The British and British capital became really interested in South Africa only when diamonds were found in 1867 and gold in 1886. This also caused a growing conflict with the Boers, since the rich deposits were found in their republics.

イギリス人とイギリス資本は、1867年にダイヤモンド、1886年に金が見つかったに初めて、南アフリカに本当に興味を持つようになりました。豊富な鉱物がボーア人の共和国で見つかったので、そのことでさらにボーア人との衝突が激しくなりました。

THE GROWTH OF MINING CAPITAL 鉱山資本の成長

The first diamonds were discovered in the area which later was to become the Kimberley diamond fields.

まず初めのダイヤモンドは、その後キンバリー・ダイヤモンドの産地になる地域で発見されました。

The diamonds on the surface were soon depleted. A more costly technique was then required to exploit diamonds under the surface. This furthered capital concentration, i.e. the concentration of ownership in fewer hands. In 1888 all diamond mines were controlled by a company called de Beers Consolidated, which before the turn of the century controlled 90% of world production. The company was in the hands of the British imperialist Cecil Rhodes, who also was Prime Minister in the Cape colony.

地表のダイヤモンドはすぐに堀り尽されました。その後、よりお金のかかる技術が地下のダイヤモンドを開発するために必要とされました。これは更に資本の集中を促しました、つまりより少数の手の中に所有権が集中したわけです。1888年には、ダイヤ鉱山が全てデ・ビアスと呼ばれる会社によって支配され、20世紀になる前には世界生産の90%をその会社が支配していました。その会社は、イギリスの帝国主義者であり、ケープ植民地の首相でもあったセシル・ローズの手中にありました。

THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERS 英国人とボーア人の対立

The Boers had every reason to be suspicious of British capital. They viewed the railway with apprehension; it wound northwards from the Cape, and charged heavy freight fees and duties in the harbour. The Boers wanted to keep the gold-rich areas for themselves, and they looked for allies. The rivalry between the European imperialist powers in `the scramble for Africa’ gave the Boers a new chance to get rid of their dependence on the British harbours. With German and Dutch capital a railway line was built from Transvaal to the Mozambican coast.

ボーア人がイギリス資本を信用しないのには充分な理由がありました。ボーア人は、不安な思いで鉄道を見ていました。それはケープから北の方へ延び、通行料金と港での税金を課しました。ボーア人は自分のために金の埋蔵量が豊かな地域を維持したかったので、同盟国を探しました。アフリカ争奪戦でのヨーロッパの帝国主義列強間の競争は、ボーア人にイギリスの港の依存を取り除く新しい機会を与えました。ドイツとオランダの資本で鉄道がトランスヴァールからモザンピークの海岸間に建設されました。

The ruling Boers in Transvaal tried to channel income from the British-owned mines there to themselves. The tense situation between the Boers and the British led to the second Anglo-Boer War in 1899. It ended in 1902 with victory for British imperialism. Cruelties were committed on both sides, but the concentration camps set up by the British for Boer women and children left especially bitter scars.

トランスヴァールを支配するボーア人は自分たちの方に、イギリスに所有された鉱山からの収入を向けようと努力しました。ボーア人とイギリス人との間の緊張した状況は1899年の第二次アングローボーア戦争を生みました。1902年にイギリスの帝国主義者の勝利で戦争は終了しました。双方で残虐行為が行われましたが、イギリス人がボーア人女性と子供用に建設した強制収容所は、ボーア人に特に酷い傷跡を残しました。

The Boers traditionally had two enemies: the indigenous Africans, whose cattle and land they coveted and whom they tried to make into slaves, and British imperialism, which was out to exploit the riches of South Africa. But when it came to exploiting the Africans, the Boers made common cause with the economically superior British.

昔からボーア人には二つの敵がありました、欲しがっていた家畜を奪い、奴隷に仕立て上げたその土地に住んでいたアフリカ人と、躍起になって南アフリカの冨を搾り取ろうとするイギリス帝国主義でした。しかし、アフリカ人を搾取するという点では、ボーア人は経済的に優位だったイギリス人と共通の大義がありました。

THE UNION OF SOUTH AFRICA AND RESERVES 南アフリカ連邦とリザーブ

During the Boer War the British government had claimed that its objective was to protect the Africans. But in the peace treaty the whole question of the political future of the Africans in South Africa was left in the hands of the Boers and the British colonialists. In May 1910 the Union of South Africa was created, which meant that the British government handed over all political power to the whites in South Africa. It was only the negotiated product of the Boers and the British colonialists with their common cause of exploiting the Africans.

ボーア戦争の間じゅう、英国政府は戦いの目的はアフリカ人を保護することだと言っていました。しかし、平和協定を結ぶときには、南アフリカのアフリカ人のこれからの政治に関してはすべての問題をボーアじんとイギリス人植民地主義者の手に収めたままにしてしまったのです。1910年の5月に南アフリカ連合を創設しましたが、それは英国政府が政治的な権利をすべて南アフリカの白人に引き継いだということだったのです。アフリカ人を搾取するという共通の目的のためにボーア人とイギリス人植民地主義者が作り出した妥協の産物に過ぎなかったのです。

The first Union parliament created the African reserves through the Native Land Act in 1913, which made previous practices the law. Whites were forbidden to buy or rent land in the reserves, and Africans could neither buy nor rent outside the reserves. The only exception was the Cape province where, for some time, Africans were still allowed to purchase land. The law meant that 78% of the population was supposed to live in reserves comprising only 7.3% of the area of the country.

最初の連邦議会は1013年の原住民土地法でアフリカ人リザーブを創設しました。それは今までの慣習を法制化したものでした。白人にはリザーブ内の土地を買うこと、借りることが禁止されました。アフリカ人はリザーブ外では土地を買うことも借りることも出来ませんでした。唯一の例外はケープ州で、暫くの間はアフリカ人が土地を購入することが許されました。法律が意味するところは、人口の78パーセントが国土の僅か7.3%からなるリザーブに住むことになるということでした。

For a farming people to be deprived of their land was a hard and bitter blow, which at once strengthened opposition. The South African Native National Congress, which changed its name to the African National Congress (ANC) in 1925, was formed in 1912 to unite the Africans in defence of their right to land and to demand political rights. When the Land Act was still in preparation, a delegation of leading Africans was sent to London. Their mission was fruitless and the African leaders were beginning to realize that no solution to their plight could be found in London.

農民が土地を奪われれば大打撃で、すぐに反対運動が起きました。1912年、土地の権利を守り、政治的な権利を求めるために、そののち1925年にアフリカ民族会議(ANC)と改名する南アフリカ原住民民族会議が創設されて、アフリカの結束をはかりました。土地法がまだ準備段階のうちに、アフリカ人指導者の代表がロンドンに派遣されました。派遣の成果もなく、アフリカ人指導者はロンドンにでは自分たちの窮状の解決策は見出せないと悟り始めていました。

The 1913 Native Land Act was in force until 1936. That year a new law, the Native Trust and Land Act, extended the area of the reserves to 13.7%. This law was in force till all the apartheid laws were abolished in 1991. This law was the foundation of the apartheid regime’s land consolidation for the `homelands,’ the so-called Bantustans.

1913年の原住民土地法は1936年まで効力がありました。その年に新法原住民信託土地法が制定されて、リザーブの範囲が13.7パーセントにまで拡大されました。この法律はすべてのアパルトヘイト法が廃止される1991年まで有効で、アパルトヘイト政権が力を入れたホームランド、いわゆるバンツースタン政策の根幹でした。