つれづれに

つれづれに:半ば

小島けい画

 3月末か4月末かに投稿するつもりで、「つれづれに」はしばらく休載予定で5冊目を書き始めたが、→「構想は」(1月10日)、→「インタビュー」(1月13日)に続いて、また書いている。今回は、構想がわりとはっきりして来て、半ばを過ぎたか、過ぎてないか辺りをうろうろしている感じである、というのを書きたかった。人によって書き方はいろいろのようで、日本語訳や編註をした南アフリカの作家は頭の中にすっかり出来上がってからタイプライターに向かい、あとは修正を加えるだけだと、同じく亡命していた友人の学者に答えている。

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」

 私の場合は、塊りが胸の辺りにあって、書き始めるとだんだんと形が出来て来て仕上げ、最後に繰り返し、繰り返し細かな修正をする、そんな感じである。今回も同じで、どこかの出版社の目に留まる工夫はするつもりで始めているが、やっぱり書きながらだんだんと構想もしっかりとして来て、構想に関しては大体目途がついた、そんなところである。全体の構造が決まると、途中や最後を先に書くこともある。今回も、最後の2章が先に出来ている。最初書いた時より、描写が的確になっているような気もするが、的確なのがいいのかどうか。出版社の目に留まり、原稿依頼がくればいい。そうすれば、書き溜めたものも生きると思っている。

小島けい画

 6つの山が終わって、あと7つの山が残っている。構想ははっきりし始めて来たが、それで半ばを過ぎたか、過ぎてないか辺りをうろうろしている感じなんだろうと思う。好きで書いているのだから、苦しいとは思わないが、仕上げるまでにはまだ時間がかかりそうである。できれば4つほどインタビューもしたいと思っている。

小島けい画

 少し前から庭の水仙が咲き出した。北側の花壇の花を妻が切って壺に生けている。なんとも言えないいいにほひが漂っている。水仙も妻が好んで装画に描いた花の一つである。英語併記の花一覧の中にも入っている。→「水仙(すいせん)- Narcissus」

小島けい画

つれづれに

つれづれに:インタビュー

 家の北側に苗木で植えた椿が花をつけ始めた。宮崎神宮の植木市で見つけて、1本は庭の東側に、2本を北側の花壇に植えた。本当は陽当たりのいい畑の南側に植えたかった。しかし、すでに金木犀の生垣が大きくなり過ぎていたし、陽の当たる南側に植えようとすると、20坪ほどしかない畑がだいぶ狭くなってしまう。やむを得ずそうなってしまった。従って、南側のようにはいかないのだが、それでも花をつけてくれる。

 小説に使うためにインタビューしてもらったのは3回目である。1回目は普通の高校生の受験勉強はどんなもんなんだろうというのが知りたくて、諒解を得て録音させてもらった。応じてくれたのは元同僚で、昔昔北九州大を受験して不合格だったと聞く。僕も不合格だったので、同じところを落ちたんやなあと言ってしまった。しかし聞いてみると、同じ受験生とも思えなかった。その人はそこだけ受けたようで、不合格のあとどこも決まらないまま時がすぎ、就職の話を薦められるまま受けて就職することになったそうである。僕の方は、5教科をほとんどしないで、時期が来て受験、最初は5教科7科目をと思っていたが、いつしか5教科5科目のつもりになり、何もしないまま受験。結果は見えていた。北九州大を受けたのは英国社3教科だったのに加えて、前期と後期の間に受験で来たからに過ぎない。少しも受験勉強しないで、ひょっとしたら通るかも知れないと考えている節があったんだから、めでたい話である。それも、30まで生きるとして、それまで時をやり過ごすためだけに大学をと考えていたようだから、救いようがない。受験勉強をして北九州大だけ受験した人とは、違う。1浪しても、何も出来なかった。

2つ目のインタビューは、やはり元同僚に医療倫理について聞いた。録音させてもらって、こちらは小説に使った。出版社の目に留まらなかったので、今のところ本人には報告出来ていない。今後目に留まれば、書き貯めたものも活字になるだろう。

3回目のインタビューは、今から使うつもりだが、どこかの出版社の目に留まれば幸いである。今回はズームで録画させてもらった。

昔は自分の中の想像力と生得的な創造力だけで小説は書けるものと思い込んでいたが、帚木蓬生さんの『アフリカの蹄』を見た時、インタビューしてたんだと感心してなぜか思い込みを解いた。取材力も一つの武器なのだろう。

3月末か4月末かに投稿するつもりで、「つれづれに」はしばらく休載予定で5冊目を書き始めたが、→「構想は」に続いて、また書いている。今回は、5冊目のために依頼したインタビューの報告である。今後も、連載を再開する前に、何だか書きそうな気配がする。

3人はすんなりインタビューに応じてくれたが、よく会っていた卒業生には断られた。揉めるの困りますから、とはっきりしていた。誰もがインタビューに応じてくれるわけでもないらしい。

「小島けい2004年私製花カレンダー2004 Calendar」1月

 椿には、妻の絵でずいぶんと世話になった。カレンダーの話を長崎の広告印刷会社からもらい、最初に描いた表紙絵が椿である。小振りの藪椿が好きで、それまでたくさん描いていたので、自然に出来上がった、というところだ。

「私の散歩道2009」

 1980年代の終わりに私の専任が決まる前から雑誌にたくさん記事を書かせてもらっていた出版社から、妻に「装画や挿画を描きませんか?」と誘いがあった。僕が材料を探し、妻が実際の花を見て、装画を描くことが多かった。その一つが椿である。

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」

 パソコンで世話になっている人に絵専用のブログを拵えてもらい、描いた絵を載せ始めた。年月分だけ、貯まっている。ブログは外国の人が毎日何十人かは見てくれるようで、英訳もつけ始めたがそれほど進んでいない。途中だが、一覧できるようにしている。→「椿」

つれづれに

つれづれに:構想は

水仙(小島けい画)

 5冊目を仕上げ、3月末か4月末かに投稿するつもりで、しばらく「つれづれに」は休載予定。そう書き込んで5冊目を書き始めて、年が明けて、すでに10日。途中経過をと思って、更新することにした。出だしが定まらず何日か一枚も進まなかったが、書き始められたとたん、5冊目の全体像がわりとはっきりと浮かんできた。予想外の展開である。投稿は今のところ3月末締め切り、枚数は40字×60字で100~150枚ほど、400字原稿用紙に換算して300枚~450枚程度。今の調子なら、40字×60字で120枚、400字原稿用紙で360枚くらいか。何個か山がありそうだが、早めに終わるかも知れない。これまで3回は出版社の目に留まらなかったので、今回は一工夫するつもりである。前は、東大医学部を出て医者にならず、出版社をしていた人の目に留まって、読者が少なくても、売れなくても、たくさん書かせてもらった。なぜか大学では出版社のものであれば評価が高いので、業績でも助けられた。教授選でも役に立ったし、何回か科研費までもらった。しかし今は、どこかの出版社が本を売れると判断するかどうかである。後期高齢者の保険証をもらったので、残された時間はそう多くない。先行きが見えないのは、今までも同じ。高校を辞めて大学を探し始めた時も、先の見えない道のりだった。何が起こるかは、誰にもわからない。どこかから原稿依頼が来れば、書いたものが生きる。世の中いつも、思い込みは大事だろう。

水仙の季節になった。庭に咲き始めた3輪ほどの花を切り、壺に入れて玄関に飾っている。何とも言えないにほひが漂ってくる。いづれ、また。  たま

カレンダーに使われています。↓

「私の散歩道2010」1月