つれづれに

▲ 「つれづれに」:「南北戦争のあと:経済篇2」1月24日更新、本文はお知らせの続き

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▲ 2026年カレンダー 

表紙  リリちゃんと百合(3号)Cover Riri chan & Lily

1月 白熊の親子(0号)January Polar bear parent and child

2026202520242023

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「『ナイスピープル』と『最後の疫病』 」(2月20日)、→「アフリカとエイズ」(1月20日)、→「ケニアの歴史4:モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」(12月20日)、→「ケニアの歴史3:イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」(11月20日)

▲ →「アングロ・サクソン侵略の系譜一覧」(2018年12月~)

▲ 続モンド通信38(1月20日)→「続モンド通信一覧」(2018年12月~)、「モンド通信一覧」(2008年12月~2016年9月)

● 小島けいのblogから:

*→「<お知らせ> 2021年 小島けい個展案内」

*new!私の絵画館:→「ラッキー(ミックス犬)とブルーポピー」4月20日)英訳付き(Lucky (Mutt) & Blue Poppies in English

「観覧車」(1月20日)、→「康太郎くん(ダックスフンド)」(12月20日)、「雪之丞くん(ペキニーズ)とおもちゃ」→(11月20日)、「子馬(ジャスミン)とコスモス」→(10月20日)、→「私の絵画館一覧」(2018~)

*エセイ:「⑯:アリスの小さな“きせき”」2021年12月20日

「⑮:月は友だち?」11月20日)、→「⑭:秋にはコスモス・・・・」(10月20日)、→「⑬:中秋の名月に」(9月20日)、→「小島けいのエセイ一覧」

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つれづれに:南北戦争のあと:経済篇2

 →「南北戦争のあと:経済篇1」の後半である。

南北戦争で北部の産業資本家が勝ち、産業社会への動きが加速した。当然、安価な労働者と原材料が要る。手っ取り早く、が身上のアングロ・サクソン系の傾向は同じ、侵略して奪う、である。自国と南米では賄いきれない分を調達するために、手短なカリブ海とアジアから始めた。アフリカにも手を出したかったが、ヨーロッパ諸国のガードは固い。いつかの機会を待つしかない。当時、その地域にのさばっていたのはスペインである。そこと闘うしか活路はない。名目は、スペイン帝国に苦しめられているその地域の人たちのために、である。何とも滑稽だが、実際にやったのが1898年の米西戦争である。それほど産業化も進み、スペイン帝国に勝つための武器を賄う経済力をアメリカがつけていたということだろう。

 南北戦争が終わったあと、しばらくしてから産業社会への変化の激しさを実際の生活の中で体感した人も多かっただろう。実際に生活がどう変わったは具体的にはわからないが、産業革命で基本構図が大きく変わったのは確かだろう。今まで手でやってたものを機械でするのだから。出来る範囲も広がるし、ある意味便利になる。鍬で耕していところを耕運機が耕してくれる。手で洗っていた洗濯物を洗濯機が洗ってくれる。歩いて行っていたところに、自転車や車で早く行ける。薪で沸かしていた風呂も、電気やガスで沸かせる。少し考えただけでも想像は広がる。鉄鋼、造船、トラックやバスや列車など、あらゆる面で基本構図が変わったはずである。経済的に豊かになった人たち、特に都会の住人には恩恵が大きかったと思われる。

「シカゴ」ミシガン通り

 ドイツは1886年にガソリン・エンジンの車を実用化し、アメリカは1909年に大量生産を開始、1913年にはベルトコンベア方式を導入して低価格化に成功、自動車の大衆化を実現している。自動車の大衆化で、鉄工業や機械工業に石油産業、タイヤのゴムや窓ガラスなどの技術革新や生産の合理化が進んだ。自動車の普及は道路網の整備や物流や通信など、あらゆる分野に影響を及ぼし、現代社会の人間生活を一変させた。大量生産・大量消費時代に突入して行く。コンゴの→「レオポルド2世」が傭兵(↓)を使い、残虐な行為に及んでアフリカ人にゴムを集めさせた時期に符合する。

 20世紀の自動車ブームに加えて、18世紀後半のイギリスの運河開削ブームと、1830年代がピークの鉄道ブームも大きかった。アメリカで鉄道建設が始まったのは1827年で、1840年代後半に急速に発展した。カリフォルニアのゴールド=ラッシュで西部開拓が推進され、西に向かって人が押し寄せた。大量に、そして短時間に人と物資を運べる鉄道は脚光をあびた。1869年には大陸横断鉄道が開通し、広大な国土の東西をむすぶ大動脈となった。また、コロンビアからパナマを分離独立させて有利な条件で1914年にパナマ運河(↓)を開通させ、カリブと繋いだ。

 米西戦争でアメリカはカリブ海及び太平洋の旧スペイン植民地に対する管理権を獲得していた。1898年12月に講和が成立し、パリ条約でキューバの独立は承認され、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した。フィリピンのハノイはペンタゴンが描く環太平洋構想の出発点となり→オキナワ→ソウル→ハノイと領域を伸ばして行った。→「ペンタゴン」(↓)の世界戦略が進んで行く。

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つれづれに:南北戦争のあと:政治篇

 南北戦争は奴隷制を巡って争われたので人道問題のように見えるが、実際は経済の問題だった。経済面からみると、実に分かり易い。長い間奴隷を所有する少数の南部の大農園主の独壇場だったところに、大西洋奴隷貿易で蓄積された資本で産業革命を起こして産業社会に突入したヨーロッパ社会の後追いをするアメリカでも、新たな金持ち層が台頭して来た。産業資本家である。奴隷制の利害を巡ってその両者が対立し、国を2つに割って市民戦争を起こした。奴隷制で大量の労働者を留め置く南部の寡頭勢力の好き勝手を、産業資本家が放っておけなくなったのである。つまり、僅かな金持ち層同士の争いだったわけである。いつの世も、僅かな金持ち層が好き勝手に世の中は動かしてきた。その構図は変わらない。南北戦争の場合も同じだ。

政治は議会制、代弁者を送り込んで自分たちの都合のいい法律を作り、利益を確保する。これもいつの世も変わらない構図だ。過半数を獲れば、法律は作れる。合法的な金儲けというわけである。

長い間、南部の寡頭勢力は代弁者をワシントンに送り、民主党が担ぐ候補が大統領になって南部寡頭勢力の代弁者をつとめてきた。そこに、北部の産業資本家が1860年の大統領選でリンカーンを共和党の候補者に選び、ワシントンに送り込もうとしたのある。南部に保持されている奴隷を解放し、労働者として北部に流すのが一番の課題だった。それを承知でリンカーンは大統領選に出馬した。奴隷制に反対するリンカーンとしてはいい機会だったに違いない。しかし、奴隷制を守ろうとする南部の寡頭勢力はアメリカ合衆国を脱退して、奴隷制を基盤にする南部諸州連合という新たな国を始めてしまったのである。リンカーンの課題も自ずと奴隷制廃止から南部統合へと変わった。リンカーンは南部を北部に戻すことを最優先せざるを得なかったわけである。当然言う内容も変わった。奴隷制廃止に力を尽くしてきた北部の人たちが黙っているわけはない。「シカゴ・トリビューン」の主幹ホレス・グリーリーはリンカーンに公開質問状を叩きつけた。統合できるなら、奴隷制を廃止しなくてもよいと、リンカーンは言うしかなかった。

 その辺りの事情は→「本田さん」の『アメリカ黒人の歴史』に詳しい。岩波新書は今も健在の名著である。南北戦争と公民権運動に焦点をあてて、熱い。公民権運動の熱が伝わってくる。

 一橋大の教授時代に、神戸に本部があった→「黒人研究の会」で一度だけ話を聞いた。穏やかな人だった。ゼミの担当者だった貫名さんの友人で、学会か何かで神戸に来たついでに小さな研究会で話をしてくれようだ。貫名さんは共産党員で、学生運動ではバリケード封鎖して闘う全共闘の学生の側に立った。相方も神戸市会議員だった。娘さんも神戸市長選に出ていたようだ。

 本の中で、ワシントン大行進の辺りは特に熱がこもっている。その時ウィシャルオーヴァーカムを歌ったゴスペルの女王マヘリア・ジャクソンがその日泊まるホテルがなかったと書いていた。そうか、ワシントンは南部だったのか?そう思った記憶がある。

 調べてみると、ワシントンには大統領官邸(ホワイトハウス)、連邦議会、連邦最高裁判所の三権機関が、ポトマック川対岸のバージニア州には国防総省(ペンタゴン、↓)がある。ワシントンはコロンビア特別区で、通称はワシントンD.C.、連邦政府の直轄地で、どの州にも属さない。ポトマック川を挟んで首都と国防の機能が密集している。この密集地帯が2001年9月11日の同時多発テロの標的となった。

 1862年9月22日の奴隷解放宣言の予備宣言を出して、北部黒人の参戦を誘った。1863年1月1日に戦争が終結していなければという条件がついていた。戦争は65年まで続いたので、奴隷解放宣言は法的には有効になった。しかし、基本構図が変わったわけではないので、土地も家もない奴隷は現物支給の小作人(↓)になるしかなかった。

リチャード・ライト著『1200万の黒人の声』から

 大荘園主に警ら係として雇われたプアホワイトやKKKの暴力を乗り越えて北部に辿り着くのは不可能に近かったからである。リンチで樹に吊るされた黒人は「奇妙な果実」と言われた。ジャズシンガーのビリー・ホリデイ(↓)がブルース「奇妙な果実」を歌い、2冊の伝記を基に「ビリー・ホリデイ物語ー奇妙な果実」をダイアナ・ロスが主演している。タイトル表示もない英語版のビデオテープを古本屋で見つけて観た記憶がある。英語や教養科目の授業でも観て、聴いてもらった。

 南北戦争で北部は勝った。新興の産業資本家が勝ったのだから、当然産業社会への歯車が大きく回った。たくさんの労働者が要る。そして、何より物を作るための原材料を手に入れる必要があった。自国と南米から調達する程度では賄いきれなかったのである。侵略戦争をして、植民地の確保である。アフリカはヨーロッパ諸国の独壇場で入る隙がなかった。仕方がない、カリブ海とアジアで辛抱するか。先ず手始めは、スペイン帝国だった。各種産業とスペイン帝国との戦いが、次回である。

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つれづれに:南北戦争のあと:政治篇

 畑の話が続いているのに、アメリカの南北戦争の話を始めるのは唐突だが、僕の中では日常の一つである。月に一度リモートを使って4人で集まっているが、そのテーマがアフリカ系アメリカで、ちょうど今その辺りについての話が続いているからである。

 僕自身は歴史に関心はなかったどころか、十代の早い時期に、もう生きるのはいいやとすっかり諦めて、生きるには余生は長すぎると心底感じてしまっていた。横浜で出版社の人に会ったとたんに、縄文時代1万年の話をはじめその後も延々と続いたが、別に驚かなかった。どんなに壮大な話でも、生きることを諦めた人間には届かないものらしい。受験勉強が出来ずに夜間に行き拗ねていた僕と違って、そう受験勉強もしないで東大の医学部を卒業した人と比べようもないが、同じところもあった。生きるには余生は長すぎると思っていたことだ。

神戸市外国語大学旧学舎(大学HPより)

 そんな僕が歴史を辿り始めたのは成り行きである。人生をすっかり諦めかけたとき、たまたま讀賣新聞の夕刊に連載されていた小説を読んだ。なぜかすっと文章が入って来たので、その作家のものを古本屋で探してみたらたくさんの作品があった。多作だったが、出版社が企画した駄作も結構あった。読んでるときに、僕自身の中に小説を書きたい気持ちがあるのに気づき始めた。まだ生きるための目標にはなりそうにはなかったが、とにかく書きための空間を探す方向に進み始めた。

ラングストン・ヒューズ著『黒人史の栄光』

 その過程で、たまたま教職大学院に行き、修士論文を書くことになり、アメリカの黒人作家を選んだ。読むうちに、歴史が要ると感じた。それがアフリカ系アメリカの歴史を辿り始めたきっかけである。奴隷制を続けたい南部と奴隷制を廃止したい北部の市民戦争だった。南部が優勢とみられていたが、南部の2候補が譲らず、1860年の大統領選で共和党の候補者リンカーンが大統領にえらばれた。南部は予め予定していた合衆国を脱退して南部諸州連合を造った。国が2つに分かれたのである。北部は南部を戻すために戦争を始めた。1861年から1863年のことである。

 北部の勝利に終わり、北部は占領政策を始めた。再建期と呼ばれる。その後、占領軍が去ったあと、南部の寡頭勢力が巻き返しが始まった、反動期と言われる。反動勢力が1896年の「プレッシー対ファーガソン事件」の最高裁判判決で、人種差別を合憲と認めるほど、反動勢力は凄まじかった。有名な「隔離すれども平等」判決である。

リチャード・ライト著『1200万の黒人の声』から

 公立学校で教えられる南北戦争の概要である。しかし、実際はそれだけではない。次回、その辺りを書いてみたい。

22年に→「米1860」、→「日1860」、→「南アフリカ1860」、→「ジンバブエ1860」、→「ガーナ1860」、→「コンゴ1860」、→「ケニア1860」を書いた。南北戦争の頃の日本とアメリカとアフリカの国々の様子がわかる。

最近、生まれた年からの比較編年史を書いた。途中で止まっているが、→「①1949私 」「②1949日本」、→「③アメリカ」、→「1950①私」、→「1950②日本」、→「1950③アメリカ」を書いた。生まれた時から今までの比較史を書こうと思いついて始めた。

黒船

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つれづれに:2026年1月半ば

小島けい「私の散歩道20216~犬・猫・ときどき馬」

表紙「リリちゃんと百合」(3号)

 年も明けて、1月も半ばになった。2026年1月16日である。コロナの始まりが2019年だから、8年目になる。大学が一区切りついたら、子供たちのいる東京に行き、近くに住むつもりだったが、コロナ騒動で一変した。腰を痛め、前立腺の手術をしてと、身体もあちこちがたがきている。毎日あちらこちらの節々が痛い。それでも何とか妻と猫のぴのこと、何気ない日常を送れているのは有難いことである。

2026年1月「白クマの親子」(0号)

 喉が生まれつき細く、一度にはたくさん食べられないので、1~2時間ごとに少しずつ食べないと、すぐに戻してしまう。夜は妻が、昼間は僕が付き合っているので、辛うじて日々をこなしているという状況である。無事に生きてくれているのが何よりである。何やかやすることばかりで、まとまって畑の時間を見つけるのは難しい。しかし、考えようによれば、それが幸いしているのかもしれない。腰を痛めるきっかけが、長い時間の畑作業だった気がするからである。

私の絵画館2→「水仙」(No. 18:2010年1月)

 半時間か1時間程度しか作業はできないが、それでも何とか形になっている。芽を出して大きくなりかけていた絹鞘豌豆とブロッコリー(↓)は何とか植え替えて大きくなっている。レタスとネギは植え替え中、第2弾のブロッコリーと玉葱と葱は、大きくなっている最中である。

 畑の中に2個の溜枡(↓)がある。片方が土で埋まって機能していなかったので、土を取り除いた。かなりの土を掘り出した。中途にある排水パイプも途中まで土が詰まっていた。出口のすぐのところで大きく曲がっているので、土を取り出すのが少し面倒だった。ついでに、土が流れ込まないように、周りにブロック立てている。溜枡のおかげで、水捌けがいい。よくできた庭だった。真ん中に円形の花壇があり、中心に薄紫の花が咲く樹が植えられていた。庭一面には何十センチか真砂土が入れてあったので、すこぶる水捌けはよかった。

 その庭の半分に海岸から砂を運んで、いっしょに住むようになったラブラドールのためのドッグランにした。もう半分はその前に住んでいたところの畑の黒土をわけてもらって畑(↓)にしてしまった。ラブが亡くなったあと、しばらくそのままだったが、今は全部畑に変わっている。かなりの土を運んだ。中央の花壇は取り払い、植えてあった樹は北東のあまり陽が当たらない場所に植え替えた。申し訳ないと思ったが、樹は勢いを盛り返し、きれいな花を毎年咲かせている。虫にやられかけて、一部の枝が枯れてしまったが、辛うじて生きている。

 去年は生り年でないので実は生らないものと諦めていたが、150個ほどの渋柿がなった。剥いて干して、無事に干し柿になった。いろんなところにお裾分けをして、重宝した。申し訳程度に3個(↓)だけ鳥さんたちのために実を残しておいたが、まだ樹にぶら下ったままである。最長不倒記録である。年を越して、実がなったままお姿をまだ見ていない。今年は鳥さんを見かけていない。来る前に、落ちてしまいそうである。

 

 今年は初めて室内で苗を拵えるつもりである。うまく行くかどうか自信はないが、ピーマン、胡瓜、茄子、トマト、瓢箪南瓜(↓)と丸鞘オクラ。今年はそれに、獅子唐も作ってみようと思っている。