つれづれに

▲ 「つれづれに」:「インタビュー」1月13日更新、本文はお知らせの続き

「構想は」(1月10日)、→「アフリカ小史関連」連載中)、→「しばらく」(12月28日)、→「宣教師」(12月19日)、→「英語雑記ー生得的」(12月17日)、→「晴れが続き」(12月9日)、→「月曜日」(12月3日)、→「山茶花」(12月2日)、→「日曜日」、→「歩く」、→「瓢箪南瓜」、→「探検家」、→「グレートジンバブエ」、→「ルーツ」、→「『アフリカのための闘い』」、→「アフリカシリーズ」、→「1980年頃」、→「柿干せど」、→「アフリカ小史」「アフリカ人に聞け」、→「ZoomAA第7回目報告」、→「彼岸花」、→「医師の苦悩」、→「台風一過」、→「コンゴと南アフリカ」、→「腸腰筋」、→「原言語」、→「分かれ目」、→「修学旅行」、「『つれづれに』一覧」→(2023年~2018年)(2025/1/13更新)、→(2018年~2007年)、→(2006年度)、→(2005年度)

▲ 連載中「ZoomAA一覧」(2023年12月15日~)、連載済「エボラ・コンゴ関連」「南アフリカ関連」「エイズ関連」

▲ 2024年カレンダー→「私の散歩道2024~犬・猫・ときどき馬~」 

<ウユニ塩湖>(ボリビア)4号

12月:<犬(武蔵くん)とポインセチア>(SM号)

「私の散歩道2023」、→「私の散歩道2022」、→「私の散歩道2021」

▲ これまでのカレンダーを更新しました(2024/1/7)→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2024年)」Calendar List(2004~2007は私製です

▲ 書いたもの→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」続モンド通信40、2022年3月20日)

「『ナイスピープル』と『最後の疫病』 」(2月20日)、→「アフリカとエイズ」(1月20日)、→「ケニアの歴史4:モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」(12月20日)、→「ケニアの歴史3:イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」(11月20日)

▲ →「アングロ・サクソン侵略の系譜一覧」(2018年12月~)

▲ 続モンド通信38(1月20日)→「続モンド通信一覧」(2018年12月~)、「モンド通信一覧」(2008年12月~2016年9月)

● 小島けいのblogから:

*→「<お知らせ> 2021年 小島けい個展案内」

*new!私の絵画館:→「ラッキー(ミックス犬)とブルーポピー」4月20日)英訳付き(Lucky (Mutt) & Blue Poppies in English

「観覧車」(1月20日)、→「康太郎くん(ダックスフンド)」(12月20日)、「雪之丞くん(ペキニーズ)とおもちゃ」→(11月20日)、「子馬(ジャスミン)とコスモス」→(10月20日)、→「私の絵画館一覧」(2018~)

*エセイ:「⑯:アリスの小さな“きせき”」2021年12月20日

「⑮:月は友だち?」11月20日)、→「⑭:秋にはコスモス・・・・」(10月20日)、→「⑬:中秋の名月に」(9月20日)、→「小島けいのエセイ一覧」

▲ 「書いたもの一覧」を更新しました。(2021/4/26)

▲ ホームページです。→「ノアと三太」

▲ 小島けいの絵のブログ Forget Me Not

つれづれに

つれづれに:インタビュー

 家の北側に苗木で植えた椿が花をつけ始めた。宮崎神宮の植木市で見つけて、1本は庭の東側に、2本を北側の花壇に植えた。本当は陽当たりのいい畑の南側に植えたかった。しかし、すでに金木犀の生垣が大きくなり過ぎていたし、陽の当たる南側に植えようとすると、20坪ほどしかない畑がだいぶ狭くなってしまう。やむを得ずそうなってしまった。従って、南側のようにはいかないのだが、それでも花をつけてくれる。

 小説に使うためにインタビューしてもらったのは3回目である。1回目は普通の高校生の受験勉強はどんなもんなんだろうというのが知りたくて、諒解を得て録音させてもらった。応じてくれたのは元同僚で、昔昔北九州大を受験して不合格だったと聞く。僕も不合格だったので、同じところを落ちたんやなあと言ってしまった。しかし聞いてみると、同じ受験生とも思えなかった。その人はそこだけ受けたようで、不合格のあとどこも決まらないまま時がすぎ、就職の話を薦められるまま受けて就職することになったそうである。僕の方は、5教科をほとんどしないで、時期が来て受験、最初は5教科7科目をと思っていたが、いつしか5教科5科目のつもりになり、何もしないまま受験。結果は見えていた。北九州大を受けたのは英国社3教科だったのに加えて、前期と後期の間に受験で来たからに過ぎない。少しも受験勉強しないで、ひょっとしたら通るかも知れないと考えている節があったんだから、めでたい話である。それも、30まで生きるとして、それまで時をやり過ごすためだけに大学をと考えていたようだから、救いようがない。受験勉強をして北九州大だけ受験した人とは、違う。1浪しても、何も出来なかった。

2つ目のインタビューは、やはり元同僚に医療倫理について聞いた。録音させてもらって、こちらは小説に使った。出版社の目に留まらなかったので、今のところ本人には報告出来ていない。今後目に留まれば、書き貯めたものも活字になるだろう。

3回目のインタビューは、今から使うつもりだが、どこかの出版社の目に留まれば幸いである。今回はズームで録画させてもらった。

昔は自分の中の想像力と生得的な創造力だけで小説は書けるものと思い込んでいたが、帚木蓬生さんの『アフリカの蹄』を見た時、インタビューしてたんだと感心してなぜか思い込みを解いた。取材力も一つの武器なのだろう。

3月末か4月末かに投稿するつもりで、「つれづれに」はしばらく休載予定で5冊目を書き始めたが、→「構想は」に続いて、また書いている。今回は、5冊目のために依頼したインタビューの報告である。今後も、連載を再開する前に、何だか書きそうな気配がする。

3人はすんなりインタビューに応じてくれたが、よく会っていた卒業生には断られた。揉めるの困りますから、とはっきりしていた。誰もがインタビューに応じてくれるわけでもないらしい。

「小島けい2004年私製花カレンダー2004 Calendar」1月

 椿には、妻の絵でずいぶんと世話になった。カレンダーの話を長崎の広告印刷会社からもらい、最初に描いた表紙絵が椿である。小振りの藪椿が好きで、それまでたくさん描いていたので、自然に出来上がった、というところだ。

「私の散歩道2009」

 1980年代の終わりに私の専任が決まる前から雑誌にたくさん記事を書かせてもらっていた出版社から、妻に「装画や挿画を描きませんか?」と誘いがあった。僕が材料を探し、妻が実際の花を見て、装画を描くことが多かった。その一つが椿である。

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」

 パソコンで世話になっている人に絵専用のブログを拵えてもらい、描いた絵を載せ始めた。年月分だけ、貯まっている。ブログは外国の人が毎日何十人かは見てくれるようで、英訳もつけ始めたがそれほど進んでいない。途中だが、一覧できるようにしている。→「椿」

つれづれに

つれづれに:構想は

水仙(小島けい画)

 5冊目を仕上げ、3月末か4月末かに投稿するつもりで、しばらく「つれづれに」は休載予定。そう書き込んで5冊目を書き始めて、年が明けて、すでに10日。途中経過をと思って、更新することにした。出だしが定まらず何日か一枚も進まなかったが、書き始められたとたん、5冊目の全体像がわりとはっきりと浮かんできた。予想外の展開である。投稿は今のところ3月末締め切り、枚数は40字×60字で100~150枚ほど、400字原稿用紙に換算して300枚~450枚程度。今の調子なら、40字×60字で120枚、400字原稿用紙で360枚くらいか。何個か山がありそうだが、早めに終わるかも知れない。これまで3回は出版社の目に留まらなかったので、今回は一工夫するつもりである。前は、東大医学部を出て医者にならず、出版社をしていた人の目に留まって、読者が少なくても、売れなくても、たくさん書かせてもらった。なぜか大学では出版社のものであれば評価が高いので、業績でも助けられた。教授選でも役に立ったし、何回か科研費までもらった。しかし今は、どこかの出版社が本を売れると判断するかどうかである。後期高齢者の保険証をもらったので、残された時間はそう多くない。先行きが見えないのは、今までも同じ。高校を辞めて大学を探し始めた時も、先の見えない道のりだった。何が起こるかは、誰にもわからない。どこかから原稿依頼が来れば、書いたものが生きる。世の中いつも、思い込みは大事だろう。

水仙の季節になった。庭に咲き始めた3輪ほどの花を切り、壺に入れて玄関に飾っている。何とも言えないにほひが漂ってくる。いづれ、また。  たま

カレンダーに使われています。↓

「私の散歩道2010」1月

つれづれに

つれづれに:しばらく

白一重の山茶花

 しばらく「つれづれに」は休載予定。5冊目を仕上げ、3月末か4月末かに投稿するつもりである。いつものように、今のところ5冊目の全体像はぼんやりしているが、書いているうちに次第にはっきりして来ると思う。提出先の出版社が売れると判断するかどうか。原稿依頼が来るように、工夫してみるか。

 終わったら「つれづれに」を再開予定。アフリカ関連と英語関連の連載を継続し、6冊目にむけて書き溜めたい。いづれ、また。  たま

つれづれに

つれづれに:宣教師

 今回は宣教師である。→「アフリカシリーズ」を見直すのに時間がかかってしまった。何回も見ているのだが、見るたびにそうやったんやと改めて気づくことが多い。新しいものは馴染(なじ)むのに、時間が要る。

 奴隷貿易で資本が蓄積され、産業革命が可能になった。そして、ヨーロッパ社会は農業や牧畜や手工業が中心の社会から、機械生産の産業中心の社会に突入した。生産と消費の規模は格段に増大し、更なる生産のための原材料を確保する必要性が高まった。同時に、作った工業製品を売り捌(さば)くための市場の需要性も高まって行く。ヨーロッパ社会は一番近くの大陸に目をつけ、アフリカ進出を競い始めた。植民地争奪戦(the scramble for Africa)である。本格的に植民地支配を始める前に、「未開の土地を切り拓く」という夢を抱く探検家と、異教の地に「神の福音を伝える」という使命感に燃える宣教師を派遣した。植民地支配を目論(もくろ)むヨーロッパの資産家たちと、自分たちの夢を叶えたい両者の思惑が一致したわけである。探検家も宣教師も、自分たちが切り拓けば、商業とキリスト教があとに続くと考えた。野蛮なアフリカ人を文明の世界に引き上げることができると信じて疑わなかったのである。今回は、探検家に続いて、その宣教師である。

デヴィドスンはボツワナの峠に座りながら、宣教師について語り始める。

「ここはボツワナのマングエ・パス、白人の南部アフリカ進出を語るには欠かせない場所です。あちらは南西にはカラハリ砂漠があり、南東は白人の支配する南ア共和国、それから私の後ろに北へ向かう山道はンデベレとも呼ばれるかつてのマタベレ王国に通じています。ここはマタベレ王国の南の国境でした。この峠はヨーロッパ人宣教師や貿易商、ハンターが王国に入る唯一の入り口だったのです。宣教師たちはアフリカ人をどんな目で見ていたんでしょう。私は大半の者がリビングストンのこの言葉に頷(うなづ)いたと思います。『我々は優等人種の一員として、人類のうちで最も堕落した部分を向上させるためにやってきた。我々は慈悲深い宗教の信者である。弛まぬ導きと努力で、今なお混乱し破滅に瀕した人種のため、平和の伝道者となりたい』ほんの少数派でしたが、違う考えの人もいました。トーザーという司教はこう言っています。『イギリスやフランスは文明国で、アフリカの大部分は未開とはどういう意味だろうか?鉄道や電信機があるからと言って、その国が第一級の文明国だと言い切れるものだろうか?人間を外見だけで、野蛮だとか文明化されているとか決め付けるほど間違ったことはない』」

マタベレランドの伝導所

 宣教師たちのアフリカ行きは決して容易(たやす)いものではなかったようである。行った人の8割が死んだという報告もある。原因不明の熱病や赤痢(せきり)はつきもので、リビングストンが滞在した1伝道所だけでも、1年間で9人のうち6人が死んだとデヴィドスンは紹介している。長期で滞在したわけではないが、3ケ月足らず、ジンバブエの首都で私自身も僅(わず)かながら体験をした。日本で腹の調子がおかしくなると整腸剤で収まることが多いが、ハラレではなかなか調子が戻らなかったので、不安になった。行く前に鹿児島に一泊して予防接種を受けたあとも、少し発熱した。一度熱が下がってもすぐ高くなり、何回かそれが繰り返された。あれも原因不明の一種だろう。

ハラレの白人街で借りた家の前の道路

 宣教師たちは長い船旅のあと、体調も万全ではない状態で長い馬車の旅路があり、熱病で死ぬかもしれないのを覚悟をして出かけた、つまり危険を承知で出かけたわけである。目的はもちろん布教。最初は、進んで改宗するアフリカ人は僅かで、魂を救うためには体罰にうったえた伝道所もあったようである。布教の大きな妨げはヨーロッパ人がjujuと呼ぶ土着の宗教である。アフリカのどの社会でも固有の宗教と習慣があり、共同体の生活の支えになっていた。しかし、宣教師には認められないもので、古い信仰は捨て、祖先を忘れ、彼らの文化を葬れとアフリカ人に説いたのである。

 デヴィドスンは1960年代の伝導の模様を伝えるフィルムを紹介している。

「自由でのびのびした娘たちと恐怖の闇に生きる女たち。呪(まじな)いの生贄(いけにえ)を捧げても何の効果もない。神はいけにえを望まず、我々は身代わりとなりました。これが神の愛のしるしです。宣教師のもとに来る者、まじないはもう信じません、新しい人生を始めます。喜ぶ者、祟(たた)りを恐れる者。ついに洗礼式の日が来た。教員養成所の学生、小学生、男女、一人ずつ水に入り、キリスト教徒となるのだ。キリスト教への入信の儀式をなぜこんなに大げさにするのか、不思議に思うむきもあるでしょう。宣教師にとってはこの洗礼式こそ、自分たちの努力が報われたクライマックスだったのです。宣教師の布教活動は中央アフリカではかなりの成功を収めました。アフリカ人にとって、伝導所で受ける教育は、それまで知らなかったより大きな世界への入り口でもあったのです。多くの人がキリスト教を受け入れました」

 こうして受け入れたキリスト教は、アフリカにヨーロッパ文明を持ち込み、アフリカの文化を破壊するという形で浸透して行った。そればかりか、その後のヨーロッパの植民地支配に深く組み込まれていき、植民地時代が終わった後も、その過去を引きずっているのである。デヴィドスンは、アフリカ現代史の流れと矛盾を一つに集めたような人物の一人として、ジンバブエの情報大臣ネイサン・シャムヤリラを紹介している。あるミッションスクールを見学に来たシャムヤリラにインタビューもしている。シャムヤリラは進歩的な考えを持つ人で、その意見は政府を代表して、キリスト教団の保守主義とは対立する。しかし、シャムヤリラだけではなく、政府の指導者のほぼ全員がミッションスクールで教育を受け、白人入植者の宗教の中で育っている。しかも、白人の多くはキリスト教徒の博愛精神より、アフリカ人を軽蔑する気持ちの方が強かった。二人の遣り取りである。

デヴィドスン:「キリスト教は植民地化の手段だったと非難されますが、これはどこまで正しいんでしょうか?」
シャムヤリラ「そう、ジンバブエでの布教活動は完全に植民地化政策と結びついていました。宣教師は南アフリカから入植者といっしょに入ってきましたし、それにイギリス側がマタベレ王国のロベングラ王を騙(だま)して、土地の使用権を譲り受けた時など、ジャクソンという宣教師が立ち会っていたというくらいです。教会と政治家、軍人、鉱山業者は強く結びついていました。植民地時代を通じて、聖書と銃は手を携(たずさ)えていたんです。それともう一つ、キリスト教は植民地社会が初めから抱えていた内部矛盾を強めることにも一役買ってきました。宣教師たちは一方で人間は平等だと説きながら、その実、植民地では自分たち自身が黒人と白人を差別していたわけです」

デヴィドスン:「宣教師も人種差別?」
シャムヤリラ:「ええ、差別しました。たとえば、宣教師たちは黒人に教育を施し、文字を読めるようにしましたが、結局それも、白人の工場や鉱山で働かせるためだったんです」
デヴィドスン:「宣教師の果たした役割ですが、アフリカ人が自分たちの世界の実情を把握するという点では、どう評価なさいますか?」
シャムヤリラ:「そうですね。宣教師たちは先ず何よりもアフリカ人の文化を破壊しようと躍起(やっき)になって、ずいぶん荒っぽい手段を取りました。キリスト教を布教すること自体がそうですが、ところがです。その過程で生じた矛盾が、今度は植民地支配を終焉(しゅうえん)に導いたわけです。たとえば人々を教育し、こういう学校を建てたことでアフリカ人にはかえってそこが色んな人間の出会いの場となりました。学生たちはこういう所で自分たちの国の将来について展望し、その結果、卒業後はみんな一丸となって国家の建設へ向かうようになったのです。現に我が国の指導者はほとんどがミッションスクールの出身です。教育を受けた黒人10人中9人までミッションスクールを出ています。ジンバブエ独立後の首相ムガベもやはりクタマにあるカトリック系のミッションスクールで教育を受けていますし、現在のジンバブエ政府の指導者は出身地は別でもたいていミッションスクールを出ています。ですから、植民地社会ではキリスト教自体が矛盾を孕(はら)み、白人支配への抵抗を呼び覚ましたのです」
デヴィドスン:「まるで予期していなかった結果を招いたわけですね?」
シャムヤリラ:「ええ、その通りです」

 シャムヤリラが見学に訪れたミッションスクールで学生たちを見ながら、デヴィドスンが言う。

「こうした光景を見ていると、キリスト教の恩恵も私には否定できないような気がします。大きな代償を払ったのも事実ですが、今のジンバブエの子供たちには両親の知らない世界が開け、それだけチャンスにも恵まれています。結局のところ、キリスト教に恩恵があったとすれば、精神的なものより実利的なものではないでしょうか?宣教師はヨーロッパ式の教育だけでなく、ヨーロッパ医学ももたらしました。リビングストン自身も医者でしたし、大勢の献身的な医者が彼のあとに続きました。もちろん、アフリカの民間療法もそれなりの効果はあります。しかし、衛生面や出産などで、科学的医療が必要なことは議論の余地がありません。外から見る人間として何より嬉しいのは、キリスト教が根を下ろした土地で、アフリカ人が自分たちの生活にそれを取り込み、生活のリズムに合わせてしまったことです。これは大抵の場所で言えます」

 そして、デヴィドスンはリビングストンを例にあげて宣教師の話を総括している。

「黒人蔑視はリビングストン自身にもあったのです。あの言葉がそうです。『我々は優等人種の一員として、人類のうちで最も堕落した部分を向上させるためにやってきた』彼もまた時代の子だったということでしょう。ヨーロッパ人がキリスト教と商業、この2つをもたらしさえすれば、黒人を文明の世界に引き上げることができる、彼は死ぬまでそれを信じていたのです、しかし今、アフリカを歩いてみてよく思うんですが、その2つがもたらした結果をリビングストンが見たら、一体、何と言うでしょうか?」