つれづれに

▲ 「つれづれに」:「日常」10月29日更新、本文はお知らせの続き

「10月も半ばを過ぎて」(10月19日)、→「久しぶりに」(8月30日)、→「比較編年史1950⑤南アフリカ」(5月2日)、→「1950④アフリカ」(5月21日)、→「1950③アメリカ」(5月19日)、→「1950②日本」(5月17日)、→「1950①私」(5月15日)、「②1949日本」(5月2日)、→「比較編年史①1949私 」(4月30日)、「マッサージ」(4月29日)、→「畑4月下旬」(4月28日)、→「永谷園俳句」(4月26日)、→「ブログ再開」(4月25日)、→「しばらく」(12月28日)、→「柿干せど」、→「アフリカ小史」「ZoomAA第7回目報告」、→「腸腰筋」、→「原言語」、→「分かれ目」、→「修学旅行」、「『つれづれに』一覧」→(2023年~2018年)(2025/10/29更新)、→(2018年~2007年)、→(2006年度)、→(2005年度)

▲ 連載中、→「比較編年史一覧」(2025年5月17日~)→「ZoomAA一覧」(2023年12月15日~)、連載済「エボラ・コンゴ関連」「南アフリカ関連」「エイズ関連」、→「アフリカ小史関連」

▲ 2025年カレンダー 

表紙(犬)メリーちゃんとクリスくん (6号)

10月 サンダンス (3号)

9月 (ぴのことジョバ)青い街(3) (2号)

「私の散歩道2024」、→「私の散歩道2023」、→「私の散歩道2022」、→「私の散歩道2021」

▲ これまでのカレンダーを更新しました(2024/1/7)→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2024年)」Calendar List(2004~2007は私製です

▲ 書いたもの→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」続モンド通信40、2022年3月20日)

「『ナイスピープル』と『最後の疫病』 」(2月20日)、→「アフリカとエイズ」(1月20日)、→「ケニアの歴史4:モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」(12月20日)、→「ケニアの歴史3:イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」(11月20日)

▲ →「アングロ・サクソン侵略の系譜一覧」(2018年12月~)

▲ 続モンド通信38(1月20日)→「続モンド通信一覧」(2018年12月~)、「モンド通信一覧」(2008年12月~2016年9月)

● 小島けいのblogから:

*→「<お知らせ> 2021年 小島けい個展案内」

*new!私の絵画館:→「ラッキー(ミックス犬)とブルーポピー」4月20日)英訳付き(Lucky (Mutt) & Blue Poppies in English

「観覧車」(1月20日)、→「康太郎くん(ダックスフンド)」(12月20日)、「雪之丞くん(ペキニーズ)とおもちゃ」→(11月20日)、「子馬(ジャスミン)とコスモス」→(10月20日)、→「私の絵画館一覧」(2018~)

*エセイ:「⑯:アリスの小さな“きせき”」2021年12月20日

「⑮:月は友だち?」11月20日)、→「⑭:秋にはコスモス・・・・」(10月20日)、→「⑬:中秋の名月に」(9月20日)、→「小島けいのエセイ一覧」

▲ 「書いたもの一覧」を更新しました。(2021/4/26)

▲ ホームページです。→「ノアと三太」

▲ 小島けいの絵のブログ Forget Me Not

つれづれに

つれづれに:日常

 10月も終わり、気がつくともう来年である。

日常が何気なく大事に思えるようになって久しい。毎日1時間ほど歩き、たくさんの種類の食べ物を摂り、根菜類主体の野菜スープや甘酒を飲む。一度体調を崩しかけてから、出来るだけ仕事量を減らし、充分に寝る、そんな何気ない日常がとても大切に思えるようになった。腰を痛め、前立腺肥大の生体組織検査をしたり、手術で入院したりすると、ますますその思いが強くなっている。退院してだいぶ経つがそんな日常をすっかりは取り戻していない。今日は、まず1時間ほど歩こうとでかけた。家から少し東の大きな道に出ると、加江田の山の遠景(↑)が待っている。

 高台の公園の長い階段を上るか、上の公園に登る車道を歩いて上ることもあるが、大抵は高台の側面の山肌(↑)を登る。いつの頃からか、西の斜面の大きな杉を切って下の方に柑橘類を植えている。毎年実をつけるが、今は黄色くなる前に落ちる実(↓)もある。毎年、落ちた日向夏の実をもらって帰っている。野菜にかけるとほんのり甘くて爽やかで食べやすい。

 腰を痛める前は、その山肌を10回ほど往復していた。30代の前半からマッサージでお世話になった人が「樵の人がいいですな。山を登ったり降りたりする運動は、体に一番でっせ」というのを、のぼっている時によく思い出す。だから、一日10回ほど昇り降りできれば、体には一番なのはわかっているのだが、実際に続けるのは難しい。そこへ行けない時もある。今回のように、行きたくても行けない時もある。それが、歳を取るということかも知れない。

 のぼると、高台の公園(↑)である。人がいない時もあるが、土日でない時も何人かいる時もある。西側はきれいに晴れていれば、尾鈴の山々が見える。東側には樹々の間から、青島(↓)が見える。考えれば、山の緑に澄んだ日向灘、住むにはいい所だ。

 毎年どくだみ(↓)を摘むようになってから何年かになる。意識すると、色んな所に生えているのに気づく。この時は、散歩道の途中の道の脇に生えている場所まで行って摘んだ。木通にしろ、どくだみにしろ、ある日、一瞬で消える運命にある。雑草の部類に属しているからである。木通の実がなるにはだいぶ歳月が必要である。しかし、雑草だと判断されて、樹の根元からばっさりと切られてしまう。どくだみも、ある日、草刈りの手が入ると叢そのものが刈られてしまう。しかし、この時期に、二番草が生える。柔らかくて、香りもいい。摘んだどくだみは、風呂に浮かべる。豊かな気分が味わえる、しかし、毎日摘んで来るのは至難の業である。

 どくだみを摘んだあとは、久しぶりに木花神社(↓)に行った。近くの竹を確認するつもりもあった。無人で、普段はめったに人は見かけない。年に何回かは宮司も来て、行事が行われているようだ。地元の人が恒例の行事の担い手である。

 展望所があって、南側は加江田の山々の東の端である。総合運動公園やサンマリーン球場や青島も見える。山の裾には田んぼが広がる。もう少しすれば、超早生米に向けて、田起こしが始まる。白鷺や烏が、耕運機の後をついて歩く。この時期の年中行事である。

 そろそろ西条柿が色づいてきた。梯子を樹にかけて、先日45個取り入れた。剥いて湯煎して吊るせたのは15個だけである。なかなか剥き切れない。明日と明後日は雨になりそうだから、取り入れた柿が熟してしまわないか心配である。

 先週は雨の日が多かったので、去年の悪夢(→「柿干せど」、2024年10月23日)が蘇らないかと心配だった。雨が続いて、干しても、虫や蛾が群がり、乾かないままぼとりと落ちてしまった。悪臭といい、ぼとりと落ちる光景がまだ目に残っている。生り年で500個余りも生ったのに、全滅だった。今年は生り年の翌年なので生らないものと思っていたが、どうやら100個ほど生っているようである。500個にくらべて、一つ一つの実も大きい。15個は干して吊るせている。残りの柿を剥いて、干せるのを祈るばかりである。

日常の有難さを、充分に味わっているようである。

「柿干して 今年も暮れる」(2003年12月11日)、→「干した柿に、ひよも飛んできて」(2004年11月27日)、→「寒空に、祭りの後の花火が儚げに」(2005年11月20日)、→「渋柿を吊せなかった、今年が暮れる」(2008年12月31日)、→「過ぎ行く秋の陽に、柿を干す」(2011年11月23日)、→「句も出ず、霧島降ろしに柿を干す」(2011年11月23日)、→「今年も過ぎて行くようです。」(2014年12月29日)、→「昨日やっと柿を干しました」(2017年10月30日)、→「西条柿6個」(2021年10月23日)、→「かき顛末記③西条柿」(2022年12月18日)、→「かき顛末記②」(2022年12月17日)、→「かき顛末記」(2022年12月7日)

つれづれに

つれづれに:10月も半ばを過ぎて

10月 秋立ちぬ(サンダンス) (3号)

9月 (ぴのことジョバ)青い街(3) (2号)

 10月も半ばを過ぎている。今回もカレンダーを更新できずに、2ヶ月分を載せることになった。吉祥寺にいる娘は寒いのが苦手、こっちと代わって、こっちも代わってほしいと母と娘で遣り取りしている。3年続きで、10月の半ばを過ぎてもまだ日中の最高気温が30以上である。しかし、昨日から北東の風が吹いて雨も降り、少し気温が下がり始めている。月曜日くらいからは、下が22℃くらいになるらしい。植物は暑さ寒さに対応する幅があるようで、例年通りしっかりと柿(↓)も色付き始めて、芒もあちらこちらで見かけるようになっている。

 先週は熱中症気味でやられたかなと思ったが、早めに対策したので、何とか持ち直した。先々週に、暑い最中に長時間自転車に乗ったのがじんわりときいていたらしい。出来るだけ外出は控えましょう、は人ごとではなかったわけである。

 この時期になって、瓢箪南瓜(↑)の実がつき始めた。今年はわりと早い時期に竹の柵(↓、解体作業中)を拵えて肥料も入れたが、それがよくなかったらしい。最初の頃は葉っぱばかりが繁り、花が咲いても実をつけなかったり、途中で変色して消えてしまったり。1本の蔓に7~8個はなるものらしいから、70、80個はなってもおかしくないのに、今のところ十数個である。南瓜は肥料なしの方がたくさん実がなるものらしい。

 9月末と10月の半ばに、小説は投稿した。最近はウェブで投稿できるので原稿用紙を綴じて、郵送するという手間が省ける。ただ、相手次第なので、先行きは相変わらず見えない。教授選といっしょで候補者には投票権がない。相手任せである。次回は3月末に2つ出す予定で、どちらも400字で250枚と300枚らしい。1つは3日ほど前から書き始めている。100枚ほど書いたところだ。先の見えない旅路が続く。考えれば、小説を書きたいと思って大学の職を探したくらいだから、やりたいことがやれているので、有難い話である。

赴任当時の旧宮崎医科大学(ホームページより)

 きのう、長崎のオムロプリントから2026年のカレンダーの見本が送られて来た。いつも専属の人が表紙や各月の構成や色合を考えてくれる。今年も、なかなかの出来栄えである。有難い。表紙と8月は、注文をして下さった東京の方の愛犬である。お気に入りのうさちゃんの人形がかわいい。名前がりりーちゃんなので、百合の花が豪華である。僕はいつものように、花屋を巡って材料の調達係だった。写真ではなく、生きた花を見ながら描いているので、勢いもある。毎年、最後は寝不足になるので、来年は個展が終わったら準備を始めようと言っている。恒例行事である。

リリーちゃんと百合:2026カレンダー表紙

つれづれに

つれづれに:久しぶりに

8月 オオカミ (3号)

 ひさしぶりに、更新している。前回が→「比較編年史1950⑤南アフリカ」(5月23日)だから、3ケ月余りが経ち、すでに8月(↑)も終わりかけている。6月(↓)も7月(↓)も、カレンダーの更新ができなかった。

6月 山桃とチェックとスカイ (4号)

7月  舟にて(アリス・M・さや) (3号)

 6月の半ばに前立腺の手術をしてもらって、初めて入院した。尿道から内視鏡を入れて肥大した部分を切除し、取った部分は細かく切って膀胱に落とし回収、切断面は焼いて止血したらしい。開腹しないので、体にかかる負担は最小限、月曜日に手術して、木曜日の午後には、もう帰ってもいいですよと言われた。予定通り金曜日まではいたが、何とも凄いことをするようになったものである。人に恵まれて、助けてもらった。

人体を切ったのだから、体には相当な負担である。出血もあったし、自転車に乗ったり、歩いたりするのもしばらく大変だった。まだ回復半ばである。男性の多くが歳を取ると、前立腺に支障が出るようで、体にがたがきているということだろう。先が見えてきたわけである。早くに生きても30くらいだろうと、すっかり世の中を諦めた気になったわりには、ずいぶんと生き存えてしまっている。出遭ってしまった出版社の人は、私とは仕様の違う人だったが、余生を生きていますという点だけは一致したようだった。なぜか、次から次にすることを勧められて、気がついたら退職していた。

出版社の人が亡くなってから、出遭う前に決めていたことだからと思い直して、小説を書き始めた。原稿も少し溜まり出した。この9月末と10月末にも投稿予定である。教授選と同じで、こちらが選ぶわけではないので、先行きは極めて怪しい。6つほど書いたあと、もう書けないかと思いかけたが、2つほど芯になるようなアイデアが浮かんだ。形にしていけば、何とかなりそうな気配である。

辛うじて丸莢オクラの世話は出来ている

 庭の畑(↑)に出るには暑すぎる日々が続いているが、草が生い茂って入れなくなるので、しばらく前から陽射しが強くなる前の短い時間に畑に出るようになった。屈む姿勢が長く続いて支障が出ない程度にしか作業は出来ないが、3日坊主にならずには続いている。秋になって、猛暑に心配がなくなると、少しは畑にも出やすくなるだろう。

近所の百日紅、今年も健在である

 辺りは8月の初めに刈り入れも終わり(↓)、そろそろ芒の季節である。暑い時期に咲き続ける百日紅(↑)も、今暫くは咲いていてくれそうである。

 加江田神社の展望所から加江田の山を背景に

つれづれに

つれづれに:比較編年史1950⑤南アフリカ

まだ日本に駐留していたGHQ

 比較編年史1950年の5回目である。1回目→「1950①私」では、その頃の生まれた地域と家の周りについて書いた。2回目→「1950②日本」では、朝鮮戦争が勃発し、戦争の影響で公職追放されていた旧体制側の連中が復権していくことになったことと、家の中の暮らしも大きく変わり始めていたことに触れた。3回目→「1950③アメリカ」では、国外では東西冷戦、国内では公民権運動の初期の段階であったことと、その流れの中で朝鮮戦争に出兵して、ペンタゴンが環太平洋構想を推し進めたことについても書いた。4回目→「1950④アフリカ」では、朝鮮戦争のあった1950年、イギリス領ゴールドコーストでは会議人民党がデモを行い、警官隊と衝突していたことについて書いた。そして、今回は南アフリカである。

 1948年にアパルトヘイト政権が出来てから既に行っていた体制をより整えるために国会での数にものを言わせて、今までの慣例を次々と法制化して行った。過半数を取って法律を作り、したい放題してきた自民党と構図は同じである。1910年にオランダ系アフリカーナーとイギリスの入植者が金やダイヤモンドの採掘権をめぐって殺し合ったとき、どちらも銃を持っていたので殲滅するまで闘えば取り囲まれている多数派のアフリカ人に共倒れすると思い知って連合政権の国を作ってしまった。アフリカ人を搾取するという一点で妥協した。その政権で、肝心要の土地に関する法律を法制化している。1913年の原住民土地法である。アフリカ人側もことの重要性を知っていたので、法制化を聞いて、その前の年に初めて抵抗運動の組織を作った。それが今の与党アフリカ民族会議ANCである。使える土地は白人のもの、不毛の土地はアフリカ人のもの、互いの売買は禁じるというものである。アフリカ人から奪った土地は入植者のものと法律で決めたわけである。どの法律も、アフリカ人に重くのしかかった。

 1948年に単独過半数を取ったアパルトヘイト政権は、翌年に異人種間の結婚を禁止する法律を成立させた。人種隔離政策の主な政策の一つである。そして1950年に集団地域法を制定した。人種別に居住区が割り当てられ、割り当てられた地域以外での居住は違法とされた。1953年の隔離施設留保法では、道路を除いたあらゆる公共施設や公共車両、飲食店などで人種別専用の施設を用意することが義務付けられ、居住区と生活圏が法的に隔離された。アフリカ人は約2500万人、インド系約90万人、白人は約500万人程度だった。のちに、不毛の土地にアフリカ人の独立国を創るというバンツースタン計画が立案された。人種隔離はするが、都市部での労働力は要るので一時的に滞在を認めるという屁理屈を通しただけである。従って、労働力の動向を把握するための通行許可証が急務となった。それがパス法である。

朝鮮半島(↓)で、ソ連の後押しで北朝鮮・中国兵とアメリカ・韓国兵が戦っていた1950年に、南アフリカではアパルトヘイト体制が強化され、その一環として集団地域法が制定されていたのである。