そのほか

▲ 「つれづれに」:更新「江之電と『天国と地獄』」3月18日本文はお知らせの続きに

「海岸道路」(3月16日)、→「湘南」(3月15日)、→「春模様」(3月3日)、→「落とし物」(3月2日)、→「陽当たり」(2月26日)、→「ZoomAA第4回目報告」(2月25日)、→「小田原」(2月21日)、→「1860年」(2月16日)、→「口承伝達」(2月5日)、→「下田」(1月29日)、→「漂泊の思ひ」(1月22日)、→「カナダの人」(1月12日)、→「英語で」(12月15日)、→「原言語」(8月5日)、→「送稿」(2023年8月3日)、「分かれ目」(6月11日)、→「修学旅行」(2022年6月1日)、「『つれづれに』一覧」→(2023年~2018年)(2024/3/18更新)、→(2018年~2007年)、→(2006年度)、→(2005年度)

▲ 連載開始「ZoomAA一覧」(2023年12月15日~)

▲ 2024年カレンダー→「私の散歩道2024~犬・猫・ときどき馬~」 

<ウユニ塩湖>(ボリビア)4号

3月<白い子犬とマーガレット>3号

「私の散歩道2023」、→「私の散歩道2022」、→「私の散歩道2021」

▲ これまでのカレンダーを更新しました(2024/1/7)→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2024年)」Calendar List(2004~2007は私製です

▲ 書いたもの→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」続モンド通信40、2022年3月20日)

「『ナイスピープル』と『最後の疫病』 」(2月20日)、→「アフリカとエイズ」(1月20日)、→「ケニアの歴史4:モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」(12月20日)、→「ケニアの歴史3:イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」(11月20日)

▲ →「アングロ・サクソン侵略の系譜一覧」(2018年12月~)

▲ 続モンド通信38(1月20日)→「続モンド通信一覧」(2018年12月~)、「モンド通信一覧」(2008年12月~2016年9月)

● 小島けいのblogから:

*→「<お知らせ> 2021年 小島けい個展案内」

*new!私の絵画館:→「ラッキー(ミックス犬)とブルーポピー」4月20日)英訳付き(Lucky (Mutt) & Blue Poppies in English

「観覧車」(1月20日)、→「康太郎くん(ダックスフンド)」(12月20日)、「雪之丞くん(ペキニーズ)とおもちゃ」→(11月20日)、「子馬(ジャスミン)とコスモス」→(10月20日)、→「私の絵画館一覧」(2018~)

*エセイ:「⑯:アリスの小さな“きせき”」2021年12月20日

「⑮:月は友だち?」11月20日)、→「⑭:秋にはコスモス・・・・」(10月20日)、→「⑬:中秋の名月に」(9月20日)、→「小島けいのエセイ一覧」

▲ 「書いたもの一覧」を更新しました。(2021/4/26)

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つれづれに

つれづれに:江之電と「天国と地獄」

 海岸道路を見て歩くには、江之電が便利だったが、江之電に乗りたかった理由は他にもあった。黒澤明監督の「天国と地獄」に出て来たシーンが目に焼き付いていたからである。一度近くで見てみたいと思っていた。録音した江之電の音を手掛かりにして犯人の動向を割り出し、江之島の見える高台の別荘で逮捕することに成功した。電車の架線の出す音が特徴的だったことにヒントを得て、別荘を割り出していた。今では考えられないが、今以上にあほな男社会で、煙草(たばこ)の煙がもうもうとする中で行われていた捜査会議が、いかにもその時代を象徴していた。男中心のあほな基本構造はそう変わっていないように見えるが、少なくとも職員室や捜査会議で煙草を吸えることはないだろう。

「天国と地獄」は1963年の製作である。翌年に東京オリンピックがあった。後に南アフリカの作家の作品を理解するのに歴史を辿(たど)り、日本がアパルトヘイト政権と深く関わっていることを知った。第二次大戦で中断されていた通商条約を結んで白人政権に加担した日本は、南アフリカの人にとっては経済を優先する恥知らずの国である。1960年の大量虐殺でアフリカ人側がオランダ人とイギリス人の連合政権の横暴に耐えかねて武力闘争を開始したとき、アパルトヘイト政権はなりふり構わず欧米や日本に協力を求めて力でねじ伏せしまった。ネルソン・マンデラなどの指導者たちは逮捕され、終身刑を言い渡されてロベン島に送られた。1964年のことである。南アフリカは地上での指導者を失い暗黒の時代に入り、日本は高度経済成長時代に突入した。映画はその頃の話である。

 映画を見たのは三ノ宮の高架下のビッグ劇場という映画館だった。旧作が3本1000円だった。夜の授業に行くつもりで家を出たが、三ノ宮で阪急電車に乗り換えるときに、大学には行かずに映画館に行き先を変えることも多かった。シドニー・ポワチエ(Sidney Poitier、1927-2022)の「いつも心に太陽を」(To Sir with Love)、「谷間の百合」(The Lily of the Valley)、「招かれざる客」(Guess Who’s Coming to Dinner)や黒澤明の「赤ひげ」などは、無為な日々を過ごしていた私の心にも充分に響いてきた。のちに、まさか授業で「招かれざる客」を使うとは、その時は思いもしなかった。

阪急に乗り換える時に利用した国鉄三ノ宮駅(今はJR)

つれづれに

つれづれに:湘南

 『海岸道路』の一節である。

「鎌倉を中心にして海岸道路は左右にのびていた。左は江之島、茅ケ崎(ちがさき)を経て大磯、小田原に至り、右は逗子(ずし)を経て葉山に至る道である。海岸道路にはいたるところにホテルが建っていた。これらのホテルは夏場は混むが、いくつかのホテルは季節はずれになるとひっそりとしてしまう。したがって予約なしに行っても、いつでも泊まれる。海岸道路ぞいに朝まで営業しているレストランが何軒かあり、深夜、東京からわざわざバーのホステスをつれてくる男達もいた、これらの男達は、ひとむかし前は、ホステスををつれて横浜の″南京街″にくりだした連中である。その頃ホステスは女給とよばれていた。

地元のある人達は、この海岸道路を有閑道路とよんでいた。よくも深夜これだけの人間があつまるものだ、と思うほど、どのレストランもまいばん満員だった。」

主人公も朝まで営業しているレストランの常連で、有閑道路脇のホテルに泊まる。海岸道路を見て歩くには、江之電が便利だった。

 鎌倉と藤沢間を走る江之島電鉄である。ウェブで検索して見つけた1970年代の写真(↑)では、電車と併行して走っている海岸道路と江之島が見える。

 鎌倉から電車に乗り、途中で稲村ケ崎、腰越(こしごえ)、江ノ島の駅で降りて海岸道路を歩いた。『海岸道路』のほか、『春のいそぎ』、『はましぎ』、『恋人たち』の主な舞台である。

 私の日常は方埒(ほうらち)な生活とはまるで無縁だったが、生きても30くらいまでかなあと、ぼんやりと過ごしていた先の見えない無為な生活に、主人公の無為な世界を重ね合わせて、大根のところでは理解できる気がしたのか。

 しかし、小説を書き出せなかった。書き出すばねがないと感じたからだが、突然の母親の借金騒動であらぬ方向に動き出してしまった、というのが正直なところだ。その後、結婚して子供も出来てと、また思わぬ方向に展開して、小説どころではなかった。このままでは書けそうにないと言う気持ちが高じて、先ずは書くための空間をと、大学の職を思いついた。元々貧乏だから自分一人ならそれでもよかったが、妻や子供に強いる気にはなれなかった。返すあてもなく金を借りて、借りてまで生きてはいけないと思った感情に似ている。

つれづれに

つれづれに:湘南

 →「漂泊の思ひ」と、入れ込んでいた作家の作品の舞台を見たいという思いもあって、三月の初めに湘南・鎌倉に出かけた。1970年代の半ばである。舞台を見る前に、一度は行ってみたいと常々思っていた伊豆地方にも立ち寄った。→「伊豆」では「修善寺」、→「西海岸」の戸田、→「下田」から→「伊豆大島」に渡ったあと、→「小田原」に行った。小田原城公園では、仰向けになって空を眺めた。そのあとは、最終地の湘南・鎌倉だった。初期の作品の主な舞台だったからである。作品の中の地名を思い浮かべながら、江ノ電に乗り、海岸線を歩いた。

 その後、1980年代にアメリカ文学を選んで修士論文を書く時にも、同じことがあった。英文だったが、作品がすっと意識下に入ってきた。著者が多感な時期を過ごしたミシシッピは、やはり初期の作品の舞台だった。作者が生まれたナチェズには、首都ジャクソンからプロペラ機を利用した。

ナチェズ空港

 空港前に広がる長閑(のどか)な景色から黒人を樹に吊(つ)るしていた残虐な場面は浮かんでこなかったが、眼の前の美しい光景がかえって残酷な風に思えた。旅先から学会誌に送った原稿には、その時ミシシッピを回りながら感じた思いが綴(つづ)られている。(→「ミシシッピ、ナチェズから」、1986)

 「『風土が美しければ美しいほど、読者の目には白人社会が、より苛酷なものに映る』とある雑誌に書いたが、心のどこかで、その豊かで美しい風土をこの目で確かめたかったのかも知れない。ライトは、たしかに文学的昇華を果たしていた、という思いが深まって行く」

 英文だったが作品の文字がすっと心に染みこんで、意識下に働きかけてきた何かを確かめたかったのだろう。時代も違うし、英語も充分に使える状態ではなかったが、作家の生まれ育った辺りの土地に立ってみたいという思いは強かった。

 日本人の作家が新聞に連載していた小説だったが、文字が意識下にすっと入ってきて、何かに響くのを感じた。作品の舞台を歩いてみたいと感じたのも同じ思いからである。

 『海岸道路』はその頃に書かれた代表作で、由比ケ浜、七里ケ浜、稲村ケ崎、腰越(こしごえ)、江ノ島、鵠沼(くげぬま)、藤沢、逗子(ずし)などの名が躍(おど)る。鎌倉に住む主人公はその海岸道路の近くで、放埓(ほうらち)な日々を過ごしていた。従妹で銀行の頭取の娘、有閑マダム、夫が有名大学教授の人妻、隣町の県会議員の妾(めかけ)など、女に困ることはなかった。ときには喧嘩(けんか)や、いかさま坊主と吊るんで喝(かつ)上げもする。手際よく相手を倒すまでには、数々の修羅場(しゅらば)をくぐって来たに違いない。

 作品を読みながら、海岸道路を見てみたいと思い、出かけて海岸線を歩いてきた、そんな湘南行きだった。