つれづれに:中朝霧丘(2022年6月17日)

2022年6月17日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:中朝霧丘

 梅雨の合間は曇り空でも、雨が降らなければ充分に有難い。雨で潤って、畑の野菜もずいぶんと大きくなっている。春先に一斉に虫が葉を食い漁って深緑色の糞まみれの惨状になるが、ある時期を過ぎると一定の状態で落ち着くようである。あれだけやられていたレタス(↓)も虫にやられないで、一部が生き残っている。葱(↑)は温度が上がると自然に消えてしまうようだが、一部の根を丁寧に植え替えた分が辛うじていくらか生き残っている。

 朝霧丘(あさぎりおか)は優雅な名前である。転勤で各地を回って引っ越しを繰り返していた妻の父親が、将来4人の子供たちが集まりやすいようにと、日本のほぼ真ん中にある明石に家を買い、瀬戸内海が一望できる坂道のお寺に墓を買ったと聞く。東京にいる子供が、今墓参りに来てるで、と電話をしてくることがある。最初は墓参り?と不思議だったが、仕事で福岡に行ったり来たりする途中に、生まれた家が懐かしいのか祖父と住んでいた頃を思い出すのか、時たま寄るらしい。結婚した彼女を連れて行くこともあるようである。楽しそうに暮らしているのが何よりである。
朝霧の家を買った当初は周りに家も少なかったらしいが、3人で転がり込んだ頃は、坂の上の方まで家で一杯だった。百坪余りの家の前は溝になっていて、三方を四軒の家に囲まれていた。家の少し離れた東側に明石と神戸市の舞子の巨大な明舞団地(↓)が出来て、行き交う車の数も相当なものになっていた。人口が多いと交通の便もよくなり、インフラも整備されていく。病院も多く、子供は二人とも明舞団地の大きな病院で産まれた。家の南側に少し離れて幹線道路が通っていて、明舞団地行きのバスも結構な数で走っていた。普段は明石駅まで自転車を使っていたが、バスも本数が多いので使い勝手があった。

 人は生まれながらにして思い切り不平等である。結婚しようと言ってうんと言われ、一ヶ月余り先にはいっしょに暮らし始めていたので、お互いのことをよく知らなかったと、暮らしてから少しずつわかり始めた。四国、西宮、明石と中朝霧丘と移り住んで、その度に転校やったから大変やったよと言っていた。社宅に住んでいたとも言ってたので、県営住宅や市営住宅かと思っていたが、よく聞くと工場長の社宅で、500坪ほどあったようである。お手伝いさん用の部屋や電話ボックスもあったらしい。明石に来たときは大学の付属中学に入れてもらったらしいが、進度の違いで数学に苦戦したと言う。6畳と4畳半のバラックで消防署から屋根の油紙をトタン板にするように改善命令が出た生まれた家とは別世界である。とても同じ時代に生きていたとは思えなかった。

住んでいた家の近くにあった紡績会社の一般社員向け長屋住宅

 明治生まれの父親は母子家庭、奨学金で工学部を卒業、妻の母親とは大恋愛の末に結婚したと言っていた。結婚の日に初めて会った私の両親とは、また別の世界に住んでいたようである。戦前は大学への進学率の1パーセントほどだと聞いたことがあるが、富国強兵の時代には工学部は花形、予算も多く、優秀な人材が集まったようである。卒業後は大手の紡績会社に就職、絹織物主体の時代の「女工哀史」に描かれた織子たちが貧しかった分、工場長の待遇はよかったようである。子供3人を東京の一流大学にやり、都会に一軒家を購入、借金もせずにそれが可能だったようである。ガーナ赴任の話もあったようだが、工場長で退職、その後関連会社に就職したらしかった。妻の母親は腎臓を悪くして、苦しんだ末に亡くなったようで、会えずじまいである。妻を亡くし、老け込みかけた頃に、ある日突然、娘夫婦と孫3人が家に転がり込んで来た、というわけである。
次は、修士論文、か。

住んでいた家の近くにあった紡績会社