つれづれに:比較編年史1950④アフリカ(2025年5月19日)

つれづれに

つれづれに:比較編年史1950④アフリカ

 比較編年史1950年の4回目である。1回目→「1950①私」では、1歳の記憶はないので、その頃の生まれた地域と家の周りについて書いた。2回目→「1950②日本」では、まだ日本に駐留していた総司令部GHQ(↑)のマッカーサー(↓)を含めたアメリカの対日政策が東西冷戦での「反共の砦」の方向に向かっていたことと、朝鮮戦争が勃発したことを書いた。戦争の影響で公職追放されていた旧体制側の連中が復権していくことになったことと、家の中の暮らしも電気のおかげで、大きく変わり始めていたことにも触れた。3回目→「1950③アメリカ」では、国外では東西冷戦、国内では公民権運動の初期の段階であったことと、その流れの中で朝鮮戦争に出兵して環太平洋構想を推し進めたことについても書いた。そして、今回はアフリカである。

 アメリカやと韓国が、朝鮮半島でソ連や中国の助けを借りた北朝鮮と戦っているとき、アフリカでは独立に向けて動き出していた。戦争で無傷だったアメリカが荒廃した西ヨーロッパ諸国をまとめて北大西洋条約を結んでソ連や東ヨーロッパと対抗し始めていたが、アメリカには別の狙いもあった。アジアとアフリカへの進出である。アジアとアフリカではすべてがほぼ宗主国の独占状態だったので、先ずはその体制を崩す必要があった。そこでアメリカが思いついたのは多国籍企業による貿易と資本投資である。これなら大手を振って参入できる。特に鉱物資源の豊かなコンゴと南アフリカは魅力だった。普段ならイギリスやフランスなどもすんなりと応じる訳はないが、主要都市は戦禍で復興に追われ、おまけにアメリカには借金をしている。火事場泥棒とはまさにこのことだろう。口先だけのイギリスに真似て、アメリカは開発と援助という文字を付け加えた。弟分だけのことはある。

 これからアメリカにやられる予定のアフリカ(↑)は独立に向けて動き出していた。1960年の独立の年まで大きな出来事はすくないので、今回もガーナの続きを書こうと思う。独立第1号だったこともあるが、アフリカの統合に向けて欧米と面と向かって闘った指導的立場にいたからでもある。イギリスからしてみればゴールド・コースト模範的な植民地だった。1948年にそこで暴動が起きたのだから、当然押さえにかかる。物価高騰などによる不満を爆発させた市民が首都アクラでヨーロッパ商品の不買運動を始めて暴動に発展したということだったが、見過ごすわけにはいかない。第一、他の植民地に示しがつかない。実際にはエンクルマが書記長をしていた連合ゴールドコースト会議は動いていなかったが、植民地当局は同党が煽動したとしてエンクルマを含め党の首脳部を逮捕した。しかし、押さえ込もうとしたために却って党の人気は高まってしまった。そこでイギリスは調査団を派遣し、自治の拡大とアフリカ人主体の立法評議会の設置を提言した。富裕層中心で穏健だった党は賛成したが、エンクルマは即時自治の要求を掲げて党首脳部と対立して、1949年に会議人民党を作った。そしてストライキやボイコットなどの積極的な政策を実施して貧しい国民の支持を受け、独立へと進んで行くのである。

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち1』)

エンクルマが袂をわかった植民地エリートや伝統首長は、かつて奴隷をヨーロッパ人に売り飛ばして権力を維持し、独立後は欧米の傀儡となって権力にしがみついた輩である。そして、独立後に欧米の傀儡となって、独裁政権を維持し続ける集団でもあった。
ソ連が承認した北朝鮮軍とソ連と同盟を結んだ中国からの志願兵と、アメリカ・国連・韓国連合軍が朝鮮半島で殺しあっていた1950年、イギリス領ゴールドコーストの首都アクラではエンクルマが創設した会議人民党が即時自治承認を求めてデモを行い、警官隊と衝突していたのである。