つれづれに:比較編年史1950②日本(2025年5月17日)
つれづれに:比較編年史1950②日本
1950年、私が1歳の頃の日本である。一番は朝鮮戦争だろう。日本と韓国とアメリカと深い関りがある。アメリカ国防総省ペンタゴンの環太平洋構想の3番目ソウルである。朝鮮半島(↑)は九州からも近い。入試の準備をしなかったのに、たくさん受験だけはしてあがき続けた。北九州大は1期と2期以外の日程で受験出来た中間校で、英国社の3科目だった。その帰りに、小倉から大阪行きの今はもうない各駅停車に乗った。5000円だった。関釜フェリー(↓、1970年に就航開始)も5000円で同料金、下関から釜山は近いんだと思った記憶が妙に残っている。
古くから秀吉を始め侵略行為も犯し、倭寇として悪名を流した。スペインやポルトガルが南米で行った海賊行為と同じである。韓国を併合した時は土地や金で分断支配を画策して、朝鮮社会を分断した。財閥たちや軍事政権と組んで悪行を続け、果ては第2次大戦まで突き進んだ。朝鮮半島は中国にも日本にもやられ放題で大変な思いをしてきたのに、日本人の韓国への批判は手厳しい。インターネットでの書き込みは見るに堪えないものが多い。他の人への配慮など無縁の世界である。匿名だから歯止めがない。どちらの国もアメリカ軍に支配された点や、社会のアメリカ化の進み具合も似通っている。
終戦から6年目でまだ連合国軍最高司令官総司令部(↓)が駐留し、マッカーサー(↑)が指揮を執っていた。連合国の主要国だったアメリカの対日政策は、既に始まっていた東西冷戦で日本を「反共の砦」にする方向に向かっていた。
中国では、1949年に蒋介石の国民党政府を台湾島へ逃亡させ、ソ連の後押しで中国共産党による中華人民共和国が成立して台頭を始めていた。1950年6月には朝鮮戦争が勃発、北朝鮮優位の攻勢が続いていた。その状況下でマッカーサーも含めアメリカは、対日政策の大きな転換を余儀なくされた。その結果、岸信介はじめ公職追放されていた旧体制側の人物たちが1952年のサンフランシスコ講和条約発効を機に公職追放を解除され復権していくことになったのである。
宗教団体と手を結び自民党内で最大派閥を作って裏金を作り、数の力で忖度政治を浸透させ、国家公務員に書類を書き換えさせ、国会でも嘘の答弁を繰り返した元首相の祖父たち、つまり太平洋戦争を起こした側の人たちが充分に罪を償わずに公然と復職したわけである。その時点で、3代先の悪夢を誰か予測できただろう。1950年に朝鮮戦争が起こった時点での首相は吉田茂だった。ペンタゴン(↓)の構想はマニラ→オキナワ→ソウルと進んで行く。
池田勇人蔵相が国会で「貧乏人は麦を食え」と発言したのも1950年である。貧乏人が多かったと言うことだろう。もちろん、私もそんな貧乏人が住む密集地帯に生まれている。家の中の暮らしも電気のおかげで、大きく変わり始めていた。冷蔵庫、洗濯機、トースターなどが次々に発売されるのもすぐ後からである。家の中の道具が電気を利用した物に変化して行く。ただ、値段が高かったので、行き渡るのはもう少し後になる。従って、この頃は私の母親もまだ手で洗濯をして、竈でご飯を炊いていたことになる。
ペンタゴンの環太平洋構想について初めて読んだ新書