つれづれに

つれづれに:ウィルス

 最初は英語の授業を医大医学科の一般教育の科目として担当した。統合後は医学部医学科としてである。エイズについては半期15回のうちの大体4~5回で、☆HIVの増幅のメカニズム、☆簡単なエイズ発見発見の歴史、☆社会問題として:アメリカ(エイズ会議、抗HIV製剤、HIV人工説)とアフリカ:(欧米・日本の偏見、ケニアの小説、南アフリカ)を演習形式で行った。その授業の話の前に、いくつか前提となる項目を先に取り上げておきたい。科学の知識が皆無に近かったので、確認の意味もこめてである。最初はウィルスである。

本格的にするようになった時に使った『医学用語8版』

 のちに医学用語(↑)をするようになって、日本語で普及して使われているウィルスは和製英語で、英語ではヴァィアラスと発音され、ドイツ語で習った人はヴィールスと発音しているのに気がついた。1980年の初めに横浜で出版社の人に会ったとき、縄文時代と意識下通通信制御のことを延々と話して下さったが、話の中で恐竜がやられたのはヴィールスですと何かの文脈の中で話していたのを記憶している。その人は1930年代の前半の生まれで、東大の医学部を卒業して医者にならなかったと、あとから先輩に教えてもらった。退職した年、非常勤で医学科の英語と全学の教養科目を頼まれてやっていた時に、医学科の3年生を担当した。夏休みに中国の大学に研究室配属で行く学生の英語の準備という依頼で、行った先で使う英語を予測して1対1で面談を繰り返した。その中の一人が、中国医学と日本医学、アメリカ医学と西洋医学とを比較してしゃべる練習をしていた。そのときに、戦前の人たちは医学をドイツ語でやっていたと気づいた。だから、出版社の人はヴィールスを使っていたわけである。

医大の講義棟(最初は4階で、あとは3階で授業をやった)

 ただし、戦後は無条件降伏のあおりで、ヨーロッパ医学がアメリカ医学に切り替わっている。ただし、当初は英語を担当できる人が少なかったのでドイツ語も継続して使っていた、つまりドイツ語で学んだ医者がすぐには英語に対応できなかった、ドイツ語との併用の時代が長く続いたというわけである。英語のmedcal record, chartはいまだにドイツ語由来のカルテが使われている。私が1988年に医学科に赴任したとき、ドイツ語の専任のポジションが2つもあったし、医学科の第2外国語はドイツ語が必修だった。そのうち英語の蔓延(はびこ)り方が酷くなり、ドイツ語の雑誌にも英語の論文が載せられるようになった。医大でも難産の末に、医学科の第2外国語が選択になった。ドイツ語の教員には死活問題だったが、問題のあった人だったので周りに助ける人はいなかった。統合で教養科目が全学共通になったので、退職後はそのポストは不補充でドイツ語の専任はいない。不補充は学長裁量なので、全学用の他のポストに使われている。今は、ドイツ語はフランス語とならんで、全学キャンパス(↓)での教養選択科目の一つである、最近ヨーロッパ言語を取る人は、ずいぶんと少なくなった。

奥に見える7階建ての3階に研究室があって、窓から加江田の山も見えた

 ウィルスは極めて小さいので、もちろん裸眼では見えず、かなりの規模の電子顕微鏡で拡大しないと確認できないらしい。ナノの世界である。nm(ナノメートル)を最初見た時、cm(センチメートル)かmm(ミリメートル)の間違いにしか見えなかった。まさか10のマイナス6乗とは。もちろん、理屈はそうでも、理系の要素が欠落しているので、実際には私の理解の範疇(はんちゅう)を越えている。
一般向けのエイズ関連の本を読んだ時、著者が最初の授業でウィルスは生きものかそうでないかを最初に尋ねるという話を紹介していた。生きものとは自分のDNAで子孫を作ることができるものを指すが、ウィルスはDNAを持たないので自分では子孫が作れない、その意味では生きものとは言えない、そんな話である。今回エイズで問題になるのは、生きものでもないウィルスが自分の子孫を増やすために利用する標的が人体に流れる血液中の白血球のT細胞だということである。白血球は外から侵入してきた外敵を駆逐する働きがあり、ウィルスの増幅でT細胞が壊されて、その細胞数がある一定以下に減ると、外から侵入するウィルスや細菌などの外敵に対処できずに、衰えてやがては死に至る。

 ウィルスはどうやって人体に侵入し、血液の中のT細胞に入り込むのか、そしてどうやって子孫を増やすのか?それを理解するためには、HIVの増幅のメカニズムを知る必要がある。
メカニズムの前に、次回は血液である。

Stages in blood cell development (hematopoiesis – 血液生成)

つれづれに

つれづれに:エイズ

 今回からエイズ関連の連載である。コンゴとエボラ出血熱、南アフリカに続く最終回になる。

「サンフランシスコ」(↓)で初めてエイズ患者が出た1981年7月には、私もサンフランシスコの街にいた。しかし、全く知らなかった。エイズの報道もなかったし、医学に関心が向いていなかったからだろう。1992年にジンバブエ大学で知り合った英語科の教員が「エイズに感染した地方の女性のドキュメンタリーを撮ったので観ますか?」と誘ってくれたときも、滞在期間が短く時間的な余裕がなかったのと、まだエイズに関心がなかったので機会を逃している。返す返すも、心残りである。のちに、医学科で英語の授業をして、そこでエイズを取り上げることになるとは、初めてサンフランシスコの街を歩いた時には夢にも思わなかった。世の中、なにが起こるかわからないものである。

 前回「担当が一般教育の英語学科目だったから、当初は医者には出来ないことをと意識してやってみたが、どうもしっくりいかなかった。医者や研究者になろうと入って来た人たちだから、やっぱり医学的な側面も取り入れる方が自然な気がして、エイズとエボラ出血熱、しばらくしてから医学用語もやり始めた」と書いたが、実際に始めてみるとなかなか骨が折れた。元々医学に特に関心はなかったし、科学の知識が皆無に近かったからである。当たり前であるはずの前提を理解するにも、時間がかかった。ただ、元々人が何かを教えられるとも思っていなかったので、わからない時は未来の医学生に教えてもらおうとは思っていた。素人ならではの逃げ口である。後先を考えないで、先ずはエイズとエボラを遣り始めた。

エイズは一体どんな病気なのか、何が原因なのかを最初に考えた。本腰を入れ出したのは1990年の半ばで、医学科で授業を始めてから7、8年が経っていた。調べてみると、普通の病気とは少し違うようだった。普段意識にある病気の概念は、たとえば喉(のど)がいがいがして、くしゃみが止まらないと風邪気味だな、気をつけようという感じだ。しかし、エイズは、原因はウイルスだが、感染して免疫力が著しく低下して普通は罹(かか)らない重症な感染症やがんを併発するようになる病気(↓)である。したがって、ウイルスに感染してもエイズという病気になったわけではなく、免疫力が落ちて他の病気を併発したときに、エイズという病気を発症したというわけである。

病名は後天性免疫不全症候群、英語ではAcquired Immuno-Deficiency Syndrome、その頭文字を取ってAIDSが英語の病名、日本語ではエイズである。ウィルスはヒト免疫不全ウイルス、英語ではHuman Immunodeficiency Virus、同じくその頭文字を取ってHIVまたはHIVウィルスと表記される。

 英語の授業の対象者は医学科1年生で、授業は前期か後期の15回、一般教育の1教科で必修科目。1年生なので、まだ基礎医学や臨床医学はやっていなかった。中高では英語の用法や購読やリスニングを中心に間違わないようにやって来ているので、実際に使える人はそう多くない。元々言葉は使うためのものだから、間違わないようにと一方的にやられてただただ覚えても、実際には言葉としてそのままは使えない。間違ってはいけない、間違ったら恥ずかしいという意識が却って邪魔になって、実際にはしゃべれない場合が多い。医学科の場合、マークシート方式のセンター試験で9割くらいは取るので、自分は英語が出来ると錯覚している人も多い。もちろん、一度大学を出た→「既卒組」や、親の関係で海外の経験がある人も結構いるので、その人たちは最初から英語が使える。国際基督教大(ICU)の既卒者が何人かいたが、どの人も英語が出来て、使えた。さすがである。その条件下での授業である。一般教養が主体なので、医学問題もその一つ、概(おおむ)ねそんな感じである。

医大の講義棟(最初は4階で、あとは3階で授業をやった)

 エイズとエボラをそれぞれ4回前後くらいか。時間も限られているのでエイズに関しては、HIVの増幅のメカニズム、簡単なエイズ発見の歴史、社会問題として:アメリカ(エイズ会議、抗HIV製剤、HIV人工説)、アフリカ(欧米・日本の偏見、ケニアの小説、南アフリカ)を大体4~5回で取り上げた。英文を誰かにやってもらったり、各項目の発表を何人かにしてもらったり、それとたくさんの資料と映像。盛沢山(もりだくさん)だった。それと、医学用語(ウィルス、血液、免疫機構)も織り交ぜた。英文をたくさん読むので、医学用語は不可欠だった。9割ほどがギリシャ語、ラテン語由来なので初めは馴染(なじみ)がないが繰り返し使えば慣れる。生体病理検査の所見が英語だし、カルテなどでも要るので、やっておいて損はない。日本語で使われている発音と違う場合も多いので、発音は演習を交えながら丁寧にやった。

本格的にするようになった時に使った『医学用語8版』

そんな感じで、医学科のエイズの授業を始めた。次回はウィルスである。

つれづれに

つれづれに:台風10号続報

 台風10号の続報である。10時前に携帯が鳴った。緊急速報メールで「氾濫の恐れ 警戒レベル4相当 本庄川で氾濫(はんらん)のおそれ 嵐田(国富町)付近で河川の水位が上昇、氾濫が発生する危険があります(国土交通省)」と書いてあった。国富町は前に住んでいた宮崎神宮駅北側の借家から西方向の山側の地域で、旧宮崎大学の学生の一人が連れて来た友人がその地域に住んでいた。法華岳や本庄川の名前も聞いた。一時期、何回か家に来たことがある。ある日持って来てくれた天然の鮎とか竜胆(りんどう)が珍しかった。林業関係で東京農大に行き、その後カナダの大学院に行って、ドイツの女性と結婚したという所まで連絡があった。今頃、どうしているんだろう?緊急速報メールで起こされたのは初めてのことである。昨日は寝るのが2時頃になった。その頃、かなり風雨が強くなっていた。そのあと、明方までが暴風雨のピークだったようだ。何回かシャッターの音で起こされた。

メールに起こされてすぐに、パソコンを開けて確認した情報である。

午前8時ごろ、台風10号が鹿児島県薩摩川内市付近に上陸した
9:50現在 台風10号は出水市付近を北北東に移動中
速さ15km/h
中心気圧960hPa
最大風速中心付近で40m/s

雨戸を開けて南向きの居間からみたら、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵(さく)が右側に少し傾いていて、実が4つ転がっていた。去年は北風で南側にどーっと倒れていたが、今回は東の風を受けて、西側に傾いている。倒れるまでは行かなくて済んだ。

オクラもだいぶ傾いてはいるが、何とか復活しそうである。風も雨もまだ継続中だが、ピークは済んだんだろうか?風もだいぶ強かったし、雨も相当降っているので、停電と断水が心配である。台風が去ったあと、停電と断水で困ったことがあるのでまだ心配だが‥‥。

 今日は白浜(↓)にマッサージに出かける日だったが、日曜日に変更してもらった。昨日の時点で、外に出るのが危険な気がしたからである。昨日「つれづれに」を書いた時には既に雨と風が強くなっていたが、今は暴風雨の真っ只中である。昨日の午後1時に気象庁が鹿児島に暴風・波浪の「台風による特別警報」を出した。宮崎県には午後2時半に警戒レベル4が出されていた。レベル4は、対象地域住民のうち危険な場所にいる人は全員避難、らしい。ちなみに、警戒レベル5は、”命の危険。直ちに安全確保”だそうで、その速報メールが届いたわけある。

大淀河畔の宮崎観光ホテル

 大淀川(↑)や加江田渓谷周辺などでは大雨が降るとすぐに水位が上がり、よく被害が出ている。日南線が通っている南部の方でも、よく警報が出る。線路が敷かれた地盤が緩いようで、よく電車がとまる。木花駅(↓)がいつ無人駅になったかは知らないが、時間が来ても電車が来ないなあと待っていると、マイクから運休の報せが聞えてきたことがある。おそらく、南宮崎駅か宮崎駅から放送できるように配線が出来ているのだろう。誰もいないのにというちょっとした違和感を感じた。それから、さてどうするべえ、と考えた。

今は駅舎がジャイアンツ向けに塗りこめられてしまっているが

 旧宮崎大学に非常勤で行っているときに、出来立ての宮崎公立大学(↓)から来ている人と知り合いになった。しばらくしてから、ある日電話がかかってきた。たくさんの人に非常勤を頼んでいたようで「時事英語なんですが、お願い出来ませんか?」と言われた。その頃住んでいた借家からそう遠くなかったので、気軽に引き受けた。その後、作文を、購読を、‥‥最後はLLをと毎年言われる科目が違っていた。LL教室は作ったものの担当者がいないという事情らしかった。

 大阪工大(↓)では先輩が予算措置をしたLL教室を使わせてもらったが、映像と音声を使わせてもらっただけだ。1980年代だったので映像は学生に好評だった。もの珍しかったからでもあるが、工学部の人は英語で苦労した人も多く、英語が嫌いな人が多かった。だから映像主体の授業と、最初の授業で言った単位まかしときやの一言が効いた確率は高い。授業では先輩の予算措置もあって工学部の誰かが必ず横についてくれてた。非常勤は授業をして帰るだけが多かったが、補助員との時間はとても有難かった。付き合ってくれた補助員とは、いまだに遣り取りしているくらいである。

 しかし、その時のLLは単に映像と音声を使っただけだったので、とてもとてもと固辞し続けた。しかし結局、今やっている映像をふんだんに使うということで、渋々引き受けることになった。1クラス60人だったように思う。事務職の助手もいて、その人たちともすぐに仲良くなった。他の事務員ともども、毎回ずいぶんと世話になった。

今の高台に越して来てから週に1回だけだが、家から自転車で5分ほどの日南線木花駅を利用した。直接自転車で行くのも可能だったが、1時間か1時間半かに一本の列車に乗ることにした。宮崎駅から大学までは少し距離があるので、駅の無料駐車場に置いた自転車を使った。最後辺りはわりと駐車場の規定が厳しくなって、長期の休みの間に強制移動の処分にあったこともある。都会と違って電車の本数もないし、雨で運休もあったが、そのリズムになってしまえば慣れる。大阪工大に行っていたときに味わったような地下鉄や旧国鉄の通勤ラッシュとは無縁である。鉄道で言えば、本線以外の地方の鉄道はどこも似たりよったりである。小さい頃にいた小さな町の本線から出ていたローカル線(↓)はもちろん単線で、日南線とよく似ていた。

 佐土原で竜巻が起こったらしいよ、何が起こるかわからんよねと昨日の夕方に妻が言っていた。宮崎に来て10年ほどは神宮の北側辺りに住んでいたので、佐土原は身軽に自転車で行ける距離にあった。今はその辺りより20キロも南の地域で、海岸線が身近である。木崎浜(↓)や青島に出かけることも多くなった。

 朝ごはんを食べてからいろいろごそごそやっていたら、昼過ぎになってしまった。写真を撮って来た。何とか台風も通り過ぎたようだ。もう少し西寄りのコースだったらこんな状態では済まなかっただろう。まだ停電と断水の心配はある。しかし、被害に遭った人たちには申し訳ないが、これくらいで済んでよかった、有難い、が正直な感想である。

折れた枝(上)も柿(下)も無事だった

つれづれに

つれづれに:台風10号

 台風が来ている。当初の予定では、今回は高気圧の谷間を通ってもっともっと東寄りのコースを取るはずだったのに、そんなあ‥‥。

昨日辺りから、突然雨が降り出したりするようになった。夜、家出した親猫にえさをおきに行った妻が、家の近くで突然降り出したんよと、びしょぬれになって帰って来た。私もきれいに晴れている合間にと思って生産者販売所2軒と量販店に寄って帰りかけたときに、突然ざあーっと降り出した雨にやられた。雨宿りする場所を探している間にびしょぬれになった。傘をさしてみたが、風が強い上に、その時は自転車の前のかごに重い荷物を乗せていたので、ハンドルもぐらつくし。難儀した末に、何とかか空き店舗の店先の空間を見つけて、持っていってた雨合羽(あまがっぱ)を着たのだが、その時には雨が小やみになっていた。

家の近くの百日紅(さるすべり)も散ってしまうかなあ?

 夜からは雨脚が強くなった。今は小降りだが、雨の量も多くなっている。最初、二つの高気圧の谷間を通ってもっと東寄りに向きを変える予定だと言われていたので、あまり気にしていなかった。少し雨と風が吹く程度で終わりそう、そんなつもりでいたが、ぐっと西にコースを曲げて、今は鹿児島の南西方向の海をまっすぐに北上している、みたいだ。夜半過ぎから明日の夜半過ぎまで、暴風雨になるらしい。停電になると、この気温だと大変だ。猫のぴのこも私たち二人もエアコンで辛うじて生き延びている、そんな感じなのに、とぼやいても仕方ない。通り過ぎるのを、ひたすら待つしかない。無力なものである。無力だと思うことの方が、人の思い上がりなのかも知れない。

 何とかオクラ(↓)とピーマンは1本1本、強風にも折れないように細い麻紐でとめた。縛ったら元も子もなくなるので、風対策用に丁寧に作業した。しかし、風次第である。やられない保証はない。瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ、(↑)もやられるかも知れない。去年は柵(さく)ごと倒れてしまったので、今年は道具を使って穴をより深く掘った。丁寧に太い竹と木の杭を打ち込んだ。しかし、初めてなので、風に持ち堪(こた)えるかどうかはわからない。延びた蔓(つる)も竹に括(くく)り付けられたものもあるが、全部はできなかった。やられる確率は高い。大きな実を4つほど、横に通した竹に括り付けたが、風で落ちるかも知れない。何とか食べられそうなので、ちぎってもよかったのだが‥‥。濃い黄色い花は、朝方に咲く。実が大きい分だけ、大きな花が咲く。花がだいぶ咲いて小さな実をつけている数が増えているが、それもやられるかも知れない。

 北側の庭にある西条柿(↓)も心配である。一昨年500個ほどなった時は一つの枝に数十個がなって、地面に擦(す)れるほどにまで曲がっていたが、その枝が今年は折れてしまった。まだ一部が繋(つな)がっているので、枯れないでこのまま実が熟すかも知れないが、その枝も繋がったまま残っている一部が、今回の強風でちぎれてしまえば、実は干し柿にはならない腐ってしまうだろう。

 暴風雨になると、そんな思いもいっぺんに吹き飛ぶ。そとに出たら、文字通り飛ばされてしまう。一度、玄関に置いてある荷物受けの箱と木製の台が吹き飛んでしまったことがある。嘘だろうというようなものまで、飛んで行く。台風が進む速度が遅いので、車庫も片付ける時間の余裕はあった。飛びそうなものはすべてしまい込んだが、それでも自信はない。しかし、そんな心配をしてもしょーがない。さて、台風が通り過ぎたあと、一体どうなっているでしょうか?