つれづれに

つれづれに:自己意識

1987年にアメリカ、翌年に日本で上映された(試写会パンフレット)

 映画(↑)の脚色でかっこよすぎると思うが、裁判で検事と判事に向かって反論するスティーヴ・ビコの言い草は、小気味いい。

検事:引用:「南アフリカは黒人と白人がいっしょに住むべき国であると信じる」このあなたの言葉、どういう意味ですか?

ビコ:南アフリカは共同体のすべての部分が貢献する多元的な社会だと、私とそこの被告席にいる人たちが信じるという意味です。

検事:はあぁ。被告が黒人のグループとずっと議論してきたその書類の言葉をよく知ってますか?

ビコ:もちろん、書類のいくつかは私が起草したものですから。

検事:不快な感じで政府のあからさまなテロ行為に言及した書類です。

ビコ:その通りです。

検事:あからさまなテロ行為と言ってますが、それが妥当な陳述だと素直に思いますか?

ビコ:ええ、ここでかけられている罪状より、はるかに妥当な陳述だと思いますよ。

検事:本当に?

ビコ:ええ、本当に。私は言葉の問題だけを言ってるわけではないんです。私は警棒で警官に殴られる暴力について言っているんです。武器を持たない市民に発砲する警官についてしゃべっているんです。 黒人居住区で飢えを通して受ける間接的な暴力について言っているんです。難民キャンプの侘しさと希望の無さについて話しているんです。 今改めて思いますよ。それらみんなが一緒になって、この裁判で喋(しゃべ)ってきた言葉よりもさらに酷い暴力を生み出しているんです。しかし、その被害者が被告席に立たされ、テロを生む白人社会が起訴されていない。

検事:あなたと黒人意識運動の他の人たちは「私たちのリーダーが活動を禁じられ、ロベン島に投獄されて来た」と言っていますが、あなたは特に誰のことについて言っているんですか?

ビコ:特にマンデラやソブクエ、ゴバン・ムベキのような方たちについて言っています。

検事:この人たちに共通している事実は南アフリカ政府に対して暴力を扇動してきたということで、あなたが述べていることは本当ではありません。

ビコ:この人たちに共通している事実は、黒人のための闘いを我が身を犠牲にしてでも推し進めてきたということです。

検事:そう、あなたの言うあからさまなテロ行為の答えは、黒人社会に暴力を呼び起こすということですよ。

ビコ:違います、黒人意識運動は暴力を避けるよう求めています。

検事:しかし、あなた自身の言葉が直接的な対決を求めていますよ。

ビコ:そうですよ、私たちは対決を求めています。

検事:それが暴力を求めていることになりませんか?

ビコ:あなたと私は今対決していますが、私には暴力があるようには見えませんが。

判事:しかし、この書類にはどこを探しても白人政府が何かいいことをしているというあなたの記述は見当たりませんね?

ビコ:そう、あまりにも何も無さすぎて、コメントに値しませんから。

バン!バン!バン!

判事:あなたのそういった態度が人種的な憎悪や反白人感情を煽るんです。

ビコ:それはひどいですよ。黒人は日々の厳しさに気づいていないわけではないんです。誰もが政府がやることに耐えているんです。黒人意識運動は人々にこういった厳しい現状を受け入れるのやめ、対決しろと言っています。厳しい現実をただ受け入てはいけないと人々に言っているんです。今の厳しい環境の中でも希望を抱き、自分に希望を持ち、自分の国に希望を見出す方法をみつけるべきだと言っているんです。白人とは関係なく、自分自身が人間であるという感覚、世の中での合法的な場所を築くように努力しようというのが黒人意識運動のすべてです。

 抑圧する白人とは関係なく、自分に自信を持ち、世の中の合法的な場所を得るために努力しよう、そう人に説くビコの言うことは正しい。しかし、理想は実現することなく、ビコは若くに獄中で殺された。首吊りと発表された死因に抗議して裁判を起こした友人のドナルド・ウッズ(↓)は逃亡を強いられ、ロンドンに亡命した。映画『遠い夜明け』は南アフリカから持ち出した原稿を基に製作され、西側諸国で放映された。

 当たり前の理想を説く理想主義者に社会は残酷である。その人の影響力が大きければ大きいだけ結末は悲惨だ。ヨーロッパ人が入って来て好き勝手してきたから、自分たちだけでやろうとアフリカ諸国に呼びかけたのは一早くイギリスから独立を果たした初代ガーナの首相クワメ・エンクルマ(↓)だ。パン・アフリカニズムである。ベトナム戦争終結に向けて毛沢東と会談に出かけている隙にクーデターを仕掛けられ、生涯祖国には戻れず、ルーマニアで死んでいる。

小島けい挿画

 南アフリカでパン・アフリカニズムを唱えてアパルトヘイト政権に立ち向かったのは映画でビコも引用しているソブクエ(↓)である。オポチュニストのマンデラほど日本では知られていないが、マンデラよりも先にロベン島に送られ、その人一人の法律が作られて、監禁され続けた人物である。最後は肺癌におかされて、治療を受けられないままこの世を去っている。

小島けい挿画

 1950年代、60年代の反アパルトヘイト運動の勢いは凄かった。ドキュメンタリーなどを見ると、今にも白人政権が終わりそうな感覚にとらわれる。しかし、第2次大戦から復興を果たした英仏独日本に加えてアメリカが加担して、その勢力を抑え込んでしまった。マンデラが終身刑を言い渡された1964年には地上に指導者の姿はなかった。その暗黒の時代に立ち上がったのがビコたち学生だった。まだ、警察の魔の手が及んでいなかっただけである。ビコ(↓)も殺された。そのあと、高校生たちが銃弾に立ち向かった。1976年のソウェト蜂起である。もちろん、ビコたちの世代に応えて立ち上がった若者たちである。

小島けい挿画

 1990年2月11日、マンデラ(↓)は釈放された。閉じ込められた時と同じ法律で、無条件での釈放である。ロベン島で看守と仲良しになれる神経の図太さがないと生き延びれなかったはずである。マンデラはすべて呑み込んだ上で、甘んじて釈放を受け入れた違いない。ANCが与党になったが、基本は損なわないでの政権移譲だから、見える部分だけアフリカ人にすげかえられただけである。社会のほとんどの基本構造は旧体制のままなので、案の定、他のアフリカ諸国と同じように、少数の鼻持ちならない金持ちのアフリカ人が生まれた。大統領になったズマは贈賄の罪で大統領をやめさせられた。理想主義者が、泣いている。

つれづれに

つれづれに:作家

 8月7日から始まる立秋の頃には、朝晩は過ごしやすくなるだろうと思っていたが、いぜん35-26℃辺りの暑さが続いている。暑い最中に外にでるにも勇気が要る。暑中のころから衰えを見せずに、百日紅(↑)がまだあちこちで咲いている。

私は小説を書く空間が欲しくて30を過ぎてから大学の職場を探したが、すでに妻も子供もいたからである。元々貧しかったので、自分一人なら収入の目途がつくまで食いつないでいけばよかったが、自分のわがままを妻や子供にも強いるのは嫌だった。働いていた妻も、それいいねと賛成してくれた。一人ではどうにもならなかったが、何人かの人に世話になって何とか医大に決まった。

明石にいる時によく通った市場魚の棚

 作家を意識し始めたのは、スポーツ好きの父親が取っていた読売新聞の夕刊の連載小説を読んでからである。自分の中の何かが反応した。もっと読みたくて、その作家(↓)の小説を探して神戸や元町の古本屋を回った。多作な人で、編集者の要請に応じでいろいろ書いていた。どうでもいいようなものも多かったが、やっぱり自分の中の何かに反応した。

 小さい頃から家には本がなかったが、中学の頃から最初は教科書でみた芥川や太宰、三島や川端(↓)など手に入れやすいものを読むようになっていた。しかし、言われるほどはおもろないなあと感じた。高校では源氏などの古典や萩原朔太郎の詩なども読んでみたが、しっくり来なかった。なぜ新聞小説が自分の中の何かに反応したのかはわからないが、自分の中に書きたい気持ちがあるのに気がついた、そんな感じだった。文章はいくらでも出て来たので、そんなもんだと思っていた。

 本を読み始めてから、文学のための文学があるような気がしたし、作家についてもよく考えたが、なぜ職業作家になると思ったのかははっきりしない。小説を書きたいと思ったが、自分の本の出版をみたいと思ったことはない。大学を探しているときに、先輩から横浜の出版社の人にあって、雑誌の記事を薦められて書いた。大学が決まってからはテキスト(↓)や翻訳など次々と言われてこなしていたら、気づいたら定年退職していた。小説を書き出せたのは、退職後その人が亡くなったあと3年ほどしてからである。

2冊目の英文編註書(小島けい表紙絵)

 南アフリカの作家については、ミシシッピのシンポジウム(↓)に参加したとき、アメリカの学会での発表を薦められたのがきっかけである。アフリカ系アメリカの作家のシンポジウムだったが、誘ってくれた人が座長をする「イギリスとアメリカ以外の英語による文学」というセッションで発表することになった。出来ればアフリカの作家でと言われたとき、黒人研究の会でアフリカの話も毎月聞いていたので、わりとすんなりと、じゃあ、南アフリカの作家でやりましょか、と言う流れになった。

 先輩の薦めもあってラ・グーマ(↓)の作品を読んだが、作家が小説を書く動機が明確だった。ジンバブエのハラレで暮らした時、文学のための文学はないと感じたが、まさにその世界だった。理不尽なアパルトヘイト体制と闘うために書いていた。欧米や日本を初め他の国は南アフリカのアフリカ人については知らないので、知ってもらうためにどこにでもいるようなアフリカ人の生活ぶりを書いた。さらに、やがてアパルトヘイト体制がなくなったあと風化しないように後の人のために物語として記録していた。それは、小さい頃からアパルトヘイトと闘う父親やその取り巻きの中で、自分が選んだ生き方だった。

雑誌の挿画:小島けい画

 作家になる動機は、生きている国によって大きく変わる。人生の残り時間が数え易くなった今、なぜ新聞小説で読んだときに自分のなかの何かが反応したかを考えながら、小説を書きたいと思っている。原稿用紙400字詰めで300~500枚くらいのものを4冊書いているが、次回も500枚くらいのものになりそうである。原稿が売れると出版社が判断するかどうかは、わからない。

西条柿、実の重さで枝が一本折れてるので、今年は250個くらいか?

つれづれに

つれづれに:武力闘争

 1960年にアフリカ民族会議(ANC)がそれまでの非暴力を捨て、武力闘争部門民族の槍(ウムコントシズウェ、旗↑)を創設して武力闘争を始めた。最初は人は狙わずに、送電線や建物を標的にする破壊活動を都市部を中心に全国規模で展開した。あちこちで爆発が起こるので、政府は恐怖に感じて、警察や軍隊を総動員して警戒を強めた。すでにANCとパンアフリカニスト会議(PAC)は非合法化されていたので、すべて地下活動だった。ANCは本部を隣国のザンビアの首都ルサカに移し、共産圏のソ連とキューバの支援を受けて、国外から武力闘争の指揮を執った。

PACの創始者ソブクエ(小島けい挿画)

入植者が侵略を始めた時と比べて、武器の需要は桁違いに拡大し、各国は軍備のために多額の予算を使うようになっていた。その間、絶えず戦争を引き起こして、その度に軍備の規模が拡大し、精度も上がっている。

南アフリカでは、1879年ズールー人が→「イギリス人」と戦ったイサンドルワナの戦いでは槍と銃で戦っている。今では考えられないが、戦いの前にお互いに歌ってエールの交換をしている。→「セシル・ローズ」が友人に任せたマタベレ戦争(↓)では機関銃と大砲を使ってマタベレ人を屈服させ、戦いのあと広大な土地と莫大な数の牛を略奪した。

 アメリカは1890年代にフィリピンをスペインの手から主導権を奪ったあと、オキナワ、ソウル、ハノイ、モガジシオを次々と攻め、その後もアフガニスタン、イラン、イラクとペンタゴン(↓)の環太平洋構想を継続している。どこかで戦争をずっとやってきたわけだ。それだけ武器を作り続けたので、軍需産業は国家予算の何割かを占めるようになっている。重工業で家族を養っている人の数は、その分だけ膨大である。

ペンタゴン(アメリカ国防総省)

 無理矢理開国されて、欧米諸国を追いかけた日本は、元々最大の武器保有国であった技術を持っていたので、産業化は加速して、大国の中国と1890年代の日清戦争で、1900年代にソ連と日露戦争で、1940年代にはアメリカと第2次大戦で衝突している。無条件降伏に従って名目上は軍隊を持たないが、自衛隊の軍備は世界で8番目だと言われている。それだけ、国の繁栄が重工業に支えられているということだろう。

1960年にアパルトヘイト政権と長期の通商条約を結んで、南アフリカの人には日本は最大の裏切り国だと思われているが、条約を結んで八幡製鉄(↓)は莫大な利益をあげ、その従業員も給料を得て生活をしていたわけだ。私たちの日常と無縁というわけにはいかない。医学科にいる時はよく学生や教職員と昼を食べに出かけていた。何人かの再入学してきた既卒組と食事に行ったとき、たまたま就職活動の話が出て、東大と九大を出た医学生が新日鉄の話をしていた。二人は方向転換して、医学科に入学してきた。

「あそこは1次を通った人は昼食に呼ばれ、2次に残った人は夕食に招待されるようですね。僕は夕食にはよばれませんでしたけど‥‥」(九大卒)

「僕は夕食に呼ばれたね」(東大卒)

私は受験勉強が出来なかったし、生きても30くらいまでやろと思っていたし、就職活動を考えたこともなかったので、二人の話はもの珍しかった。

 1950年に発足した八幡製鐵株式會社(八幡製鐵所)、富士製鐵株式會社(室蘭、釜石、広畑の各製鉄所と川崎製鋼所)が1970年に合併して新日本製鐵株式會社になり、2001年にその新日本製鉄と住友金属が統合して新日鉄住金なった、と会社のホームページにあった。今は2019年4月に商号を変更した日本製鉄となっているようである。何気ない医学生との話のなかで、かつて南アフリカが一番窮地にあったときに通商条約を結んだ八幡製鉄に関係する話を聞けるとは思わなかった。1988年に、亡命中に亡くなった作家の記念大会に行って発表の前に日本の南アフリカ事情について話をしたことがあるが、大半が北アメリカに亡命中の参加者たちの視線は極めて厳しかった。エコノミック・アニマルと呼ばれている日本からやって来ましたと自嘲気味に話を始めた。初めての経験だった。マンデラが釈放される2年前のことである。通商条約1960と記念大会1988を思う時の胸中は、やや複雑である。

記念大会のゲストの作家夫人

つれづれに

つれづれに:アフリカ人女性

小島けい画(油絵)

 イスラム圏の女性も大変だが、アフリカの女性(↑)もなかなか大変である。男と女しかいないのに、どうしてあほな男が威張り続けているのか?1980年代の後半に医大(↓)に来た時、女子学生の数は少なかった。1割に満たない時もあった。次第に数が増えて、たしか一度だけ半分以上になったという記憶がある。大学には旧来のどろどろの人事で採用されたこともあって、入ってすぐに今のシステムが続く限り教授になることは先ずないという構造的な仕組みに気がついた。万年講師やなと思ったが、僕には好都合だった。小説を書く空間を求めて大学を探したから、この上ない環境だった。教授会や各種委員会などの大学の仕事はすべて教授がやっていたから、助教授以下は授業と研究だけをやっていればよかった。30を過ぎてから修士に行き、非常勤の期間も長かったから、研究室があるだけで充分だった。おまけに研究費もあるし、推薦してくれた理系の人に薦められて科研費の書類を出したら、次の年に100万円が来た。1年目から学生もたくさん来てくれた。しばらくいると、やっぱりあほな男中心の組織だとわかってきた。まさかの教授になって出た教授会は三十数人、男ばかりだった。その後も、やっと一人女性が会議に来たが、公募でない付属のセンターの教授で、投票権はなかった。オブザーバーとして参加、ということらしかった。英語ではobserver、発言権や議決権を持たずに会議に参加する人で、傍聴人・立会人とも呼ばれているようである。

3年目に学力から小論文と面接という入試に変わったとき、小論文作成に関する会議に出た。教授が主で、助教授や講師はオブザーバーとして参加してもらいます、と言われた。かちんと来て、オブザーバーてなんなんですか?と食ってかかった。医学部では助教授や講師は教授に食ってかかることはないようで、面喰らったような顔をしていた。同じように問題を作成し、採点をするのにオブザーバーて何なんやねん?という気持ちで黙っていられなかっただけである。大体、一般教育に所属する教授の投票権を減らすために英語は教授のポストに講師を採っておいて、入試では作業はしてもらわないと困るのでオブザーバーで参加させる、その流れが見え見えだったから、体が反発したのである。どろどろの旧態然の人事が行われていただけのことはある。いつも言い返されることがないからか、受けに回ると弱いらしい。それ以降、会議でオブザーバーと言う言葉は聞かなかった。途中からは、なるはずのない私が教授になったので、体制自体が変わっていったということもある。しかし、教授会の女性については、流れは基本的に変わっていない。

 そんな人たちが中心なら、女性医師は産休や育休で実質的にあてにならないし、と考えて当たり前なんだろう。どうして、男半分女半分、女性しか子供を産めないという当たり前のことを前提に考えないんだろう?産休や育休で人が足りないなら、何人か増員すればいい。予算が厳しいというが、それは、社会そのものが、男半分女半分、女性しか子供を産めないという当たり前のことを前提にしていないからだ。

 もちろん、比較すれば昔より、女性の進学率も増えたし、医学科に入る人も増えている。しかし、前提が変わっていないし、組織を動かす側があまり変わっていないので、問題は山積したままである。しかし、どろどろの旧来の人事が崩れて、公募で公平な教授選が実施されるようになって、実際に私も誰にも頭を下げないで教授になった。外部からはだめでも、中の者の意識が変われば、内側から組織は変わるかも知れない。

アフリカ人が常時携帯を義務付けられたパス

 アフリカの社会も昔から男中心の社会だった。1989年に宮崎に招待して大学で講演をしてくれた南アフリカの女性作家が、家や電話の契約も女性では出来ない実情を嘆いていた。人種差別に加えて、女性差別でも被害を受ける毎日なのである。1940年代にあほな年寄りに痺(しび)れを切らして実力行使に出て、白人政府とアフリカ人の抵抗勢力の間の緊張の度合いは増していった。ストライキに参加する労働者の大半は男性だから男性中心の闘いだったが、勢いに乗って女性も闘いに加わった。

デモ行進する女性たち

 闘いの標的にしたのは日頃の生活で最も悩まされているパス法である。アパルトヘイト政権はアフリカ人に個人情報を満載した顔写真入りのパスポートのようなものを持たせて厳しく管理した。アフリカ人にすれば、入植して来たオランダ人とイギリス人に土地を奪われ、自分たちの国でパスポートまで持たされたわけである。政府には安価な労働者の把握や管理に都合がよかったからだが、厳しい制限が課せられるアフリカ人はたまったものではない。日頃からパスの発行などで、いつも長い列に並んで待たされる役所に女性がいっせいに押しかけた。

 農村では女性たちのデモが始まった。しかし何の回答も得られなかったので、女性たちは周りの砂糖黍(きび)畑に火を放った(↓)。警官も出動して、大騒ぎになった。日頃の鬱憤(うっぷん)が一気に噴き出したというところだろう。1950年代の半ばのことである。

 女性の指導者の一人エリザベス・マテ・キング(↓)は不合理な法律に反発して、パスを持つこと拒否し、パス反対運動を組織する指導者となった。マテ・キングは言う。

「夜遅く、1時か2時頃に、連れ合いと一緒にベッドに寝ているとするね。そこへ警官が身分証のパスを見せろとドアをノックするの。そして親子を別室へ連れて行くのさ。ね。そこで何が起こると思う?親子ともどもレイプされるのよ。そんなことが赦される?これが私にはとても我慢出来なかったことなのよ‥‥」

マテ・キングは裁判を受けることもなく、砂漠への追放とな決まった。だが、彼女は家族とともに国外に脱出した。

「もしちゃんとした法律さえあれば、私だって逃げはしないわよ。自分の生まれた国だもの。ちゃんと裁判を受けて、判決に従ったわ。でも、私にはそのチャンスも与えられなかったのよ」

 50年代のこうした闘いの記録映像をみると、今にもアパルトヘイト政権が崩壊してもおかしくない勢いがある。しかし、白人政権は堅固だった。第2次大戦後15~20年経って欧州諸国や日本が復興を終えた頃には、しっかりと白人政権の貿易の良きパートナーとなって、白人政権を支えていたからである。大戦で中断されていた日本と西ドイツの長期通商条約が復活したのは、シャープヴィル虐殺(↓)で国際的な非難を受け、国連が経済制裁を開始した1960年である。当時の八幡製鉄所(↓)が締結主である。

南アフリカの貿易では、財界と白人政権の仲を自民党が取り持った。一時その担当だった石原慎太郎はなぜか都知事を長いこと続けていたが、反アパルトヘイトの市民の間では、傲慢な白人と同列扱いだった。アフリカーナーとイギリス人が南アフリカ連邦を創ったように、今度はアパルトヘイト政権と欧米諸国・日本が、アフリカ人から搾り取る一点に合意点を見つけて貿易関係を密にしたのである。世の中いつも、持てるもの(the haves)の好き放題である。

1960年のシャープヴィルの虐殺、武力闘争開始の起点になった