つれづれに:イギリス人(2024年7月24日)

2024年7月25日つれづれに

つれづれに:イギリス

 オランダ人のあとにやって来たのはイギリス人である。1795年、イギリスはケープに大軍を送った。インド・中国の航路の要衝地をフランスに取られる前に手を打ったのである。1652年にオランダ人が来た時と違って、ヨーロッパ社会は大きく変貌していた。奴隷貿易の蓄積資本で産業革命が可能になり、産業化が進んで大量消費の資本主義社会に向けて突き進み始めていたのである。映像の世界の話だが、アメリカのテレビドラマ『ルーツ』のクンタ・キンテを乗せた帆船ロード・リゴニア号がアナポリス港に入港したのもこの頃である。奴隷貿易の最盛期でもあり、更なる生産のための原材料と製造した商品を売り捌(さば)くための市場を求めてアフリカでも植民地争奪戦が激しくなっていた時期でもある。一番後から参戦したイギリスは、アフリカで高度な文明が発達していたエジプト、ガーナ、ナイジェリア、ケニアなど主だったところは押さえていた。大きなコンゴも英仏に渡らないならとの互いの思惑で小国ベルギーのレオポルド2世の個人の植民地に落ち着いていた。

ロード・リゴニア号

 産業社会に向かって進み出した世界は、基本構造が大きく変わっていった。何より経済規模が急激に拡大したのである。手で作っていたのを機械で造り出したわけだから当然だ。資本主義は拡大しないと廃(すた)る運命にある制度だから、これ以降規模の拡大は継続し、今も大きくなり続けている。当然社会の総体量も増えるので、それを守るための武器も同じスピードで進んで行く。信長が指揮した当時世界で最大の銃撃戦だった長篠の戦いでは、火縄銃だった。1795年のイギリス軍はマシーンガンを使っていた。しかし、その後に行き着いた核に比べればかわいいものである。核の後処理の問題を解決しないまま、アメリカは経済的に急成長した日本を叩くために広島と長崎に原爆を投下した。

ナタール駐屯地でイギリス軍がズールー軍に急襲を受けて1個中隊が全滅したイサンドルワナの戦い(↓)を扱った『ズールー』という映画は、銃と槍の戦いでイギリス軍の1個中隊が全滅した点で印象に残っている。1879年のことである。明石に住んでいるときに、地元のサンテレビで録画した映像で、吹き替えなので日本語でしか聞けないが、南アフリカの話をする時は、英語や一般教育の時間に学生に観てもらった。闘うまえにズールーの兵士とイギリスの兵士がそれぞれの国の歌を歌ってエールの交換をしてから戦い始めたのが印象的である。まだ、そんな時代だったということだろう。しかし、映画は文明の高いイギリス兵が野蛮なアフリカ人を成敗するという構図のエンターテインメントだったので、観ていて気分が悪くなった。後に改訂版が出ていたのは、市民団体か何かの突き上げがきつかったからか?

 アメリカが日本に開国を迫って尊王攘夷派を押し切ったのは、ドーンと大砲(↓)を打ち込まれたからである。産業化によって、ヨーロッパ諸国は長篠の戦いの時とはまるで違う局面に突入していた。開国を認め、欧米に追いつけ追い越せの産業化社会に突入するしか術はなかったのである。

 アメリカでも産業化の流れは加速し、奴隷制でぼろ儲けした南部の寡頭勢力の独壇場だった構図が大きく変わろうとしていた。奴隷制度を持たない北部に育った産業資本家が徐々に力をつけていき、1860年の総選挙には新しく作った共和党から産業資本家の代弁者として大統領候補を出した。リンカーン(↓)である。南部の金持ち層の代弁者民主党の一党独裁を脅かすまでになったということである。必然的に、国の利害が二分されて市民戦争が起きた。南北戦争である。

 イギリスが大軍を送ったケープでも大きな変化があった。オランダが独占していたところに、イギリスが大軍を送ったのだから当たり前だろう。オランダ人も黙っていたわけではないが、アフリカのおいしい植民地をすべて武器でものにしていたイギリス軍に勝てるわけがない。しかし、オランダも武器は持っていたわけだから、どちらかが殲滅(せんめつ)するまで戦うことは双方にとっても得策ではない。東インド会社関連でオランダ人社会でいい思いをしていた富裕層はケープには居られなくなり、家財道具一式を牛車に乗せて(↓)内陸部に逃げた。内陸部のアフリカ人には大災難だった。グレート・トレックと言う。オランダ人の大移動という意味である。

 1866年のキンバリーでのダイヤモンド発見と1886年のラント金鉱の発見で、南アフリカとオランダ、イギリスの構図が大きく変わって行く。どちらもイギリスが領有を認めていたオランダの領有地で発見されたので、事態はややこしくなった。次回は、金とダイヤモンドである。

ダイヤモンドの採掘現場、当初は地表を探していた(アフリカシリーズ)