つれづれに

つれづれに:百日紅(さるすべり)

坂道の百日紅

 36-26℃あたりの猛暑が連日続いている。37℃て、体温より高いやろ、と言いたくなるような毎日である。外に出るのは、勇気が要る。熱中症になると、平衡感覚が取れずに地面が揺れる。存在自体が脅かされる、そんな気持ちになる。腹筋や背筋を鍛える、そんな歳はとっくに過ぎ、普通に暮らせるように、きちんと食べで、遣り過ぎないように体を動かし‥‥そんな毎日だから、猛暑はこたえる。

 普通に畑に出られる春や秋には、旧暦の24節気を感じることもあるが、こう暑くては節気通りという感じにはならない。太陽の動きをもとに1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、それぞれをさらに6つに分けて24の季節に区切ったものを『二十四節気』と言う。その中の小暑と大暑を合わせた期間が暑中だ。暑中お見舞い申し上げますと便りを出す人もいる。2024年の暑中は小暑の始まる7月7日から大暑が終わる8月6日までである。大暑が過ぎれば、立秋、秋が立つ。朝晩はだいぶ過ごしやすくなるだろう。この猛暑も、もうしばらく、というところか。しかし、窓から照りつける外の様子を見ると、やっぱりまだこの猛暑が収まる気配が感じられない。

 暑い最中に、赤い花をつける木が百日紅(さるすべり)とハイビスカスである。百日紅は淡いピンクと濃いピンクの花に、最近は白の花も見かけるようになった。

 宮崎ではハイビスカスはあちこちに咲いている。さすが南国である。明石にいた頃は、あまり見かけた記憶がない。もっともアスファルトで舗装された箇所が多いのと、地価が高いので広い庭が少ないというのもあっただろう。

妻手製のカレンダー、明石では珍しかったからだろう

毎年拵(こしら)える妻のカレンダーにも

近くの生産者市の前の黄色いハイビスカス

 「百日紅」と書くのは、長期間花を咲かせるかららしい。落葉性である。「百日紅」のほか、「猿滑り」「紫薇(しび)」とも書くようだ。「猿滑り」は、樹皮がつるつるしていて、猿ですら滑り落ちてしまいそうな木ということらしい。今日は、歯医者に行く道に咲いている白と淡いピンクの花を摘んで来た。

 この時期、玄関に飾る花を摘んで来るのは難しい。青島近辺の海岸沿いにたくさんの浜木綿(はまゆう)が咲いているので、3年前に摘んで来て玄関に飾ってみたが、何とも言えない悪臭がして、それ以降は摘んで来ていない。摘むと言っても、かなり大きいので、切ってくると言う方が合っていそうだ。明石の家の庭には浜木綿があった。その花はいいに匂いしていた記憶がある。こちらでその種類の花を見かけたことはない。

 歯医者は自転車で30分ほどの距離にある。急な坂(上り↓と下り↓)を越えて30分、平坦な道を遠回りすれば40分、距離はある。腰を痛めていた時は、歯医者にも行けなかった。吉祥寺の歯医者に世話になっていたが、コロナでご無沙汰で、地元の歯医者に検診だけでも言って下さいと言われて、新しく歯医者を探した。急な坂を越える両脇にたくさん百日紅が植えられている。街路樹というより、フェンスの向こう側に植えられているので、ま、もらってもいいかと思いながら摘んでいるというわけである。今しばらく、猛暑は続く。

つれづれに

つれづれに:ヒュー・マセケラ

 南アフリカに最初→「オランダ人」 が来て、その後に→「イギリス人」が来て、土地を奪ってアフリカ人から絞り取ったことを書いた。→「金とダイヤモンド」が発見されてからは両者が殺し合いをして、結局アフリカ人から搾取する1点に妥協点を見出し、国まで創ってしまった。金が出たのは北東部の→「ラント金鉱」で、オランダの領有地だった。ダイヤモンドと金で最大限に利益を上げるために、両者は協力をしてアフリカ人を安価な労働力として鉱山で働かせる→「一大搾取機構」を造り上げた。周辺国も過酷な搾取構造下にあったので、多くの国からも出稼ぎ労働者を集めて、ラント金鉱の中心地ヨハネスブルグは南部一帯の経済圏の中心になった。

 1992年に南アフリカの隣国ジンバブエの首都ハラレに滞在したが、その5年前にハラレの国立競技場で大きな野外コンサートが開かれた。イギリスのポール・サイモンが呼びかけて、亡命中の南アフリカの歌手が一堂に集ったのである。その模様は『グレイスランド』(↑)のタイトルでDVDになっている。グレイスランドはサイモンが好きなエルビス・プレスリーの生家の名称だそうである。アフリカ経験の長い仲良しの医学生が教えてくれて購入して、授業でも観て、聴いてもらった。その中に、周りの国から労働者を乗せてヨハネスブルグに運ぶ石炭列車「スティメラ」(Stimela)という歌をヒュー・マセケラが自らトランペットを吹きながら歌っている映像がある。

スティメラ

アンゴラとモザンビークから来る列車がある
ボツワナとスワジランドと
近隣の南部と中央アフリカから
無理やり集められて契約労働のためにやって来る
列車は若者と年寄りのアフリカ人を運んで来て
ヨハネスブルグの金鉱山と
周辺の大都会の鉱山で、1日に16時間かそれ以上
ほとんど無給で
地球の胎内の奥深く、奥深くで働く
ごちゃ混ぜの食べものを柄つきの鉄製しゃもじで金属皿に盛るとき
臭いがきつくて黴(かび)臭い、穢(きたな)くて虱(しらみ)だらけの
小屋かたこ部屋で座っているとき
若者と年寄りは二度と会えないかも知れない愛しい家族を想う
最後に家族と別れて出て来た所が
すでに強制的に立ち退かされてしまっているか
特段の訳もなく人を襲うくギャングに殺されてしまった可能性もあるからだ‥‥
‥‥若者と年寄りはいつも口穢(ぎたな)く罵(ののし)り、悪態をつく
そして石炭列車に呪(のろい)の言葉を浴びせかける
ヨハネスブルグに自分たちを運んで来た石炭列車に
うぉーっ、うぉーっ!

 「マセケラが腹の奥から絞り出すだみ声が、地中の奥深くから響いて来るアフリカ人の叫び声に聞こえたなあ」というのが私の感想である。

映像はマンデラが釈放された1990年頃から爆発的に南アフリカで感染が広がった主な原因が、オランダ人とイギリス人が創り上げた一大搾取機構の下で働かされる鉱山労働者であるという報告をする欧米制作のドキュメンタリーの一部だった。番組では、会社側は食費と住居費を浮かせるために多人数を収容するたこ部屋(compound)と、男性労働者を目当てに、部屋と会社直営の粗末な売店の途中に待ち構えて売春する女性たちを紹介していた。そこでHIVに感染した男たちが契約切れのあと一時的に帰省して、配偶者に感染させる、そんな悪循環を指摘していた。

コンサートでは、マセケラの元妻ミリアム・マケバが「ソウェト・ブルース」を歌った。1990年に来日して、昭和女子大で歌った曲である。NHKで特集された「赤道音楽14日間」の中にも紹介されていたので、録画して英語や一般教養の授業で観て、聴いてもらった。音楽の分野では、アフリカの女王とタイトルをつけていた記事も多かった。二人とも長い亡命期間の間じゅう、南アフリカの解放を願って歌い続けた。

つれづれに

つれづれに:ラント金鉱

 ダイヤモンドも金もオランダの領有地で発見された。ダイヤモンドはオレンジ自由州のキンバリーで、金はトランスバール州北東部の盆地で発見された。どちらも今も南アフリカの経済を支えている。盆地周辺のラント金鉱はのちに中心地ヨハネスブルグを作り出し、南アフリカ経済の屋台骨となっている。ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、モザンビーク、エスワティニ(旧スワジランド)、レソトの隣接する国々や、アンゴラ、マラウィ、ザンビアからの出稼ぎ労働者も集まって来る。アフリカーナーとイギリス人が創り出した一大搾取機構は、広く南部一帯を巻き込んだ一大経済圏をつくりだしたわけである。周辺国から労働者が集まるのは、どこの国でも厳しく課税されて南アフリカよりも生活が苦しいからだ。国内よりも外国の方が稼げるから、家族と離れて少し稼ぎのいい南アフリカまで出稼ぎに出て、侘しい暮らしを選ぶのだろう。

 1992年にすぐ北のジンバブエに3ケ月足らず家族で一軒家を借りて滞在した。そのとき知り合ったショナ人は田舎から出稼ぎに来て、家族と離れて暮らしていた。その人の父親は若い頃に首都に出稼ぎに来ていた。ジンバブエ大学で知り合いになった学生は、卒業する仲間のほとんどが卒業後外国で仕事を探す予定だと言っていた。新聞でも、ジンバブエ大学の卒業生が卒業しても国内では教員にならず外国に行く現状を嘆いていた。その話になったとき「だって仕方ないですよ。4割も税金を取られているんですから。マラウィなどは外国人には無税で条件もいいですから。私も卒業したら外国で働くつもりです。今は南アフリカは混乱して黒人には厳しいですが、落ちついたら南アフリカに行こうと思っています。一番稼げますから。早くブランドニューの車に乗りたいですからね。そう考えるのは間違ってますか?」と哀しそうに学生は言っていた。日本にいては実感できないことである。

 ラント金鉱は世界でも有数の鉱脈らしい。ただ、鉱石中の金の含有率はそう高くないので、地下に掘り進む必要があり、深い所では4000メートルに達するようだ。1987年に朝日放送の「ニュースステイション」がアパルトヘイト政権に取材を許可されて、金鉱山の地下3000メートルまでカメラを入れて、実際に岩盤を機械で掘削するアフリカ人労働者の様子(↓)を伝えていたが、極めて厳しい状況下で労働者は働いているのが伝わってきた。

 坑道をみたくて、1990年辺りだったと思うが、鹿児島県北部の串木野ゴールドパーク(↓)に出かけたことがある。当時採掘していた抗洞の一つが見学出来たとき、ずいぶんと湿気が多いもんなんやなあと実感した。今は坑洞内の蔵や串木野金山に関する展示物を見学できる「焼酎蔵 薩摩金山蔵」として生まれ変って、観光スポットになっているらしい。

つれづれに

つれづれに:一大搾取機構

 →「金とダイヤモンド」をめぐって→「オランダ人」と→「イギリス人」は殺し合いをしたが、結局はアフリカ人から絞り取るという妥協点を見つけて国を創った。1910年の南アフリカ連邦である。87パーセントのアフリカ人抜きの選挙でどちらも過半数を取れなかったので、南アフリカ連邦は連合政権だった。第2次世界大戦後の1948年の総選挙で誕生したアパルトヘイト政権は、アフリカーナの国民党の単独政権である。

金とダイヤモンドの発見で南アフリカが国内外で大きな変貌を遂げていた同じ頃に、日本でも、アメリカに大砲で脅されて開国し、欧米に追いつけ追い越せの産業化の道をまっしぐらに走り始めていた。当然のように、近隣の大国中国とロシアと衝突し、1894に日清戦争で、1904年に日露戦争で勝利した日本は、次はアメリカと衝突するまで軍事路線を突っ走る。南アフリカとは違う形で、日本の社会も、急激に大きく変貌していたのである。

浦賀に来たペリー

 アフリカもアフリカ人も神から授かったものと考える押しの強いアフリカーナーと狡猾で計算高いイギリス人はダイヤモンドや金を利用して最大限の利益を上げるために協力した。最初はそれほど緻密なものではなかったようだが、アパルトへイト政権が出来た頃には、87パーセントのアフリカ人の安価な労働力を基礎に、14ケ月の短期雇用を繰り返す効率のいい雇用形態を確立していた。短期契約の非常勤の雇用形態は日本でもよく見かけるようになっているので、人ごとではない。国内では課税された税金を払うために、働き盛りの男性は仕事のある都市部に出稼ぎに出た。住居費や食費を可能な限り抑えるために粗末なたこ部屋に集団で寝泊まり、安い粗末な食事だった。家族と離れた侘しい生活を強いられた。

南アフリカ最大の都市となったヨハネスブルグ近くの金鉱山

 鉱山での一大採取機構は、大農場や様々な製造業の工場や、白人家庭にも援用された。アフリカ人は食えるか食えないかの短期契約の賃金労働者として経済の歯車にされたのである。南アフリカに最初に来たオランダ系のアフリカーナーとあとから来たイギリス人が産業化の過程で、無尽蔵の安価なアフリカ人労働者を、鉱山で、大農場で、工場で、そして白人家庭で扱(こ)き使うシステムを築いたというわけである。白人家庭ではメイドやボーイが、いわゆる召使(domesitic servants)として、白人の女性がすべき炊事、洗濯、掃除、育児などをさせられた。すべて出稼ぎの男女で、女性は自分の子供を田舎に置いて他人の子供の世話をし、男性は侘しい一人暮らしが当たり前だった。アパルトヘイト政権下では、あらゆる法律で縛られていたので、白人の法律下で屈辱的な不自由な生活を強いられたわけである。ある日やって来たヨーロッパ人に土地を奪われ、課税され、安価な賃金労働者として絞り取られ続けたのだから、何ともやるせない話である。

オレンジ自由州キンバリーのダイヤモンド鉱山