つれづれに

つれづれに:比較編年史1950⑤南アフリカ

まだ日本に駐留していたGHQ

 比較編年史1950年の5回目である。1回目→「1950①私」では、その頃の生まれた地域と家の周りについて書いた。2回目→「1950②日本」では、朝鮮戦争が勃発し、戦争の影響で公職追放されていた旧体制側の連中が復権していくことになったことと、家の中の暮らしも大きく変わり始めていたことに触れた。3回目→「1950③アメリカ」では、国外では東西冷戦、国内では公民権運動の初期の段階であったことと、その流れの中で朝鮮戦争に出兵して、ペンタゴンが環太平洋構想を推し進めたことについても書いた。4回目→「1950④アフリカ」では、朝鮮戦争のあった1950年、イギリス領ゴールドコーストでは会議人民党がデモを行い、警官隊と衝突していたことについて書いた。そして、今回は南アフリカである。

 1948年にアパルトヘイト政権が出来てから既に行っていた体制をより整えるために国会での数にものを言わせて、今までの慣例を次々と法制化して行った。過半数を取って法律を作り、したい放題してきた自民党と構図は同じである。1910年にオランダ系アフリカーナーとイギリスの入植者が金やダイヤモンドの採掘権をめぐって殺し合ったとき、どちらも銃を持っていたので殲滅するまで闘えば取り囲まれている多数派のアフリカ人に共倒れすると思い知って連合政権の国を作ってしまった。アフリカ人を搾取するという一点で妥協した。その政権で、肝心要の土地に関する法律を法制化している。1913年の原住民土地法である。アフリカ人側もことの重要性を知っていたので、法制化を聞いて、その前の年に初めて抵抗運動の組織を作った。それが今の与党アフリカ民族会議ANCである。使える土地は白人のもの、不毛の土地はアフリカ人のもの、互いの売買は禁じるというものである。アフリカ人から奪った土地は入植者のものと法律で決めたわけである。どの法律も、アフリカ人に重くのしかかった。

 1948年に単独過半数を取ったアパルトヘイト政権は、翌年に異人種間の結婚を禁止する法律を成立させた。人種隔離政策の主な政策の一つである。そして1950年に集団地域法を制定した。人種別に居住区が割り当てられ、割り当てられた地域以外での居住は違法とされた。1953年の隔離施設留保法では、道路を除いたあらゆる公共施設や公共車両、飲食店などで人種別専用の施設を用意することが義務付けられ、居住区と生活圏が法的に隔離された。アフリカ人は約2500万人、インド系約90万人、白人は約500万人程度だった。のちに、不毛の土地にアフリカ人の独立国を創るというバンツースタン計画が立案された。人種隔離はするが、都市部での労働力は要るので一時的に滞在を認めるという屁理屈を通しただけである。従って、労働力の動向を把握するための通行許可証が急務となった。それがパス法である。

朝鮮半島(↓)で、ソ連の後押しで北朝鮮・中国兵とアメリカ・韓国兵が戦っていた1950年に、南アフリカではアパルトヘイト体制が強化され、その一環として集団地域法が制定されていたのである。

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つれづれに:比較編年史1950④アフリカ

 比較編年史1950年の4回目である。1回目→「1950①私」では、1歳の記憶はないので、その頃の生まれた地域と家の周りについて書いた。2回目→「1950②日本」では、まだ日本に駐留していた総司令部GHQ(↑)のマッカーサー(↓)を含めたアメリカの対日政策が東西冷戦での「反共の砦」の方向に向かっていたことと、朝鮮戦争が勃発したことを書いた。戦争の影響で公職追放されていた旧体制側の連中が復権していくことになったことと、家の中の暮らしも電気のおかげで、大きく変わり始めていたことにも触れた。3回目→「1950③アメリカ」では、国外では東西冷戦、国内では公民権運動の初期の段階であったことと、その流れの中で朝鮮戦争に出兵して環太平洋構想を推し進めたことについても書いた。そして、今回はアフリカである。

 アメリカやと韓国が、朝鮮半島でソ連や中国の助けを借りた北朝鮮と戦っているとき、アフリカでは独立に向けて動き出していた。戦争で無傷だったアメリカが荒廃した西ヨーロッパ諸国をまとめて北大西洋条約を結んでソ連や東ヨーロッパと対抗し始めていたが、アメリカには別の狙いもあった。アジアとアフリカへの進出である。アジアとアフリカではすべてがほぼ宗主国の独占状態だったので、先ずはその体制を崩す必要があった。そこでアメリカが思いついたのは多国籍企業による貿易と資本投資である。これなら大手を振って参入できる。特に鉱物資源の豊かなコンゴと南アフリカは魅力だった。普段ならイギリスやフランスなどもすんなりと応じる訳はないが、主要都市は戦禍で復興に追われ、おまけにアメリカには借金をしている。火事場泥棒とはまさにこのことだろう。口先だけのイギリスに真似て、アメリカは開発と援助という文字を付け加えた。弟分だけのことはある。

 これからアメリカにやられる予定のアフリカ(↑)は独立に向けて動き出していた。1960年の独立の年まで大きな出来事はすくないので、今回もガーナの続きを書こうと思う。独立第1号だったこともあるが、アフリカの統合に向けて欧米と面と向かって闘った指導的立場にいたからでもある。イギリスからしてみればゴールド・コースト模範的な植民地だった。1948年にそこで暴動が起きたのだから、当然押さえにかかる。物価高騰などによる不満を爆発させた市民が首都アクラでヨーロッパ商品の不買運動を始めて暴動に発展したということだったが、見過ごすわけにはいかない。第一、他の植民地に示しがつかない。実際にはエンクルマが書記長をしていた連合ゴールドコースト会議は動いていなかったが、植民地当局は同党が煽動したとしてエンクルマを含め党の首脳部を逮捕した。しかし、押さえ込もうとしたために却って党の人気は高まってしまった。そこでイギリスは調査団を派遣し、自治の拡大とアフリカ人主体の立法評議会の設置を提言した。富裕層中心で穏健だった党は賛成したが、エンクルマは即時自治の要求を掲げて党首脳部と対立して、1949年に会議人民党を作った。そしてストライキやボイコットなどの積極的な政策を実施して貧しい国民の支持を受け、独立へと進んで行くのである。

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち1』)

エンクルマが袂をわかった植民地エリートや伝統首長は、かつて奴隷をヨーロッパ人に売り飛ばして権力を維持し、独立後は欧米の傀儡となって権力にしがみついた輩である。そして、独立後に欧米の傀儡となって、独裁政権を維持し続ける集団でもあった。
ソ連が承認した北朝鮮軍とソ連と同盟を結んだ中国からの志願兵と、アメリカ・国連・韓国連合軍が朝鮮半島で殺しあっていた1950年、イギリス領ゴールドコーストの首都アクラではエンクルマが創設した会議人民党が即時自治承認を求めてデモを行い、警官隊と衝突していたのである。

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つれづれに:比較編年史1950③アメリカ

 比較編年史1950年の3回目である。→「1950①私」では、1歳の記憶はないので、その頃の生まれた地域と家の周りについて書いた。→「1950②日本」では、まだ日本に駐留していた総司令部GHQ(↑)のマッカーサー(↓)を含めたアメリカの対日政策が東西冷戦での「反共の砦」の方向に向かっていたことと、朝鮮戦争が勃発したことを書いた。戦争の影響で公職追放されていた旧体制側の連中が復権していくことになったことと、家の中の暮らしも電気のおかげで、大きく変わり始めていたことに触れた。そして、1950年のアメリカである。

 1950年のアメリカは、国外では東西冷戦、国内では公民権運動が動きだした時期である。

アメリカはソ連を中心にした東側諸国に対処するために、戦争で荒廃したヨーロッパをまとめて1949年にNATO(北大西洋条約)を締結し、資本主義経済の再建に乗り出した。ソ連はポーランド、ルーマニア、東ドイツおよびブルガリアに親モスクワ政権を押し立てることに決め、西側との境界線で資本主義を封じ込め押し返すことで対抗した。イギリスのチャーチルが非難した「鉄のカーテン」である。

ドイツではソビエトの占領する地域奥深くにあるベルリンを封鎖する対応を取り、1949年には初の核爆発実験を行った。1950年には中国と同盟条約を結び、後にワルシャワ条約機構を結成して北大西洋条約機構に応酬した。その流れの中で起こったのが朝鮮戦争である。

 1950年6月、スターリンは北朝鮮が南朝鮮を侵略する作戦を承認した。南朝鮮を支援するアメリカは即座にアメリカ軍を朝鮮に出兵させて北朝鮮を押し返した。トルーマンは議会の承認は得ていなかったが、朝鮮を再統一させることについて国際連合の承認は得ていた。戦争初期はアメリカ軍が破れ撤退を余儀なくされたが、マッカーサーが仁川上陸作戦を成功させて風向きが変わった。しかし、数十万人の中国志願兵が参戦し、アメリカ・国連・韓国連合軍を開始時点の北緯38度線まで押し返して、膠着状態となった。アメリカ兵死者は33,000名以上、負傷者は10万人にだった。トルーマンはマッカーサーを解任したが戦争は終わらず、次のアイゼンハワーが1953年に核兵器を使うと脅して、休戦状態で戦争を終わらせた。休戦は今も有効である。

こうして、国防総省の環太平洋構想はマニラ→オキナワ→ソウルまで進んだ。

 アメリカ国内では、公民権運動も動き出している。公民権運動が始まるまでの段階なので、少しここまでの経緯に触れておきたい。

イギリスの移住者が元の住人から土地を奪って国まで作ってしまったのがアメリカだが、イギリスに上前をはねられるのが嫌で独立したのが1776年である。日本では鎖国が続いていた時代である。ヨーロッパとアメリカとアフリカを結ぶ奴隷ビジネスの輪の中に組み入れられて、富を蓄えて行った。特に南部の寡頭勢力は奴隷主、荘園主でもあったので莫大な利益を得た。利益を守るために政党を作り、法律まで作らせた。民主党大統領の16代までを南部北端にある首都ワシントンに送り出した勢力である。やがて、独占状態が怪しくなってきた。奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こし産業社会に突入する中で新しい金持ち層が生まれていたからである。産業資本家と呼ばれる。アメリカでは既に寡頭勢力のいる南部を避けて、北部で地盤を築いて行く。その2大勢力が拮抗し始めた時に起きたのが、南北戦争である。奴隷制を保持して利益を温存したい南部の寡頭勢力と、固定されていた奴隷を安価な労働量に使うために奴隷制を廃止したい産業資本家が真っ向から対立したのである。

 戦争は北部の勝利に終わったが、金持ちが自分の富を手放す訳がない。占領政策の時期が過ぎると、南部の寡頭勢力の巻き返しがあった。再建期の後の反動期である。戦争を終結させるためにリンカーンは奴隷解放宣言を出したが、元奴隷は現物支給の安価な小作人に名前を変えただけだった。反動勢力が1896年の「プレッシー対ファーガソン事件」の最高裁判判決で、人種差別を合憲と認めるほど、反動勢力は凄まじかった。有名な「隔離すれども平等」判決である。

 本格的に公民権運動が動き出す前は、訴訟とロビー活動が活動の中心だった。1950年の「スウィート対ペインター事件」と「マクローリン対オクラホマ州理事事件」の最高裁判所判決は、1955年から1965年のバスボイコット、シットイン、フリーダムライドなどの「直接行動」を促す引き金となった。そして1954年に、公立学校での人種隔離は違憲と言う最高裁の判決を引き出したのである。