つれづれに:タボ・ムベキ(2024年10月14日)
つれづれに:タボ・ムベキ
エイズに関するアフリカの8回目で、今回はタボ・ムベキである。ムベキほど、一個人でアフリカのエイズ問題で論争を巻き起こした人物もいないだろう。2000年7月に南アフリカのダーバンで開かれた国際エイズ会議で「HIVだけがエイズを引き起こす原因ではない」というそれまでの主張を繰り返し、国内の医療関係者にも、欧米のメデイアにも厳しく非難された。①ムベキの生い立ち、②ムベキのたたかったもの、③ムベキの伝えたもの、について書きたいと思う。
①ムベキの生い立ち
ムベキは1942年に東ケープ州で生まれた。私より7歳上である。私が講師として医学科に赴任したとき、いろいろ世話してもらった助教授の方も7歳上だった。2年目に入学してきた既卒組も7歳上だった。自分より年上の人が授業にいたのは初めてだった。どちらもよく出来る人で、実際より年の差を感じた。ムベキと会う機会があったら、どんなかんじだったんだろう?父親は、1964年のリボニアの裁判でネルソン・マンデラ他7名と共に終身刑を言い渡されたゴバン・ムベキ(↓)である。野間寛二郎さんでさえ、農民にあれだけの陳述ができたと驚かれたという風なことを書いていたが、フォートヘア大を出た超エリートである。大学では政治と心理学の学位を取得している。幼少から父親の影響を受けて、解放闘争にかかわるようになったわけである。
1956年、14歳の時にANC青年同盟に参加し、1962年にANCの指示でタンザニアからロンドンに渡っている。1970年に軍事訓練のためにソ連に派遣され、その後ボツワナなどを回ったのち、ANC本部で議長オリバー・タンボ(↓)の政策秘書になった。1989年からはANCの国際関係部門の責任者となり、白人政府との折衝役になった。1994年のマンデラ政権では大統領代行となり、1997年にANC議長、1999年の6月には第2代大統領に就任した。
②ムベキのたたかったもの
南アフリカに最初に入植したのはオランダ人で、17世紀の半ばである。その後18世紀の後半にイギリスが大軍をケープに送り、イギリス人も入植した。入植者はアフリカ人から土地を奪った。最初は農業中心の社会だったが、奴隷貿易の蓄積資本で産業化を果たしてからは、南アフリカもその影響を受けた。当初は東洋への要衝をフランスに取られないための派兵だったが、19世紀の半ば以降に金とダイヤモンドが発見されてから、俄然、国自体の重要性が増した。鉱物資源をめぐってオランダ系アフリカーナーとイギリス人は殺し合いをしたが、双方とも銃を持っていたので相手を殲滅(せんめつ)も出来ずに、戦いの手を止め、握手して国を創ってしまった。1910年の南アフリカ連邦である。アフリカ人を搾取する1点で合意した妥協の産物だった。そのころには、広大な鉱床の中心地周辺に、短期契約の大量のアフリカ人労働者を作り出すシステムを構築し終えていた。鉱山(↓)だけでなく、農場や工場や白人の家庭でも最低賃金でこき使えるシステムだった。
第2次大戦後、アフリカ人労働者が総人口の僅(わず)か15%の入植者を相手に非暴力の解放運動を展開したが、1948年の白人だけの総選挙で人種差別を政治スローガンに掲げたアフリカーナーのアパルトヘイト政権が誕生して、短期契約の安価なアフリカ人労働者からの搾取体制は温存された。人種差別がスローガンの政権が長く続いたのは、戦後にアメリカ主導で再構築された多国籍企業による資本投資と貿易に群がるイギリス、アメリカ、西ドイツ、日本などがアフリカ人から搾り取った富を分かち合っていたからである。
その体制も、東側諸国の崩壊や経済制裁、イギリス人主導の経済界の動きやアフリカ人の闘争の激化などで維持するのが難しくなり、アフリカ人の搾取構造は基本的に変えない形でアフリカ人に政権移譲を行なった。スムーズな移譲譲には、白人とも妥協できるマンデラのような人物は不可欠で、法律を変えないままマンデラを釈放したあと、1994年にアフリカ人主導の新政権を誕生させた。ムベキの人生の大半はアパルトヘイトとの闘いだったことがわかる。
③ムベキの伝えたもの
ムベキはマンデラからエイズ問題を一任された。獄中から出てスムーズに政権移譲する役割は、日和見(ひよりみ)的なマンデラでも手に余った。1960年に武力闘争を開始したあと、資金集めにアフリカ諸国を回ったが余り成果がなかったように、日本にもアメリカにも式集めに回ったが、今回も思わしくなかった。100万個の住宅建設を約束したマンデラは、悔しい思いを押し殺しながら毎日の雑事に忙殺された。釈放後辺りから感染が急速に拡大し大変な事態に陥っていたが、エイズ問題まで手が回らなかった。ムベキも、引き受けるしかなかった。当初は欧米で主流の「ABC (Abstain, Be faithful, use Condoms) アプローチ」を踏襲したが、2000年初めにはエイズ問題に相当関心を深め、エイズの原因が単にウィルスだけではないと感じ始め、貧困などの様々な要素の方がもっと重要であると信じるようになっていた。そして、国の内外から専門家を招聘(しょうへい)して、アフリカにおけるエイズの流行についての議論を要請した。ダーバン会議の1週間前の第2回会議で「HIVだけがエイズを引き起こす原因ではない」という宣言が発表されたが、欧米のメディアの反応は極めて批判的で、ムベキは厳しい批判を浴びた。そして、ダーバンの会議では意識的にその主張を繰り返した。
「私たちの国について色々語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えるのです。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているようにも私には思えてならないのです。このように考えて、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達したのです。従って、私は充分に医学的な教育も受けてもいませんので、この問題に答えを出せる準備が整ってはいませんが、特にHIVとAIDSについて他の人からも協力を仰ぎながら出さないといけない一つの答えがみつかるように、その問題に答えを出す作業を開始しました。私がずっと考えて来た疑問の一つは『安全なセックスとコンドームと抗HIV製剤だけで、私たちが今直面している健康危機に充分に対応出来るのでしょうか?』ということです」
会場は水を打ったように静まりかえり、ムベキの演説を聞いて数百人が会場から出て行ったと言う。つまり、「安全なセックスとコンドームと抗HIV製剤だけで、私たちが今直面している健康危機に充分に対応出来る」と考える多数派が思い描いていた期待に、ムベキの演説が応えなかったということだろう。
しかし、ムベキの発言は2つの意味で歴史的にも非常に大きな意味を持っている。1つは、病気の原因であるウィルスに抗HIV製剤で対抗するという先進国で主流の生物医学的なアプローチだけによるのではなく、病気を包括的に捉(とら)える公衆衛生的なアプローチによってアフリカのエイズ問題を捉えない限り本当の意味での解決策はありえないというもっと広い観点からエイズを考える機会を提供したことである。
もう1つは、1505年のキルワの虐殺(↓)以来、奴隷貿易、植民地支配、新植民地支配と形を変えながらアフリカを食いものにしてきた先進国の歴史を踏まえたうえで、南アフリカでは鉱山労働者やスラムを介して現実にエイズが広がり続けているのだから、その現状を生み出している経済的な基本構造を変えない限り根本的なエイズ問題の解決策はないと、改めて認識させたことである。
私はアフリカ系アメリカ人の文学がきっかけで、たまたまアフリカの歴史を追うようになったのだが、その結論から言えば、アフリカとアフリカのエイズ問題に根本的な改善策があるとは到底思えない。根本的な改善策には、バズゥル・デヴィドスン(↓)が指摘するように、大幅な先進国の譲歩が必要である。しかし、現実には譲歩のかけらも見えない。南アフリカが「国家的な危機や特に緊急な場合」でさえ、アメリカは製薬会社の利益を最優先させて、一国の元首に「合法的に」譲歩を迫ったのが現実だから。
欧米のメディアはムベキの発言に批判的だったが、アフリカ人には好意的な意見が多かった。ダウニング医師も著書(↓)の中で、2003年にブッシュがアフリカなどのエイズ対策費用として抗HIV製剤に150億ドル(約1兆350億円)を拠出したあとで行なった前ザンビアの大統領ケネス・カウンダのインタビューを紹介している。
「違った角度から見てみましょう。私たちはエイズのことがわかっていますか?いや、多分わかってないでしょう。どしてそう言うのかって?欧米西洋諸国では、生活水準の額は高く、HIV・エイズと効率的にうまく闘っていますよ。1200ドル(約10万8千円)、12000ドル(約108万円)で生活していますからね。数字は合っていますか。年額ですよ。アフリカ人は100ドル(約9千円)で暮らしていますから。もしうまく行って……将来もしアフリカの生活水準がよくなれば、生活も改善しますよ。たとえ病気になっても、もっと強くなれる……私は見たことがあるんです。世界銀行の男性です、HIV陽性ですが、その人は頑健そのものですよ!基本的に強いんです。それは、その男性がしっかりと食べて、ちゃんと風呂にも入り、何不自由なく暮らしているからです。その男性にはそう出来る手段がある。だから、ムベキの主張は、わざと誤解されて来た、いや、わざと言う言葉は使うべきじゃないか、わざとは撤回しますが、ムベキの言ったことはずっと理解されないままで来たと思いますね」
仮にブッシュが約束した多額の援助金で抗HIV製剤が手に入ったとしても、制度的に食うや食わずの生活を強いられている多数のアフリカ人の現状を考えれば、それが即エイズに苦しむ人たちの根本的な解決策にならないのは、容易に想像がつく。医学科と看護学の授業では何かのテーマを決めて論述するという課題を出して評価していた。その中に看護学科の学生の「HIV/AIDS―今私にできること」という課題があり、日赤看護師の報告を引用していた。自分で探し当てたのだろう。
「日赤看護師・助産師が出会った人々~ジンバブエにおけるHIV・エイズ対策事業~
桜井亜矢子看護師による報告(前橋赤十字病院、2007年5月21日から11月20日にマショナランド・ウェスト州にて活動)
ジンバブエの地図(南アフリカ観光局のパンフレットから)
■ エイズ治療薬はある。でも……
HIV感染者やエイズ発症者などで在宅看護のケアを受けている患者さんの中に、ザンビア出身の40代の女性がいます。彼女は1年以上前から毎月ザンビアに行き、エイズウイルスの増殖を抑える抗レトロウイルス薬(以下、ARV)を処方してもらい内服しています。以前、彼女を家庭訪問したとき、ARVを飲み忘れることはないかと尋ねたところ、「絶対に忘れない。これは、命綱だから」と真剣な表情で答えていました。
それから1か月、再び彼女の自宅を訪問したところ、彼女の顔の皮膚がやや黒ずみ、硬くなっていました。彼女にARVをきちんと飲んでいるか尋ねたところ、毎日欠かさず飲んでいると答えてくれました。ところが、「今日は飲みましたか?」の質問に彼女はうつむいてしまいました。すでに11時を過ぎています。本来であればとっくに飲んでいなければならない時間です。
「この薬は決められた時間に飲むように言われませんでしたか?」と確認すると、「薬をきちんと飲まなければ死んでしまうのはわかっている。しかし、この薬は空腹時に飲むと副作用がひどく耐えられないので、必ず食後に飲むようにしている。今日は食べるものがなくて、朝から食べ物を探しているがまだ手に入らないので飲めずにいる……。私だって早く薬を飲みたい……。」涙ぐむ彼女を前に、私は返す言葉が見当たりませんでした。
抗HIV製剤の一つ3TC
次回はエイズの小説『ナイス・ピープル』である。