つれづれに:モブツの悪業(2024年5月16日)

2024年5月17日つれづれに

つれづれに:モブツの悪業(あくぎょう)

 1997年5月にモブツがモロッコへ逃げ、カビラがキンシャサに入ったとたんに、メディアにモブツの悪業に関する記事が次々と載り始めた。エボラの2回目の騒動があった1995年の少し前から切り取って残しておい英字新聞のファイルはだいぶ分厚くなっていた。ファイルの中での最高傑作は、モブツが依頼していた「年度予算の何割かで反体制分子抑えます」という会社から承諾の返事が届いたという記事である。残念ながら私はその記事を再任終了時に処分してしまったので、その記事の詳細は確認できないが、ウェブで調べてみたら、それに近い会社があった。南アフリカの元兵士が作ったらしい。反動的な差別主義者の白人たちで、核装備寸前まで行っていた南アフリカ国軍のノウハウを持ち出したらしい。CIAやFBI、海軍の捜査関連のドラマに南アフリカ元軍人というのを見かけるようになった。アフリカ人政権誕生のあおりで溢れた元軍人がスパイやプロの殺し屋として雇られるようだ。その時読んだ記事には、マンデラが大統領になってANC(アフリカ民族会議)の闘争部門ウムコント・ウェ・シズエが南アフリカの国軍に入ったので、高官も含め国軍から溢れた元軍人が、最先端のノウハウを駆使して金で反体制勢力を押さえる会社を、プレトリアとロンドンに設立したというものだった。記事からは、間に合いませんでしたねえ、という揶揄(からか)いのニュアンスが読み取れたのを覚えている。記事はたぶんロイター発の短い記事だった。

 次は、1984年にボランティアとしてザイールの田舎で過ごしたアメリカ人がワシントンポストに書いた記事である。その青年の書いた著書(↓)を購入して読んでみたが、本のなかはボランティアに関する内容が中心で、モブツ独裁の実態を書いた個所はなかった。モブツ独裁が終わって、その時に見た現地の官僚や軍人が実際にどんな悪行を働いていたかをどうしても知らせたくて投稿した告発文のようである。

著書
「2年間、私はザイール中部カサイ地区でボランティアをしました。この地球上の他のどの地域よりも痛ましい、土の小屋と裸足と貧困のまっただ中で‥‥20世紀の後半に、人々が銃に脅(おど)されて奴隷のように、綿摘(つ)みを強要され、今は失脚したモブツの金庫を一杯にするのを、私はこの目で見ました。

ザイールでの私の仕事はたんぱく質の欠如で病気になった子供たちを助けることでした。‥‥村の養魚池を作って、田舎の地域に栄養補給をすることでしたが、田舎の地域は貧しくてアスピリンの一錠が家計を圧迫する惨状でした。しかし、私の仕事はまったく象徴的なものでした。貧困はあまりにも深く、広範で深刻すぎました。そしてアメリカの援助はあまりにも小さすぎました。私はそれぞれ何軒かの家族の手助けをしました。

神(あるいは神の不在)は細部に潜んでいます。腐りかけの歯を何とかしてもらうために私の家に来た村の人々の泣きじゃくる顔のような細部にです。アフリカの基準から言っても、ザイールの医療は驚くほど酷く、ほとんど存在しません。アメリカや他の西側諸国によって寄贈された薬は、モブツ軍によって慣例的に強奪され、法外な価格で闇市場に転売されました。目的の場所に援助物資が届いた時でさえ、保証はありませんでした。私は、以前不釣り合いなフランスとアメリカの軍服を着た兵士が、ユニセフが配給した粉ミルクを溶いてこしらえた飲み物を下痢(げり)で苦しむ少女の手から取り上げて、自分で飲んでしまう光景を目の当たりにしました。

私のいた小さな村で人々が病気になった時、私は持っていたアスピリン、マラリア用の錠剤、包帯などどんな僅(わず)かなものでも与えました。また、村人たちが歯痛のため私の所へ来た時には、求められたガソリンをその人たちに与えました。私は、オートバイのキャブレターから半インチのガソリンを注ぎました、そして70歳の女性と15歳の男の子がガソリンを唇にたらし、そのガソリンを口に含んで、シュシュと音を立てるのを見ました。ザイールの容赦のない基準では、これが歯の治療だったのです。地元の人々によると、このように使う僅かなガソリンは感染を防ぎ、痛みを和らげる手助けをするということでした。私はその考えに拒絶反応を見せました。しかし、人々は私の所へ来続けました。口を腫(は)らして、泣きながら、頼むから何とかしてくれと言って、数十マイルも歩いてくる人もいました。だから私は歯医者になりました。何もないよりはいいと思ったのです。

私が住んでいたザイール中部では、政府が求める強制労働の要求を満たせるように、村人は健康でいることが特に重要でした。家族の十分な食料を得るために耕すの為に既に充分苦労していたすべての成人男性は、綿をおよそ半エーカー植え、その綿を政府に売るように要求されました。綿を植えない人、または植えられない人々には厳しい罰金や、凶暴なライフル銃の銃身で規則を守らせるために派遣された兵士から鞭(むち)打ちの刑を受ける危険がありました。それはベルギーによる植民地時代からそっくり受け継がれた体制だったのです。モブツは独占的に綿の価格を不自然なまでに低い基準に規制し、買い取る際にいつものように目盛りをわざと不正に操作し、村人を再び騙しました。私の村で、綿販売は私の前庭で行われていましたので、ことの子細をすべて知っています。私は無数の鞭打ちを含め、すべてを戸口から見たのです」

 モブツはホテルの料理人の息子として生まれて、コンゴ川流域最北の貧しい少数民族の村で育っている。ミッションスクールを出た後、兵士やジャーナリストをやり、しばらくベルギーでも働いた。独立が近づくと、独立派に近づき、1960年6月にルムンバの閣僚の一人になった。数ヶ月後に軍隊のクーデターの最前線にいて、後に最高司令官になった。ルムンバを親ソ連派だと読み間違えたCIAはモブツに100万ドルを渡してモブツ軍を買収した。ルムンバは退位させられた6ヵ月後に兵士に殺されている。1964年に国連部隊が去った後、反体制派は暫定政府を設立して国の3分の2を支配した。政敵を追放し、投獄して処刑した。その後、アメリカが1965年のクーデターを支援したあと、モブツはほぼ32年間に渡って独裁政権を維持した。

 国民の98%から慣例的に選ばれ、批判する者は買収されるか、国外に追放されるか、投獄された。投獄と拷問と殺人を武器に支配を強行したのである。故郷の村に数百万ドルを費やしたが、港、道路、鉄道、汽船、学校、病院、鉱山などの維持にはほとんど費用をかけなかった。今日、道路はどこもひどいので、簡単な旅にも日数がかかる状態である。
すべての悪業が可能だったのは欧米の支援があったからである。改革派の暴動からモブツ政権を救ったこともある。腐敗や人権侵害の報告書を入手しながらも、軍事・経済援助を続けました。モブツは冷戦を最大限に利用し、冷戦の終わりには、個人資産と国債が共に60億ドルに達していた。

 カーターが紛争の地キサンガニで→「悪夢」をみたが、紛争地ではないカサイ地区でも、その住民は悪夢を見続けていたわけである。

次回は、元タンザニアの大統領ニエレレである。カビラがキンシャサに入ったあと、アメリカは自分たちの民主主義を主張して、2年以内に総選挙を実施して大統領を選ぶように迫ったが、何人かの人が強く意を唱えた。その一人がニエレレだった。

小島けい画