つれづれに

つれづれに:絵を描く

 絵を描くことと数字に関することはどうも苦手で、遺伝子が欠損しているとしか思えない。だから、絵を描ける人が身近にいるようになるとは思っていなかった。妻も娘もこともなげに絵を描く。だから、水仙郷(→「水仙郷襖絵」)に行ったあと、あの襖絵が描けたんだろう。

 青島の時もそうだった。いっしょに行って帰ったあと、描きたくなったんだと思う。→「青島と少年」

 高校で担任をして、信州に→「修学旅行」に行ったとき、1クラス47名と私の分の似顔絵を頼んだら、こともなげに描いてくれた。仕事に家事に育児に大変だったのに、よくも頼んだものだと心が痛む。しかし、どの顔も一目でその人だとわかる似顔絵だった。

 慌ただしくいっしょに住み始めたが、相手のことはほとんど知らなかった。絵についてもいっしょに生活しながら「そうやったんや」と初めて知ることが多かった。(→「中朝霧丘」)小さい時から絵を描くのが好きで、望めば絵の専門に進めたようだが、大学では詩を読んだり穴もぐり(ケービング)などをやっていたそうである。スラムのようなところで、崩壊した家族関係の中で「生きても30くらいかと諦めていた」私と、教えてもらった暮らしぶりは、同じ時代に生きたとは思えなかった。

修士論文は山之内獏で書いたらしい

 働いて子供が小さいと毎日戦争のようで、絵を描く時間を見つけるのは難しい。何事もやれる方がやればいいとは思っていたが、実際には学校を優先して、家事や育児も頼りっぱなしだった。申し訳ないことをした。絵を描きたかったようで、結婚前から通っていた神戸元町の油絵教室の土曜日の2時間に協力するのが精一杯だった。教室の担当者は神戸に住む画家で、洒落た絵を描いていたらしい。透析を受けていた病院先に、描いた絵を見てもらいに行く妻に付き添ったことがある。その頃、その画家は絵画教室もやめていたので、おそらく妻が絵に手を入れてもらった最後の人だったのではないか。

ウェブで見つけたその画家の絵

 結婚前から続けていたようで、その絵画教室の人たちと毎年グループ展をやっていた。そこには毎年いっしょに出かけた。あるとき、明石の市展に作品を出した。審査員賞だったらしいが、その審査委員長がその画家だった。妻の名前は後で知ったらしい。その頃は油絵だったが、私の宮崎が決まって「仕事辞めて、絵を描いていいの?」と嬉しそうだった。

 後にカレンダーを作るようになってから、その油絵をカレンダーの12月に入れた。元々大好きな犬を、絵の中に放すのが好きなようである。

「私の散歩道2019~犬・猫・ときどき馬」12月

 <追記>

昨日歩いたのは、木花神社→農産物店→木花駅までは同じコースだったが、そこから→木花神社→高台の公園を通って帰って来た。木花神社(↓)に戻ったのは、階段の数を確認するためだった。高台の公園の階段(↓)の数が147だったのがわかって「えらい半端な数字やな」と感じたが、実際はある法則があった。33段で踊り場、それが3回、24段で踊り場が2回、それで147段だった。33×3=99だったので、ひょっとしたら木花神社の階段を意識して造られたのかとふと思った。もしそうだとしたら「僕だけの秘密やろか」と推し測ったが、そんなロマンはなかった。神社の階段は下から5段踊り場、それから93段、合わせて98段だった。

神社の上から20何段目かで止まって、この写真を撮った

つれづれに

つれづれに:水仙郷襖絵

 妻が産休の間に襖(ふすま)に描いた水仙郷(すいせんきょう)の絵について書きたい。産休に入ってすぐに、2人で淡路島(↑)の水仙郷に出かけた。娘がお腹にいたので3人で出かけたと言う方が正確である。

水仙は2人とも大好きな花の一つで、どこかの広告で見かけて以来一度は行ってみたいと話していたが、産休に入ったとたん、急に妻が「水仙郷に行こう!」と言い出したのである。明石港からフェリー(↓)で岩屋に渡り、あとはバスである。

 近隣の4町が合併して今は南あわじ市と呼ばれているようだが、当時は確か南淡町だった。大学の時に昼間の1つ上の人がその町から来たと言っていたので、名前を覚えている。洲本から混んだバスに揺られて水仙郷に行き、そこに着いた記憶がかすかに残っている。

観光パンフレットの解説である。

「灘黒岩水仙郷(なだくろいわすいせんきょう)は、兵庫県南あわじ市(旧南淡町)灘黒岩に位置するスイセンの群生地である。日本三大群生地の一つ。諭鶴羽山(ゆづるはさん)から紀伊水道に続く斜面約7ヘクタールに、約500万本のニホンズイセンが自生する。」

 大きなお腹を心配しながら、山腹に甘酸っぱい匂いを漂わせて咲き乱れる水仙を堪能はしたが、出発した時間が遅く、暗くなった帰り道は、体が冷えはしないか、産気付きはしないかと終始気が気でなかった。淡い若気の至りである。

生きて30くらいまでかと考えていたのにいっしょにいたくなって「結婚しよか」と言ったら「はい」と言われてしまった。卒業式の帰りに学年主任のお見舞いに行った2月25日のことである。4月4日が結婚式だったから、何とも慌ただしい毎日だったと思うが、その時は早くいっしょに住みたかった。妻の兄を見ていて同じマンションに入ると決めていたようで、最初は朝霧駅(↓)近くのマンションに住んだ。しかし、両隣と合わなくて、出来たばかりの教職員住宅に入った。娘と3人の生活だった。その時に襖に2人で行った水仙郷の絵を描いたのである。水仙独特の淡い色合い、一輪一輪を摘んで花瓶に飾れそうだった。襖いっぱいに咲き乱れる水仙の花々に囲まれて、今にもあの甘酸っぱい匂いが漂って来そうだった。

  同じ市内ながら国鉄沿線ではなく、海寄りの私鉄(↓)沿線の田舎だった。朝霧は市の東の端、引っ越した先は西の端にあった。この時のことを思うと、妻にも娘にも申し訳ない気持ちになる。高校で教科にホームルームにクラブ活動にと、毎日が目一杯だった。土日も試合について行くことが多かった。その分、2人といる時間が少なかった。新築の集合住宅が娘の体に合わなかったのか、よく熱を出した。ある日「私、家に帰る!」と言い出して、父親一人の→「中朝霧丘」の家に3人で転がり込んだ。水仙郷の襖絵を持って出なかったことが悔やまれる。

 <追記>

今日も午前中に歩きに出かけられた。しかし、朝から晴れていたので、すでにかなり陽射しがきつかった。大きな雨傘を日傘に代えて歩いた。木花神社→農産物店→木花駅までは同じだが、そこから→木花神社→高台の公園を通って帰って来た。なぜ木花神社(↓)に戻ったかは次回である。どくだみは昨日採った墓の近くの空き家の隣の空き家と、少し先に行ったところの畑の登り口の脇で摘んだ。高台のさらに高い場所に何人かが畑を借りて作物を作っているようで、何ケ所かから車が登れるようになっている。その一番南側の砂利が敷かれた坂の脇にどくだみが生えていた。昨日はその場所の向かいの大き目のトイプードルが吠えていたので、心配したが、今日は庭に放してもらってない時間帯だったようである。

つれづれに

つれづれに:フィクション

 白浜の砂の多い部分を探して撮った

 「今日も白浜に手入れをしてもらいに行って来ました」と1回で書くつもりが、4回(→「白浜に」、→「白浜に2」、→「青島と少年」、→「青島→白浜」)になった。最終回の最後につけた箇所は実際とは違う。

 「今日は8時台に雨が降り始めた。そう多くはないが、これで今日も水遣りをしなくて済む。ほんとうに恵みの雨である。こういう風に水を撒く手間を省いてくれる程度ならいいが、そのうち外に出てはいけないほどの雨風ややってくる。すでに先日も台湾や沖縄が台風にやられたという報道があった。雨のために出るのが遅くなったが、10時台にまた歩きに出た。今日も木花神社→農産物店→木花駅→木花小中学校脇を歩いて来た。1時間余りである。今日も2箇所でどくだみ(↓)を摘んできた。汗もかけたし、風呂に浮かべて汗を流すとしよう。」

 10時台に歩きに出なかったので、どくだみも摘めなかった。風呂に入って汗は流したが、歩いて来た汗でなかったわけである。

すぐにブログを訂正しようと思ったがそのままにして、フィクションについて書くことにした。今書いてる小説の中でよく使う手口である。事実のある部分を書きかえるわけである。もちろん、大きな枠の中で組み替えたり、設定そのものを変えたりのようにそう大がかりなものではないが、あるものを基にして修正を加えるわけである。取ってつけたような感じもよくないし、流れにそぐわないで不自然になるのもよくない。この場合、普段も歩きにでかけているので、少しくらい書き換えても信憑性については大丈夫だ。

何を書くかは人によって違うが、私の場合、取り敢えず今まで生きて来た現象の深層を言葉にしようとしている感じがする。出版社の人によく言われた意識下の原言語を、意識上の言葉に変えて表現する、どうもその作業をしているような気がする。書き始めに意識下に眠っている原言語を大枠を決めて書き始める。一般に言われるプロットを決めて書き始めるわけである。4作目を今チェックしているが、ラ・グーマ(↓)のように書く前に大体が完成しているというようなことは一切ない。たぶん、頭の構造や思考形態そのものが違うのだろう。

 今日でチェックの1回目は終わりそうで、あと3日ほど集中して5回目を終えて、ウェブで送ろうと思っている。少し前から5冊目の大枠を考えているが、外国(↓)の話を絡めたものになりそうである。

<追記>

今日は歩きに出かけられた。木花神社→農産物店→木花駅→木花小中学校脇の1時間余り。どくだみも取って来た。ただし、今日は高台の公園の出口は西側の道で墓の横を通った。階段を上がった辺りで陽が照り出し、西側の木陰を通ったので、そのまま西側の出口を利用したわけである。その途中の空き家でどくだみを見つけて明日の分を摘んだ。明後日の分は木花神社の忠魂碑(↓)裏の空き地で取った。だいぶどくだみのある気配を感じるようになった。その目で見たら、いろんなところにある。

つれづれに

つれづれに:青島→白浜

 →「白浜に」(↑)

「白浜に2」(↑)

「青島と少年」(↑)

の続きである。「今日も白浜に手入れをしてもらいに行って来ました」と1回で短く書くつもりが、4回になるとは思わなかった。たぶん、「白浜」の最終回である。

白浜の鍼灸整骨院を見つけたのは偶然である。宮崎は利用できる温泉が多い。今の家に引っ越しをしてからは、青島の温泉に出かけることが多かった。ただ、ときたま知り合いと出くわすことがあって、その確率の低い温泉を探して、少し南の白浜のホテルサンクマールに行くようになっていた。

白浜から見たサンクマール、今回撮った写真である

 サンクマールでは、夜勤明けの卒業生といっしょになったことが1度あったが、誰も合わなくて済むし、2階の大浴場から一望できる日向灘も素敵だったし、サウナも人が少なくて快適だった。ただ、湯の温度が下がり、かなりぬるくなってからは行かなくなった。湯がぬるくなるのが、鍼灸整骨院を見つけた後だったのは幸運だった。

ホテル正面玄関

 いつものようにサンクマールの湯に浸かって自転車で帰っていると、左手に鍼灸整骨院の看板が目に入った。何度も通っていたので気がついてもいい筈だったが、そのとき目にしたのが初めてだった。無理が祟って→「体の悲鳴」を感じたとき、たまたま弟に薦められたマッサージ屋さんに出かけて→「手入れ」をしてもらって、また普段の生活が出来るようになった。明石からバスで通った。気がつけば、30代で半分が白髪だった頭も元に戻っていた。そのあと、宮崎の話が決まったので、それからは2ケ月に1度くらいの割合で、飛行機でその人に手入れをしてもらうために通っていた。しかし、その人が60代で亡くなってしまった。そのあと、揉んでもらえるところを探したが、指まで入れてしっかり揉んでくれる人は見つからなかった。有名な野球選手も来たことがあると宣伝するスポーツマッサージの店にも行ってみたが、表面をなぜるだけだった。唯一、有名な渋谷の交差点の近くの人が指までいれて揉んでくれたが、東京は距離があり過ぎた。たまに出張したときに世話にはなったが、その間も、通える範囲で何とかいい人が見つかればと探していた。看板を見つけたとき、さほど期待をしてはいなかったが、一度揉んでもらうことにした。

「指まで入れて揉んでもらえますか?」

言ったのはそれだけだったが、きっちりと筋肉の間に指を入れて揉んでもらえた。奇跡の出遭いのように感じた。その後、2週間に一度の割合で通うようになった。揉んでもらったあとは、近くのサンクマールで温泉に浸かった。湯がぬるくなったあとは、旧パームビーチホテルの温泉に寄るようになった。コロナ騒動が始まってからは温泉には行けずじまいだが。

 鍼灸整骨院の前の浜が白浜である。他よりも白いから白浜と呼ばれているが、今は砂浜の砂がそう多くないし、叢(くさむら)や流れて来た枯れ木などで砂の見える部分が少ない(↓)ので、白浜だと実感するのが難しいほどである。海水浴場の海開きの前には、ブルドーザーで砂の移動をさせている。青島から少し離れているせいもあってか、海水浴客は例年そう多くない。地元の人が仕切っているらしいが、採算が取れているのか心配になるほどである。最近は週に1度手入れをしてもらっている。原稿で稼げるようになれば、もう少し頻繁に通うかも知れない。それだけ歳を取って、恢復力が劣って行くということだろう。しかし、揉んでもらえる人に出遭えたことに感謝したい。

今日は8時台に雨が降り始めた。そう多くはないが、これで今日も水遣りをしなくて済む。ほんとうに恵みの雨である。こういう風に水を撒く手間を省いてくれる程度ならいいが、そのうち外に出てはいけないほどの雨風ややってくる。すでに先日も台湾や沖縄が台風にやられたという報道があった。雨のために出るのが遅くなったが、10時台にまた歩きに出た。今日も木花神社→農産物店→木花駅→木花小中学校脇を歩いて来た。1時間余りである。今日も2箇所でどくだみを摘んできた。汗もかけたし、風呂に浮かべて汗を流すとしよう。

 砂の多い部分を探して取った

同じ日に撮った青島の砂浜のこの写真と比べると白っぽい気がするが‥‥