つれづれに:絵を描く(2023年7月28日)

つれづれに

つれづれに:絵を描く

 絵を描くことと数字に関することはどうも苦手で、遺伝子が欠損しているとしか思えない。だから、絵を描ける人が身近にいるようになるとは思っていなかった。妻も娘もこともなげに絵を描く。だから、水仙郷(→「水仙郷襖絵」)に行ったあと、あの襖絵が描けたんだろう。

 青島の時もそうだった。いっしょに行って帰ったあと、描きたくなったんだと思う。→「青島と少年」

 高校で担任をして、信州に→「修学旅行」に行ったとき、1クラス47名と私の分の似顔絵を頼んだら、こともなげに描いてくれた。仕事に家事に育児に大変だったのに、よくも頼んだものだと心が痛む。しかし、どの顔も一目でその人だとわかる似顔絵だった。

 慌ただしくいっしょに住み始めたが、相手のことはほとんど知らなかった。絵についてもいっしょに生活しながら「そうやったんや」と初めて知ることが多かった。(→「中朝霧丘」)小さい時から絵を描くのが好きで、望めば絵の専門に進めたようだが、大学では詩を読んだり穴もぐり(ケービング)などをやっていたそうである。スラムのようなところで、崩壊した家族関係の中で「生きても30くらいかと諦めていた」私と、教えてもらった暮らしぶりは、同じ時代に生きたとは思えなかった。

修士論文は山之内獏で書いたらしい

 働いて子供が小さいと毎日戦争のようで、絵を描く時間を見つけるのは難しい。何事もやれる方がやればいいとは思っていたが、実際には学校を優先して、家事や育児も頼りっぱなしだった。申し訳ないことをした。絵を描きたかったようで、結婚前から通っていた神戸元町の油絵教室の土曜日の2時間に協力するのが精一杯だった。教室の担当者は神戸に住む画家で、洒落た絵を描いていたらしい。透析を受けていた病院先に、描いた絵を見てもらいに行く妻に付き添ったことがある。その頃、その画家は絵画教室もやめていたので、おそらく妻が絵に手を入れてもらった最後の人だったのではないか。

ウェブで見つけたその画家の絵

 結婚前から続けていたようで、その絵画教室の人たちと毎年グループ展をやっていた。そこには毎年いっしょに出かけた。あるとき、明石の市展に作品を出した。審査員賞だったらしいが、その審査委員長がその画家だった。妻の名前は後で知ったらしい。その頃は油絵だったが、私の宮崎が決まって「仕事辞めて、絵を描いていいの?」と嬉しそうだった。

 後にカレンダーを作るようになってから、その油絵をカレンダーの12月に入れた。元々大好きな犬を、絵の中に放すのが好きなようである。

「私の散歩道2019~犬・猫・ときどき馬」12月

 <追記>

昨日歩いたのは、木花神社→農産物店→木花駅までは同じコースだったが、そこから→木花神社→高台の公園を通って帰って来た。木花神社(↓)に戻ったのは、階段の数を確認するためだった。高台の公園の階段(↓)の数が147だったのがわかって「えらい半端な数字やな」と感じたが、実際はある法則があった。33段で踊り場、それが3回、24段で踊り場が2回、それで147段だった。33×3=99だったので、ひょっとしたら木花神社の階段を意識して造られたのかとふと思った。もしそうだとしたら「僕だけの秘密やろか」と推し測ったが、そんなロマンはなかった。神社の階段は下から5段踊り場、それから93段、合わせて98段だった。

神社の上から20何段目かで止まって、この写真を撮った