つれづれに:捏ち上げ(2024年8月23日)

2024年8月24日つれづれに

つれづれに:捏(でっ)ち上げ

 南アフリカに最初に来た→「オランダ人」も、次に来た→「イギリス人」もなんでもありの人たちである。アフリカ人から土地を奪って国を創ってしまったのだから、強引、狡猾、傲慢、騙しに捏造、なんでもありで、恥などというものは元からない。大東亜戦争で日本にやられた韓国や中国や台湾を含めた東南アジアの人たちも、きっとに同じ思いを味わったに違いない。

「金とダイヤモンド」で大成功を収めた→「セシル・ローズ」にはケープタウンからカイロを結ぶ自分の帝国を創るという野心があり、そのためなら何でもやってのけた。土地を奪ったアフリカ人を蔑み「現在ここに住むのは最も卑しむべき人間の見本だ。彼らをアングロ・サクソンの影響下に置けば、ここはどんなに変わるだろう‥‥」と豪語していたとデヴィドスン(↓)が「アフリカ・シリーズ」で紹介している。

 友人に依頼してチャールズ・ヘルム宣教師を利用してマタベレ王国のロベングラ王を騙(だま)し、気候がよく、牧畜に適し、地下には鉱物資源、特に金が眠っているリンポポ川の北の広大な高原を手に入れた。銃で制圧したマタベレ戦争のあとは略奪(↓)で、ローズのイギリス・南アフリカ会社や白人入植者が農地と25万頭の家畜のほとんどすべてを没収した。

 ローズ自身も第2の→「ラント金鉱」を夢見て資本を募り、南アフリカ会社の私設軍隊を引き連れて、今のハラレに到着している。1890年のことである。豊かな金鉱脈をみこめないという調査結果が届くと、更に投資を募って投資会社を倒産させ、私設軍隊を駐留させて、ショナ人から土地と家畜を奪ったのである。友人がすでに奪っていたマタベレランドと併せて国を作り、その国にローデシアと自分の名前をつけた。現在のザンビアとジンバブエである。その100年余りあとに、私はジンバブエの首都ハラレで家族と暮らしたわけである。ショナ人と仲良くなり、その人たちの暮らしぶりを見、両親の住む小さな村に行って、ローズに土地や家畜を奪われたショナ人の末裔(まつえい)と話をする機会に恵まれた。

 裁判にかけられたビコは「黒人は日々の厳しさに気づいていないわけではないんです。誰もが政府がやることに耐えているんです。黒人意識運動は人々にこういった厳しい現状を受け入れるのやめ、対決しろと言っています。厳しい現実をただ受け入てはいけないと人々に言っているんです。今の厳しい環境の中でも希望を抱き、自分に希望を持ち、自分の国に希望を見出す方法をみつけるべきだと言っているんです。白人とは関係なく、自分自身が人間であるという感覚、世の中での合法的な場所を築くように努力しようというのが黒人意識運動のすべてです」と→「自己意識」の大切さを説いて、陳述した。

 ヨーロッパ人入植者はアフリカを植民地にした人たちと同じように、自分たちの侵略を正当化するために白人優位、黒人蔑視の意識を捏っち上げた。ビコは裁判を起こした白人の友人をアフリカ人たちだけで経営するクリニック(↓)に案内したときに、やや自重気味にその友人と遣り取りしている。

ウッズ:どこでも尾行するの?

ビコ:尾行してると思わせておくさ。

ウッズ:で、ここがそうなの?

ビコ:そう、ここがそう。黒人の職員と一人の医者が経営している黒人のためのクリニック。

ウッズ:ここのクリニックはその女医さんのアイデア?それともあんたのアイデアだったの?

ビコ:こっちだよ。案内しよう。皆で出したアイデアだったけど、あの人がいてよかった。

ウッズ:リベラルな白人の医者が同じことをしてもきっとあんたらの目的には添わないんだろ?

ビコ:あんたたち白人が黒人にさせようとしている仕事の資格を取ろうとしていた学生の頃に、白人じゃなければいい仕事じゃないんだと突然思い知ってね。学校で読んで来たただ一つの歴史は白人に作られ、白人に書かれたものだった。テレビも車も薬も、すべて白人によって発明されたものだ。フットボールさえも、ね。こんな白人中心の世界で、黒人に生まれたことで劣等の意識を抱くなんて信じるのは難しいだろうね。ここでは、患者と職員の大抵の食べものは自分たちで作ってる。

ウッズ:教会?

ビコ:そう、ずっと昔からここにあったね。しかし、この劣等の意識はアフリカーナーが俺たちにしてきたことより、もっとはるかに大きな問題だと思い始めてね。黒人は白人と同じように、医者や指導者になる充分な能力があると信じる必要があった、だからこの場所にクリニックを建てたんだ。間違いはその考えを紙に書いたことだったよ。

ウッズ:政府はあんたを活動禁止処分にした。

ビコ:そして、闘うリベラルな編集長は俺を攻撃している。

ウッズ:人種主義者だから攻撃してるんだよ。

ビコ:ウッズ氏、あなたは何歳です?

ウッズ:41、でもそれがなんか関係あるの?

ビコ:そう、白人の南アフリカ人、41歳、新聞記者。黒人居住地区で過ごしたことある?

ウッズ: 何度も‥‥

ビコ:いや、心配しなさんな。警官以外、白人の南アフリカ人は1万に1人も知ってはいないと思うよ。黒人は白人がどう暮らしているかよく知っている。黒人は庭の芝を刈り、食事を作り、汚れ物を片づける。黒人がどう暮らしているか、黒人の同胞の90パーセントが夜の6時に白人の通りから閉め出されている生活をしているのを、実際に自分の目で見てみたいとは思いませんか?

そして、ビコはある日の夕方、ウッズを黒人居住地区に連れて行く。映画の場面は私が一度見た光景(↓)である。ハラレで暮らしたとき、知り合ったジンバブエ大学の学生に頼んで連れて行ってもらった黒人居住区ムバレである。映画が製作されたのはまだアパルトヘイト政権下で、映画のロケを禁止していたので、南アフリカの第5州と言われていたハラレでロケが行われたのである。ムバレはジンバブエ最大のスラムで、白人地区からは工業地帯を挟(はさ)んだ南西の方角にあった。学生といっしょに乗ったET(エマージェンシー・タクシー)と呼ばれていた乗り合いタクシーを降りた辺りが、映画の中に映っていたのである。

 ムバレでは学生の従妹の家に案内してもらった。従妹の娘さん、学生の姪にあたる少女は腰の入ったダンスを踊ってくれた。「初めての外国の人を見て、興奮してるのよ」と従妹が言ってますよ、と学生が耳打ちしてくれた。日本の県住や市住のような集合住宅だったが「電気は通ってますが、実際には使っていません。ローソクを使ってますよ」と学生が言っていた。住人の大半は、田舎から出稼ぎに出て来た働き手とその家族のようだった。借家に雇われていたガーデンボーイのショナ人と仲良くなったが、ひと月の給料が4000円余りで「これでも仕事があるだけましな方ですよ」と哀しそうに言っていた。普段は一人暮らしで、メイドやボーイの狭い部屋(↓)のコンクリートの上に毛布を敷いて寝ていた。私たちが来てからすぐに、田舎から家族を呼び寄せていたが、普段はいっしょには住めないと言っていた。

 親もその人を連れて、田舎から出て来てムバレで暮らしていたと聞いた。押しかけて来たローズに、土地と家畜を奪われたショナ人の末裔だった。今は父親も、ハラレから車で1時間ほどの小さな村に戻って、たくさんの家族(↓)と暮らしていた。歴史を辿(たど)っていただけに、何とも複雑だった。

一番左端が父親、4番目が母親

 ビコは今の苦しい環境をただ受け入れずに立ち向かえと説いたが、現実にはなかなか厳しい問題である。生まれた時から、食うや食わずの生活をして来て、ある日広い白人の邸宅でメイドやボーイをする仕事しかないなかで、劣等の意識を持たずに立ち向かうのは、並大抵のことではない。ラ・グーマ(↓)が書いたケープタウンのスラムの住人の暮らしぶりの中で、劣等の意識を持たずに成長するのは、現実には難しい。スラムの物語を翻訳しながら、私自身が育った環境も狭い、臭い、穢いスラムのようなところだったなあと思ったが、戦後の貧しいスラム同様のところで、劣等の意識を持たないで暮らすのは難しかった。5人も子供がいるのに両親が離婚状態で家には余りいなかったので、精神的にもきつかった。だから、そんななかで育ちながら、同胞に自分に自信を持てと説けるビコはすごい人だと素直に思う。ただ、哀しいかな、影響を与える人が多過ぎたので、体制に合法的に殺されてしまった。獄中での死因が首吊りだと捏っち上げて公表する人たちは、実際にはどんな集団だったのか?

小島けい挿画