つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ホームルーム2

 修学旅行を予定していたが、その前に、ホームルーム2(→「ホームルーム」、5月24日)を挟み、2年目と3年目に担任したクラスについて書くことにした。二年目にクラス替えがあった。新しいクラスになって、ホームルームが激変した。学年の方針で関学に10人を入れるために英語でクラス分けをして、上位の2クラスのうちの一つの担任になった。(→「学年の方針」、5月23日)文系と理系に分けるのは3年次からで、文系と理系が入り混じったクラスだった。入学時の英語の成績でクラス分けしたが、一年で半分くらいが入れ代わっていた。一年目に偶数クラスを持って英語の力は大体把握していたので、予想通りで納得のいく顔ぶれだった。最初の会議で「自分が受験勉強もしてないのに、英語でクラス分けしてがんがんと言われても」と反対したが、優等生の集団は受験勉強をしなかったこと自体を信じようともせずに、ことを進めてしまった。多勢に無勢、気付けば、きっちりと押し切られてしまっていた。しかし、現実には何が起きるかわからないものである。一年目のホームルームは可もなく不可もなくだったが、二年目はなんと、リーダーシップを取れる人がいるとこんなにも違うんやと教えてもらった。その男子生徒は出来れば人前を避けたいと思っている風だったが、渋々ながらリーダー役を引き受けて、ホームルームも仕切ってくれた。少し裏事情もある。1年の時にすでにワルで一目置かれていた生徒が、そのリーダー役となぜか気があってしまったうえ、リーダー役の仲良し5人組と、女子の仲良し5人組が仲良くなってしまったのである。編入生も私の判断でクラスに入れた。神戸から来た最初の編入生だったこともあり、編入試験の時は大丈夫やろかと心配していた人たちもいたが、最初の模擬試験では2番、学籍番号の近かった素直な生徒とすぐに仲良しになり、クラスにもすんなり溶け込んでしまった。3年でも担任をして卒業したあと、たままたま神戸のデパートで会った時は、久しぶりでよほど嬉しかったのか、たまさ~んと大声を出しながら抱きついて来た。母親もいっしょだったので、どうしたらいいものかと、困ってしまった。不安だった編入時もその後の2年間も、楽しく過ごせたようである。
ワルで一目置かれていた生徒は二つ年上で、訳ありのようだった。関西に静岡県の浜松からきたこともあり、年齢も言葉遣いも違うし、髪型がいかにもワル風で、剃り込みもあった。他の学校の生徒と暴力沙汰を起こして停学になっていた生徒も黙って従っていたようで、担任をはじめ、教師も当たらず触らずという感じだった。私は弟もワルのリーダーにさせられていたらしいし、やくざの子弟とも遊んだりしていたので、エネルギーの行き先さえ間違えなければ大丈夫という変な自信もあった。すんなり仲良くなった。廊下を歩いている時に、何人かで廊下の壁を背にいわゆる「便所座り」をしている中にその生徒がいたので「こう座ったら楽なんか?」と言いながら、横に「便所座り」で並んで、しばらく話し込んだことがある。普段はトレパン(当時出回っていた体操時間に使う白のトレーニングパンツ)にTシャツを着て、スリッパを履いていたので、廊下に座っても支障はなかった。何人もの生徒がもの珍しそうに眺めて通り過ぎていた。「ええ、まあ」と少し照れ笑いを浮かべていた。訳ありの中には、継母との軋轢や父親への反感、教師との揉め事も含まれているようだった。大人との摩擦で出来た心の傷が、すぐに和らぐはずもない。それに、30までそう時間もなかったし、本当は人より自分の方が心配なくらいだった。(文芸部員に頼まれて書いた→「露とくとく」、「黄昏」6号、1978年)

 教師とクラスを教師からみた「一対多」で捉えてしまうと気づかないままだが、一人一人を個別に見ると、実に多彩である。私は気づいてもらえなかったようだが、新しいクラスに男子で二人、女子で二人も集団に馴染み難そうな生徒がいた。私が気づいていることを本人が自覚していたかどうかはわからないが、最初から何となくぴんと来たが、じっくりと見るうちに、やっぱりそうやったと合点がいった。クラス全体にはあまり干渉したくなかったので、座席も自分たちで決めやと言っていたが、年休明けに来て見ると座席表が出来ていた。どうも学年付きの補佐の人が代わりにホームルームの時間に行って、決めてくれたようだった。聞いてみると、その人の意向で決めたらしい。自分たちで決めやと言っていたし、納得も行かなかったので、その人に断ってみんなに決め直してもらった。好きな所に座ってええんちゃうと言ったときは、集団に馴染めない男子二人が向き合って座っていた。一人は背中を向けていたが、授業中にしゃべるわけでもないので、お前らようやるなあ、と言ったきりでそのまま授業を続けた。しばらくして飽きたのか、いつの間にか元に戻っていた。その続きがあった。ある女子生徒が「政経の人、教室に入って来るなり、お前らこのごろ机がまっすぐに並んでないな、と言って、机を並べ直させんねんよ、たまさん」と立って文句を言っていた。机はまっすぐに並んでないと気が済まない人が、教師には多いようである。
何人かは本人に確かめて、3年でもクラスに入ってもらった。ただのお節介である。卒業の時の一言が「やまびこ」(↓)という文集の中にあって、今も手元にある。

 リーダー「嫌んなった。もぉーだめさぁー。だけど腐んのはやめとこおー。日の目を見るかもこの俺だって。もひとつ気張ってイイ娘を見つけに出かけよお。なんとかしてくれ。神様。仏様。どうも、どうも。」
ワル「もうすぐだ……。もうすぐだ……。見たまえ、はや僕らの頭の上を、春の燕が飛んで行く!!僕を卒業まで、めんどうみてくれた玉田吉行君に”アメリカン”とともに乾杯。どうも、どうも。」
集団に馴染めない男子生徒1「吹けよ風、呼べよ嵐」
集団に馴染めない男子生徒2「It’s up to you if you give it a try or not, but how come you don’t dream to make for through it and have it made? It’s you’re never scared or hurt or embarrassed, it means you’re never taking chances. – Heart of Hearts」
集団に馴染めない女子生徒1「くそったれ!うっとうしい!なんという無責任な教師だろう。やっと別れられてせいせいするわ うう……」
集団に馴染めない女子生徒2「やさしくすばらしい先生方と、思いやりのあるステキなお友達に囲まれて、ホントにもうバラ色の高校生活でありました。涙…涙の卒業です。あ~しょっぱい!」
デパートで会った女子生徒「三年間の思い出ベスト3……1転校を経験(初めは辛かったけど、いい経験になった)2楽しかった修学旅行(先生、消燈時間守らなくてゴメンナサイ)3彼ができた(現在は一人身、恋人募集中!)
冊子の日付が1980年だから、40年以上の歳月が流れたわけである。次回は、修学旅行、か。
<追伸>私の一言は「・・・ 美しさ 哀しさまでも 遠くなり   我鬼子 ・・・」(我鬼子は、芥川さんの我鬼を借用して当時使っていた雅号)

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つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:修学旅行

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫ときどき馬~」6月

 今日から6月(↑)である。6日の芒種まであとわずか、一年で一番過ごし易い小満の時期を大切にしたい。とまとの柵は二つ完了、いるだけでひりひりする陽射しの時期が間もなくやって来る前に、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)用のジャングルジム風の柵が終わればいいのだが。 →「ホームルーム」(5月24日)を運営する、それ自体が教師の思いこみである。考えてみれば、自分がホームルームに参加したいと思ったこともないし、必要性を感じたこともないのに、教師になったとたんに「ホームルームを運営する」など、不自然である。それにするのは生徒である。「二年目にクラス替えがあった。新しいクラスになって、ホームルームが激変した。」と書いたが、その延長線上に、修学旅行があった。クラスは集団なので、何もしないと動くわけでもない。干渉はしたくなかったが「好きなようにやってや」と言うだけでうまく行くはずもない。人前に出るのは出来ればさけたいと望むリーダーといつもつるんでいる仲良し5人組、学校でも一目置かれている「ワル」(↓)、女子の仲良し五人組、そんな役者が揃い、自分たちの意思で動き始めてこそうまく行くものらしい。すべて、運次第というか。(→「ホームルーム2」、5月31日)

 修学旅行のスタンツをどうするか、放課後決めようや、と何日かかかって決めたらしい。修学旅行の初日の夕食後に各クラスの出し物をやるのがスタンツ、持ち時間は20分らしかった。「現代版”かぐや姫”」(↓)という寸劇をすることに決まったらしい。いろいろごちゃごちゃやって、最後にシンデレラ役が誰かに押されて倒れ、一人が覗き込んで「死んでれら」という落ちをつける、如何にも関西人が考えるパターンだった。それだけ決めるのに、何日もかかり、一応練習もやったらしい。文集を編集したときに初めてお目にかかったが、詳細な台本もあり、文集の中に綴じられて残っている。

 当日、旅館の大広間でスタンツが行われた。私も見物人の一人だったが、クラスのスタンツには担ぎ出された。なぜか聖徳太子役で、一万円札をと書いた紙きれを持たされて、晒しものになった。(↓)

 予め聞かされていた「現代版”かぐや姫”」が無事終わったところまでは予定通りだったが、なぜか乗り始めたリーダーがマイクを離さず(↓)、そのまま、バスの中で歌い続けた「夏のお嬢さん」という曲を手始めに、次から次へとヒットパレードが繰り広げられた。

 予定などそっちのけ、会場も乗りに乗って、2時間もそのロックコンサートは続いた。(↓)誰もが生き生きとしている。クラスだけでなく、学年全体を引っかき回したのである。いやあ、やるもんだ。

 その余韻は、部屋に戻っても続いていた。教員の部屋で寝るのも嫌なので、みんなの部屋に行って誰かのふとんに入れてもらった。楽しそうな時間は延々と続く。夜中に「こらー、はよ寝んか!」と見回りの体育教師の怒鳴り声が聞こえ、何人かが廊下に呼び出されていた。どうやら殴られていたらしい。「たまさん、ばれるとやばいんちゃう?」と誰かが言っていた。「そやな、隠れとこか」次の日、誰からも「どこ行ってたん?」とは聞かれなかったので、誰も気づかなかったのかもしれない。「みんなで飲んでて、気づかなかったんやろか?」
余波はその後も続いた。集団に馴染むのが難しそうな男子生徒の一人が川に入り、なんとみんなの手拍子に乗せられて、梓川を泳いで渡り始めたのである。(↓)夏でも雪渓が残っている地域、氷が解けた水が滔滔とながれている川である。また手拍子に乗せられて、向こう岸から戻って来た。ほんま、ようやるわ。その晩、その生徒はふとんに包まってぶるぶる震えていた。「大丈夫か?」誰かが聞いていた。「第4日 そして、ついに最後の夜をむかえる日 ー上高地 “音もなく流れる梓川”というイメージとは違っていたが、その、山をバックにした静寂さは予想以上のものだ。ちょっと見ただけでもその澄んだ水からその冷たさが伝わってくる。澄んでいて、浅く見えた川が実際にはいってみると腰あたりまであってずぶぬれになってしまった。そのしばれる冷たさはひときわだった。あとで足ががくがくふるえた。」と文集の中で書いていた。

 行った先は信州である。名古屋までは新幹線、あとはバスだった。「バスはただの運送機構でそのバスの中ですごす時間があまりに長いことはつまらないkとおだと考えていたのがくつがえされた。」と「梓川」が旅日記に書いていた通りだった。そして、その余韻は学校に戻ってからも続いた。学年で作る文集の原稿を集めて読んだとき、みんなにも読んでもらいたいと感じた。「クラスの文集を作らへんか?」と提案してみたら、作るかということになって「2-5 信州への旅 ’78」が出来た。B4わら半紙85枚、写真用B4白上質コピー紙5枚、合計180ページの大冊である。ガリ版刷の手書き、原稿集めも組み込んだ特集もすべて自主的に放課後に残って作ってくれ、写真や原稿の最後の編集などは私がやった。バスの車掌さん(↓)が生徒と同じ中学の何年か上で、その人にも原稿を依頼して寄稿してもらっていた。

 その学年が始まる前に結婚をしていたので、妻に47人分の似顔絵を頼んで描いてもらった。一人一人の特徴を捉えて、その人そのままの似顔絵である。バスの車掌さんと隣のクラスの担任の似顔絵まである。
「学級運営」は教師の思い上がり、ホームルームをするのは生徒、そのことをしみじみと教えられた修学旅行だった。次の年にみんなは卒業して、新たに一年生の担任をしたあと、大学院に行ったので、2度目の修学旅行がなかったのは幸いである。
次は、また暫く戻って、反体制ーグギさんの場合、か。

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つれづれに:顧問

 今日は朝から雨が降っているが、二日間晴れてくれたので、畑も乾いてずいぶんと助かった。二つ目のとまとの柵とブロックを使って畑周りの通路を継続して造っている。畑には溜枡が4つある。長雨でも水が溜まらないように、うまくその溜枡に雨水を流し込めればいいのだが。元は庭だったので、全体の畑用の土が基本的に足りない。少しでも他から土を運ぶ必要がある。たまたま道路に流れ出ている黒土を見つけたので、少し前からせっせと土を運んでいる。土が肥料だと考えれば、補強も大切である。特に霧島の火山灰で出来た田野や清武の黒土は、きめが細かく栄養は満点のようだ。金曜日に胡瓜の初生りを3本(↓)収穫した。細長いタイプとずんぐりむっくりのタイプだ。種からはタイプは見分けがつかない。たくさん花を咲かせているので(↑)、生り始めると二人ではとても食べきれない、またお裾分けの毎日である。

 卒業した年の夏に→「採用試験」(5月8日)、秋に→「面接」(5月9日)と→「大学院入試」(5月10日)を受けたあと、→「街でばったり」(5月13日)教育実習の時の教頭に会い、その人が校長をしていた新設校に誘われた。歳の瀬に校長から電話があり、産休に入る人の代わりを頼まれ、→「3ケ月早めに」(5月14日)→「初めての授業」(5月15日)もやった。放課後、バスケットボール部の練習に混ぜてもらっているうちに試合にも行き、顧問みたいにベンチに座り、女子チームの→「県大会」(5月16日)にも同行した。4月に新校舎に移って→「新任研修」(5月17日)を終え、→「新採用一年目」(5月18日)が始まった頃には、そのまま女子のチームの顧問になっていた。最初の職員会議では校長から「新任です」ではなく、「旧職員です」と紹介された。一年目は担任がなく→「ホームルーム」(5月24日)はなかったが、学校全体を見渡せる教務の雑用と、授業、それに課外活動の日々が始まった。非常勤の3ケ月があったせいか、ずいぶんと前からいる古株のような大きな顔をしていたように思う。

校長にばったり出会った駅前通り

 スポーツにどう取り組むか、楽しむためにやるのか勝つためにやるのかは難しい問題である。参加する人の数や年齢などにもよるので、団体競技の場合は尚更難しい。結局5年と3ケ月の間、顧問としてバスケットボールのチームといっしょに色々させてもらったが、最後まで結論が出なかった。それに顧問の立ち位置も曖昧である。法的には顧問の扱いは今も変わっていないと思うが、実際はすべて顧問任せだった。一応全員が顧問を持つことになっていたが、毎日放課後に時間を割いている人は僅かだった。全学共同体制は、無責任体制でもある。もちろん職務上、対抗試合などで責任が生じる場合など、最低限は関わっていたが、ほとんどが必要以上には関わっていない、それが実際の状況だったと思う。だから毎日放課後に練習に付き合い、土日に試合に同行する人は、あの人熱心やな、と言われていた。授業や担任を持ってのホームルームをしないわけには行かないが、課外活動はしてもしなくてもいい、少なくともしないから責任を問われることはない領域だった。
非常勤の時に練習に混ぜてもらった女子チームが初めて県大会に出て、いっしょに淡路島で一泊した時は楽しかったが、新任で顧問としてかかわるようになってからは、その楽しさの質が変わっていった気がする。チームを優先して勝てるように練習をするのか、部員一人一人にあったように練習メニューを考え、試合に負けても楽しむのか、振り返ると、どうもどっちつかずだった。旧校舎には外のコートしかなかったが、新校舎にはきれいな二面コートがあった。バスケットボールは人気があったので、たくさんの新入生が入部して来た。体育館はバレー、バドミントン、卓球なども使うので、実際には週に3日、男女で一面、それぞれ半面が使えるだけだった。2、3年はそれぞれ10人近くいたし試合も近かったので、新学期は新入生も交えていっしょに練習するのも難しかった。希望に燃えて入って来ても、コートも使えず基礎練習や見学ばかりの毎日は楽しいはずがない。特に、中学校の3年生で試合に出て活躍した人たちには不満の多い時期だったに違いない。一年目は県大会に行った女子のチームの顧問で出発したが、女子チームを見ていた男子からも顧問をせがまれた。生徒からの声が強かったので、前に顧問をしていた人に相談したら、いいですよ、男子もやって下さいということだったが、本当によかったのかどうか、今は心許ない。顧問を奪ってしまったのかも知れない。男子のチームで身長は低かったものの、3人ほど抜群に出来る人が集まった学年は、レベルも高かった。本当にバスケットが好きで、練習したくてしたくてうずうずしていた。そのチームで、スポーツで選手を集めた私学に勝って県代表で近畿大会に行こう、そんな気持ちを選手とともに持って、公式戦も含め年間に100試合近くもやったが、結果は、少し及ばなかった。最高で174センチ。180センチ台が何人かいて、私のコーチのレベルが少し高ければ、分厚い壁も破れていたかもしれないが、過ぎてしまえば何とでも言える。元々、中学、高校、大学でコーチまがいのことをやったてはいたが、勝負師になれないのを誰よりも自分がよく知っていた。
「職務上、対抗試合などで責任が生じる場合など、最低限は関わっていたが、ほとんどが必要以上には関わっていない」状況の中で、「毎日放課後に練習に付き合い、土日に試合に同行」したが、生徒のためだったのか、自己満足のためだったのか。成り行きだったとはいえ、かなりの時間だったので、すべてを諦めたつもりの割には、未練がましく悔いが残る。このままずるずると引き摺りたくない、高校を辞める決心がついたのは、顧問をしたお陰だったかも知れない。
次回は、修学旅行、か。

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つれづれに

 

金芝河さん5

『不帰』の扉写真

 金芝河(きむじは)さんの5回目で、「東京で開催された韓国問題緊急国際会議」でのグギさんのスピーチの日本語訳の紹介である。ちょうど昨日の新聞に詩人金時鐘さんの「金芝河さんを悼む」という記事が出た。訃報のあと、誰かに原稿を依頼して出した記事が、そのメディアの金芝河さんの評価というわけである。ノーベル賞級の作家なら、いつでも記事を出せるように準備をしていたはず、1929年生まれの金時鐘さんが書いた時の刻まれた記事である。(↓)

「金芝河さんを悼む」(画像保存→拡大で購読可)

 グギさんは『作家、その政治とのかかわり』を三部で構成している。一部(文学、教育―国を思う国民文化のための闘い)と二部(作家、その政治とのかかわり)でケニア国内での作家活動と作品、その政治とのかかわりについて書いている。そしてその延長線上に、三部(政治的な抑圧に対して)の韓国とアフリカ系アメリカ文学を置き、すでに本や雑誌で書いたものも加えて作家と政治のかかわりを明らかにしている。会議で読んだ内容は三部の十二章に「韓国民衆の闘いはすべての抑圧を受けている国国の闘いである」という題で収められている。発表者も多く、それほど時間がなかったはずなので、草稿を軸に会場の反応も見ながらしゃべり、全文は後で本に収載したというわけである。その場にいなかったので、草稿と比べようがないが、グギさんの伝えたかったことを尊重して、草稿の私の日本語訳をそのまま載せたいと思う。グギさんの本も量が半端ではないので、読むのに難儀をしたが、この草稿も長い。気持ちがないと、とても読めない。本の日本語訳を2年で終えたのが不思議なくらいである。過ぎてしまえば、何とでも言える。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

 「私は韓国問題緊急国際会議を準備して下さった方々に感謝したいと思います。国の統一と民主化に向けての韓国の人たちの闘いについて私はほとんど知りません。もちろん、韓国の人たちがアジアでもアメリカ帝国主義に致命的な打撃を与えている国民の一つだということは知っています。また、国が分断され、半分がアメリカ帝国主義の影響下にあり、もう一方の半分は解放されて、人民共和国になっているとも知っています。しかし、私が知っているのはそれだけです。私は報道機関を外国人が所有し、常に帝国主義と並んで歩んでいる国からやってきました。したがって、国内では抑圧されていますので闘いや出来事についてはほとんど知らされていないのです。そのような出来事が報じられる時には、真実を曖昧にしたり、帝国主義的な支配は正しく、反帝国主義的な闘争は間違っているという見方で報道がなされるのです。だから私は知るためにここにやってきました。国民解放のための朝鮮の人々の正当な闘いについての何かを我が国に持ち帰りたいと思っています。出来れば、ケニアか朝鮮の特定の機関のために語っているのではないことを、また、この会議の目的に沿って私が非同盟の立場にいることを明確にしておきたいと思います。しかし、この会議は非同盟の立場にいる人たちのためのものであり、コロンボではこの会議と並行して非同盟諸国会議が行なわれていると聞き及んでいます。私は作家という立場でこの会議に参加して、自分自身について語り、帝国主義や外国支配から完全に解放される民衆の闘争から創作へ自分を駆り立ててくれる手がかりを得ようとしています。つまりは、私は作家として非同盟の立場には立っていられないということです。祖国の資源や人的資源を自らの手で管理し、自らの汗の結晶、自らの労働の産物を統制する権利を求めて百万の大衆が声をそろえて叫ぶ中にいて、どうにして作家が非同盟の立場を取ることなど出来るでしょうか?帝国主義や人々を食い物にするあらゆる階級によって体に巻きつけられた鎖を百万の筋肉が断ち切ろうとしている光景を目のあたりにしてどうして人が非同盟のままでいられましょうか?

グギさん

 昨日、韓国の作曲家尹伊桑(ユン・イーサン)が朴正煕(パク・チョンヒ)の獄舎で経験したことをつぶさに語ってくれた時、私はその証言に感動して涙がこぼれました。猿ぐつわをはめられた多くの人たちや、拷問を受けている多くの人たちを代弁していると分かっていたからこそ、獄中でオペラを作曲する力が湧いてきたのですと述べていたのが殊に印象的でした。それこそが、抑圧されている側の音楽や芸術が取るべき立場だと思います。完全な解放のために闘っている人たちの力と決意を表し、訴え、はっきりと語りましょう。
それは詩の中で金芝河が取っている立場でもあります。それは金芝河の詩が単に朝鮮の人たちに語りかけているだけでなく、世界中の闘っているあらゆる人たちにも語りかけているわけでもあるのです。金芝河は獄中にいますが、その声は南アフリカやジンバブウェの人たちを、あるいはパレスチナや、新植民地支配の下に苦しむあらゆる国の人たちを奮い立たせているのです。金芝河がアメリカ帝国主義といっしょになって国民から巻き上げたり、殺人の手助けをしたりする五賊について語る時は、私たちすべての国の歴史について語っているのです。
ここで暫らく、私たちすべてに共通しているその歴史について、話をさせて下さい。論理的に見て係わりのある二つの観方があります。ひとつは、それは絶えず西ヨーロッパの支配者階級による収奪と抑圧の歴史であったということです。報酬目当てに雇われたポルトガルの探検家や船員がアジアの富への最短の航路を発見するために派遣されて、十五世紀の終わりにアフリカに上陸したことが先ず頭に浮かんできます。封建的な支配階級と商業に携わる新興の有産階級はともに、この窃盗と掠奪の道を切望しました。その人たちは黄金を、きらきら輝く黄金を切望したのです。このきらきら輝く黄色の金属と煌めく白色の象牙を求めて、多くの文化の進んだ都市、特に東アフリカ沿岸の多くの諸都市をほしいままに破壊しました。その人たちはモザンビークやザンジバルやケニアの街を破壊しました。

1505年のキルワの虐殺

 整備された石造りの町並みを備えた都市ジンバブウェを破壊して廃墟に変えてしまったのも、血眼になって黄金と象牙を探し求めたこのポルトガル人たちでした。その人たちには火薬と、もちろん聖書がありました。朝鮮やアジアの他の地域に宣教師を入植させようとしていた時期に、その人たちがアフリカでも同じことをしていたのは興味深いと思います。自分たちの思うがままに人々の生活を壊すことこそが都市や文化を破壊する上で最も重要だったのです。その人たちが望んだものは、黄金であり、銀であり、象牙や香辛料や、ポルトガルの封建的、有産者階級にただちに利益をもたらすありとあらゆるものであった点を思い出して下さい。この新たに伸し上がってきた有産階級の輝きは、殺戮されたアフリカ人の死体や血がその礎になっていたのです。あの人たちの吹聴するいわゆる文明は高度に進んだアフリカの文明を破壊して築かれたのです。ポルトガル出身の掠奪者たちによって築かれたケニアのモンバサにあるジーザス要塞は、主なヨーロッパの植民地列強として短かい栄光と成功を誇ったその人たちの醜い記念碑として、今なお建っています。ポルトガル人たちは、対等に自慢出来るものと言っても火薬しか持ち合わせはなく、他のヨーロッパ列強の先兵隊にしか過ぎなかったのです。しかし、火薬は十分に役立ちました……アフリカ人も斃れ、家畜も死に、家も倒れて内陸部への大規模な移住や移動が始まりました。アフリカ人は新しい家を、都市を、そして新しい生活を築こうと努めましたが、その努力さえも報われませんでした。植民地支配を夢見る更に多くのヨーロッパ人が大挙して海を渡ってやって来ました。ヨーロッパ人がアフリカの国々や民族を搾取し、支配し、抑圧してきた歴史は、主に次の三つの時代に分けられます。

遺跡グレート・ジンバブウェ

 (一)奴隷制‥‥まずは、アメリカ、西インド諸島、ラテン・アメリカの新世界を建設するために、アフリカ人が奴隷として捕えられ、海を横断して輸送された時代です。後に日本に導入されるようになりますが、西洋の産業や技術の発達についてじっくり考える際には、その発展ももとを質せばアフリカ人奴隷の労働力が基礎になっているのを忘れてはなりません。もう一方で、こうして労働力が流出したことによってアフリカの成長に恐ろしいほどの悲観的な結果が生まれた事実も見逃してはなりません。いかなる発展も、所詮は人間につきるからで、自然を変え、その結果自分たち自身を変えてゆくのも組み合わさった人間の労働力なのです。人々を殺したり、閉じこめたり、あるいは人々を四散させたうえ自分の土地や他の土地で乞食になるように仕向けておいて、それでもそれが発展であると呼んだりなどしてはなりません。

奴隷帆船:「ルーツ」より

 (二)古典的植民地主義‥‥その後に、直接の植民地占領の時代がやって来ました。この時期の特徴はヨーロッパ資本によって、アフリカの天然資源とアフリカ人の労働力を収奪したことです。アフリカは原材料と安価な労働力の供給地と同時に、ヨーロッパ商品の市場となりました。この収奪には植民地の軍隊と警察による直接的な政治支配と民衆への直接的な抑圧と弾圧が伴いました。

ベルギーによるコンゴ自由国でのゴムの栽培

 (三)新植民地主義‥‥その次には、大部分のアフリカ諸国が現在もその影響下にある新植民地主義の時代がやってきました。この時期は「国旗独立」の段階とか「国旗独立」の時代とも呼ばれています。それは、アメリカやヨーロッパや日本の資本の配下にある地元の人間で構成される政府がそういった国々の利益のためにその国の人たちを支配したり、抑圧したりする状況を言います。そのような政権は国際資本を護る警官の役目を演じ、武器や主人のテーブルからのおこぼれに与かるために一国を抵当にいれることもしばしばです。そんな政府は不均衡な発展を遂げる植民地経済を変更することは決してありません。

「国旗独立」:ガーナの独立

 すべてこの三段階には暴力と抑圧が伴います。実際、その三段階は異なった局面の奴隷制であるに過ぎません。今このホールでこうして話している間にも、南アフリカではアフリカ人労働者の子供たちが殺されています。今こうしている間にも、私たちのたくさんの子供たちが南アフリカやジンバブウェでは拷問を受けています。ウガンダやケニアを含む新植民地主義の支配下にある多くのアフリカ諸国の監獄では他の多くの人たちが殺されたり、朽ち果てたりしているのは言うまでもありません。しかし、私が今までお話ししてきたのは、朝鮮や他のアジアの国々と共に分かちあう共通の歴史の一つの側面に過ぎないのです。

1976年南アフリカのソウェト虐殺

 もう一方の、より恒久的な観方は、闘争と抵抗という面からの観方です。アフリカにおける数百年に渡る奴隷制によって、収奪や抑圧に決して屈しなかった人々の無限に輝かしく、英雄的な歴史が生まれました。アフリカの人々はイギリス人やポルトガル人、それにフランス人や他のヨーロッパ人の奴隷監督と闘いました。その人たちは植民地占領軍に対抗して闘いを繰り広げました。この時期には輝かしい武勇伝がたくさん残っています。フランスと闘ったアルジェリアの武力闘争とイギリスに対して行なわれたケニアのマウマウ抵抗運動が挙げられます。ケニアのマウマウの解放闘争が朝鮮戦争とほぼ同じ時期に行なわれていたとお知りになって、それは面白いと思われるでしょう。更に最近では、モザンビークとアンゴラとギニア・ビサウでも武力闘争が成果を収めています。南アフリカでも同じような武力闘争が始まりかけています。ソウェトはこれから起こる事態の前奏曲に過ぎません。アンゴラとモザンビークとギニア・ビサウでの人々の数々の勝利がアフリカ諸国の闘争の新しい時代の先駆けであると私は信じています。十五世紀に初めて奴隷制と植民地主義を初めて導入したポルトガル人が撤退を強いられた事実は、アフリカにおける古典的植民地主義の終焉と、新植民地主義の段階に突入した帝国主義に対抗する激しい闘いの始まりであることを象徴しています。新植民地主義はその国の御用商人たちと外国の資産家たちが手を結んでいるために大いに成功しています。その御用商人たちは、ロンドンやパリ、ニューヨーク、アムステルダムや東京にいる、自分たちに報酬を与えてくれる主人のために、拷問や不正手段、投獄や軍事的な残虐行為やテロ活動などによって民衆を抑えて、支配を続けています。敢えて言うなら、その人たちは国際独占資本に雇われた現代の奴隷監督であり、農園の現場監督であります。

ケニアのマウマウ抵抗運動の農民戦士

 その国の御用商人の階級は民衆を混乱させるという理由で、最も危険です。本当の主人の姿が見えないのです。はっきりと目に見える支配者は、ほかの人たちと同じように、同じ肌の色をし、確かに同じ言葉を話しているように思えます。しかし、その人たちは民主的な社会の命を奪い、国民自身の責任ある決断を抹殺しています。その人たちは共産主義と闘っていると見せ掛けながら国民の連帯を阻んでいます。
しかし、朴正煕と朴に報酬を与える外国の主人に対してだけではなく、同時に地元の御用商人たちによって構成される支配者層と国際的な侵略者に対しても、闘いは続いていくでしょう。それが、民主化と統一に向けての韓国民衆の闘いがすべての抑圧された民衆の闘いでもある理由なのです。
帝国主義を完全に葬り去ることを通じて初めて平和は可能であると私は信じます。ですから、国民の統一と民主化に向けての私たちの闘いは、必然的に帝国主義と外国支配に対する闘いになるのです。しかし、帝国主義列強は手を組み、情報や戦略を共有しています。従って、敵を粉砕し、永遠に葬り去るために、抑圧され、搾取されている国々もすべて手を取り合って進まなければならないのです。
その敵は今、アメリカ帝国主義に先導されています。アメリカがヴェトナムとカンボジアで敗けたあと、帝国主義者たちは退却し、今は地歩を固めようと、アフリカ、中東、ラテン・アメリカと、韓国と他の東南アジア諸国を虎視眈眈と狙っています。ヴェトナムのあと、米国国防省長官が、韓国の人たちが自分たちの土地で奴隷になることをこのまま拒み続けるようなら、核兵器を使用すると脅したことをお忘れではないでしょう。極く最近、米国国防省長官が内密の防衛条約を結ぶために、ケニアとザイールを訪問しました。

若き日の独裁者ザイールのモブツ

 ヒトラーを信奉する南アフリカのフォルスターが以前に、ユダヤ人国家をパレスチナの地に建設しようとする人たちとイスラエルで会談したように、アフリカでの軍事攻撃を仕掛け続けるための企画を更に考え出すために、キッシンジャーはその同じフォルスターと西ドイツで会談をしています。そしてフランスは、ヒトラー信奉者のフォルスターに新核兵器装置を売り付けています。このように明らかになお、帝国主義国家を暴走させる狂犬から核戦争の危機がやって来ているのです。
従いまして、なぜアジア、アフリカ、ラテン・アメリカに住む私たちが国家統一と民主化に向けての朝鮮の人たちの闘いを支援しなければならないかは火を見るよりも明らかです。私たちは自分たちの闘いだけを切り離して考えてはいけません。南アフリカ、ジンバブウェ、パレスチナ、チリ、朝鮮、それは民主化と民族の統一の敵に対する同じ闘いでもあるのです。それ故に、すべての抑圧された世界の国々の連帯感を意識的に強めなければなりません。私は一組織のために話しているのではありませんと言いました。しかしながら、国を分割する立場にあくまで反対し、外国の領土要求の立場に断固として反対してきたケニアの民衆が、国家の再統一と民主化にむけての朝鮮民衆の正当な要求をしっかりと支援するものと確信しています。
朝鮮民衆の闘いに、世界のすべての農民と労働者の闘いに、そして、帝国主義とあらゆる形の外国支配と闘い続ける世界の民衆の連帯に栄光あれと、お祈り申しあげます。」

少しでも読みやすいようにと、授業で使った画像を入れました。次回は、反体制をしばらく離れて、顧問、か。

『金芝河(キム・ジハ)民衆の声』(サイマル出版会)より