つれづれに:顧問(2022年5月30日)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:顧問

 今日は朝から雨が降っているが、二日間晴れてくれたので、畑も乾いてずいぶんと助かった。二つ目のとまとの柵とブロックを使って畑周りの通路を継続して造っている。畑には溜枡が4つある。長雨でも水が溜まらないように、うまくその溜枡に雨水を流し込めればいいのだが。元は庭だったので、全体の畑用の土が基本的に足りない。少しでも他から土を運ぶ必要がある。たまたま道路に流れ出ている黒土を見つけたので、少し前からせっせと土を運んでいる。土が肥料だと考えれば、補強も大切である。特に霧島の火山灰で出来た田野や清武の黒土は、きめが細かく栄養は満点のようだ。金曜日に胡瓜の初生りを3本(↓)収穫した。細長いタイプとずんぐりむっくりのタイプだ。種からはタイプは見分けがつかない。たくさん花を咲かせているので(↑)、生り始めると二人ではとても食べきれない、またお裾分けの毎日である。

 卒業した年の夏に→「採用試験」(5月8日)、秋に→「面接」(5月9日)と→「大学院入試」(5月10日)を受けたあと、→「街でばったり」(5月13日)教育実習の時の教頭に会い、その人が校長をしていた新設校に誘われた。歳の瀬に校長から電話があり、産休に入る人の代わりを頼まれ、→「3ケ月早めに」(5月14日)→「初めての授業」(5月15日)もやった。放課後、バスケットボール部の練習に混ぜてもらっているうちに試合にも行き、顧問みたいにベンチに座り、女子チームの→「県大会」(5月16日)にも同行した。4月に新校舎に移って→「新任研修」(5月17日)を終え、→「新採用一年目」(5月18日)が始まった頃には、そのまま女子のチームの顧問になっていた。最初の職員会議では校長から「新任です」ではなく、「旧職員です」と紹介された。一年目は担任がなく→「ホームルーム」(5月24日)はなかったが、学校全体を見渡せる教務の雑用と、授業、それに課外活動の日々が始まった。非常勤の3ケ月があったせいか、ずいぶんと前からいる古株のような大きな顔をしていたように思う。

校長にばったり出会った駅前通り

 スポーツにどう取り組むか、楽しむためにやるのか勝つためにやるのかは難しい問題である。参加する人の数や年齢などにもよるので、団体競技の場合は尚更難しい。結局5年と3ケ月の間、顧問としてバスケットボールのチームといっしょに色々させてもらったが、最後まで結論が出なかった。それに顧問の立ち位置も曖昧である。法的には顧問の扱いは今も変わっていないと思うが、実際はすべて顧問任せだった。一応全員が顧問を持つことになっていたが、毎日放課後に時間を割いている人は僅かだった。全学共同体制は、無責任体制でもある。もちろん職務上、対抗試合などで責任が生じる場合など、最低限は関わっていたが、ほとんどが必要以上には関わっていない、それが実際の状況だったと思う。だから毎日放課後に練習に付き合い、土日に試合に同行する人は、あの人熱心やな、と言われていた。授業や担任を持ってのホームルームをしないわけには行かないが、課外活動はしてもしなくてもいい、少なくともしないから責任を問われることはない領域だった。
非常勤の時に練習に混ぜてもらった女子チームが初めて県大会に出て、いっしょに淡路島で一泊した時は楽しかったが、新任で顧問としてかかわるようになってからは、その楽しさの質が変わっていった気がする。チームを優先して勝てるように練習をするのか、部員一人一人にあったように練習メニューを考え、試合に負けても楽しむのか、振り返ると、どうもどっちつかずだった。旧校舎には外のコートしかなかったが、新校舎にはきれいな二面コートがあった。バスケットボールは人気があったので、たくさんの新入生が入部して来た。体育館はバレー、バドミントン、卓球なども使うので、実際には週に3日、男女で一面、それぞれ半面が使えるだけだった。2、3年はそれぞれ10人近くいたし試合も近かったので、新学期は新入生も交えていっしょに練習するのも難しかった。希望に燃えて入って来ても、コートも使えず基礎練習や見学ばかりの毎日は楽しいはずがない。特に、中学校の3年生で試合に出て活躍した人たちには不満の多い時期だったに違いない。一年目は県大会に行った女子のチームの顧問で出発したが、女子チームを見ていた男子からも顧問をせがまれた。生徒からの声が強かったので、前に顧問をしていた人に相談したら、いいですよ、男子もやって下さいということだったが、本当によかったのかどうか、今は心許ない。顧問を奪ってしまったのかも知れない。男子のチームで身長は低かったものの、3人ほど抜群に出来る人が集まった学年は、レベルも高かった。本当にバスケットが好きで、練習したくてしたくてうずうずしていた。そのチームで、スポーツで選手を集めた私学に勝って県代表で近畿大会に行こう、そんな気持ちを選手とともに持って、公式戦も含め年間に100試合近くもやったが、結果は、少し及ばなかった。最高で174センチ。180センチ台が何人かいて、私のコーチのレベルが少し高ければ、分厚い壁も破れていたかもしれないが、過ぎてしまえば何とでも言える。元々、中学、高校、大学でコーチまがいのことをやったてはいたが、勝負師になれないのを誰よりも自分がよく知っていた。
「職務上、対抗試合などで責任が生じる場合など、最低限は関わっていたが、ほとんどが必要以上には関わっていない」状況の中で、「毎日放課後に練習に付き合い、土日に試合に同行」したが、生徒のためだったのか、自己満足のためだったのか。成り行きだったとはいえ、かなりの時間だったので、すべてを諦めたつもりの割には、未練がましく悔いが残る。このままずるずると引き摺りたくない、高校を辞める決心がついたのは、顧問をしたお陰だったかも知れない。
次回は、修学旅行、か。

移転先の新校舎