つれづれに:比較編年史1949②日本
<猫(ノラちゃん)と(ノアちゃん)>(2号)
小島けい「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬」5月
5月になっている。樹々の緑が陽にまぶしい。何年か前に宮崎神宮の植木市で買った日向夏の苗を植えたが、今年初めて花をつけている。実が生ってくれると嬉しいが。同じように買って来た柿も瑞々しい。去年は生り年でたくさん実をつけたものの、雨が続いて陽に干せなかった。初めての経験である。日照時間が少なかったせいで、柑橘類の出来が悪く、実の出回りがかなり悪い。今年は陽が照って、水分をたくさん含んだおいしい柑橘類が出回ることを祈っている。
去年はたくさん実をつけてくれたんだが
比較編年史2回目である。前回の→「①1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と、1949年に私が生まれたということを書いた。今回は私の生まれた1949年の日本についてである。
戦争が終わってから4年である。無条件降伏を受け入れたのが8月15日だから、私の生まれた10月の頃は、終戦から丸4年が過ぎていたということである。東京のように爆撃の激しかったところは焼け野原だったし、広島と長崎は原爆で地獄図絵だったので、復興が最急務だったはずである。ただ、東京は首都でもあるので、多大な予算が投入され復興が最優先されて、かなりのスピードで経済などが回り始めていただろう。
戦地から復員した人たちがそれぞれの生活を始め、子供も生まれ始めた。私のところも2年前、1947年に女の子が生まれている。私の姉である。父親が戦地から戻って結婚をし、普段の生活が始まっていたということだろう。私の最初の記憶はたぶん幼稚園に入る前であることは前回書いているので、記憶の欠片について書く前に、両親や住んでいた場所や町の様子などを分けて書いておきたい。
日本の当時の様子だが、かなりの範囲に及ぶので、今回は全般的な経済や政治の状況に絞って書いておきたい。私や周りの家族の生活と深い関係があったからである。
戦勝国は敗戦国に赴いて占領政策を実施する。日本にも、連合国軍機関が派遣された。第2次大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するためである。連合国軍最高司令官総司令部(↓、旧字体は聯合國軍最高司令官總司令部、General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers=GHQ)が置かれた。極東委員会の下に位置し、最高責任者が指名され、連合国軍最高司令官(Supreme Commander of the Allied Powers、SCAP、スキャップ)と呼ばれた。日本では、総司令部( General Headquartersの頭字語であるGHQ=ジーエイチキュー)や進駐軍という通称が用いられた。45年から52年まで駐留していたので、私の生まれた1949年にはまだGHQが政策を実施していたことになる。
GHQは先ずは国内経済の立て直しを図った。改革を進めるために公職追放を行い、「軍国主義、好戦的国家主義」に分類した政治家や軍人、警察官、官僚など約6000人から職を奪った。教育分野でも、1945年10月末には約7000名の軍事主義的な教職員が追放された。公職追放によって社会的制裁を受けたのは、最終的に一般市民も含めて約21万人と言われている。1946年から1948年にかけて東京裁判(極東国際軍事裁判)が行なわれ、日本を戦争に駆り立てた多くの政治家や官僚、警察幹部、軍人らが起訴され、最終的に陸軍大将東條英機ら7名が死刑を宣告された。
1945年から1948年の約3年間のGHQによる軍国主義者の徹底的排除により、経済復興の機運が高まり、1949年3月にGHQは「経済安定9原則」の声明を発表した。① 予算の均衡、② 徴税強化、③ 資金貸出制限、④ 賃金安定、⑤ 物価統制、⑥ 貿易改善、⑦ 物資割当改善、⑧ 増産、⑨ 食糧集荷改善である。
当時、物価が高騰してハイパーインフレが起こっていた。ジンバブエやコンゴのハーパーインフレも、人ごとではなかったのである。日本の場合、原因は戦争終結による生産力の低下で、軍需産業がなくなり、国内の工場や各種機械、船舶などの多くが焼失して、街は失業者で溢れかえっていた。食料品や日用品が慢性的に不足し、国内需要が供給を大きく上回って急激に物価が上昇していたわけである。高齢者の中には、この当時の急激な価格変動の記憶が残っている人もいるはずである。
ハーパーインフレに戦後の財政悪化が輪をかけている。戦争での被害は約650億円(現在の貨幣価値で約800兆円)とも言われており、戦後復興の資金は国債で調達された。日本銀行が大量に通貨を発行したことで日本円の価値が急激に下がり、モノの値段が相対的に上がったわけである。このインフレを終息させるためにGHQは「経済安定9原則」を元に経済政策を実施した。
その効果もあり、1949年度の国の財政は黒字化され、高騰した物価もこの年の初頭をピークに下落し、安定するようになった。日本政府は海外貿易を円滑に行なうためにこの年の4月に1ドル=360円という単一為替レートを設定した。アメリカの試算では1ドル=330円程度が実態に即していたようだが、日本の輸出力を高めて経済復興できるように、より円安となる1ドル=360円となった。この日本経済に有利な為替レートは1968年まで続き、高度経済成長に大きく貢献した。
1949年の内閣総理大臣は民主自由党の吉田茂(↓)で、内閣官房長官は佐藤栄作だった。 通商産業省(現経済産業省)が発足し、運輸省に代わり公共企業体日本国有鉄道が発足している。
新制大学が発足し、湯川秀樹が日本人で初めてノーベル賞を受賞してたのもこの年である。私の生まれた場所の南の市内にあった鐘紡の非繊維事業が分社化され、鐘淵化学工業が発足している。
そんな状況が取り巻く中、私は兵庫県播州地方の小さな町に1949年の10月に生まれたわけである。県や市や、生まれた家があった周りについては次回以降に、少しずつ書くつもりである。
<猫(ノラちゃん)と(ノアちゃん)>原画(小島けい画)